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  • 1.27河村哲二フォーラムの事後報告

    ■フォーラムの案内文書/1 ■当日の経過/3 ■司会者の感想(矢沢国光)/3 ■質疑/4 ■参加者アンケート回答から/8 ■フォーラムの案内文書 1.27オンライン河村哲二・アメリカ経済フォーラムのご案内 ●主催︰世界資本主義フォーラム ●この企画の趣旨︰ アメリカの覇権体制の危機が、米中関係に加えて、ウクライナ戦争、イスラエル・ハマス戦争の各方面で顕在化しています。アメリカは、国内においても、白人労働者がトランプの「アメリカ第一主義」を支持し、若者らがイスラエルのガザ地区非人道空爆に反対するなど、かつてない深刻な政治的亀裂が走っています。 こうしたアメリカの内外における政治的危機的状況の背景には、アメリカ経済の衰退があります。 ①     軍産の巨大支出の固定化による財政赤字②リーマン危機後の空前のゼロ金利・通貨増発で企業・金融機関を救済したが、FRBの利上げが国債のデフォルト危機、銀行危機をもたらしている③対外赤字を支えてきた中国・産油国・日本のドル保有の削減・金準備の買い増しによって、ドルの還流メカニズムに異変が生じ、「国際決済通貨ドル」の地位が揺らいでいる。対ロシア経済制裁も、非ドル決済を増やしている。 戦後冷戦体制以来一貫して世界の覇権構造の一極となってきたアメリカの覇権体制[パクス・アメリカーナ]が現在どのような局面にあるか――世界資本主義の行方にとってもっとも重要な問題です。今回のフォーラムでは、まず、経済的要因から、見ていきたい。(世界資本主義フォーラム共同代表・矢沢国光) ●テーマ:「パックス・アメリカーナ段階の変質局面Phase2とアメリカ」 ●開催日時︰2024年1月27日(土)午後1時30分―4時30分 ●開催方式︰ZOOMによるオンライン ●講師︰河村哲二(法政大学名誉教授、世界資本主義フォーラム顧問) ホームページより[略歴]1951年群馬県生まれ。2005年4月より法政大学経済学部教授(経済理論学会代表幹事(2016年4月~)。博士(経済学)(東京大学)。[専攻]:理論経済学、アメリカ経済論、グローバル経済論。 [著作から]︰現代アメリカ経済(有斐閣アルマ2003)/パックス・アメリカーナの形成―アメリカ「戦時経済システム」の分析(東洋経済新報社1995)/第二次大戦期アメリカ戦時経済の研究:「戦時経済システム」の形成と「大不況」からの脱却過程(御茶の水書1998) ●講演要旨:前回(2021年9月25日)の世界資本主義フォーラム報告「バイデン下のアメリカ資本主義の歴史的位相――パックス・アメリカーナ段階の変質局面の視点から」のその後の展開を受けて、パックス・アメリカーナ段階の変質局面Phase2の現状と今後の展望について、主に次の3点から論じる。 1.     ポストグローバル金融危機・経済危機のアメリカの課題と中国のアメリカ覇権への挑戦―「ディグローバリゼーション」の趨勢と「グローバル成長連関の」変容 Ÿ  アメリカの「ジレンマ」 Ÿ  中国の経済成長戦略の転換(「双循環」)とアメリカ覇権への挑戦 Ÿ  アメリカによる中国の「隔離」戦略と「国内成長連関」の復活戦略 2.   COVID-19(コロナ)のグローバル・パンデミックの影響 Ÿ 「グローバル成長連関」への影響と「ディグローバリゼーション」の趨勢 3.   ロシアのウクライナ侵攻とその影響 Ÿ  パックス・アメリカーナ段階の変質Phase2の政治軍事的側面と「ディグローバリゼーション」 結びにかえてパックス・アメリカーナ段階の変質局面の現状と今後の展望 ●参考文献・資料: 1)  河村哲二世界資本主義フォーラム(2021年9月25日)報告資料「世界資本主義フォーラム研究会(20210925)報告資料配布用(v.1).pdf) 2)  河村哲二「グローバル資本主義と段階論―グローバル金融危機・経済危機の解明の理論と方法(Ⅰ)・(Ⅱ・完)」『経済志林』第87巻1・2合併号、2019年9月、51-86頁・87-147頁 (Ⅰ):https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=22361 (Ⅱ・完):https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=22362 3)  河村哲二「現代のインフレーションの段階論的解明――景気循環論アプローチ」経済理論学会『季刊経済理論』、第61巻1号、2024年4月刊行予定。 4)  河村哲二「グローバリゼーション/ディグローバリゼーションのダイナミズムと経済システムの変容――制度・組織革新とシステム形成の視点から」法政大学イノベーション・マネジメント研究センター『イノベーション・マネジメント』第22巻(2024年3月刊行予定)、第23巻(2025年3月刊行予定)。 ■当日の経過 司会者による講師・企画趣旨説明の後、いつものように、前半と後半のあいだに10分間の休憩を入れて、河村先生に話してもらった。 画面に出したスライドはこちら。 ■司会者の感想(矢沢国光) 講演は、 第一部「ポストグローバル金融危機・経済危機のアメリカの課題と中国のアメリカ覇権への挑戦―「ディグローバリゼーション」の趨勢と「グローバル成長連関の」変容」 第二部COVID-19(コロナ)のグローバル・パンデミックの影響 第三部ロシアのウクライナ侵攻など政治軍事的側面と「ディグローバリゼーション」 の三部構成であった。 河村先生のお話は、道具立てが大きくて、消化するのが難しい。そのせいか、第一部の「パクス・ブリタニカ、パクス・アメリカーナ」という(これまでの復習のはずの)原理論・段階論の説明に時間がとられて、第二部、第三部がやや駆け足になった。 [おかげで、個人的には、河村先生の「パクス・ブリタニカ、パクス・アメリカーナ」論という方法を復習する良い機会となった] 第三部では、予期した以上に国際政治の現況についての立ち入ったコメントがあり、パクス・アメリカーナのこれからを規定する諸要因が提出された。 アメリカ大統領選挙の行方が判明した時点で、続きをお聞きしたい。 [矢沢の個人的感想は、「参加者アンケート回答」に記す] ■質疑 ●矢沢国光 スライド8の物価のグラフについて。第一次世界大戦後。インフレが続いています。インフレということは、通貨の価値が下がるということです。これは、イギリスの金本位制が国際的な金本位制であった時代が終わり、イギリスの中央銀行券であるポンドやアメリカの中央銀行券であるドルが国際決済通貨になった。その結果、ポンドやドルの(金に対する)価値が下がった、ということでしょうか。 スライド8の物価のグラフ ▲河村 ポンドやドルは国民通貨ですが、国際基軸通貨となった。第一次大戦前の国際基軸通貨であるポンドは、金本位制に基づいています。第二次大戦後の国際基軸通貨ドルは、1971年8月までは金の裏付けがありますが、それ以降は、金・ドル交換可能性は否定され、公式金価格はなくなっています。金のドル価格は上昇しています。金に対してドルの価値が下がっています。金は実物経済の集約点といってよいので、その点からすれば、ドルは減価していると言ってよいのはその通りです。しかし、第二次大戦、なぜ物価が上昇し続けてきているるのかは、また別の問題です。いずれにせよ、金本位制から国民通貨に変わった、ということではありません。 ●土肥誠 1. 中国のパックス・アメリカーナへの挑戦について、中国も「グローバル成長連関」に組み込まれており、この中での資本蓄積を行ってきたといえるのであるが、中国の挑戦はどのような形になっていくのだろうか? 私見であるが、中国のアメリカへの挑戦で目に見えていることは、「一帯一路」で過剰資本の処理と広域経済圏の確立を目指しつつ「双循環」で中国の経済構造を内需中心に転換しつつ貿易も行っていくという中国の姿である。さらに、「一帯一路」により人民元決裁圏を広げようとしつつも、「一帯一路」の対象国はCIPSによる決済と同時にSWIFTでも決済しながら貿易を行うであろう。こうなると、中国のアメリカへの挑戦はアメリカを中心とする「グローバル成長連関」から無縁ではあり得ず、完全なデカップリングが不可能である中、中国の挑戦はかなり不安定なものとなるのではないだろうか? ▲河村 中国は、「双循環」というとき、グローバル成長連関は相当意識しています。「一帯一路」で人民元だけの決済圏をグローバルな規模でつくるというのは、相当難しい。「一帯一路」の出口は、中央アジアやインド、モンゴル・ロシアなど、いずれも民族問題等を抱え政治的に問題がある。また、アメリカは、中国をヨーロッパや日本など「グローバル成長連関」から切り離そうとしている。 ●土肥誠 2.上のことと関連して、中国のアメリカへの挑戦は、「グローバル成長連関」の変容圧力をかわすためにとられる中国の政策と理解して良いか? ▲河村 「グローバル成長連関」が変質しているところに、中国の対応の難しさがあるのではないか。かつてのように、「グローバル成長連関」に乗っかればよい、という具合に行かない。同時に、不動産バブルの崩壊や人口減の問題などがあり、内需連関の形成がうまくいかない。 ●岩田昌征 ① 日本は、中国よりもずっと深くグローバル成長連関に組み込まれていたのに、なぜ30年間のデフレに陥ったのか? ▲河村 日本の産業は、グローバル成長連関の中で海外に出て行ってしまった。そのために、国内経済が疲弊した。ただ、個々の企業を見ると、家電やトヨタなどグローバルな事業で競争力のある企業も多数ある。「失われた30年」というのは、国民経済的にみた日本の話です。東京だけが膨張して、地方が疲弊した。 ●岩田昌征 ② 日本の中に、資本に依拠する人たちと自ら労働するほかない人たちがいます。日本の経済は、グローバル成長連関で得をする人たちの意思で決まっている、とみてよいのか? ▲河村 中央政府の官僚にはそこまでする力はない。構造的にそうなっている、ということだと思います。官僚もエコノミストも、構造に乗った政策しか出せていない。 ●矢沢国光 コロナ下で、バイデン政権はかつてない大幅な財政支出をして、製造業の国内回帰やインフラ投資をしました。その結果、財政赤字も経常収支赤字も大幅に増えました。かつてはグローバル成長連関で、ドルが還流していましたが、これからもドルの還流は続くと考えてよいのか? ▲河村 ドルが基軸通貨であり、ニューヨークがグローバルな決済センターとなっている限り、経常勘定の収支赤字は、まずはアメリカに自動的に環流する関係になります。その後のドル残高は、ニューヨークの金融ファシリティによって、アメリカ国債その他などの形で、アメリカ国内で運用されれば、アメリカにとどまります。なお、バイデン政権では、上院を共和党が抑えているので、財政拡大は、少ししかできていない。トランプ政権になったら、どうなるか、不透明。インフレによって、MMT(現代貨幣理論、財政赤字は無限に可能とする)のような財政政策は、できなくなっている。 ●矢沢国光 2023年3月「シリコンバレーバンク」シグネチャーバンクが債務超過に陥って経営破綻の理由についてアメリカのメディアは、利上げによって価格が下落した債券の売却で損失が出て経営が悪化し、顧客からの預金の引き出しが相次いだことなどが原因だと報じています。こうした銀行危機をどうみますか? ▲河村 金融緩和に乗ってリスキーな融資をして破綻した、ということです。あまり広くは波及せず、全般的な金融危機に発展せず、軟着陸するという見通しです。 ●矢沢国光 もう一つ気になるのは、ロシアに対する経済制裁の結果、ドルの基軸通貨としての地位が低下しているのではないか、ということです。これまでドルを介さないと石油取引ができなかった。ところが、中国などがロシアの石油を、ドルを介さないで購入しています。 ▲河村 人民元決済やルーブル決済は、それほどは拡大していない。しかし最大の問題は、人民元やルーブルによる決済があっても、その他世界との取引においては、必ずドルを介して決済しないといけない、ということです。その意味でドル決済圏から逃れることはできないということです。国際決済通貨の多様化ということで、ドルの基軸通貨性は程度が上がっていると言ってもよいかもしれませんが、報告でも指摘したように、BISの資料でみると、国際為替取引でドルを介してのクロス取引がほぼ100%ちかくを占め、ドルの基軸通貨性は依然維持されています。 ●蓼沼① ロシアに対する経済制裁を契機として、BRICSにトルコなどが加わって28か国が、BRICS通貨を、ドルに代わる国際決済手段として発行するという動きがあります。 ▲河村 アジア通貨危機のときも、アジアの決済圏を創ろうという動きがあったが、副次的なものでしかなかった。国際決済圏の構築は、金融ファシリティ(機構)とセットです。ドル決済は、SWIFTを含めてニューヨークに金融ファシリティがある。今回のBRICSの動きは、中国かインドが主導するにしても、金融ファシリティを創れるかどうか。目立つ動きとして、報道はすぐ飛びつくが、基軸通貨についての理解が足りないのではないか。 ●蓼沼② 冷戦終結後のアメリカのロシアに対する経済的対応をどうみたらよいか。アメリカは、ロシアをグローバル成長連関に引き込まなかったのではないか。 ▲河村 ソ連崩壊期の経過を見ると、ソ連経済の崩壊した1991-92年は、ちょうどグローバル成長連関のはじまりと重なっている。そのころはまだアメリカのロシアに対する経済的対応もはっきりしなかった。プーチンは、原油・天然ガス・その他資源の輸出をグローバル成長連関にのせて、ロシア経済を立て直した。それがプーチンの功績となっているといえます。 ■参加者アンケート回答から ●土肥誠 感想:河村先生の理論は、資本主義世界を分析する際、大変に有効なものだと考えます。私の中国経済分析で先生の理論を使わせていただいていますが、「河村理論」は世界経済の視点から中国を分析するとき、非常にクリアに分析できます。 私は、中国経済分析にあたって河村先生の理論を有効に活用していきたいと思います。 ●前田芳弘 【質問】 ①  金融の中心が英国だったとき手数料収入で潤っていたという話を聞いたときがあるが、 パックスアメリカーナの米国もそうなのか。 ②      グローバリゼーションに備えよと小泉・竹中氏が非正規労働体制を推し進めたが、米国だけでなく日本も格差の増大を生んだ。しかし、国民の反応は大いに異なるように見える。資本主義の変質とどう関連付ければよいか。 【感想】エビデンスとなる資料に基づく話でとても興味深く話がうかがえた。 【進行について】 担当者は大変でしょうが、今のままでよく、特に要望はありません。 ●矢沢国光 質疑の中で、第一次世界大戦後のインフレ基調について質問した。河村氏は「パクス・アメリカーナ」段階規定が、「景気循環」の態様の変化にもとずく、とした。そして、「景気循環」の態様の変化のメルクマールとして、「第一次世界大戦後のインフレ基調」を挙げた。 こうした説明を聞くのは(河村氏の本を読んではいたが見落としていて)初めてだった。 改めて河村氏の『パクス・アメリカーナの形成』を読んでみると、スライドと同じデフレーター変化率の図があった。 https://static.wixstatic.com/media/eaeae1_8fda7d2cdcab4cb5a490fed1b156964d~mv2.png変化の図 そして河村氏は「戦後アメリカの蓄積体制の成立は、1930年代のニュー・ディール期ではなく、(1937年恐慌からの回復も可能にした)1941年以降の戦時経済の展開とその(戦後初期の)再転換によって確立した」とする。 そして、あらためてデフレーター変化率の図を見ると、1941年の戦時経済の展開以降は、インフレ率がプラスの範囲で上下している。物価上昇がずっと続いているのだ。 そして、戦後の成長期にはインフレ率は低いが、欧日の経済回復によりアメリカの経常赤字が増えるにしたがって、インフレ率が高まる。1971年金ドル交換停止(ニクソンショック)以降の1979―1980年は年率13%もの高インフレとなり、有名なボルカー連銀議長のインフレ退治となる。 こうした「戦時経済」以降のインフレ基調は、なぜ生じたのか。河村氏は、「戦時財政支出による軍需生産→軍需産業に入った所得の戦時財政への吸収」という財政があったという。財政は赤字であるが、1941年後半以降、巨額の財政赤字を賄うために公債を発行した。これは連銀による銀行への準備の供給によって可能となった。 1941年3月に始まるレンドリースも、かたちはイギリスなど連合国への軍事援助であるが、実質的には、(貸付ではなく)アメリカの国防支出であった。 アメリカの財政支出は、1944、45年度には、戦前の1938年度の10倍以上に膨張したが(59頁)、増税による個人所得・法人所得(企業の戦時利潤)の財政への回収と公債の大量発行でインフレを抑制した。 こうした[レンドリースのような他国も巻き込んだ]戦時経済による巨額の財政赤字と公債発行による財政赤字の穴埋めは、アメリカの突出した工業生産力によって可能となった。 そして、戦時経済を回す国際決済機構としても、ポンドに代わってドルが決済通貨となってニューヨークに還流するシステムが形成され、これが第二次大戦後のブレトンウッズ通貨体制(IMFとGATT)になる。 さらに、この「戦時経済」の延長としての1950-60年代の「持続的成長期」にパクス・アメリカーナが確立した、と河村氏は言う。 この時期の国際資金循環は、冷戦体制の形成とかかわって、「西側」諸国へのマーシャル援助をはじめとするドルの供給と輸出によるドルの回収であった。 そして、河村氏は、「1970年代半ばを画期としてパックス・アメリカーナ段階の変質局面への転換」「不安定成長・グローバル資本主義の展開(Phse1)とその変容(Phase2))に入った、と言う。 「パックス・アメリカーナ段階の変質局面」では、ニクソン・ショックによる金ドル交換停止によって変動相場制へと移行する。1980-81年にはインフレが高進し、連銀のボルカー議長が金価格の上昇(ドル価値の下落)を食い止めるために大ナタを振るう。アメリカは、1986年プラザ合意で欧日に対してドル切り下げを強要し、EUはこれを受けてユーロ圏の創出に向かい、日本は「日米経済協議」でアメリカの言うままになる。軍事外交の枠組みがドル基軸通貨体制を支える。 河村氏は、こうしたアメリカを軸とする世界資本主義の段階論的規定の基本に景気循環の態様を置く。これは、「資本の運動法則」としての原理論と「資本の世界史的発展過程」としての段階論を統一する方法として、大いに納得できる。 河村氏も言うように、「資本の運動」には、①貨幣資本の循環=財務の視点,②生産資本の循環の視点=工場(ないしは現場)の視点,③商品資本の循環(営業の視点)の統合的運動体として「企業論]の3側面があるが、世界資本主義としてのアメリカ資本主義をとらえるためには、①貨幣資本の循環、つまり「基軸通貨ドル」の国際循環の力学が河村氏の言う「景気循環論」的な段階論的規定の基本になるのではないか。 そうした点からいうと、1941年以降の「戦時経済」における「基軸通貨ドル」も、1950-60年代の「持続的成長期」の「基軸通貨ドル」も、かつてのイギリス金本位制が国際貿易の決済通貨として機能していた国際金本位制ではない。アメリカ産業の供給をアメリカの財政支出が対外的に散布するドル資金が購入する、という冷戦体制の政治軍事的枠組みを基本とし、その中で回復発展した欧日の工業製品のアメリカ市場への輸出が増えるにしたがって、赤字ドルの金への交換要求が高まり、1971年ニクソン・ショックとなる。 河村氏は、1970年代半ば以降の変動相場制への移行を「パックス・アメリカーナ段階の変質局面へ転換」「不安定成長・グローバル資本主義の展開(Phse1)とその変容(Phase2)」ととらえる。 河村氏の立論がわかりにくいのは、「構造化」にあるのではないか。「新帝国循環」も、以下の【Ⅱから引用】のように書いてあれば、理解しやすい。「『グローバル・シティ』機能と都市空間の発展」のように構造化されると、肝心の「景気循環」の力学が見えにくくなる。[そもそも、サッセンのグローバル都市論がどうしてここに出てくるのか。かえって、河村氏のパクス・アメリカーナ論をわかりにくくしているのではないか、というのが私の感想です。] 【Ⅱから引用】パックス・アメリカーナ段階の全盛期(1950年代・60年代)に「持続的成長」として現れたアメリカを中心とする資本蓄積の構造とメカニズムを構成していたシステマティックな制度連関が解体されたことに対応し,企業・金融の原理的ロジック―「利潤原理」―が戦後システムの国内的「制度構造」から切り離され,むき出しの形でグローバル(クロスボーダー)に作用し,既存システムに大きな変容圧力と転換をもたらす関係を主要なダイナミズムとするものであった。アメリカの動向を最大の震源とし,企業・金融・情報のグローバル化と政府機能の新自由主義的転換を二大経路とするそうしたダイナミズムが,ヨーロッパ,日本,その他世界を直接・間接に巻き込んで,グローバルな規模で作用し,経済・社会・政治さらには思想・文化などあらゆる局面で,グローバルな規模で,制度変容と既存システムの転換をもたらし,国民国家・国民経済枠組みの相対化・流動化を伴いながら,国際協定の複雑な動向とも連動し,世界的に産業集積・国際分業関係の変化を促し,国際的な資金循環の構造を変容させ,その結果,国際通貨・金融システムにも大きな転換を生じることになったものである。 とりわけ,アメリカでは企業・金融・情報のグローバル化の世界的展開を通じて,巨額の財・サービス輸入を中心として出現した膨大な経常収支赤字が構造的に定着し,国際基軸通貨ドルにより国際決済が集中するグローバル金融センター・ニューヨークに,膨大なドル資金を累積させ,「レバレジッド・ファイナンス」の膨張を通じて,デリバティブと金融工学を駆使した投機操作を含む金融膨張を拡大することになった。こうして,「ファイナンシャライゼーション」と金融市場の「カジノ化」が大きく進行し,同時に,ニューヨークを中心とするこうした金融膨張のメカニズムを拡大の基本「エンジン」として,グローバルな規模で投資と資金移動が拡大しながら,アメリカを軸とする世界的資金循環構造(「新帝国循環」)が形成され,グローバルに経済成長を加速する新たな資本蓄積の構造とメカニズムとして「グローバル成長連関」が出現したととらえることができる。【引用終わり】 ●高原浩之 骨幹は、「資本主義の発展段階の再構成―パックス・ブリタニカ段階とパックス・アメリカーナ段階」(資料5p)と理解しました(6pで「資本主義の歴史的展開」と表示も)。 (1)覇権論は「現状分析」「段階論」=資本蓄積論は変えられない 資本主義は、国家(身分制の封建制国家に対して「国民国家」)の下、「国民経済」として存在。世界資本主義は、各国資本主義が覇権国を基軸に結びついて成立。覇権論は「現状分析」の重要な指標でしょう。「段階論」をそれに替えるべきではないでしょう。 「段階論」は、①商人資本→②産業資本→③金融資本と、やはり資本蓄積様式を指標にすべきでしょう。金融資本は、剰余価値を生産し搾取する産業資本を土台として成立し、「自己増殖する価値」である資本の完成形であり、圧倒的に長い歴史段階でしょう。 イギリス覇権はほぼ産業資本の段階に対応し、金融資本の段階になるとアメリカ覇権に移行した。だから、イギリス覇権とアメリカ覇権では、「グローバル成長連関」つまり世界的な資本蓄積のシステムに差異があるということでしょう。 帝国主義は、産業資本にも封建制や奴隷制にも存在した。そういう意味で、金融資本の段階を帝国主義段階と規定するのは適切ではないでしょう。 (2)アメリカ覇権の「変質局面」は米国と中国の覇権闘争それが「現状分析」の中心 資料75pでは、「中国の『挑戦』とパックス・アメリカーナの変質への展望」が、「二度の世界大戦を経てパックス・ブリタニカ段階からパックス・アメリカーナ段階に転換」したという歴史と対比して分析されています。 ここの歴史は整理すれば「二重の移行」でしょう。「段階論」的にはイギリス・フランス型の古い産業資本から、アメリカ・ドイツ型の新しい金融資本へ移行(レーニン「帝国主義論」)。「現状分析」的には、イギリスの覇権にドイツが挑戦し覇権はアメリカに移行。 その後者と対比して、中国に挑戦されているアメリカ覇権を分析し、「確立期」と「変質局面Phase1」と「Phase2」と区分している。その区分に疑問があります。 ①「変質局面Phase1」が疑問です。米国をはじめ「北」の先発資本主義は戦後高度成長の後、資本輸出=資本主義の「移植」で「南」に向かった。世界システムにおける中心-周辺の関係を、工業-資源から金融-工業へ再編した。グローバリズムが始まって大体20世紀いっぱいまで、これはアメリカ帝国主義の覇権「確立」でしょう。同時に、中国・ベトナムをはじめ「南」の民族解放闘争は勝利の後、社会主義ではなく資本主義へ向かった。ソ連帝国主義は対米・覇権闘争に敗北して崩壊した。アメリカの一極支配「確立」でしょう。 ②アメリカ覇権の「変質局面Phase2」という規定も疑問です。グローバリズムが進行し21世紀になると、かつて潜在的であった趨勢が顕在化して拡大している。「南」の後発資本主義は、二つの国家資本主義(韓国・台湾型と中国・ベトナム型)で、「移植」を超えて内在的に成長し発展している。中国が、後発帝国主義として登場し、アメリカの覇権に挑戦している。「現状分析」的には、米中覇権闘争と規定すべきでしょう。(おわり)(2024.02.03)

  • 12.23丸川知雄フォーラム 事後報告

    12.23事後報告 目次 ■12.23案内文書/1 ■フォーラムの経過/2 ■司会者の感想(矢沢国光)/2 ■質疑/3 ■終わりの言葉(世界資本主義フォーラム顧問・河村哲二)/7 ■参加者アンケート回答から/7 ■12.23案内文書 ◆企画の趣旨 中国経済の「苦境」が伝えられます。一方では、地方政府による土地を担保 とする過剰な金融拡張→不動産投機の不良債権化の重圧、他方では、アメリカ が「(中国を共同利害パートナーとする)ステイク・ホルダー政策からの転換」 →対中国経済分断政策(デカップリング)へと転換したことです。国内投資の 減少や若者の失業、さらには、一帯一路政策からの欧州諸国の撤退が伝えられ ています。 実際は、どうなのか?世界資本主義フォーラムでは、12月、中国経済について公正な立場から観察・分析を進めてきたお二人の研究者に講演をお願いしました︰ 12月9日福本智之先生につづいて12月23日は丸川知雄先生です。 [世界資本主義フォーラム・矢沢国光] ●主催 世界資本主義フォーラム ●日時 2023年12月23日(土)午後1時30分~4時 ●開催方式 ZOOMによるオンライン ●テーマ 中国経済トピックス (1)不動産バブル崩壊と中国経済の発展段階 (2)米中経済対立と中国の産業力 ▲講演要旨 中国では不動産市況が低迷し、大手不動産業者が債務履行不能に陥るなど厳しい経済状況にあるといわれる。不動産バブルの崩壊によって、中国は日本の1990年代以降の「失われた30年」に入るのではないかという観測もある。 本報告の第1部では戦後日本の都市と不動産業の発展と対比しながら、中国経済の現在の発展段階が果たして「失われた30年」の入り口にあるのかどうかを論じる。 本報告の第2部では厳しさを増す米中対立のなかで、中国の産業がどのような状況にあるのかを現地での経験を交えながら話したい。主に半導体、液晶、自動車(EV)、自動運転の現状について報告する。 ●講師 丸川知雄(東京大学社会科学研究所教授) ▲著書 現代中国経済〔新版〕 (有斐閣アルマ 2021年) ■フォーラムの経過 司会者(矢沢国光)による本日の趣旨説明、講師紹介の後、前半、第1部(スライド1)について、講演50分・質疑15分。10分間の休憩をはさんで、後半、第2部(スライド2)について、同じく、講演50分・質疑15分。講師は、スライドを画面に出して、講演。 ⇒スライド1 はこちら スライド2はこちら 参加者24名。 ■司会者の感想(矢沢国光) 【不動産バブル崩壊と中国経済の発展段階について】 1) 中国の住宅バブル崩壊を、日本の1990年代以降の住宅バブル崩壊との類似とみる論議が多い。これにたいして、講師が注目するのは、「都市化による労働者住宅の発展段階」の日中比較だ。 日本の場合、①都市への人口移動と安い賃貸アパート=「ウサギ小屋」(1960年代) ②マンション・戸建て購入(1970-80年代) ③不動産バブルの崩壊(1990年代)、と発展してきた。 中国のばあいは、都市への人口移動が進んでいるが、マンション価格が1億円以上に高騰し、労働者には買えなくなっている。深圳や広州市のように、一部の都市では、「城中村」(労働者用の集合住宅の密集地)が多数あり、それなりの居住環境を提供しているが、火災の危険もある。しかしこれは、中国全体から見れば例外的で、北京・上海などでは、労働者は、下水施設もない劣悪なスラム街に居住している。したがって、中国の労働者用の住宅需要は、まだこれからだ、と講師は言う。 これは今まで見過ごされていた視点だ。 2) 「労働者用住宅の不足」はそのとおりだが、足元の中国経済の最大の危機と言われる「恒大集団などの不動産債務危機」にたいして、直ちに解決策となるものではない。講師も、足元の不動産バブル破綻の解決策として、語っているわけではない。 では、足元の投機的な「不動産バブルの破綻」から将来の健全な「労働者の必要とする大量の住宅建設」への移行には、どのような課題があり、どのような政策が必要とされるのであろうか。 【米中経済対立と中国の産業力について】 1)       8月の華為の新スマホ発売の意義が、(アメリカによって制限された5ナノ半導体の制約を自力で突破したこととは別に)5Gの普及率の高さにあるという指摘――中国のデジタル化経済のレベルの高さを改めて知った。 2) アメリカの目の敵にされた華為は自力で制約を突破したらしいが、IC(集積回路)産業の発展は、華為だけではない。ICサプライチェーンの上流から下流までの全部について、「国家ICファンド」が大規模かつ計画的な投資をしてきたこと、その成功の背景には「中国企業および中国国民のニーズに向けた中低級分野が利益の源泉になっている」ことがあるのではないかと講師は言う。「5Gの普及率の高さ」は5Gに代表される「社会のデジタル化」が(日本と違って)国民のニーズになっているということだ。 デンマークなど北欧諸国では、デジタル化が福祉の充実を支えている。 中国の「電脳社会主義」(矢吹晋)は、日本とも北欧とも異なる中国に特有な現象だ。これをどう評価するか、問われている。 3) 液晶パネルの地方政府による投資支援と成功の物語は、面白かった。「投資規模が巨大なため、自社消化を意識した企業(シャープ、サムスン、LG)は生き残れず、外販中心の企業のみが生き残る」という教訓を講師は引き出している。自国内に巨大市場を持っている中国だから可能になった投資戦略か。それとも、サプライチェインを国外に広く構築すれば可能なことなのか? 日本では今経産省が国内の半導体製造基地に対して巨額の投資をしている。民間任せではダメ、というところは中国と同じか。 ■質疑 【前半・第1部についての質疑】 ●矢沢国光 「都市化の段階が日本に比べて遅れているからまだ住宅建設の発展の余地がある」と言われましたが、そのことと、いま中国経済の最大の危機といわれる恒大集団などの不動産バブルの破綻との関係がわかりません。不動産バブルは、「資産投資として2軒目3軒目のマンション購入」によって生まれたと言われます。これは「都市化に伴う住宅建設」とは、また別の問題ではないか、という気がします。 ▲丸川 恒大集団などの住宅販売は、すでに住宅を持っている人が資産投資のために2軒目3軒目を買った。最終的に誰かが買わないと、資産としては価値がない。それが今問題になっている。都市化で住宅を必要とする人が購入しないと、この不動産バブルは、必ずつぶれると思います。 ●河村哲二 一線都市(北京、上海、広州、深圳)に対して二線都市やそれ以下の農村部の都市では、またちがう問題を抱えているように思いますが、どうでしょうか? ▲丸川 東北の人口減少都市では、数十万円という低価格で、住宅を売り出しています。石炭産業が衰退し、雇用も減っている。住宅建設をしていれば雇用が生まれる。中には、住民戸数の10倍の住宅を建ててしまった、というところもある。こうしたところは、都市を再開発するか過剰な住宅を処分するしかない。 ●河村 都市の、融資平台をつかったディベロッパーの無謀な開発が問題ではなかったか? ▲丸川 深圳のように1200万人が劣悪な住宅に住んでいるところがある。ここには住宅の需要があり、こうした巨大な潜在的な需要を生かさないのは、(中国の経済成長にとって)もったいない。「農村に帰れ」と言っても、職場がない、無理だ。 ●河村 中国のばあい、経済成長の過程で格差が拡大した、という問題があるのではないか。日本の場合は「一億総中流化」だった。それを前提に80年代に入っていった。 ▲丸川 中国は、これから総中流化に入れる段階にある。それができていない。高度成長期は、労働力があふれており、しかたなかった。これからは、不足しおり、労働者の確保、都市の中核的な市民になることが必要。 ●前田芳弘 農村から都市への住民移動は今後増え、都市化が進むと思われるが、城中村の問題は、市に任せたままか、国の取り組みはないのか。 ▲丸川 国として一つの方針を持つのは難しい。なぜなら、城中村は 深圳・広州など、南方にしかない。(城中村を守り抜く)村の団結力も地域によって違う。 ●五味 中国人が格差を肯定(強く言えば格差がなければ社会と言えない)と考えることが、住宅問題の根本にあるような気がするのですが。 ▲丸川 格差に問題意識を感じない人もいるが、運がよかっただけ。これが(広く)肯定されているのか、一概に言えない。 【後半・第2部についての質疑】 ●渡辺均 不動産分野の先細りの中で、国内経済を廻す産業として半導体や液晶分野があると考えてもよいのでしょうか。また半導体や液晶分野で代替は可能なのでしょうか、お聞かせください。 ▲丸川 今年の中国のGDP成長率は5%くらいですが、EVを中心とする自動車がかなり貢献しているようです。半導体や液晶は、その上流部分です。最近の中国の自動車は、運転席だけでなく、助手席や後部座席にも液晶画面があります。中国では、不動産が落ち込んだ部分を製造業がカバーしています。来年も、そうでしょう。 ●河村 自動車がカギ。米中経済摩擦で言えば、GPUとかAIの軍民両用技術の国産化が問題だと思いますが、見通しはどうでしょうか? ▲丸川 AIは活発で、チャットGPTに代わる中国産の生成AIが5つか6つあります。使い道としては、検索に対してAIが応えるようなネットでの使い道が多いように思います。 アメリカはこれを規制しようとしてチップの輸出を禁止したりしていますが、中国はすでに(以前に輸入したもので)間に合っているようです。生成AIで重要なことは、大量の学習をさせること。中国のAIを規制するのは、難しいでしょう。たしかに最先端部門では、ICがないとできないので、米中の差は縮まらないかもしれませんが、中国なりの発展はできると思います。 ●河村 アメリカは軍事技術について中国を隔離しようとしているのでは? ▲丸川 アメリカが「軍事増強につながらないように」技術の流出を防ぐというのは、中国も年々攻撃的になっているので、仕方ないかなと思います。 ●矢沢国光 中国がアメリカの経済制裁にもかかわらず、5Gスマホが作れたのはなぜか。アメリカの輸出規制に抜け道があったのか?アメリカの企業から中国との交易を求める要求が出たのか?オランダの半導体製造業や台湾の半導体メーカーがアメリカの要請を無視したのか? ▲丸川 アメリカが規制したのは華為だけです。他の中国メーカーは従来通り、半導体やICを輸入しています。 華為の5Gスマホを分解して調べた人の話では、華為は従来の製造技術を使って、自前で作ったということです。抜け道があったわけではない。昔からの道具を使って製造した。ただし、歩留まりが悪いので、大量生産ができない。その意味では、アメリカの規制が効いている、ということだと思います。 ●河村 華為にたいするアメリカの規制は、5Gの基地局がヨーロッパで事実上の標準になってしまうことを恐れた、ということですね。 ▲丸川 華為製品にはバックドアがあり、そこから欧米の情報が中国に漏れる、という一度も実証されたことのない理由で、華為が規制されました。その規制によって、ヨーロッパ・日本では華為製品をつかっていない。こうした規制効果は今も続いています。日本で5Gが普及していないのは、その結果です。 ■終わりの言葉(世界資本主義フォーラム顧問・河村哲二) わたしは2011年に中国に調査に行ったのが最後で、その後行っておりません。中国は、現地に行ってみないとわからないことがたくさんあると、思いました。 本日は、貴重な情報、ありがとうございました。これからも中国に何度も行かれると思います。また、節目節目で、お話しいただければと思います。 丸川先生、ありがとうございました。 ■参加者アンケート回答から ●野﨑佳伸(木曜塾生。社会主義協会) 丸川先生たちの「中国学コメンタリー」を愛読しているおかげで、お話が理解しやすかったです。 深圳の城中村の記事は秀逸です。 液晶パネルのお話は初めてお聞きしたように思います。 次は世界のEV競争の現状と見通しについてお伺いしたい。 ●前田芳弘 感想と質問です。 ①城中村の詳細について大変興味深く伺った。全国でも2,3例しかないと伺ったので関連質問です。今後も農村から都市への移住者が増え続ける予想ができる中、現在および将来の都市移住者の多くは、北京市のようなスラムで暮らすのでしょうか。実態と今後について、地方政府や中央政府の取り組み、考えなどお教え願いたい。 ②都市住民が住宅政策で安価に住宅を手に入れた者とその後不動産価格の高騰で住宅を手に入れられなかった都市移住者の間で大きな格差を生んだ。自分の収入の範囲で借りられたり、購入できたりできる住宅の供給がなければ、今後都市での労働力供給ができなくなるのではないかと思う。 ③経済発展やその好循環のために、住宅問題だけでなく収入の格差や大きな収益を生む自動車やIT、電子部品、家電など様々な産業が密接に絡み合い、国どうしの対立などが関連していること、これらへの理解が深まった。 ●上野義昭(木曜塾) 丸川先生の御説は10年来拝読していますが、直接のご講義は初めてで、実踏とデータに基づくお話は、とても興味深いものでした。とりわけ、「城中村」については、新たな知見を得ることができました。 中国のマクロにみた巨大な人口、面積とともに、内部の多様さを、一掴みする困難性をずっと感じております。 小生は永年、「四つの世界」「三つの経済」の複合(胡按鋼)、という視点に共感し、単一的な国民経済として、資本主義国と比較することには懐疑的な立場を貫いてきました。 今回のテーマの不動産問題ですが、丸川先生にお聞きしたいのは、住宅問題は、都市戸籍層、「農民工」、農村居住層で、異なる課題、政策が存在するわけですが、 ・「鬼城」が総人口をはるかに超える34億人分の在庫を抱えている、と乱暴に均した数字や、 ・都市化の伸びの減速や出生率・婚姻率低下による今後10年間の民間住宅需要(年平均約12億平方メートル)からみると、22年の大幅な調整で「本来の需要水準に近づいた」(中郵証券)、 ・家庭一戸当たりの住宅保有数は、24年に1.02戸となり、一人っ子政策の影響を受けた複数住宅の相続の発生や、総人口の減少で「家余り時代」になる(民生証券研究院)、 といった、都市部の特定階層についての分析もあるなかで、中国共産党中央の「住宅は住むものであって、投機のためのものではない」というのは、まま共同富裕とともに語られることが日本では多いように思うのですが、幹部層、富裕層向けのメッセージ、特定階層を対象にした政策なのでしょうか、それとも実需には保護、対応するという一般原則の表現なのでしょうか。借り換え需要への補助など、景気対策とも思える節もあります。 また、梶谷懐神戸大学教授は「賦課方式の年金を通じた世代間の資源移転が十分ではない状況下で、人々は安心した老後を過ごす代替的な手段として、値上がりを続けるマンションを購入してきた」のであり、「社会保障の提供から景気対策に至るまで、多くを地方政府に『丸投げ』してきた財政制度を根本的に見直すことが不可欠」(7月28日付日経新聞「経済教室」)とされていますが、これについては、どのようにお考えでしょうか。 ●安岡正義(ちきゅう座会員、大分大学名誉教授:18世紀ドイツ文化専攻) 【感想】丸川知雄先生のご講演で、現地調査と統計資料の分析により、日本のマス・メディアで喧伝されている不動産バブル崩壊とそれに連動する中国経済の崩壊とのイメージとは全く違う実態を学ぶことができました。丸川先生に深く御礼申し上げます。 10数年前、武漢市の某大学より、日本語科の最終学年の学生を大分大学に留学させたいとの申し出があり、この縁で私は武漢を2度訪れ、また日本語科の中国人教員とも知り合いになりました。そのうちの一人の話によると、北京や上海のマンションは実際に人が住んでいるのは半分だけ、とのことでした。なお、この留学プログラムは学生の相互交流ではないため、留学生は大分大学に40万円を超える授業料を払いますが、これは武漢市の一般市民の年収に匹敵するとのことでした。私が定年退職後に非常勤講師として当該大学からの留学生を指導した際、一人の学生から、中国では裕福な市民は買う商品がないので、住む気はなくともマンションを買う、との話を聞きました。 【質問】マンション価格が下落して庶民の手に届くようになるとすれば、どのようなプロセスで下落し、またその下落はどのような影響を経済全体に及ぼすのでしょうか?更に、資産としてマンションを買う場合、どのような制度に基づいて転売するのでしょうか? ●高原浩之 [1]感想・質問 第1のテーマは「中国経済の今の状況は日本のバブル経済がはじけた1990年代初頭と同じなのだろうか?」(p6)。これは前回とほぼ同じテーマで、また結論もほぼ同じでした。「中国はまだ都市化の途上にあるし、都市の住環境の改善へ大きな宿題を抱えている」。「不動産業が発展する余地はとても大きい」。「『日本化』するのは時期尚早である」。(p24) そうだろうと納得できます。 ということは、後発である中国は、いずれは先発の米国・西欧・日本のように工業的空洞化と金融化あるいは長期停滞になるとしても、当面はまだ一定の成長と発展、「世界の工場」ということでしょう(米欧日の対中・ブロック化で阻止はできない)。ただ、それがどのような産業で主導されるのか。それが第2テーマの「米中経済対立と中国の産業力」でしょうが、ここはよく分からなかった。先発の米欧日では、戦後高度成長の最後の中心は自動車産業ではなかったか。IC産業にそのような主導力があるのか。 米欧日における都市化は、ケインズ主義・福祉国家(所得再分配)や住宅・自動車などの耐久消費財と結びついて(根本は新植民地主義の超過利潤)、増大した労働者階級が資本主義体制に組み込まれる(「中産階級化」)過程であったと思う。中国も今後、「共同富裕」(福祉国家・所得再分配)や都市化・住宅産業の発展なのであれば、それは増大した労働者階級が資本主義体制に組み込まれる過程となるでしょう(「一帯一路」による「南」からの帝国主義的超過利潤を基礎に)。官僚制国家資本主義なので、米欧日や韓国・台湾のようなブルジョア民主主義ではないでしょうが、強権だけではない制度化が進むでしょう。 政治、それも外交だけでなく内政もしっかり見るべきでしょう。 [2]その他 フォーラムの進め方などについて 報告や資料はせめて前日にでも読んでおきたい(講師の方も忙しいでしょうが)。そうしないと、当日いきなりでは突っ込んだ意見や感想も出せません。

  • 8.12大西フォーラム 事後報告

    2023.8.21 作成・矢沢国光 目次 ■8.12大西フォーラム案内文書/1 ■フォーラムの経過/2 ■講師の補足コメント(大西広)/2 ■司会者の感想と質問(矢沢国光) 質問に対する講師の回答(大西広)/3 ■主な質疑/7 ■終わりの言葉(世界資本主義フォーラム顧問・河村哲二)/13 ■参加者アンケートから 質問への回答(大西)/14 ■8.12大西フォーラム案内文書 8.12オンライン大西広「中国の少数民族問題と社会主義の理念 ――新疆ウイグル族・チベット族問題どう考えるか」のご案内 ●講師の紹介 大西広(1956年生まれ。京都大学名誉教授。慶應義塾大学名誉教授。マルクス経済学、統計学、近代経済学) ▲主な著作 『マルクス経済学 第三版』(慶應義塾大学出版会、2020年4月30日) 『マルクス派数理政治経済学』(慶應義塾大学出版会、2021年10月、編著) 『ウクライナ戦争と分断される世界』(本の泉社、2022年9月5日) 『中国の少数民族問題と経済格差』(京都大学学術出版会、2012年9月、編著) など ●テーマ 「中国の少数民族問題と社会主義の理念――新疆ウイグル族・チベット族問題どう考えるか」 ●趣旨 1995年に初めて新疆ウイグル自治区を訪問した瞬間から民族差別の存在を私は強く印象づけられてきた。毛沢東は1950年代から「大漢族主義を批判する」とのキャンペーンをしていたにも関わらず、鄧小平以降の社会主義イデオロギーの衰退、国力の強化の下でのナショナリズムの強まりの結果と思われる。 ただし、西側キャンペーンには、現地少数民族の利益を顧みずに、ただ非難することで中国の影響力を抑えようという悪意のある否定的なプロパガンダとしての性格が強く、この少数民族問題自身にも悪影響を及ぼしている。少なくとも自国の少数民族問題を不問としたままでの中国の少数民族問題への非難は否定的な役割しか果たさないことも合わせ論じておきたい。 ●参考文献 「主な著作」に掲げましたが、『ウクライナ戦争と分断される世界』(本の泉社、2022年9月5日) は新書程度の大きさでお勧めです。 ●開催方式 ZOOMによるオンライン ■フォーラムの経過 司会者(矢沢国光)による講師紹介、「本日のテーマについて」。 大西広先生の講演が、事前配布されたスライドにそって、前半50分、10分の休憩をはさんで後半40分の講演。そのあと、質疑を、時間を延長して、40分間。 最後に、世界資本主義フォーラム顧問・河村哲二が「終わりの言葉」 参加者 20名。 ●本日のテーマについて ――大西先生の講演に期待すること (世界資本主義フォーラム・矢沢国光) (1)アメリカは「新彊ウイグル族への人権侵害」批判によって、「対中包囲網」を再構築しようとしている。米欧(日)の非難する新彊ウイグル族への「収容所」「産児制限」「強制労働」「宗教弾圧」「言語弾圧」等は、どこまで事実にもとずくものか。ご自身で十数回現地調査し、また、中国政権の政策について是々非々の立場を堅持しておられる大西先生の見方をお聞きしたい。 (2)中国共産党政権は、その国家としての形成過程において、新彊ウイグル族やチベット族の分離・自立要求と衝突した。共産党政権がなぜ分離・自立を容認できないのか。 (3)中国中央と新彊ウイグル族の経済的対立は、改革開放後、むしろ先鋭化している――漢族の新彊ウイグル自治区への植民と経済開発、建設生産兵団、一帯一路構想の基点としての戦略的重要性など。中国中央と新彊ウイグル族の対立をどう見るべきか。 (4) 9.11以降の列強の「反テロ戦争」とソ連崩壊のなかで高まる新彊ウイグル自治区の「分離主義」とイスラム過激派への過剰な警戒が、中央政権の新彊ウイグル族への強権統治をもたらしていないか。 ■講師の補足コメント(大西広) 河村哲二顧問が「終わりの言葉」でおっしゃっていたように、この問題は「国民国家nation state」というものをどう考えるかに深く関わっています。 討論の中でも述べましたが、アフリカの諸国を見渡したとき、ほぼすべての「国」がnation stateが成立する前に成立されてしまったために、ほぼ例外なく、内戦を経験して来ました。そして、その苦難を乗り越えた成功例として挙げられているケニアは「個々の部族の独立を許した」ことによって褒められているのではなく、それら多数の部族をまとめる「民族nation」を形成したことによって褒められています。 この意味で、中国が「個々の民族を独立させる」ことで民族問題を解決するのではなく、「民族差別のまったくない真に平等な民族関係の構築によって中華民族の実態を作り上げる」という方向に進むのが、もっとも平和的で幸せな道だと考えています。 一水会が旧琉球民族との平和的で正常な関係の構築に真剣に努力されていることと同じです。 ちなみに、その趣旨から、このケニアのニエレレ大統領のすぐれたリーダーシップを指摘したポール・コリアー『民主主義がアフリカ経済を殺す』日経BP社、2010年、p.244は「われわれは・・・少数民族の権利はその国民意識の創出の上に成り立つ制度に支えられるという点を見失っていた」と反省しています。 この趣旨をちょっと視点を変えてヨーロッパを事例に述べると、私はざっと1600年くらいに西ヨーロッパでは「民族」と「国家」がほぼ対応するようになっている。何百年にわたる戦争の結果として、その両者のずれがほぼ解消された、と考えています。ですが、それは逆に言うと、東ヨーロッパではそれができていなかったということをも意味し、それはポーランド国境の大きな変遷、ウクライナの領土の変化の大きさに反映されています。そして、その調整のひとつの過程が今回のウクライナ戦争であると考えています。この戦争はある次元では「ロシアによる国際ルールの逸脱」となりますが、「民族」と「国家」の関係に着目すると、このような理解となるということです。 最後に、これらのことは私が報告の冒頭で述べたそもそも「民族とは何か」という論点と関わることを付言させていただきます。 討論の中では「民族とは厳然と存在するもの」との前提で皆さんが話しておられましたが、「香港人」や「台湾人」が場合によれば「民族」にもなりうるのと同様、逆に「中華民族」なるまとまりの方が重要だと人々が考えるということもありえます。そして、それを私は基本的には進歩的な現象だと考えているということです。 たとえば、「琉球人」という実態は(政治的軋轢を別にすると)ほぼ消滅していますが、このようにして「民族を超える民族」が新たに形成され続けてきたというのが人類史ではなかったでしょうか。 もちろん、この過程を平和的に進めるためにも「民族差別への反対」がどうしても不可欠、重要となるのですが、その自然な目的は「民族分離」ではなく、大民族による抑圧の抑止による「民族の解消」だと思うという意見です。ご検討いただければ幸いです。 ■司会者の感想と質問(矢沢国光) 質問に対する講師の回答(大西広) (1)大西先生から「民族問題は階級問題だ」といきなり直球を投げ込まれた。大西先生の言う「階級問題」とは、「資本家と労働者の対立」のようだ。2009年ウルムチ暴動の主因となったウイグル人の不満の本質は、漢人による民族差別ではなく、資本家―労働者関係(失業)であったとする。 たしかに、改革開放後の中国では、民間企業は資本家的企業となり、新彊ウイグル自治区に進出した漢人企業とそこで雇用されるウイグル人労働者の矛盾・対立――失業など――がウイグル人「暴動」の主要因になっている、という大西先生の指摘はまちがっていないであろう。 だがしかし、ウイグル族の民族的要求・闘争を「階級問題を隠すもの」と脇に置いて「階級問題」の解決に専念することによって「新彊ウイグル族問題」は解決するのであろうか。 民族問題と階級問題――大西先生によって提起されたこの大きな問題については、9月9日の太田仁樹さんのフォーラムで引き続き論議される。 (2)今回のフォーラムのもう一つの大きな論点は、新中国(中華人民共和国)がなぜ新彊ウイグル族やチベット族の自治権を認めなかったのか、である。 大西先生は、参加者の質問に答えて、「中国共産党は、当初はソ連式の連邦制を考えていたが、新中国成立時の政治協商会議で連邦制は消えて自治区になった、と言う。 経過はその通りであろう(註)が、1922年のソ連邦が認めた「連邦制・自治共和国」が、なぜ1949年の新中国においては「中華人民共和国内の自治区」になったのか? 新中国が新彊ウイグル地域やチベットを中国国家に[連邦ではなく]併合したのは、それが中国王朝のむかしからの考えだったから、と大西先生は言われた。それは半分は当たっているが、それだけではないと思う。 というのは、第一次世界大戦以降の列強の軍事体制は、それ以前に比べて、はるかに強大化し、グローバル化し、恒常化した。資本主義による工業化と国民国家化が軍事体制の強大化・グローバル化の基盤となった。 19世紀半ば、軍事力を地球の裏側まで派遣できたのは多数の軍艦と7つの海を網羅する海軍基地網を有するイギリスだけであった。第一次世界大戦の前後には、ドイツとアメリカがそれに加わった。つづいてソ連と日本。 中国共産党が中華人民共和国を建国したのは、こうした列強のグローバル化した軍事体制が、枢軸国の敗戦を経て、「東西冷戦体制」へと再編成される時期であった。 新生中国は、列強の強化・グローバル化した軍事体制のはざまで、急激な工業化・軍事強国化をともなう主権国家化によって、延命することを強いられた。 チベットと新彊ウイグル地区の国境内への取り込みとその治安は、アメリカ、インド、ソ連等の大国にたいする備えとして不可欠であっただろう。 漢人の入植と建設生産兵団、資源開発、原爆実験が、原住民の意向を考慮することなく強行された。 (3)いくつかの質問 質問① 「不妊手術」にたいするウイグル人の反発には、イスラームの信仰に反する、ということもあるのではないか?「計画出産政策は、医療が遅れていて、子供はアッラーからの授かりものであるとするイスラーム教徒のウイグル人には適しない政策であった」[ムカイダイス『在日ウイグル人が明かすウイグル・ジェノサイド 東トルキスタンの真実』ハート出版2021 24頁] ▲大西 東大の丸川氏などは「不妊手術」が多額の奨励金により本人たちに受け入れられているとの理解を示しており、「ジェノサイド」を主張するウイグル会議の情報は信じない方がよい。「ジェノサイド」は国連人権委員会報告でも事実上否定されている。 ただし、私はそれでもある範囲で強制がなされていると考えており、それは集団就職の場合より高い比率となるのではないかと考えている。 そして、その背景には、漢族の少子化が強制された一方でウイグル族など少数民族の人口がこの間急増したこととそれへの漢族側の反発と論理が政策にそのまま反映されたことがあると考えている。 「子供はアッラーからの授かりもの」との考えは、イスラムにあるとは思うが、その次元では実は農村の漢族民衆の考えとさほど変わらない。ので、こうした宗教的考えを特に強調するのは漢族の側には信仰がないかのように捉えるミスリーディングな考えだと考える。 質問② スライド30の「官僚制」について。 現代中国の美点でもある独特な官僚制度の問題が関わっている事⇒毛沢東が最も問題視したもの。規則の恣意的運用を主に問題とした「国連人権高等弁務官の新疆問題に関する報告」もこの筋で理解できる。(ex.派閥闘争) 大西先生は、毛沢東時代の中国の官僚制について (ⅰ)目標を決めて上から号令をかければ官僚が競争するので、その目標を達成できる。すばらしい。 (ⅱ)しかし、官僚が自分の成績を上げるために無理やり成果を出そうとして、人民にとって不本意なことをすることもある(規則の恣意的運用)。 (ⅲ)毛沢東は、終生こうした「官僚制」の欠陥を批判し続けた。 のように、述べました。 これについての疑問︰たしかに「目標を決めて上から号令をかけて」大衆運動として政策を実現するのは、毛沢東が好んで採用した方式。だが、そのもっとも悲惨なけっかが大躍進運藤→大飢餓と文革であった。それ以前の三反五反運動や百花斉放百家争鳴運動も、毛沢東の号令で開始され、摘発対象を地域ごとに何パーセントと割り振ったりした。「目標」も毛沢東の独断で発せられ、党員はその意味を理解できないまま数値目標だけ達成した。 こうした毛沢東の「独断命令・大衆運動方式」は、専門家の知見と集団討議にもとずく政策決定を排除するもので、官僚制の良さを育てられなかったのではないか。 大西先生は、政策実現における毛沢東の好んだ「大衆運動方式」をどう評価しておられるのか?そのうえで、あらためて「中国の官僚制」をどう評価しておられるか? ▲大西 矢沢氏によって正確に要約されているように私は中国の官僚制は現在基本的にうまく機能していると考えている。繰り返しとなるが、緑化にしても、貧困の撲滅にしても、コロナに対する対抗にしてもこれなしにあの驚異的な達成はなかった。ただ、こうして官僚たちを動員させることには必ず一部で強制やミス・ジャッジが存在するので、それをどうなくすかという制度も必要で、「規律検査委員会」や「監察委員会」がそれを担当するということとなっている。各級の「監察委員会」は最近設置されたシステムである。ただ、私はこれらの問題が広義の「人権侵害」を構成するものなので、人権弁護士のような存在が活躍する必要があると考えている。このあたりの事情は『季刊経済理論』第59巻第4号、2023年所収の拙稿を参照されたい。ちなみに、私の属する日中友好協会はそうしたグループとも連絡をとりあっている。 しかし、これへの「毛沢東的方法」にも一理あって、それが「大民主」というものであった。私の両親は敗戦後1953年まで中国東北部に残留したが、そこでは毎月幹部が大衆集会の前に立たされ、人民からどこどこで何何をした、と追及される存在であった。よくよく考えると、文革もまたその形式で幹部を打倒している。まさしく「大衆に無限の信頼を置き、その集団力に依拠した幹部の打倒」であり、私の両親はそれに感動して共産主義者になった。 この「大衆運動式」の「大民主」政治は、重慶の薄熙来によって一時的に復活させられ、また公式にも「基層協商」ないし「社会協商」という形で部分的に復活されているものである。私はこの運動を肯定的に評価している。 ただし、問題はこの「大衆運動式」が経済活動に導入された場合で、言うまでもなく、大躍進期の土法炉は機械製大工業を否定した決定的な誤りであったとともに、毛沢東が重点を置いた治水や道路建設・鉄道建設などのインフラ建設には(当時の生産力段階としては)有効であったことを認識することも重要である。 質問③ 中国の官僚制の欠陥にもかかわるが、2016年に新彊ウイグル自治区党書記に就任し2019年に解任された陳全国について。ウイグル人に対する容赦のない殺害、強制収容所での思想改造、親戚制度などは陳全国書記時代に苛烈をきわめた。解任は、その「行き過ぎ」と国際的な人権批判に対する党中央の政策転換ではなかったか。 ▲大西 確証はないが、おそらくそう思う。2009年のウルムチ暴動の後、現地幹部が更迭された際には、似たことが解任の理由とされたということである。 ■主な質疑 ●矢沢国光 毛沢東の「大漢族主義」批判について。これは、ウイグル族やチベット族などの「少数民族」が中国という国家に併合されていることを前提として、少数民族に対する漢族の横暴を戒めているものです。ウイグル族やチベット族が中国への併合に抵抗し、自立を維持したいという要求を持っていたことは、完全に無視されています。『毛沢東選集1-5巻』に入っている「大漢族主義」批判のどれを見てもそうです。 新彊ウイグル族は、1930年代、1940年代に二度にわたって「東トルキスタン共和国」を創設し、挫折したという経験を持っています。また、同じチュルク系のウズベキスタンやカザフスタンがソ連邦の中で「ロシア共和国」などと[制度的には]同等の「共和国」となっていたことも、新彊のウイグル人の多くにとって、「共和国」を当然視することになったと考えられます。 ▲大西 1949年10月中華人民共和国成立の時点では、西方の新彊ウイグル族地域やチベットは、まだ人民共和国に入っていません。 ●矢沢 中国共産党軍が侵攻して軍事的に制圧した、という形ですね。 ▲大西 それは事実ですが、漢人の居住地域も、共産党軍が軍事的に制圧することによって「中国」のエリアを広げた。中国はどこからどこまでか、というのは、毛沢東だけでなく、中国人はみな同じ認識を持っていた。 ●矢沢 清朝のとき併合した地域が中国の領土だという認識ですね。 ▲大西 そうです。日本が北海道(アイヌの居住地)を占領したときよりずっと古い。中国人にほぼ共有されていた認識です。 当初、中国共産党には「中華連邦共和国」という考えがあったが、1949年9月の政治協商会議で、「中華連邦共和国」という名称は消えて「自治区」制度に変わった(註)。これがよかったかどうか、という次元の話になります。 それから、「東トルキスタン共和国運動が中国への併合を拒否した」というのは、不正確です。 東トルキスタン共和国運動の中心も、共産主義者です。かれらは中華民国――自治区を認めない大漢族主義――に対して闘ったわけです[いわゆる「三区革命」]。中華民国では、「新彊自治区」ではなく「新彊省」となっていて、新彊省の大臣は100パーセント漢族だった。それではだめだ、「自治区にしなければならない」と主張したのが、「東トルキスタン共和国」の運動だった。 (註) 中國人民政治協商会議共同綱領 1949年9月29日 第 VI 章 民族政策 第 50 条 中華人民共和国の各民族は平等であり、団結と相互扶助を実践し、帝国主義と各民族内の人民の公の敵に反​​対し、中華人民共和国を各民族間の友好協力の大家族とする。グループ。大きなナショナリズムと狭いナショナリズムに反対し、民族間の差別、抑圧、およびすべての民族グループの団結を分裂させる行為を禁止します。 第 51 条 少数民族が集中して居住する地域では、民族の地域自治を実施し、民族の人口と地域の規模に応じて各種の民族自治機関を設立する。多様な民族が共存する地域や民族自治区では、各民族が地方政府機関に相当数の代表を置くべきである。 第 52 条 中華人民共和国の領土内のすべての少数民族は、統一された国家軍事制度に従って人民解放軍に参加し、地方人民治安部隊を組織する権利を有する。 第 53 条 すべての少数民族は、話し言葉と書き言葉を開発し、習慣と宗教的信念を維持または改革する自由を有する。人民政府は、あらゆる少数民族の人民が政治、経済、文化、教育の構造を発展させるのを支援すべきである。 ●高原 党書記を少数民族にするのはいいが、少数民族に自分たちの国家を作る権利、中国から国家的に分離独立する権利を認めないと話にならない。実際に分離・独立するかどうかは別問題。少数民族自身が決めること。日本においても当然、アイヌや沖縄の分離独立の自由は承認しなくてはならない。それを認めた上で、少数民族の意志が自治であれば、それでいい。 ▲大西 今日世界に存在する国家の多くは、多民族国家です。「nation state国民国家」の民族と国家のちがいを調整しているのも事実です。他方、純粋の単一民族国家などというものが[北朝鮮と韓国以外は]ないのも事実です。中国は5千年の歴史のあいだずっと多民族国家であった。中国共産党も毛沢東も、政治協商会議のその他の党派のみなさんも、「国家は多民族である」と思った。 [新彊ウイグル族やチベット族のような]民族の独立を認めるべきだとかは、中国人が言うならともかく、他国の者には言えない。ましてや、日本はかつて「満州人は別の民族だから別の国をつくったらよい」と言って満州国を作り、中国侵略の道具に使った。こうしたことをしてきた過去があり原罪をもった日本人として、論理としての「民族自決」はよいとしても、「民族の独立をすべきだ」とは言えない。 ●高原 「民族自決権」というのは、国家として独立すべきだ、ということではなく、多民族国家において民族はいつでも独立する権利がある、ということです。中国が多民族国家として真に民族間の平等を実現しようとするならば、すべての少数民族にたいして独立する権利を認めない限り、多様性も平等性もない、という問題だと思います。 レーニンは、ロシアでそのように対応しました。 ▲大西 レーニンのことはわかりませんが、一般論としては、理解できます。たとえばウクライナのドンパス地方とか、台湾の人たちが、自分たちはこのままでは嫌だから独立したい、と主張すれば、国家にはそれに対処する義務がある、ということは理解できます。 ウクライナではドンパス地方でロシア人に対する虐殺があり、国連でもその事実が報告されている。この下でドンパス地方のロシア人が独立したいと考えるに至っている以上、ドンパス地方はウクライナの領土の一部だから認めない、ということはできない。ロシア人が独立を求めるに至ったことについては、ウクライナ人に責任がある。日本の琉球の問題も同じです。 わたしは最近「一水会」に呼ばれて話した。わたしは階級主義で一水会は民族主義だが、ひじょうに共感するところがあった。一水会はアイヌから沖縄人まで含めた「日本民族」をつくりたい。そのために、日本が琉球に対して行ったことの責任をまじめに考えている。真の民族主義はこのようであるべきだ――まず国家の責任を問うべきだ――と考えます。 ●矢沢 新彊ウイグル族とチベット族の二つは、中国の50以上の「少数民族」と同列に論じられない。たとえばイスラームを宗教とする「回族」は、居住地は中国各地に散在しており、言語は漢語、生業は農業や商業。民族的ルーツの異なる様々な集団がイスラームによって共通性を獲得して「回族」となった[王柯『多民族国家中国』 岩波新書 2005年]。回族は、漢族の横暴に対する批判はあっても、中国からの独立をのぞむことはない。 これにたいして、新彊ウイグル族は、イスラームを取り入れるはるか以前から同じ地域に集住し、遊牧を生業とし、文字のあるウイグル語を言語とし、高度な文化を形成してきた。こうした共同体が先にあって、イスラーム宗教はあとから獲得した。こうした千年以上にわたって形成されてきた伝統的な経済社会・歴史・文化・宗教をもつ共同体が「中国」に統合されることによって破壊されることは許せない、というのがウイグル族の「独立」運動であり、中国中央政府から「分離主義」として批判される運動ではないか。 チベット族も、同様だ。 ▲大西 おっしゃることに、100パーセント同意します。 差別しておいて「自分たちの一部だ」などとは言えない。中国には[少数民族に対する]差別が現にあり、差別・抑圧のない状況を作ることが何より大事だと思います。 ●倪卉 Niki 質問ではなく、意見です。言い方がきつくて申し訳ありません、中国人として単純に疑問として思います。民族が違うから「独立」するとか言っておられますが、なんでそんな自信持っていらっしゃるかしら?何を根拠にして勝手にこんなことが言えるかしらという疑問を、中国人として持っています。 わたしは戸籍上は漢民族ですが、家族は満州族です。 「民族が違うから独立」というのは、理解できません。中国では、民族が違ってもお互いに理解できています。中国には13億人もいますから、トラブルがあるのは当たり前です。 ●高木肇 中国は、1922年のソ連邦の連邦制に学んでいると思いますが、中国の民族区域自治制度は、ソ連の連邦制とどうちがうのか、おききしたい。 ▲大西 中国共産党は、ソ連共産党に学んで当初は、「連邦制」を唱えていました。それが民族区域自治制に変わったのは、先ほど言いましたように、1949年9月の政治協商会議からです。変わった理由の一つは、すでに漢や唐の時代から新彊が中国に含まれ、長らくひとつの歴史を歩んできたという経過にあります。 ●河村哲二 「民族問題は階級問題」ということですが、「国民国家と民族」の問題は解決されていない。マルクスによれば、階級があっても国民経済的総括というのがあって、その上にのる??という考え方です。レーニンは、「国家は暴力装置だ」というが、国民国家は、そうした問題ではない。西欧が国民国家の典型とされるが、西欧は膨大な植民地を抱えていた。ここでは民族の問題が「擬制としての国民国家」では解決されていない。その解決として民族自決・独立があった。国民国家とエスニシティの問題は未解決だ。 国民国家を作るのがゴールとなれば、中国は解体されることになる。ロシアも同じで、プーチン体制が崩壊して14くらいの共和国が分離独立すれば、ロシアは消滅してしまう。 「習近平の夢」は、国民国家と民族の問題をどう考えているのか。 ▲大西 (1)「中国の夢」に私は否定的です。というのは、「中国の夢」は、正確には「中華民族の偉大な復興」で、これは反毛沢東的です。毛沢東[の中国国家論]のポイントは「過去の中国とは決別した」ということです。1949年以前の「旧中国」にたいする「新中国」です。ところが「中華民族の偉大な復興」というスローガンは、「過去の中国は偉大であった、それに戻ろう」ということで、毛沢東主義とは180度違います。これはナショナリズムです。[図で上向きの「中国化」] (2)国民国家と民族の関係ですが、中国は、55の少数民族も漢族も、併せて一つの「中華民族」にしようとしている。先ほど話してもらった倪卉Nikiさんは、満州族だが自分は中国人――中華民族――という意識です。大部分の「少数民族」が「中華民族」になりつつあるが、そうでない民族もある。チベット族は最近落ち着いてきているが、新彊ウイグル族や内モンゴルは問題が残っている。「中華民族化」がよいかわるいか、議論が分かれるが、少数民族問題の専門家で習近平政権に批判的な元神戸大学の王柯先生も、「民族識別のようなものはせず、したがって「中華民族」一本でやった方が良かったのではないか」と過去におっしゃっている。 ●太田仁樹 3点について、ご意見をおききしたい。 (1)ソ連と中国の違い スターリン・レーニンの民族問題論 中国はソ連に倣って「連邦制」を導入した。 ソ連は1924年、共和国の連邦制を導入した。ただ、「共和国」には格付けの違いでずいぶん不公平があった。ソ連邦を構成するロシア社会主義共和国連邦に所属する共和国もあった。 こうした格付けの差異は、スターリンが1913年に書いた『マルクス主義と民族問題』にもとずく。スターリンは、そのなかで、民族には、ナロート、ナロードノスチ、ナチオナーリノスチ、ナーチアという発展段階があり、最高の発展段階のナーチアはソビエト連邦の構成国になることができ、連邦からの分離・独立の権利も持つ、とした。 スターリンの『マルクス主義と民族問題』は、わりとよくできた本ですが、「民族の定義」等は、ほとんどオーストリアのオットー・バウアーの『民族問題と社会民主主義』という1907年の本を引き継いでいる。 スターリンは民族問題のエキスパートとして、ソ連邦創設にあたってその青写真をつくった人物です。中国共産党はスターリンの民族理論に学んだと思われる。 (2)毛沢東の言ったこととやったこと 毛沢東が「大漢族主義」批判をしたのは、新彊ウイグル自治区ができた1953年ごろですが、この頃、中国共産党内部でレーニンの民族問題理論が学習された。レーニンは1914年12月に「大ロシア人の民族的ほこりについて」という論文を書いて、少数民族にたいするロシア人の対応を、謙虚であるようにしなさいと、説いた。 毛沢東の「大漢族主義」批判は、レーニンの「大ロシア人」への呼びかけをなぞったのだと思われます。 大西さんは、「毛沢東に帰れ」といったが、毛沢東の言ったことはよいが、行ったことは別に検討しなければならない。 (3)スライド20[右図]について チベットのところはわかるが、ウイグルのところは、よくわからない。チベットとウイグルはどう違うのか? ▲大西 (3)スライド20について 漢民族の労働者とウイグル族の労働者が対立しているような図になっているのは、うまくなかった。ここで言いたいのは、ウイグル族の労働者がウルムチ暴動の中心になっているが、かれらの不満が[民族差別ではなく]失業に対する不満だ、ということです。 (2)毛沢東の言ったこととやったことのちがいについて 本来、所収されなければならない「自治地区では党書記もまた少数民族であるべき」との毛沢東の見解が、その後隠されてしまった原因が、鄧小平時代の漢族主義的バイアスによるものなのか、後期、末期の毛沢東自身がその考えを捨てたのかについてはよくわからない。研究課題です。 ●太田仁樹 毛沢東の「大漢族」の「大」は漢族の少数民族にたいする横暴を批判する意味でつかわれている。これにたいして、レーニンの「大ロシア」の「大」は、「小ロシア」(ウクライナ)民族と「大ロシア」民族を区別するための「大」であって、民族的な価値の優劣を意味するものではない。コンスタンチノープルに近いか遠いかを表すものです。ヨーロッパでは「小アジア/大アジア」(アテネからの距離が近いか遠いか)のように大小という言葉を使う習慣があります。 ▲大西 (1)ソ連と中国の違い スターリン・レーニンの民族問題論について。 スターリン・レーニンの民族問題論は、それだけ読むと「階級」と無関係のように読めますが、わたしはやはり、マルクス主義の民族問題論は階級問題として理解されるべきだと思います。 ●太田仁樹 「左派マルクス主義者」というグループがあって、ローザ・ルクセンブルクとかブハーリンなどです。かれらは、プロレタリア独裁が世界中に実現すれば民族問題は解決されるので、マルクス主義者は階級闘争に専念すればよいと主張した。レーニンはこれに反対して「民族問題は階級闘争に還元できない固有の意味がある」としました。 ▲大西 わたしはやはり階級問題が根本だと思います。階級対立をかくすために民族対立問題が持ち込まれる、ということではないか。だから民族対立を抑止してはじめて、真の階級対立問題に対応できる。階級対立を階級対立としてちゃんと表面化させるためにも民族問題はきれいに解決されるべき----毛沢東の言うように民族抑圧はちゃんと解消されるべきと思います。 ●太田 レーニンも1910年頃までは、民族問題は階級闘争だけで解決できる、としていた。第一次世界大戦がはじまると従来の綱領では民族問題に対応できないことがわかり、勉強しなおした。それが「民族・植民地問題と帝国主義」に関する諸論文です。 ●司会(矢沢) 太田さんには9月9日の世界資本主義フォーラムで、民族問題をオーストリア帝国の崩壊とそれに対するマルクス主義者の対応にまでさかのぼってお話しいただくことになっています。本日の議論の続きは、またその時にできると思います。 ■終わりの言葉(世界資本主義フォーラム顧問・河村哲二) 中国の政治的現状を、西方化・毛沢東化・ナショナリズムの三つのベクトルのせめぎあいとして明確に分析していただきました。 また、現地調査を踏まえて、ウイグル族の現状についての日本や西側の認知バイアスの問題について、的確な議論をしていただいたと思います。 「階級関係」というおはなしがありましたが、中国の経済は限界に達しているようです。その中で階級対立というか、民衆の不満が先鋭化するのではないか。大西先生の今後の報告に、期待します。 本日は、ありがとうございました。 ■参加者アンケートから 質問への回答(大西) ●前田芳弘(聴覚障害教育経験者) これまでの学習の積み重ねが不足していて、毎回よく理解できないでいます。 ・マルキストだと立場を明確にして話をしていただいたので話が分かりやすく伺えたように思います。 ・日本も同様でしたが多数派漢民族の言語を少数派民族に強制する同化主義の言語政策は避けられないのでしょうか。 ・日本では、日本のアイヌや琉球に対する差別的な同化政策、大東亜共栄圏構想による被占領国への日本語強制などの反省から、手遅れのようだが、少数派に対する言語や文化に対する保護政策がとられています。中国では他国の歴史や反省から学ぼうとしているのでしょうか。 ・中国では漢民族人口が圧倒的に多く社会的にも優位に立ち支配的であるが、ウイグル族や他の少数民族の母語や文化の尊重がされているのでしょうか。 ・母語は、とくに、乳幼児期~学童期の子どもにとって重要です。ウイグル語の家族・近隣で育った子供にとって、ウイグル語の使用を制限することは、[さまざまなバイリンガル教育の実践結果からみて]漢語の習得にとっても不利になると考えられます。こうしたことは、配慮されていないのでしょうか。 ・漢語を知らなくて不利益にならないような支援政策などがあるのでしょうか。 事務局の矢沢さんが大変だと思いますが、よい勉強の機会になっています。 ◆大西 ・少数民族言語の保護は全体として弱くなっているという印象です。というのは、毛沢東時代には、申し上げた毛沢東の考え方があったうえに、国有企業・集団企業体制だったので、それぞれの民族が分け隔てなく雇われていたものが、私企業体制となって強い言語を話す民族が一方的に強くなる、そういう流れが強まったからです。 また、高等教育機関への進学での優遇もありましたし、一人っ子政策が採られるようになって以降も一人っ子政策の適用除外(緩和)もありましたが、少数民族と漢民族の言語的条件(たとえば今やすべてのウイグル族の若者は漢語を普通にしゃべれるようになっています)や学歴水準、それに出産動向の共通化の下で、民族別に政策を行うことへの反発が強まっており(普通の言葉で言うと「逆差別だ」となりましょうか)、少数民族を特別視する諸政策は弱くなっています。 この変化の一部には少数民族自身の意向の反映もあります。たとえば、大学進学で特別措置を受けると、そういうものとして世間に見られるので、それを嫌がって漢族になるとか、特別措置自体に反対するとかです。研究会の最中に発言した倪卉さんはその好例で、満州族として登録することもできたが、わざと漢族として登録したものと見られます。アイデンティティーはどちらかと言えば満州族でも、こうした事情で漢族を選択せざるを得ないことに本人たちも実は矛盾を感じています。 ・ただし、研究会で申しましたように、現在は内に向かっての漢族主義の強まりも強く、それは明らかに否定的現象です。いくらでもその事例を挙げることはできますが、ここでは省略します。 ・学校教育の中で、初等教育では少数民族語での教育が残っているとは言われていますが、実際は漢語オンリーにすごいスピードで変化しているのではないかと私は想像しています。が、考えてみれば、フィリピンの学校教育がすべて英語でなされているようなもので、それにもそれなりの合理性があると私は考えています。少数民族自体がそれを望む状況があると研究会ではいいましたが、そういう現状理解です。 ・私はもう28年間もウイグル族と付き合っていますので、弟子として京大時代に受け入れた学生がその後結婚し、子供を持ち、その子供が日本に留学して学生にまでなっているというようなケースもあります。ので、まさに赤ん坊の時代からどう育っていったかを継続的に見ていますが、少なくともウルムチに住むウイグル族は、自然とバイリンガルに育っているということです。 これを一度「どのアイヌ民族の人もどの元琉球民族の人も日本語を自由に操っているのと同じ」と表現しようとしましたが、正確ではありません。日本の場合、完全に「日本語」で統一されているのですが、少なくとも新疆の場合はバイリンガルに育っている、ということです。そして、そうなるには、町中に2言語の看板があり、テレビも2言語でやっており・・・という環境となっているというのが重要です。 上では「フィリピンのように」と書きましたが、どうでしょう、日本国内でインターナショナル・スクールに通う小学生などもいい例ではないでしょうか。彼らは日本語も一方では自由に話すが、もちろん英語もペラペラとなっているからです。要するに、2言語にともに日常的に接せられる環境にあるかどうかということで、モンゴルで小学校からの漢語での教育が問題となっているのは、モンゴルの草原で孤立して暮らす子供達にその環境がないことが摩擦の原因となっているのだと私は考えています。この結果、ウルムチ暴動が起きた2009年頃と違い、現在では若者世代に関する限り、また、内モンゴルの草原地帯でない限り、特に少数民族語を特別扱いすることなくとも、普通に彼らに不利益がないような状態になっているのではないかと想像しています。 なお、そうはいっても前田さんが想定されている視角・聴覚障碍者への特別の措置が必要なことは言うまでもないことだと思います。それがどのようになされているかについての情報はありませんが・・・。 ●氏名 高原浩之 [事前に講師に提出] ①「民族問題の本質は階級問題である」(スライドp18) これでは、抑圧民族、例えば漢族のプロレタリア階級を、他民族、例えばウイグルに対する抑圧に反対して闘争しなくても社会主義が民族問題を解決する、という立場に立たせる。中国共産党に代表される官僚ブルジョア階級に同調・屈服することになり、社会主義を実現することもできません。レーニンが批判した「帝国主義的経済主義」です。 民族問題は、階級問題とは別であり、抑圧民族のプロレタリア階級が被抑圧民族の自決権を承認することが、問題解決に最も重要である。しかも、階級問題解決にも有利に働く。 ロシア革命は、レーニン時代には、ツァーリ帝国の国境と領土を少数民族の「牢獄」と批判し、ウクライナなどに対して自決権を認めた(スターリン時代に事実上否定)。 中国革命は、毛沢東時代から、少数民族に対して自治しか認めず、自決権を否定している。少数民族を併合した封建的中華帝国の国境と領土を、「神聖不可侵」に受け継いでいる。民族問題ではロシア革命以下です。中国が、帝国主義と抑圧民族ではなく、植民地と被抑圧民族の立場であったことが原因でしょう。 「『民族融和』を進める」(p18)。こういう「融和」や「自治」で、自決権を否定する。これこそ、漢族によるウイグルやチベットやモンゴルなどの少数民族に対する民族的抑圧がある、大漢族主義がある、その最も重大な証拠です。 ・民族自決権は分離・独立の奨励ではない 分離・独立の扇動という反発は抑圧民族の立場 「中華民族」や「日本民族」の名で、ウイグル・チベット・モンゴルなど、琉球・アイヌなどを国家内に囲い込み、抑圧を継続したい。こういう漢族やヤマトの立場と願望です。 中国や日本を多民族が平等に共生する国家とするためには、少数民族に対して、希望すればいつでも国家的に分離・独立できる自由と権利を承認することが、絶対に必要です。 ②「日本の民族問題を解決して初めて『大漢族主義』を批判できる」(スライドp6) 肝は台湾と沖縄 台湾と沖縄が、中国と日本の支配下に入ったのは最近(清朝時代と江戸時代)、また帝国主義戦争に敗北して外国帝国主義に売り渡された、「帝国の狭間」、境遇が似ています。 現在、中国および米国・日本の覇権闘争が激化し、帝国主義戦争の危機が深まっています。焦点は台湾と沖縄。覇権と戦争に反対する闘争の中心になるのは、台湾と沖縄の自己決定権、現状維持=事実上の国家的独立であれ非軍事化=自治であれ、自主、でしょう。日中両国のプロレタリア階級にとって、それぞれに台湾と沖縄の自決権を承認することが、プロレタリア国際主義のカナメでしょう。 中国は、もう植民地でも社会主義でもない。官僚制国家資本主義と帝国主義に変質・転化した。天安門事件と習近平・全体主義が転換点。遠慮なく批判すべきです。(おわり) ●大塩 剛 (社会主義理論学会会員) (1)感想:西側が非難する「新疆ウイグルの問題」は、完全なデマであることは、様々な人が指摘しており、私も投稿したことがあります。西側の報道のソースの1つは、反中国派のアドリアン・ゼンツ(AdrianZenz)氏であり、もう一つは反中国の日本ウイグル協会(世界ウイグル協会)です。両者の主張は虚偽と誇張に満ちており、とても学術的な根拠に耐えるものではないのですが、東大教授阿古智子氏やヒューマンライツウオッチなどが引用しているのは困ったことです。 ▲大西 ありがとうございます。阿古氏と共同記者会見をしたのは「ヒューマン・ライツ・ナウ」ですが、今、調べてみますとおっしゃっている「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」も同様の立場に立っていますね。 私が思いますのは、彼ら少数民族もまずは貧困から脱却したいと必死で集団就職に応じたりしている。その気持ちや努力を理解せず、ただ批判することが「人権擁護」だと彼らが考えているということです。おっしゃるように困ったものです。ウイグルの知人をたくさん持つ私としては許せません。 (2)質問:少数民族が国家的に分離独立する権利を認める、また、実際に分離独立するか否かは少数民族自身が決める、との議論は問題を含んでいるように思います。 (a)「少数民族」というとき、それは先住民のみという意味でしょうか、移民者又は移植者も含むのでしょうか。 (b)「少数民族」は先住民のみであるとすると、そもそも先住民と移民者の区分けは可能でしょうか。 ▲大西 「少数民族」には「先住民族」以外の人たちもあり得ますので、このご質問は非常に重要です。 日本にとってアイヌ民族や琉球民族の人たちはそれぞれの地の「先住民族」であることは確かですが、歴史の経過で多数おられることとなった在日朝鮮人や新規の在留外国人の人権も非常に重要で、時には同レベルで扱う必要があります。 中国でも延辺朝鮮族自治州の朝鮮族は比較的新しい時代に移住したという話もあります。特に中国は過去の歴史が長々と記録されていて、ウイグル族も9C半ば以前には華北地域やチベット高原北部にいました。特にこの華北の時代は重要で、現在の華北地域のかなりの部分を支配していた――ウイグル族の祖先が支配民族として存在した――ということもあります。これは「各種民族が一体となって過去の中華民族を形成した」という際の重要な歴史でもあります。参考まで。

  • 12.9 福本智之フォーラム 事後報告

    目次 ■フォーラムの案内文書/1 ■フォーラムの経過/1 ■司会者(矢沢国光)の感想/2 ■参加者アンケート回答から/2 ■終わりの言葉(河村哲二)/5 ※講演スライドはこちらをクリック ■フォーラムの案内文書 ◆企画の趣旨 中国経済の「苦境」が伝えられます。一方では、地方政 府による土地を担保とする過剰な 金融拡 張→不 動 産 投 機 の不良債権化の重圧、他方では、アメリカが「(中国を共 同利害パートナーとする)ステイク・ホルダー政策からの 転換」→対中国経済分断政策(デカップリング)へと転換したことです。国内投資の減少や 若者の失業、さらには、一帯一路政策からの欧州諸国の撤退が伝えられています。 実際は、どうなのか?世界資本主義フォーラムでは、12月、中国経済について公正な立 場から観察・分析を進めてきたお二人の研究者に講演をお願いしました‥ 12月9日福本智之先生、12月23日丸川知雄先生です。 [世界資本主義フォーラム・矢沢国光] ●主催:世界資本主義フォーラム ●日時 :2023 年 12 月 9 日(土)午後1時30分~3時30分 ※いつもより時間が短いことにご注意ください。 ●開催方式:ZOOM によるオンライン ●テーマ :「中国経済の現状と課題」 ●講師:福本智之(大阪経済大学教授) 1966 年生まれ。日本銀行国際局総務課長、北京事務所長等を経て、2021 年 4 月より 大阪経済大学経済学部教授に就任。 著書 『中国減速の深層 「共同富裕」時代のリスクとチャンス』日経 BP 社 2022.6 ●参加方法:どなたも参加できます ■フォーラムの経過 午後1時 30 分開始。司会者(矢沢国光)による講師紹介の後、 1時 35 分~2時 50 分講師がスライドに沿って講演。 ※スライドは こちらをクリック 5分間の休憩後、質疑。 3時 25 分 終わりの言葉(世界資本主義フォーラム顧問・河村哲二) 3時30分 終了。 参加者 22名 ■司会者(矢沢国光)の感想 1 「短期動向」で、リチャード・クーの「バランスシート不況論」の話があった。中国 の成長鈍化の解明にこれがもてはやされていると言う。 2020 年代の中国の成長鈍化と 1990 年代の日本のデフレ経済の、共通性と異質性は何か、 大いに興味をそそられるお話であった。 日本の 1990 年代半ば以降の長期デフレは、株価・地価の上昇から(土地を担保とする金 融機関の融資の拡大によって)企業・家計が株式や不動産への投資に突っ走り、「資産バブル」 となった。トヨタのような一流の製造業会社も「財テク」に走ったことが話題となった。こ のバブルは、株価・不動産価格の暴落で崩壊し、大手の銀行・証券会社が相次いで倒産した。 企業・銀行の資産の不良債権化は拡大の一途をたどり、企業は、利潤を設備投資などの生産 に投資する代わりに、バランスシートの改善につぎ込んだ。 日本の製造業企業も、バブル崩壊で不良債権を抱えることになった。中国では、不動産関 連企業以外の企業でも本業以外の金融資産投機によるバランスシ ートの悪化が あ っ た の だ ろうか?株価の下落による「資産バブルの崩壊」もあったのだろうか? 2 「国営企業と民営企業のいいとこどり」という話は、なるほどと思った。「中国は、社 会主義か資本主義か」といった議論が抽象的で無意味なことを示している。というか、中国 に限らず、日本でも、鉄道・電力・原発は国有企業もしくは事実上の国有企業による。最近 では、経産省が半導体工場に巨額の政府資金を投入している。 3 習近平政権は「共同富裕」を改めて強調しているが、「共同富裕」を目指すことは「先 富論」を否定することではない、と福本先生は言う。「国営企業と民営企業のいいとこどり」 はわかるが、「先富論による共同富裕」となると、「共同富裕」の考え方が「経済成長→パイ の拡大」を基礎にしているように思える。他方では、「格差の拡大 」の阻止が「 共 同 富 裕 」 への道ともされる。ようやく「最貧国」から抜け出した中国にとって、「経済成長→パイの 拡大」はまだしばらく必要ということだろうか。 4 その「格差拡大」問題であるが、「格差」を大きくしているのは、所得格差ではなく 、 資産格差だという。ところが中国には、資産格差の縮小に役立つ相続税も固定資産税もない という。税制・財政による再分配や社会保障制度なしに「共同富裕」の実現は見通せないの ではないか。 5 米中対立問題では、バイデン政権サリバン安全保障担当補佐官の「小さな庭と高いフェンス」についての講師(福本先生)のコメントが印象的だった。アメリカは、対中国の自由 貿易から転換して、国家安全保障に関連する分野(「小さな庭」)では輸出や投資の規制(「高 いフェンス」)を始めた。ところが、これにたいして、アメリカ企業の側から悲鳴が上がり、 米中貿易の絶対額は減っていないという。ただ、「中国→米国」の直接の輸出から「中国→ ASEAN→米国」の輸出への転換が加速していると講師は言う。 アメリカは、貿易収支の赤字を中国や産油国からの「ドルの還流」でカバーしてきたが、 ウクライナ戦争など国際政治の変化でそれも危うくなっており、 製造業の国内 回 帰 を 必 死 に進めている。トランプ現象の基盤となっている「製造業労働者の不満・不安」が喫緊の課 題となっている。安全保障のための「小さな庭・高いフェンス」よりこちらの方がアメリカ にとって大きな問題になっているのかもしれない。 6 不動産バブル崩壊問題と米中経済摩擦問題は、12月23日の丸川知雄フォーラムで も引き続き論議されることになっている。中国経済の「危機」がいまにも習近平政権の足元 をすくうかのような乱暴な「観測」ではなく、中国経済の社会科学的な認識が、福本・丸川 両先生の連続講演で深められることを期待しています。 ■参加者アンケート回答から ●渡辺 均(長野県小海町) 9日の講座、先生の簡潔な指摘、コメントは大変、判りやすく受け止めました。 中国の出す資料類の信ぴょう性などにも適切な評価で、これから 中国の発表する数値の 取り扱い方にも、参考になりました。今までは、概して半信半疑で受け止めていましたが、 それなりに評価しなければ、と「思いました。 中国経済は、概ね低いながらも安定的に推移するように受け止めました。 以降のテーマかもしれませんが、語られた中国経済の動向が、これから日本経済に、或い は、中国経済の動向が、中国の対日本政策にどのように反映されるのか、といった視点での 先生の見解をお聞かせいただければ、と思いました。質問しようと思いましたが、時間など もあり控えました。 また、経済動向と、対台湾への動向がどのように差配されるのか、経済学とは位相の違う テーマになりますが、経済動向との関りをお聞かせいただければ、とも思いました。 ●椎名鉄雄 この度の先生のお話は大変勉強になりました。 私は、一人の老人に過ぎませんが、中国には関心を持っています。むしろ大きな期待を抱いていました。しかし、その期待がしぼみつつあるような感覚に襲われる時があります。独 裁的資本主義国になってしまったのかという失望です。特に共産党員、一部の富裕層と一般市民との格差は歴然たるものがあります。これが共産主義国の姿なのでしょうか。経済分析 手法も全く資本主義経済分析と同じようですね。 福本先生のお話で、少しは今の中国の姿が見えてきました。 感謝いたします。 ●安岡正義(ちきゅう座会員、大分大学名誉教授:18 世紀ドイツ文化専攻) 〔 感 想 〕講 師 の 福 本 智 之 先 生 に 心 よ り 御 礼 申 し 上 げ ま す 。豊 富 な 情 報 量 に 先 ず 圧 倒 さ れ 、政 策の変遷等も良く理解できました。 ところで私は定年退職前の約 5 年間、大学の国際交流の仕事に携わり、中国を計 5 回訪 問(ちなみにウクライナを 2 回訪問。3 回目はマイダン「革命」直後の混乱のためにキャン セル)しました。また 2016 年春には初めて台湾の大学に招待され、修士課程の学生を相手 にして「ドイツのマス・メディアに現れた日本(人)像」をテーマに集中講義を行いました。 その際に台湾の人々の日常生活の一端にも触れました。 専門家ではないので、個人的な体験を幾つか思い出してみると、蘇州のスターバックスで コーヒーを飲んだ際、日本円で約 600 円でした。高いなと思いつつ、この値段で営業でき ているのなら、市民の収入も高いのだろうと想像しました。全くの仮定ですが、生活に困ら ない層が国民の 1 割だとしても、実数は 1 億4千万人になるので、1割に「すぎない」との 判断は実態を歪めてしまうのではと思います。また蘇州空港まで 同行してくれ た 中 国 人 通 訳の話では、多くの市民が裕福になり日本旅行に行く人も多い、中国でも免税扱いで持ち帰 ることの出来る品物の個数には上限があるものの税関当局は実は 目をつぶる、 そ れ に よ っ て政府は意図的に消費者の欲望を黙認しつつ政府に不満が向かな いようにして い る 、 と の ことでした。また私の指導した中国からの女子留学生が、望ましい結婚相手として1マンシ ョンを持っている2自家用車、それも出来れば外車を持っている 3結婚したら ク レ ジ ッ ト カードを自分に渡してくれる男性、と言ったので少し驚いたことがあります。政府も、権力 の正統性を支える大きな要素として「民生の安定」(←これ自体は共産党の特徴とは言えな い)を重視しているようです。 〔 質 問 〕今 年 の 7 月 に ア メ リ カ の イ エ レ ン 財 務 長 官 が 中 国 を 訪 れ ま し た 。ア メ リ カ 国 債 を 買ってもらうための交渉が目的である、との報道がありますが、これは事実でしょうか?ま た事実とすれば、われわれはアメリカの「国力」をどう理解すれば良いのでしょうか? ●高原浩之 中国の「日本化」がテーマで、結論は「現下の中国の発展段階は一人当り GDP の向上余 地、都市化の余地などからみれば、90 年代の日本に比べてまだ『若い』。」(p19) こう理解しました。そうだと考えます。しかし、日本と比べるのであれば、バブルが崩 壊し長期停滞が始まった 90 年代だけではなく、70~80 年代から考えるべきでしょう。 日本だけでなく、米国・西欧も、高度成長の行き詰まりで資本輸出に向かい、現在の工業的空洞化と金融化とサービス産業化が結果した。労働者階級が増大し階級闘争が発展しながら、ケインズ主義の福祉国家に包摂されてブルジョア民主主義体制が成立していたが、現在、その空洞化が結果している。新自由主義によって労働者階級が経済的には上下 に、政治的には左右に大分裂している。レーニン・帝国主義論の言う腐朽性と寄生性。この傾向は、後発の資本主義・帝国主義にも共通する、一般的な傾向でしょう。そこで、現在、中国がどの地点にいるのかと考えたいと、「共同富裕と改革開放」(p38~61)および「米中対立とデリスキング」(p63~76)に注目したのですが、結論は分かりません。 中国が帝国主義化し、「一帯一路」でアジア・アフリカなど「南」を支配=覇権に組み込もう としているのは明白ですが、「北」の米欧日は金融―工業の関係だが、中国はまだ工業―資源の関係が基本で、したがって「世界の工場」はまだ続くのでしょう。国内的にも当面は「共同富裕」、つまり労働者階級が増大し階級闘争が発展するのを福祉国家で体制内に組み 込んでいくのでしょう。覇権闘争では、デカップリングでもデリスキングでも、「南」をバックにする中国に押されて、むしろ米欧日がブロック化に追い込まれるのではないか。 しかし、帝国主義である以上、いずれ中国は「南」と対立し、金融化して国内的な腐朽性 と寄生性を強め、その進行は先発の米欧日よりも速いでしょう。そのような問題意識で、 今回だけでなく、次回もフォーラムに参加します。(おわり)(2023.12.16) ■終わりの言葉(世界資本主義フォーラム顧問 河村哲二) 詳細な統計を示して中国経済の現状と課題について、お話しいただき、たいへん勉強にな りました。 中国経済はまだ大きな変化の途中と思いますので、またぜひ、お話しをお聞きしたいと思 います。 本日は、ありがとうございました。

  • 11.25 的場昭弘フォーラム 事後報告

    2023年12月7日 文責・矢沢 目次 ■11.25 フォーラムの案内文書 ■当日のフォーラムの進行 ■講師(的場昭弘)の報告 ■司会者(矢沢国光)の感想 ■質疑 ■終わりの言葉 ■参加者アンケート回答から ■11.25 フォーラムの案内文書 11.25 的場昭弘フォーラム「マルクスの世界史認識と革命 観の変遷」のご案内 ●主催 世界資本主義フォーラム ●企画の趣旨 世界史に対するマルクス・エンゲルスの認識は、資本主義の運動法則を抽出しようとした『資本論』とは異なって、「革命家」 としての「総括と革命の展望」であり、「革命観」と一体化した ものであった。 革命観が世界史の認識をどう深化させ、または制約したか、ぎゃくに、世界史の認識が革 命観をどう発展させたか。こうしたマルクス革命観と世界認識の変遷をたどることによっ て、20世紀の「マルクス・レーニン主義」の過ちと悲劇を総括する一助となるのではない か。また、「資本主義後の世界」を展望するためにも、一度、こうした視点から「マルクス 主義」を歴史的に振り返ってみることが役立つのではないか。 以上の趣旨で、「ジャーナリストとしてのマルクス」研究を続けてこられた的場昭弘先生 を講師にフォーラムをもつことにしました。 [世界資本主義フォーラム・矢沢国光] ●日時 2023年11月25日(土) 午後1時30分―4時30分 ●開催方式 ZOOM によるオンライン ●テーマ 「マルクスの世界史認識と革命観の変遷」 ●講師 的場昭弘(神奈川大学名誉教授) ●報告要旨マルクスは、1842 年からジャーナリストという職業について、ほぼ亡くなる(1883)ま でいろいろな新聞、雑誌に原稿を送って、それを生活の糧としてきました。マルクスが当時 のヘーゲル左派の人々とちがって、世界を現実的にしっかりと認識できたのは、思弁的では なく、ジャーナリストとしての現状認識が背景にあったからです。今回、マルクスの世界認 識の過程を、こうした視点から辿ることにします。 マルクスは、ヘーゲルの『歴史哲学』と『精神現象学』の世界史認識に大きな影響を受け てきました。その西欧中心的な世界史認識過程を、生産力と生産諸関係という現実から生ま れる歴史認識に変えたとしても、世界史を普遍史と考え、その世界史を分業と交通、世界貿 易という発想で考え、世界史は西欧の先進資本主義に主導されていくという認識は変わり ませんでした。 それを明確に示したのが、ブリュッセル時代(1845-48)の草稿の『ドイツ・イデオロギ ー』と『ギュルリッヒのノート』ですが、公表されたものとしては、『哲学の貧困』と『共 産党宣言』、そして『ブリュッセル・ドイツ人新聞』に掲載された記事です。 こうした認識は 1848・49 年革命の失敗後も継続し、『資本論』第一巻が書かれる頃まで は変わることがありませんでした。その間、マルクスは、『新ライン新聞』、『ニューヨーク・ デイリー・トリビューン』に記事を書きながら、そうした観点から世界を分析していきまし た。 もっとも、大英博物館で始めた経済学と新聞記事のためのノートをとっていくなかで、こうした世界史認識に次第に疑問を感じ始めたことは確かです。それが農業問題についての 認識でした。資本主義における農業をどう位置づけるか。資本主義に農業は包摂されるのかどうか。 この中で 1967 年以降、マルクスは農業問題、農業科学の問題に取り組み、次第に農業の 側、もっといえば資本主義の分業の中の原料生産と位置づけられている部門の重要さに気 づき、先進国からではなく、後進諸国から世界を見るようになっていきます。これらは、ナ ロードニキに近づき、チェルヌイシェフスキーやフレロフスキーなどの書物を読んだこと から、また具体的にはアイルランド問題についての記事を書いたことからも理解できるこ とです。後進国から見た世界史認識の登場です。 今回の報告はこの流れを、初期マルクスから後期マルクスへの世界史認識の変化と考え、 その変化の経緯をノート、新聞、著作などから分析することとします。 ●参考文献的場昭弘『マルクスから読む世界史講義』(教育評論社、2022 年) 的場昭弘『19 世紀でわかる世界史講義』(日本実業出版社、2022 年) ■当日のフォーラムの進行 前日の夜、講師の的場先生から長文の講演内容(Word 文書)が届いた。当日朝、参加者に 配布したが、おそらく事前に読んだ人は少なかったのではないか。 フォーラムは、的場先生に前半55分の講演。休憩をはさんで質疑に続いて、後半40分 の講演。そのあと40分の質疑。 的場先生の講演は、Word 文書を画面に表示しながらのお話であったが、読むより聞くほ うがはるかにわかりやすかった。[もっとも、用意された文書が長文なので、文書からの引用は1/3もできなかった。参加された皆さんは、じっくり文書を読んでフォローしてほし い] 参加者15名。 最後に、世界資本主義フォーラム顧問・河村哲二哲二氏の終わりのあいさつ。 参加者15名。 ■講師(的場昭弘)の報告・マルクスの世界認識と革命観の変容 はじめに第一期 1844-1848 年 主要作品から見る世界認識と革命認識 ギュルリッヒノート 第二期 1848-1867 年 歴史なき民族とインドの植民地化 西欧のロシア観 マルクスのロシア観19 世紀に出た偽書とアーカート第三期 1867-1883 年 リービッヒに関するノート 世界観と革命観の変化 ロシア観の変化 ザスーリッチ宛の手紙 おわりに はじめに 今私は、マルクスの伝記の執筆に取り組んでいます。全三巻で出版する予定で、今ほぼ第 一巻を完成しつつあります。第一巻、マルクスの誕生 1818 年から 1848 年革命(『共産党宣 言』)まで、第二巻は 1848 年革命から 1867 年(『資本論』第一巻の出版)まで、第三巻は 1867 年から亡くなる 1883 年までを対象にしています。 この三つの分類は、マルクスの世界認識の三つの区分に照応しています。第一の時期は、 マルクスが唯物史観を形成し、共産主義運動へと進んでいく時期ですが、この時期は西欧中 心的世界史認識を持っている時代で、それをヘーゲル哲学の上で理解したマルクスは、現実 の運動、生産力と生産関係、そして分業と交通という過程に落とし込んでいく時期です。そ の結実が、『共産党宣言』です。 しかし、この時期は 1848 年のフランスの二月革命によっていったん中断されます。少な くとも 1848 年までは、マルクスは共産主義者同盟と民主協会(イギリスでは友愛会)、そ して労働者協会と連携しながら、ブルジョワ革命という方向にいました。いまだ共産主義へ 到達するには早しと考え、制限議会である州議会にプロレタリアの選挙権を獲得してくれ るブルジョワ議員を送り、議会から革命を起すという方向を模索していました。ケルンの民 主協会とベルギーの民主協会との連携がその流れで、マルクスはベルギーの民主協会の副 議長をしていました。 なぜブルジョワ革命説であったのかといえば、革命は後進地域からは起こらない。それは ブルジョワとプロレタリアとの対立が明確ではないからです。彼の共産主義概念は、ヘーゲ ル哲学によって共産主義を実現しようという真正社会主義者や、職人の運動によって共産主義を実現しようという義人同盟の人々とまったくちがって、生産力と生産関係の分析な く、それは不可能という考えがあったからです。マルクスが主張した「共産主義は運動であ る」という意味は、現実社会の生産力と生産関係を反映するという意味でした。 これによると世界は、もっとも発展した地域から起こる。そのために、世界史を分業と交 通の歴史として考えます。その典拠となったのが、ギューリヒの書物で、それは 1000 ペー ジを越えるノートです。 しかし、こうした発想は、1849 年に崩壊し、マルクスはロンドンに亡命することになり ます。その頃からマルクスは、革命ということばと経済との関係をしっかりと考え始め、恐 慌と革命という考えを明確に出します。それと同時に、ブルジョワ革命とプロレタリア革命 の二段階説は蜂起し、ブルジョワ社会の発展とプロレタリア革命との関係に焦点を絞りは じめます。 ロンドンでの革命騒ぎから離れ、共産主義者同盟も解散し、ひたすら経済の分析を行いま す。それと同時に、経済問題を基盤にして、世界中の時事的問題を 10 年以上にわたって分 析します。こうしてイギリスにおける資本主義の発展、それとそれに照応したヨーロッパ、 アジア、アフリカ、アメリカの経済発展を分析し、資本主義の頂点のイギリスでの革命の時 期を恐慌の到来によって期待します。 『資本論』は、階級闘争の激化と、世界資本主義のイギリスを中心とした発展が展開され るのですが、実際にイギリスで起こったことは、むしろ「労働貴族化」や、人々の生活改善 であったことです。もちろん、それはイギリス以外の諸国、アジアやアフリカ、中南米での 帝国主義的搾取の増大による結果であったことも確かで、そうした中で資本主義の先進地 域では革命運動や共産主義運動が停滞していくことに気づきます。 そうした中マルクスは、ロシア問題、農業問題に注目し始めます。実際に書かれた書物の中ではなく、ノートの中で、そうした問題が彼の関心であったことがわかります。 現存の文献資料としては、彼の公表された著作、新聞の原稿、ノート、そして書簡の四つ があります。この中で、これまでほとんど知られることがなかったのがノートです。これは Werke 版にもなく、新 MEGA になって徐々に出版されてきたものです。1848 年までのノ ートはほぼ出版されていますが、それ以降はまだ不完全で、1867 年以降となるとまだ数冊 しか刊行されていません。こうした点から見て、1867 年以降についての彼の革命や世界認識の変化は、十分な論拠がそろっているというわけではありません。しかし、50 年前に比べると格段の相違といえ ます。 第三期は、『資本論』の翻訳を通じてロシア人との接触が始まり、ロシアの文献を読むた めにロシア語を勉強します。とりわけインターナショナルでのアイルランド問題が、大きな テーマとなり、発展途中の資本主義の問題が、次第に彼の関心の的になります。そして農業 共同体の意味、発展を拒む社会の意味を知ろうとマルクスは晩年膨大なノートをとるので す。 しかし、その間に発表されたものは少なく、彼の思考を生前未刊の『ザスーリッチへの手 紙』、あるいは『ゴータ綱領批判』などに頼るしかないという現状です。 その意味で、第三期は今のところ仮説の域を出ていないということになります。私が亡く なる前にノートが全巻そろえばいいのですが。私自身 IV/29 を担当していたので、その年 表だけは未刊でもわかるのですが。 第一期 1844-1848 年 ●主要作品から見る世界認識と革命認識 ここから具体的な内容にはいっていきます。第一期は文献的にはほぼ公刊されています。 マルクスが、西欧中心の世界史、そして資本主義的に発展した地域による世界史という概 念を最初に述べたのは、1844 年の『独仏年誌』に掲載された「ヘーゲル法哲学批判―序説」 です。 「だから、ドイツではフランスとイギリスで終わりはじめていることが、今日始まってい るということになる―――わが歴史は従来ただ罰として遅れた歴史の特別訓練を受ける課 題しかもっていなかったということである」(拙訳『新訳 初期マルクス』作品社、2013 年、 108-109 ページ)・ イギリスやフランスに対して遅れているのは、現実の経済であり、ヘーゲル哲学はむしろ 進んでいるとマルクスは述べるのですが、いずれにしろ世界の歴史は発展ということが存 在するという点では同じで、マルクスはここで資本主義的発展に遅れた国を認識していま す。こうして世界の歴史は一直線上にならぶ「世界史」になるのだという考えが出ています。 それが生前未刊の『ドイツ・イデオロギー』になると、かなりすっきりと資本主義による 世界史の発展として展開されます。 「さて、この発展過程で、現在に作用し合う個々の領域が拡大すればするほど、つまり 個々の民族性の原初的な閉鎖性がーーより成長した生産様式や交通形態によって、また(大 規模な)これらによって自然発生的にもたらされている諸国民間の分業によってーー(止揚) 廃棄されればされるほど、それだけますます歴史は世界史になっていく。例えば、イギリス である機械が発明され、それがインドや中国で無数の労働者から生活の糧を奪い、これらの 国々の生活形態を根本から変えるようになる場合、この発明はひとつの世界史的な出来事となる」(『新編輯版ドイツ・イデオロギー』岩波書店、77 ページ)。 生産力の発展によって、世界は世界史として一連託生で関係していくとマルクスは考 え、それを世界史と呼んでいます。こうなると先進と後進というランキングが出来、当然西 欧、とりわけイギリスがその先頭に立つことになります。 マルクス最初の著作である『哲学の貧困』ではこう書かれています。 「直接的奴隷制は、機械、信用などと同様、ブルジョワ的産業の軸である。奴隷制がなけれ ば綿花は得られない。植民地に価値を与えているのは、奴隷制であり、世界の貿易をつくり あげたのは植民地であり、大工業の条件と世界の貿易である」(『新訳 哲学の貧困』作品社、2020 年、p.91). 資本主義は世界を分業と交通によって結びつけ、先進国が世界を支配すると述べていま す。 そして共産主義者同盟の綱領、『共産党宣言』ではこう述べます。 「アメリカの発見、アフリカ航路によって来るべきブルジョワ階級に新しい領土がつくり出された。東インド会社と中国市場、アメリカの植民地化、植民地との貿易、とりわけ交換 手段や商品の増大によって、商業、船舶交通、産業は、かつて知り得なかったほどの飛躍を 生み出し、没落する封建社会にあった革命的要素に急激な加速をつけた」(『新訳 共産党宣 言』作品社、2010 年、44 ページ) マルクスは、この三つの著作で、世界はひとつの世界経済という体系をなしていて、それ は世界の地域の必然的な発展を示すものであり、遅れた地域といわれるものは、進歩してい る西欧資本主義の発展に規定されているのだということを語ります。 こうした考えは 1845 年以後マルクスの頭の中にできあがった史的唯物論というもので すが、これによって歴史は、階級闘争の歴史として進展していくと考えています。 ●ギュルリッヒノート こうした考え方を理解するためにマルクスは、ドイツの保護主義の経済学者のギュルリッ ヒの書物を丁寧に読みます。ギュルリッヒの保護主義に対してマルクスは批判的なのです が、彼の世界史、とりわけ世界の経済史に対する理解は、この全五巻の膨大な書物から来て います。このノートはマルクスの最大のノートで、『資本論』一巻以上の量があります。 マルクスのノートは、一般に通常数ページのもので、必要な箇所を抜粋し、そこにある ときはコメントを書くのですが、たいていはただ抜粋するだけです。 しかし、そうしたノートの中で特異なノートがこのブリュッセル時代に書かれたグスタ フ・フォン・ギューリヒの『現代のもっとも重要な商業取引国家の商業、産業、農業の歴史』 (全五巻)からの抜粋ノートです。その長さがほぼ『資本論』一巻分に相当する長さであるこ とが、まず異常です。これに匹敵するのが、1881 年に取ったシュレッツァーの『世界史』 からの年表の抜粋か(新メガ未刊の IV/31)、あるいは1878年のユークスの『地学マニ ュアル』(IV/26)しかありません。1846 年 9 月から 1847 年 12 月にかけて書かれたといわ れるノートですが、そのほとんどがこのギューリヒの著作に当てられています(一部フラン スの経済学者マリー・オージエ『古代以来の公信用とその歴史』(1842)もそこに少し入っ てはいますが)。 このノートは、『ドイツ・イデオロギー』をほぼ書き終わった頃から始められています。 その後、マルクスはプルードンの『貧困の哲学』を批判するのですが、ギューリヒはまった く利用されていません。ではなんのためにこうしたノートを作成したのでしょうか。 考えられるのは、マルクスは経済史を丹念に分析することで、歴史が生産力によって規定 されているかどうかを、具体的な歴史の中でみようとしたということでしょう。実際、プルードンを批判する際にも、プルードンの方法論の欠陥として歴史的分析がないことを批判 しています。すでにマルクスとエンゲルスは、歴史を決定する経済の役割を認識していたか らです。ただし、これには証拠が必要である。 ギュルリッヒはゲッティンゲン大学の私講師で、経済史の研究に生涯をかけた人物でし た。全五巻の作品は、1830 年から 1845 年までに出版されたものです。第一巻はフランス、 イギリス、オランダの歴史で、第二巻アメリカを含む非ヨーロッパの歴史であり、そこにド イツも含まれていまし。その後の著作で、世界へと歴史を広げていきます。 マルクスがこのノートを本格的に使ったのは、ブリュッセルで講演した「保護関税論者、 自由貿易論者、労働者階級」の冒頭で、彼を保護貿易論者の二つの学派、一つはリスト、も うひとつはギューリヒ、を紹介し、幻想的保護主義者と批判しているところです。もちろん 『資本論』でも第一巻で二回引用しています。 「彼らは保護関税制度だけでなく、本来の輸入禁止制度をも要求する。この学派の指導者 フォン・ギューリヒ氏は、大変科学的な商工業史を書いたことがある。それはフランス語に も翻訳されている。フォン・ギューリッヒ氏は真面目な博愛家だ。彼は手労働の保護、国民 労働の保護に大真面目になっている。よろしい!彼は何をやったか?彼はまず手始めにリ スト博士を反駁し、リスト流の制度では労働者階級の福利はみせかけにすぎず、空景気のき まり文句にすぎないことを証明し、ついで彼なりに次のような案を出した(割愛)。そうす るとどうなるか?外国の工業製品の輸入ばかりでなく、国内工業の進歩まで妨げることに なるのだ。リスト氏とギューリヒ氏はこの制度の両極をなしている。工業の進歩を保護しよ うとすれば、たちまち手労働が犠牲になる。労働を保護しようとすれば、工業の進歩が犠牲 になる」(『マルクス=エンゲルス全集』第四巻、312ページ)。 ここで取り上げられている話は、資本主義に後ろ向きのロマン主義的保護主義者の話です。 またそれはロマン主義的社会主義者の考えであり、マルサスを含む保護主義的古典派経済 学者と同じ考えとして上がられています。 もちろん、ここで五巻本の商工業史については、非常に高く評価しています。このように批 判したギュルリッヒから、マルクスが膨大なノートをとっていたなどとだれがそのとき理 解しえたでしょうか。 特筆すべき点をあげると、この書物はアフリカやラテンアメリカ、アジアといったヨーロ ッパの外にも目配りをしている点です。またマルクスは第一巻から読んだのではなく、五巻 から問題意識にしたがってノートをとっていたように思えます。 第二巻にあるインド、中国、日本の情況をこの本から抜き書きしています。それこそ国別 に見ていくと、マルクスは西欧諸国のみならず、北欧、南欧、ブラジル、ハイチ、フィリピ ン、ラプラタ(アルゼンチン)、チリ、ペルー、ボリヴィア、エクアドル、ヴェネズエラ、コ ロンピア、グアテマラ、メキシコ、トルコ、ギリシア、エジプト、モロッコ、リビア、アフ リカ東海岸、中央アフリカ、シリア、カシミール、ビルマ、シャム、コーシチナ、東欧のポ ーランド、モルドヴァ、ワラキア、ブルガリアまでギューリヒの書物からノートをとってい ます。 このノートからマルクスが当時世界をどう理解していたのかがわかります。それは、この ノートにある最後のまとめです。 「イギリス人にとって、東インドの木綿マニュファクチュアへの機械の利用はかなり危険 なものだったはずである。イギリスの労働者階級にとって、パンの小麦は、そのほかの国と 違って、たいして重要な消費部分ではなかった。彼らは肉、茶、砂糖などを比較的必要とし ていた。この階級の生活様式が変われば、イギリスの国家収入の巨大な額が失われることに なった。 フランス革命まで、フランスの外国貿易、とりわけ植民地商業は、重要な交易部門であった。 農業を台無しにしたために、他のヨーロッパの農民よりも、多くの場合貧しかった。アメリ カのスペイン支配の時代まで、貴金属は、大部分スペイン国王への献上、あるいはスペイン にいる鉱山企業家に流れた。この流入は、非常に大きなものであった。それは、植民地自身 がスペインのあらゆる商業部門に制限されており、そこで獲得された銀や金にとっての大 きな市場にならなかったからである。今では、貴金属の国内市場の発展が交易の拡大と、と りわけ合衆国との拡大によって大きくなっている。アメリカの金や銀は、かろうじて商業の 道でヨーロッパへ流れ、商品と交換されている。この交換は限られている。1)ヨーロッパ の製品などの多くが、以前のスペインアメリカの生産物、たとえばインディ―ゴ、毛皮など と交換されているということである。アメリカや外国の商人に、貴金属商品と比べて、こう した商品の輸出に際して得られる利潤を大きくしている。2)生産システム。3)アメリカの 銀のアジアへの輸出。船乗りたちは、貨物の往復を行おうとする。メキシコでこの荷物を必 ずしもおろさないため、かれらは船で受け取ったピアストル通貨でもって東インドと中国 に銀を送った。そこからこの船はお茶やそのほかのアジア商品を持った船をヨーロッパに 戻す。英国は多くの金をブラジルから受け取るが、しかしそれはポルトガルからとっていた ほど、もはやそんなに多くはない。ブラジルは、メキシコなどと同様、アジアとの直接の重 要な交易を行い、金と銀を多く送っている。 最近ヨーロッパ大陸では、商品交換を拡大する国は、とりわけとドイツように少ない。アメ リカの戦争がドイツの輸出を減らした。以前は多く輸出されていなかった穀物や木材が、今 ではリンネルとならんで重要な輸出品となっている。以前のすべての戦争において、ドイツ はフランス革命戦争のときほど、大きく金を流出していない。1815 年以来木綿製品の輸出 がもっとも重要になっている。 最近、英国の信用がドイツ産業を引き上げる手段となった。ドイツの貨幣業を行うイギリス 商人とドイツの貨幣取引、為替業者は、これを別の場所に移す方が利点であると考えている はずだ。ドイツの貨幣業の流出が起こると、貨幣制度の大きな混乱が起こる。イギリスがも はやその資本をヨーロッパの外の対象へ投資せず、イギリスの破局が突然起こるとすれば、 こうした流出は確かなものとなる」。(『新 MEGAIV/6,937 ページ) ギュルリッヒは、世界貿易の歴史を分析した後の結論として、ドイツ経済を守るためには、 国内に産業の保護が重要だという結論を出しますが、マルクスにとってそのことより重要 なことは、世界経済が先進国であるヨーロッパ経済のための分業になっていることでした。 今や世界は一蓮托生で相互にしっかりとつながっているというわけです。とりわけラテ ンアメリカはヨーロッパによるアメリカ大陸の発見以来、原料供出国としてヨーロッパ経 済と結びついたことを強調します。 マルクスは、ロシアについても同様に、この世界史からノートをとり、アジア的支配によ る衰退と、西欧による勃興という具合に、きわめて西欧中心的な史観で書いています。 ラテンアメリカやアジアに対して、1867 年頃までに十分関心が及ばなかったのは、まさ に資本主義の先進国の解剖こそ、後進諸国の解剖だと考えていたからでもあります。エンゲ ルスの「人間の解剖はサルの解剖」という言葉がありますが、よりすぐれた地域を分析すれ ば、それ以外の地域がわかるという考えは、マルクスを先進国イギリスの経済分析に向かわ せた理由です。 こうしてマルクスは、世界史を垂直的な発展構造ととらえ、先進資本主義国ではその結果 ブルジョワ階級とプロレタリア階級が成立しているが、後進諸国では生産力が低いことで 発展が進んでいないと考えます。共産主義が資本主義による階級闘争の結果もたらされるものであるならば、共産主義革命のためには資本主義が発展することが条件になってくる というわけです。 だからこそ、1848 年 1 月の民主協会での穀物法反対の論議の中で、マルクスは、それと はまったく反対に、自由主義運動を進めるべきだという衝撃的発言をするのです。 「諸君、われわれが通称の自由を批判するのは保護貿易制度を擁護するつもりなのだ、な どと考えてはならない。立憲政体の敵だと自称しても、だからといって、旧体制の見方だと 自称することにはならない。それにまた保護貿易制度は、一国民内に大産業を樹立する、い いかえればその国民を全世界の市場に依存させる、一手段であるにすぎない。そして全世界 の市場に依存するようになるやいなや、すでに多かれ少なかれ自由貿易に依存するもので ある。それだけではなく、保護貿易制度は一国内にある自由競争の発達に寄与する。ブルジ ョワジーが階級としてのさばりはじめている国々、たとえばドイツにおいて、保護関税獲得 のために彼等が大きな努力をはるのがみられるのは、このためである。彼等にとって保護関 税は、封建制度と絶対主義政府に対する武器なのだ。彼らにとってそれは、自己の力を結集 し、その国の内部に自由貿易を実現する一手段なのだ。しかし、一般的には、今日では保護 貿易制度は保守的である。これにたいして自由貿易は破壊的である。それは古い民族性を解 消し、ブルジョワジーとプロレタリア―トとのあいだの敵対的関係を極端にまでおしすす める。一言でいえば、通商自由の制度は社会革命を促進する。この革命的意義においてのみ、 諸君、私は自由貿易に賛成するのである」(前掲書、471)。 要するに、ブルジョワ階級とプロレタリア階級の敵対関係が極限まで進み、階級闘争と革 命が起きるために、自由貿易をあえて賛成するというわけです。 第二期 1848-1867 年●歴史なき民族とインドの植民地化 まさにこれと同じような発想は、『新ライン新聞』でも展開されます。有名な歴史なき民 族という言葉は、エンゲルスが使った言葉ですが、マルクスが編集長でそれを通したのです ので、マルクスも同じような考えであったことは間違いないでしょう。 「繰り返していう。ポーランド人、ロシア人、およびせいぜいトルコのスラブ人を除いて は、スラブ民族のひとつとして未来をもっているものはない。―――かつて固有の歴史をも ったことがなく、最初の最も粗野な文明段階に達したその時から外国の支配を受けている 民族、あるいは外国のくびきによってはじめて最初の文明段階に引きずりこまれる民族、そ うした民族は生存能力をもっておらず、どんな独立もけっして到達することはできないだ ろう。そしてこれがオーストリアのスラブ人の運命であった。チェコ人(われわれはチェコ 人という中に言語や歴史を異にしてはいるが、モラビア人とスロヴァキア人も含めたいと 思う)このチェコ人は、かつて歴史をもったことがない。――本来のいわゆる南スラブ族に ついてもまったく同じである。イリリアのスロヴェニア人、ダルマチア人、クロアチア人、 ショカーツェン(ショクチースラヴォニア地域の原住民)人の歴史は、いったいどこにある のか」(「民主的半スラブ主義」『新ライン新聞』『マルクス=エンゲルス全集』第六巻、27 1‐2ページ)。 革命の失敗への怒りが満ち満ちているので、割引が必要だとしても、資本主義の発展とい う観点から見て、東欧の諸民族は遅れていたことは確かで、そうした発想があったことは間 違いないでしょう。もっともチェコのプラハは中世において神聖ローマ帝国の首都でした し、クロアチアにもトミスラフ王国が短い間ですが、存在していました。 この問題は、やがてインド、ロシアと相手を変えながらも、ひとつの世界史的認識の型をつくっていきます。 『ニュ―ヨーク・デイリー・トリビューン』の記事の中で、マルクスはこう述べています。 「なるほど、イギリスは社会革命をヒンドゥースタンにもたらしたことで、最悪の利益に よって動かされ、その利益を強要するというやり方の点で愚かであったことは真実である。 しかし、それが問題なのではない。問題は、こうだ。人類は、アジアにおいて社会的状態の 根本的な革命なくしてその運命を充足することは可能かどうかである。もしそうでなかっ たとしても、イギリスの罪がたとえどんなものであろうとも、イギリスはその革命を押しす すめたことで歴史の無意識的道具となったのである」(1853年6月25日『ニューヨー ク・デイリー・トリビューン』『マルクス=エンゲルス全集』第九巻、127 ページ)。 アジアにおいて旧体制を崩壊させ、近代的資本主義をもたらすことは、たとえイギリスの 植民地であったとしても必要なことで、その限りにおいて、イギリスの支配は正当化される と主張しているのです。おそらく、資本主義が徹底することで、階級闘争が起き、それがイ ギリスの階級闘争と結びつき、共産主義への道を開くと考えていたのでしょうが、自由貿易 論と並んで、マルクスの世界認識、そして革命認識を規定していたのは、あくまでも西欧中 心史観、そしてそれが唯物史観にいろどられていたことは間違いないでしょう。 とりわけそうした意味でのマルクスの発想が顕著な形で現れるのは、ロシアに対する論 文です。 マルクスはクリミア戦争の頃、集中的にロシアに関する文献を読みます。それが新メガの IV/12 ですでに刊行されています。ほぼ 400 ページ近いノートがとられていて、とりわけ アーカート)を中心とする書物からの引用です。クリミア戦争についての記事を『ニューヨ ーク・デイリー・トリビューン』に送るという仕事もあったのでしょうが、スペインに関す るノートを含め大部のノートをこの時期にとっています(引用されているのは、アーカートの『西、北そして南におけるロシアの発展』1853 年、『一派に対するアピール』1843 年、 『危機』1840 年です)。 ここで注目しなければならないのは、イギリス人アーカートです。彼はとりわけイギリス において、イギリス内閣のロシア政策を批判し、徹底した反ロシア主義を主張し、新聞やマ スコミをたきつけた人物でした。 ●西欧のロシア観 18 世紀の歴史をつくりだしたのは、資本主義による西欧圏のヘゲモニーの増大です。そ れが、一方で民主主義と人権といったイデオロギーと結びつき、世界支配のための格好の道 具となってきます。ナポレオン戦争は、その意味で西欧のイデオロギーを示す格好の戦争で もありました。東方侵略戦争というのが実態なのですが、フランスから見れば、それは虐げ られた民族の解放、不当な皇帝の支配に悩む民衆の解放ということで語られる神話となり ます。その神話は、崩壊以後も民族独立運動、ツァー支配からの脱却としてその後も語り継 がれ、ナポレオン戦争の後のウィーン議定書は、国際法の施行と、国際均衡の世界を実現さ せ、ナポレオンの意味を高めました。 ちなみにナポレオン戦争は、ロシアでは祖国戦争といわれ、祖国を守ったという意味が付 与されています。だからナポレオンはロシアでは侵略者です。さらに第二次大戦でのナチス ドイツとの戦いは、大祖国戦争を言われていて、ドイツもナポレオンもともにロシアにとっ て侵略者となっています。 だからウィーン議定書は、ロシアやオーストリアの古い帝国支配を永続化させているだ けではないかという批判、またこの議定書破りをしているのではないかという批判が西欧 から出てきます。その対象は、とりわけロシアのツァー体制に向けられたのです。ポーランドは自治が認められることになっていたのに、ロシア支配地域ではそれが無視され、住民が 弾圧されている。ロシアは西欧とは違うアジアの野蛮な地域ではないかという批判が、あち こちからあがってきます。それが一八三〇年代以降、ロシアの脅威と結びつき、ロシア批判 が書物となって続々と現れたのです。 二〇一五年にオーランドー・ファイジズという人の『クリミア戦争』(上下巻、染谷徹訳、 白水社)という書物が翻訳されました。これはとてもよくできた書物で、ロシア側の資料も 見て、クリミア戦争の背景を詳しく描いています。 とくに言論が果たしたロシア批判が重要です。イギリスでもっとも反ロシアをあおった のが、デーヴィッド・アーカート(Urquhart)で、彼は後にマルクスと親しくなり、マルク スは彼の著作に大きな影響を受けます。アーカートとマルクスとの関係は、一八五〇年代初 めにマルクスが、公金を横領したという批判をとりけしてもらおうと、その新聞『デイリー・ テレグラフ』と訴訟したとき、やはり、イギリス政府からロシア問題でさんざんな批判と訴 訟をうけていたアーカ ―トに相談を持ちかけたときでした。この辺りのことについて、詳しくは、拙訳のジャック・ アタリ『世界精神マルクス』藤原書店、2014 年の 3 章を参照のこと。 ●マルクスのロシア観 マルクスは、ロシアとりわけツァ―体制を、遅れた資本主義の典型と考えていたこともあ り、ツァー体制を倒れ、ロシアの資本主義が発展することを期待していました。それとマル クス自身のなかにあったロシアのイメージの悪さでした。 そもそもマルクスのロシアに対するイメージはどう形成されたでしょうか。生まれ故郷 のトリ―アは、1794 年から 1814 年までフランスでした。後にプロイセンに併合されるのですが、一定のフランスへの親近感はあったと思われます。ナポレオンを追って、ロシアの コサックが町の中にはいってきたときの報告があります。 「コサック兵は、なまけものーコサックはなんと下劣な人間だろう。彼らにも一応宗教は あるように思えるーしかし所有や人格にかんして注意を払わないし、仲間意識もないし、哀 れみもない」(拙著『トリ―アの社会史』六〇ページ)。 多くのフランスやドイツでのロシア人のイメージは、このとき、すなわちナポレオン戦争 のときの、野蛮さで色づけされていったのです。これが印象に残っている姿であったと思え ます。 またマルクスのロシアへのイメージは、バクーニンという知り合いにもありました。1844 年 3 月パリでマルクスはこの人物に出会います。最初はいい仲だった二人が決裂したのは、 パリでトルストイという、あの『戦争と平和』の文豪とは全く違った二人の人物にありまし た。バクーニンからマルクスに紹介されたのは、スパイのトルストイで、マルクスはその紹 介者のバクーニンもロシアのスパイだと思ったわけです。本当はもうひとりのトルストイ を紹介するはずで、バクーニンはスパイではなかったのですが、これがきっかけでバクーニ ンをロシアのスパイだとずっと勘ぐることになります。 その頃、ポーランド独立問題を議論していた真最中で、マルクスはロシアを批判しながら、 ロシア人への不信の目を向けるのです。1848 年には、マルクスは『新ライン新聞』紙上で、 本当にバクーニンをロシアのスパイを断定するのです。 その頃、『新ライン新聞』での話題は、ウィーンの革命を台無しにしたオーストリア勢力 批判で、ロシアがオーストリアの裏にいることをつきとめ、その背後のロシア勢力の拡大を 画策するスラブ主義者勢力がいると判断し、バクーニンを中心としたスラブ主義者を批判 するのです。 マルクスのロシア批判は、アーカートと知り合うことでさらに悪化していきます。ミクロ ス・モルナルは、非西欧とマルクスとの関係を扱った書物で(Mikolas Molnar, Marx Engels et Politique Internationale,1975)で、二人が接近したのは、このロシア嫌いという共通点か らであったからだと主張しています。マルクスは、アーカートが編集した外交記録集を熱心 に読んでいます(Portfolio:or Collection of State Papers, Illustrative of our times, London, 1936-37)。 マルクスは、ロシアを非西欧の遅れた国と考え、その国の資本主義化を促進し、民主化せ ざるをえないと考えていました。これは、ロシアに限らず、あるときはクロアチア、インド、 中国に応用され、後にオリエンタリズム的思考だと批判されるべき内容を含んでいました。 それは当時執筆中であった、『資本論』の第一草稿である、『経済学批判要綱』の中にも現 れ、「資本主義に先行する諸形態」としての共同体が問題となり、遅れたものとしてアジア 的共同体が問題になり、その中のひとつにロシアの共同体が位置づけられていました。共同 体的所有が私的所有に変わらないところでは、個人の人格が発展せず、専制支配が一般化す るというわけです。 アーカートが編集していた新聞に、マルクスの論文「18 世紀の秘密外交史」が掲載され ます。彼はここでこう述べます。ロシアは、非西欧的国家であり、モンゴル的国家である。 ロシアの外交は野蛮なアジア的外交であると。そしてロシアはアジア的侵略性をもってい ると、そのロシアとイギリスが実は一八世紀以来深く関係しているというのです。この記事 をソ連はマルクスの全集にいれなかったのは、ひとつはその史料の信憑性に疑問があった からでもあります。 問題は、こうしたマルクスの考えは、当時多くのイギリス人やフランス人がもっていた偏 見をそのまま表現したものでもあったことです。ここでそうした思想の原因になった著作をいくつかみていきます。 ●19 世紀に出た偽書とアーカート フランスのナポレオンの敗北は、ある意味王侯貴族にとって、王政の復活であり、ヨーロ ッパの安定の復活だったのですが、一方で大きな不安が残ります。それがロシアという国の 野蛮さと強さです。マルクスと一緒に『独仏年誌』を編集したアーノルト・ルーゲはパリに 現れたドイツ人が、美しく繁栄しているパリを見て、勝利者の喜びではなく、一種の絶望に 陥ったという話を書いていますが、ロシアのピヨトルもなるほど、西欧社会の発展に目を見 張り、絶望し、それをまねようと考えていたわけです。 19 世紀のロシア観を決定づけたのは、19 世紀に発見されたピヨトル大帝の遺書というも のが出版されたことです(The Testament of Peter The Great)。この書物は、1812 年、ち ょうどナポレオンのロシアへの攻撃が始まった時に出版されました。この書物は、ロシアが 世界支配を企もうとしていることを立証するもので、ピヨトル大帝は、西欧支配という壮大 な計画をすでにもっていて、この計画を阻止しなければ、西欧はロシアの支配に屈するとい うものでした。こうした偽書は一種のプロパガンダのようにしばしば出てくるもので、たと えば、ユダヤ人の陰謀説の論拠となった『シオンの議定書』などがありますが、たいていは 当時の世論にしたがって、都合良く書かれたもので、偽書が多いのです。 とりわけギリシア戦争の後アドリアノープル条約(1829)によってワラキアやモラビア を支配したロシアに対し繰り返し、ロシアの陰謀を非難する書物が、三〇年代に出現します。 そうした書物のひとつが、マルクスと知り合いでもあった、アーカートの『ロシアとイギ リス』でした。これは 1835 年に出版されたもので、ヨーロッパは二つの世界に分裂してい ると主張します。まさに西欧の敵はもはやトルコのイスラム圏ではなく、同じキリスト教の東方正教会ロシアであると宣告します。アーカートはギリシア独立戦争に参加し、トルコに 魅せられ、トルコ風の生活を始めた風変わりな人物でした。イギリスの使節団としてコンス タンチノープルに派遣されたのですが、ロシアを挑発する行為を繰り返したことで、本国に 召還されます。マルクスが大英図書館で読んだ『ポートフォリオ』なるものも、そのほとん どアーカートの創作物だったとも言われています。 彼が主張している次の文章は、今もロシアについて繰り返し西欧で語られている議論の 基礎をなしているものです。これはマルクスが影響を受けた『ポートフォリオ』の文章です。 先ほどのオーランドー・ファイジズから孫引きします。 「ロシア国民はその無知蒙昧さによって他のすべての諸国の国民と明確に区別される。ロ シア人は彼らの支配者の不正が外国の批判にさらされるたびに、自分たち自身が攻撃され たと感ずる国民である。しかも、ロシア政府は外国からのいかなる道徳的批判も決して受け 入れないことを法律によって宣言しているのである」(上巻、一三三ページ)。 アーカートは、こうした発言によって、イギリスで大変な人気となり、再度コンスタンチ ノープルの大使館に外交官として派遣されます。やがてコーカサスへの軍事侵攻計画を企 てたとして再度召喚され、外務省から解雇され、パーマストン首相から秘密を流したという 罪で告訴されるのですが、今度は『ロンドン・タイムズ』を味方につけ、首相批判を始め、 イギリス下院議員に当選し、反ロ政策で大きな力を持ち続けたわけです。 マルクスも 1853 年ちょうどクリミア戦争がはじまったころ、この人物をエンゲルスから 言われて知るようになりました。アーカートは、マルクスが彼のロシアとイギリスの陰謀説 を支持してくれることを知り、『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』のマルクスの記 事を賞賛します。もちろんマルクスもアーカートを一種気が狂っている人物ではと疑って はいたのです。やがて、この人物の狂信性についてまわりの人物から諭され、「彼についてはまったく仲間などではなく、パーマストンに関する以外彼とのなんの共通性もない」と主 張することになります(拙稿「マルクスとクリミア戦争 今に残る西欧的偏見の問題として」 『環』藤原書店、五八号、二〇一四年を参照)。 マルクスのロシア嫌いは、彼の理論としてもある意味正しかったと思えます。すべてが西欧 的資本主義から発展するという考え方に初期は左右されていたからです。ヘーゲルを学び、 唯物史観を発展させる中で、アジアやアフリカの地域が西欧的発展に追いついてくること を期待するしかなかったともいえます。そうした文献を初期には盛んに読んでいたわけで す。その中で、当時の世論は、反ロシアで高まっていました。 そんな中、一八四〇年代最初の労働運動として、ベルギーのブリュッセルの民主協会の運 動に参加し、その大きな議題が、ベルギーのフランドルの独立であり、その独立を支持する ために、ポーランドの独立支持が民主教会の中心の運動になったわけです。 そこで、西欧の民主化のためには、ロシアというツァー独裁国家からヨーロッパを守らね ばならないという考えが出てきます。それは、まずは資本主義の発展を進め、遅れた地域を 資本主義化しなければならないという問題でもあります。だからこそ、自由貿易賛成を謳い、 ブルジョワ政党とも共闘するという政策へとマルクスは進んだわけです。そんな中、ブルジ ョワ革命は敵ではなく味方であり、敵はそれを阻止するロシアやオーストリアなど野野蛮 なアジア的体制であるということ考えが出てきます。 一八四八-九年革命を破滅へと追いやったのは、資本主義ではなく、資本主義化していな い旧体制に原因があったという考えは、その後一八五〇年代も継続していきます。そこで、 その後書かれる彼の論文の主題が、非西欧の資本主義化であったのは、至極当然であったと もいえます。 その意味で、共産主義者同盟というプロレタリア共産主義者の組織と、ブルジョワ組織である民主協会や友愛協会という組織が、共闘し、その中にマルクスもエンゲルスも積極的に 参加していたことが理解できます。 第三期 1867 年―1883 年 マルクスは、『資本論』のためのノート作りの中で、次第に非ヨーロッパに対して、それ までの観点を批判するようになっていきます。特にそれが農業問題と化学との関係で問題 になっていきます。 全般的な資本主義化は可能なのかどうか、資本主義に抵抗する農業はありえるのかどう かについて、農業のもっているエコロジー的問題にマルクスは関心を持つようになってい きます。 ●リービッヒに関するノート マルクスのこうした先進国革命に対する思考変化の決定的な要因は、ナロードニキとの 接触、ロシア語の学習、アイルランド問題ですが、マルクスは 1860 年代から農業に関する ノートをとっていました。このノートから彼の微妙な思考変化の後を辿ることにします。 1849 年以後のマルクスとエンゲルスのノートはまだ完全に出版されていませんが(とり わけ 1870 年以降の晩年のマルクスのノート『新メガ』IV/19 から IV/31 まで)、最近 1860 年代後半のノートの一部が出版されました(IV/18)。そこにリービッヒのノートがありま す。リービヒは、『資本論』にも第一巻で、合計 5 回引用されています。 特に第三巻では、南アメリカのチリと思われる地域の労働者についてこう言う記述が引 用されている。これはマルクスのノートからの引用です。 「南アメリカの鉱山労働者の毎日の仕事(おそらく世界中での最重労働)は、重量 180-200ポンドの鉱石の荷を、450 フィ―トの深部から、肩で地上に運び出すことであるが、彼らは、 パンド豆だけで生きている。彼等は、パンだけを食いたいのであろうが、パンでは、彼等が そのように激しくは労働しないことを知っている彼等の雇い主は、彼等を馬のように扱っ て、豆を食うことを彼等に強制する。しかし、豆はパンに比して燐酸石灰に富んでいるので ある」(『資本論』第一巻、向坂訳、岩波文庫、第三巻、112-113)(新 MEGAVI/18,S.160)。 リービヒの最も重要な内容は、農業の生産物が、都市と農村との対立、そして農村の疲弊 をもたらすという点にありました。とくにイギリスでは、南米の鳥の糞グアノを肥料として 大量に輸入することで、イギリスの土地が痩せることを回避していました。南米の肥料を使 うことで、都市の栄養分を補給するということは、南米を疲弊させていくことでもあります。 イギリス自体では、農村部の滋養は都市で消費され、そのまま川に棄てられることで、都市 と農村との間には栄養分に関する搾取が存在しているわけです。こうして先進地域が後進 地域の農業、また都市が農村に依存することで、資本主義には大きな問題が生じています。 初期にはこれは、西欧諸国の世界に対する分業の押しつけとして世界史の発展の重要な 問題として提起されていました。だからこそ、こうした後進地域は、やがて農業から工業へ と変化し、世界が工業化、そしてプロレタリア化していくという論理構成でできていたわけ です。 しかし、マルクスは農業を研究することで、資本主義化できない農業の問題に到達します。 それは後進地域の農業がやはり原料を生産する過程で、資本主義化できない農業の本質を 支えていることです。人口増大が食糧の増大に関連しているとしたら、それは農業に関係し ている。農業が貧困化することは工業が貧困化する過程です。 農業は、農業として留まらねばならない。工業を拒むエコロジー上の問題があるというわ けです。マルクスは地学と化学を晩年学び、この問題に注目します。 『資本論』では日本の話がいくつかでていますが、その中でも日本の排便のはなしはリー ビヒを語るとき大きな問題となります。『資本論』ではこう書かれています。 「この分借地は家から遠く、家には便所がない。家族のものは、彼等の小耕地まで行って 排泄するか、または汚い話だが、ここでは実際に行われるように、戸棚の抽斗に用便するか、 せねばならない。抽斗がいっぱいになれば、それを抜いて、中身をそれを必要とするところ に棄てる。日本でも生命条件の循環は、もっと清潔に行われている」(前掲書、3 巻、303 ペ ージ)。 マルクスは、マロンの『日本の農業について、ベルリンの農業問題大臣への報告から』 (1862)という書物によって、日本の農業が循環的であることを問題にしています。ここで 日本の農業がいかにすばらしいかが語られます。そこでは排便と肥料、そして農業生産が循 環的に行われていることが書かれています。マルクス次のように引用しています。 「日本の農業の気候は、中部ドイツと北イタリアとのあらゆる段階を含んでいます。農業 は、農民と小農民の手のうちにある、――イギリスと反対に、「牧草もなく、飼料の倉庫も なく、家畜もまったくおらず(用益したり、牽引したりする)、グアノの供給もなく、骨粉 もなく、硝石もなく、油かすもなく、日本の土地は、とても素晴らしく耕作されている。継 続的下肥がなくては、生産ができていない。」(新 MEGAIV/18,183)。 「日本人は、中腰の姿勢で、単純で、長い四つ角の穴の上で、排便する。入り口のドアを 入ると、横ぼうが渡してあり、排便は、下の穴に吸い込まれ、貧しい小農民によって掃除さ れるのである」(184)・この便所の記述は正確で、事細かに書かれていますが、要するに日本の農業には、都市と 農村と滋養による搾取関係がない。循環しているということです。 その意味では、非資本主義的農業は、資本主義そのものに危機を与えるものをもっている。 それは原料生産という自然をもつことでもっているある種の強みが彼等にあるかです。農 業は原料として、労働者の食料として資本主義のプロレタリアートを支えている。こうした 支えがなくなると、資本主義の存立すら危うくなる。その意味では農業国は切り札である、 食糧と原料生産というものをもっていることになります。 マルクスは、この頃から農業問題、そして地質、化学を本格的に学び、農業を無視した資 本主義はなりたたないということを考え始めます。とはいえ、彼がこうした問題から書いた 書物も論文もないことは確かです。あるとすれば、ザスーリッチの手紙や、これまでの書物 への後書きといったものです。だからその世界史認識がどうだったかは、実際のところわか りません。 しかし、こうした認識から世界史の発展を見れば、ギューリヒのノートや『共産党宣言』 のような西洋中心的、資本主義の宗主国中心的歴史にはならないだろうし(資本の文明化作 用)、また資本主義の宗主国の革命が世界の革命をつくるなどとは書かないでしょう。それ だからこそ、彼は彼が資本主義の発展した国から共産主義に移るという漠然と描いていた 考えを変化させざるをえないと考えたことでしょう。 革命はどこから起こってもいい。それは革命が資本主義という世界の分業にたいし、大き な影響を与えるからであると考えていたからです。 そう考えると、遅れた国の革命運動は資本主義の発展を待つ必要はないということにな ります。そして 20 世紀に起こった世界中の革命運動が、なぜ資本主義化してない地域で起 こっていったのかも、理解できるようになると思います。 ●世界認識と革命観の変化 このノートは 1864-65 年で、まだ『資本論』一巻を執筆していた最中で、後のアイルラ 28 ンド問題やロシアの共同体の問題ほど明確に意識されていなかったとしても、こうしたノ ートをとりながら、少しずつ資本主義化されない農業のもつ意味について考察しつつあっ たと思われます。 『資本論』では、最終章のアメリカの植民地としての問題となり、アメリカではなぜ労働 者が増えないのかという問題を考えています。もちろん、社会関係が資本主義化されていな いという点で否定的に見ていて、農業が資本主義の規定していくのだという逆の側面では まだ見ていません。 しかしアイルランド問題(1867 年)の演説になると、アイルランドの独立運動を支持し てこう書いています。 「1846 年以来、それ(圧迫)が形式的には野蛮さを減じているとはいえ、実質的には根 絶的なものであり、イギリスによるアイルランドの自発的な解放か、生死をかけての闘争か、 そのいずれかよりほかの出口を残さないものだということである」(『マルクス=エンゲル ス全集』16 巻、437 ページ) アイルランドはイギリスにとって不毛の土地として、完全に発展を阻止されてしまった がゆえに、独立への闘争が必要だというのです。 ●ロシア観の変化 そしてそれはそのままロシアの問題として提起され、資本主義化されえないロシアの農 民がいかに資本主義に革命的影響を与えられるのかという問題として現れています。 一八六八年年はじめ、ロシアから『資本論』の翻訳をしたいという申し出を、マルクスは突 然受けます。その手紙の主はダニエリソンで、彼は一巻のみならず、二巻も翻訳したいとい い、さらに写真や伝記についても送ってくれるよう問い合わせてきます。彼は二四歳というとても若い青年でした。マルクスは、いつも批判してきたロシアが、『資本論』最初の翻訳 国になることを知って、運命の皮肉だと考えます(和田春樹『マルクス・エンゲルスと革命 ロシア』勁草書房、一九七五年が詳しい)。 やがて、ダニエリソンは、ロシア語のフレロフスキーの『ロシアにおける労働者階級の状態』 という五〇〇ページを超す大作をマルクスに送ってきます。マルクスはこの本に興味をも ち、一八六九年一〇月からロシア語の勉強を始めます。フレロフスキーに関心をもったのは、 スラブ主義者が述べているように、共同体礼賛に対して厳しく批判を展開していたからで す。当然ながら、マルクスは、資本主義的発展はすべからく西欧的道を通ると考えていたの で、ロシア人がいうスラブ的な問題は、無視していいと考えていました。 マルクスはその流れで、ゲルツェンと論争を繰り返していたチェルヌイシェフシキーとフ レロフスキーを、マルクスの宿敵バクーニン、そしてゲルツェンなどのスラブ主義者との対 抗に利用しようとして考えたのですが、そのうちに、ロシア的ななるものの特殊性にどんど んはまっていきます。当時第一インターのバクーニン派との闘争、マルクスを良く思わない ゲルツェンとの闘争において、彼らを批判するチェルヌイシェフスキーは格好の材料であ ったわけです。 やがて一八七〇年にロパーチンがマルクスの家を訪問します。このロパーチンこそロシア 語への『資本論』の翻訳を担当することになる人物だったのです。 その彼がマルクスに紹介した書物が、チェルヌイシェフスキーの『J.S.ミル経済学原理への 評注』でした。 とくに彼が関心をもったのは、資本主義への移行が、その国の事情によってことなるという 部分でした。資本主義への移行は必然だが、それはそれの国がおかれた情況によって変化し ていくという内容は、マルクスの思想を動かすに足る部分だったわけです。その情況とは、その国独特の制度ではなく、その制度が、どのように先進的資本主義の影響を受けるかとい う問題でした。 一八七一年『資本論』ロシア語訳が、初めての外国語訳として出版され、マルクスとロシ アとの関係はますます深くなっていきます。ドイツのハクストハウゼン(これについて肥前 栄一『ドイツとロシア』未來社、1986 年参照)がロシア調査の上で、農村共同体の未来を、 やがて崩壊するもの考えていたのに対し、チェルヌイシェフスキーは、それに反対し、この 農村共同体と資本主義への発展の関係について、資本主義への移行のスピードが後進地域 の方が早いという問題として捉えます。つまり、西欧の資本主義は、後進的に地域の影響を あたえるがゆえに、その発展が西欧と同じにならないということです。だからその発展は、 西欧の影響を受けつつ、まったく違った形になるという考えです。 つまり、ロシアは遅れているがゆえに、資本主義への移行も急ピッチで進む。それは西欧 の資本が流れ込んでくるからです。急ピッチであるがゆえに、共同体も十分に破壊されて資 本主義に移るというよりは、破壊されない形で形態を変え、それが資本主義から社会主義へ の変化においても残っていくのだと主張するわけです。 おそらくこうした発想は、マルクスが若い頃から抱いてきた、遅れた地域の発展は、不十 分であるがゆえに、進んだ地域からの影響をうけることで一気に進み、それは先進地域より もより急激に進むという発想の延長線上にあったからかもしれません(たとえば「ヘーゲル 法哲学批判序説」など)。マルクスの歴史的発展の法則は、単純に遅れた地域がその後を追 うというのではなく、むしろ進んだ地域の影響をうけることで、先進国以上に、資本主義化 が加速化して進展し、それがまったく先進国と違う道をとおるということです。 こうした発想の中で、その頃、マルクスは『資本論』(1875)の仏語版を分冊で出し始め ます。そして本源的蓄積について、発展の形式についてそれは西ヨーロッパだけを対象にしたものであり、それ以外を対象にしていないとまで述べることになります。それは、後進地 域は、先進地域の発展に影響されることで、先進地域と同じ発展をとらないからだと考えは じめます。 しかし、この問題は、マルクスにとっていまだ十分な研究に裏付けされたものではなく、 彼が公に発表することはありませんでした。ただ、少しずつ西欧とは違う発展について、非 西欧的共同体の研究を進めることで、問題に本質に迫ろうとしてきたのではないかと思い ます。その結果のひとつが、ザスーリッチへの手紙です。 ●ザスーリッチ宛の手紙 マルクスのロシア論にとってもっとも大きな影響をもっているのは、ナロードニキのヴ ェラ・ザスーリッチ宛の私信です。これについては、すでに私は以下の書物を書いています。 的場昭弘編『マルクスから見たロシア、ロシアから見たマルクス』五月書房、2007 年です。 その序文が私の論文「マルクスのロシア観」です。 このザスーリッチの手紙は、七〇年代の研究のひとつの成果を示すものかもしれません。 この手紙には四つの草稿があります。手紙それ自身は非常に短いもので、結論部分だけです。 その結論部分は、ロシアの共同体は、西欧の共同体のように解体せず、ロシアの社会再生に 資する形で発展する。ただしそこには条件がある。その条件とはそうした共同体の崩壊を強 要していく勢力との闘争に勝利することができればということでした。 草稿を見ると、こうした結論にいたる詳しい内容が書かれています。西欧での農村共同体 は、私的所有が一般化していることで、次第に崩壊していったのだが、ロシアでは私的所有 すらないことで、その崩壊は簡単に進まないのだと展開されています。そしてそれは西欧的 なものではないロシア的問題として展開されています。 先進国と接触する後進諸国の発展は、どういう形で発展していくのかという問題でもあ り、それらの国が急激な資本輸出や交通によって資本主義国に組み込まれていく場合、それ らの地域にある資本主義以前の制度はどうなるかという問題の提起でした。 ゲルマン的共同体は、耕作地の私有地化と森林の共有地化に特徴があり、それは森林をも やがて私有地化というかたちへ進んでいくのですが、共同体のように私有地のないところ では、私有地化への反対が農民から起こり、それが私有地化を遅らせていくというのです。 ロシアでは土地の私有のみならず、その耕作における労働も協同型(アルテリ)であること で、私有地化は簡単には進まないというのです。むしろそうであるがゆえに、共同体は崩壊 せず残存し、資本主義を飛び越えて社会主義への進む余地を残しているといいます。 もちろんこうした共同体には、当然欠陥があるというのです。それは共同体と共同体とが ばらばらでいとなまれていて、そうであるがゆえに、巨大な専制的独裁権力がその上に位置 し、それを利用することによってツアーの国家体制ができているという問題です。それを避 けるには、共同体相互を束ねる農村共同体の会議が必要だというのです。 この点において、マルクスは、ロシアの共同体が資本主義の抵抗勢力となると同時に、未 来社会への架け橋にもなるという期待をもっています。 しかし、それはあくまでも期待であり、ここには大きな留保条件がつけられています。ロ シア全体の資本主義のける位置関係の問題です。ロシアが資本主義にたいし、消極的な保護 主義をとり続けるかぎり、農村共同体は、かえってツアー体制の搾取の対象となり、共同体 の未来の可能性よりも、共同体がこうした体制のための基礎をつくるだろうというのです。 だからこそ、ロシアは農村共同体を一方での利用することで、より封建的な関係を維持して いるわけです。しかし、他面で資本主義化を一気に進めるということも西欧列強の圧力の中 でうまれていて、その場合農村共同体は一気のロシアから駆逐される可能性も秘めているわけです。 未来への可能性を残しつつ、一方でロシア権力に牛耳られ、ロシア権力の方向如何で崩壊 の危機にさらされているミール共同体は、それを守るために農民の積極的な活動が必要だ というわけです。 特にロシア外部の資本主義は、このロシアの共同体を一気に崩壊させる要因をもってい るともいえます。それに農村共同体が対抗できるかどうか。ロシアの国家は、かつてはこの 農村共同体を維持しようとしていたのが、今ではむしろ破壊しようとしている状況の中、農 民はそれとどう戦うのか。 そうした中で、ロシアの新しい可能性の問題がでてきます。それは、ロシアに革命が起こ るという問題です。ロシアはミール共同体を生かすには、自ら革命を起こすしかないという ことです。農村共同体が危機に瀕している今こそ、ロシアの革命の時期だというのです。帝 国主義的列強と戦い、革命を行うというのです。 マルクスのツアー体制批判は相変わらずで変わっていません。しかし、その体制をむしろ 農村共同体が革命を行うことで崩壊させることに意味があるというのです。 マルクスのロシア観はここで二つに分かれます。ロシアの体制に対するロシア観は相変 わらず変化していないのですが、つまり遅れたロシア、野蛮なロシアという考えは変わって いないのですが、ロシアの農村共同体に関しては、それはロシアを近代化するためのむしろ 進歩的な部分だと主張するのです。 要するに、マルクスのロシア人に対する考え方は、一面的なロシア批判から、ロシアのツ アー体制批判、そしてロシア人の農民運動への礼賛ということに変わっています。 しかしながら、マルクスは、ロシアの農村の革命を引き起こすのは、進んだ西欧の資本主 義のロシアに対する圧力であると述べることで、西欧先進国の先進性はそのまま認めています。しかし、その圧力はロシアの資本主義化を進めるだけでなく、ロシアの資本主義をそ れ以上の社会への導きの糸にもなるとのべることで、西欧を追い抜いて、西欧での革命を促 進する役割をロシアが担うのではないかという論理になっています。 だからこそ、ロシアの農民運動の可能性は、西欧のプロレタリアとの連携がなくてはすす まないことになります。つまり、西欧の資本主義やロシアのツアー体制はおめおめと、農村 共同体の運動を認めるわけはないので、ロシアの農民運動(ナロードニキの運動は)は、西欧 におけるプロレタリアの革命と連携を必要とするわけです。 だからこそ、マルクスは、ロシアの革命の可能性は、西欧との連携がなければ成功しない ということを述べているわけで、これはやがてロシア革命の問題、そして一国社会主義と世 界革命の問題としてマルクス死後の問題にもつながってくる問題になります。 マルクスとスラブ社会、すなわち非西欧社会との関係は、マルクスの考え方に新しい問題 を提起しました。西欧的資本主義の発展は、そのまま西欧型資本主義を生み出すのではなく、 それがそれぞれの国で抵抗を生み出し、違うタイプの資本主義を生み出すということです。 その根本的問題は、それぞれの地域にある伝統的制度がどうなるかという問題であり、それ は資本主義の影響を受けつつも、独自に発展し、場合によっては新しい社会を開く可能性も 秘めているということです。 おわりに 私は、マルクスの世界認識、そして革命観は時とともに大きく変化していったと考えてい ます。その変化とは、西欧中心的歴史観からの脱却であったし、一面的な唯物史観からの脱 却だったわけです。 マルクスはユダヤ人の伝統あるラビの家系で、ユダヤ社会という非西欧の世界に長いこと住んでいたわけです。しかも、マルクスの顔は黒く、家庭や友人の間ではモール人と呼ば れていたほどです。だから外見によっても、つねにユダヤ人と思われることに、誇りと自己 嫌悪を持っていたと思われます。その彼が、幼い頃からカトリックの中心地で、西欧人とし て簡単に同化していったとは思えません。 西欧人になろうとしてなれなかったというのが、私の書く伝記の全体のストーリーでも あるのですが、それは彼の世界観の変容と結びついています。マルクスはヘーゲル哲学を学 びながらも、そこにある種の違和感をもっていた。その違和感が、結局西欧が作り上げた資 本主義と合理性に対するある種の抵抗で、すなわち共産主義運動であったのではないかと。 もし共産主義が西欧的合理主義の延長上に達成される理想社会などではなく、それとの 戦いの中で生まれるものであるとすれば、共産主義という運動は、資本主義によってつくり だされたブルジョワとプロレタリアとの闘争の上にできるものではないことになります。 若い頃はなるほど、マルクスは資本主義の延長線上に共産主義と革命を考えていたので すが、そうだとすると世界はすべて資本主義化され、ブルジョワとプロレタリアだらけにな らねばならない。しかしその資本主義は、一方で資本主義化への猛烈な抵抗を各地で生み出 す。その抵抗が共産主義と無関係なはずはない。それがロシアやアイルランドに対する考え 方の変化であったと思われます。その抵抗が資本主義を揺り動かし、それぞれの地域で新し い運動を生み出す。それを次第に理解しはじめたのではないかと考えています。 もっとも、マルクスの中にそうしたことを物語る文献が少ない。彼の残されたノートだけ では説得力が欠ける点もあります。今のところ、文献的に十分説明できるわけではありませ ん。ただ、1870 年代からの彼の沈黙、『資本論』を西欧社会に限定したこと、そうしたこと で、彼は世界認識の変化とともに、新たな革命観をもちつつあったのではないかと、私は考 えています。 ■司会者(矢沢国光)の感想 (1)講師の取り上げた「第一期 1844-1848 年」は、イギリス主導の英露普墺による 4次にわたるナポレオン包囲体制→ナポレオン敗退後のウィーン体制が 1848 年ヨーロッパ 革命によって崩壊する時期です。 「第二期 1848-1867 年」は、ナポレオン 3 世(ルイ・ナポレオン)によるフランス第 二帝政とその対外戦争政策、クリミア戦争、プロイセンの台頭と富国強兵化、ハプスブルク 帝国の弱体化によって、「パクス・ブリタニカ」の様相が大きく変化する時期でした。 「第三期 1867-1883 年」は、ビスマルク=プロイセンによるドイツの統一とオースト リアの弱体化(オーストリアは、バルカンの「オーストリア・ハンガリー帝国」へ)、普仏 戦争・ドイツ帝国の成立、イギリスによるインドの植民地化を経て、19世紀末の「帝国主 義対立」の時代への過渡期でもありました。 講師の的場さんも、「マルクスの世界認識」というばあい、こうした世界史の推移にたい してマルクスがどう認識していたか、を前提にしていると思いますが、この日の報告は、未 だ刊行されていないマルクスのノートなどの発掘調査が中心で、紹介されたマルクスの「世 界認識」のテーマそれ自体[例えばロシア認識]は、「全体の見えない部分」のように、偏っ ていると思えました。 マルクスはルイ・ナポレオンについては生前刊行の著作を残していますが、的場さんの 『マルクスで読み解く世界史』によれば、マルクスはルイ・ナポレオンを過小評価していた。 ルイ・ナポレオンは、フランス資本主義を強化し、200家族とエリート支配体制を作り、 対外戦争を繰り返してそれなりに発展させた。イギリスと共同でクリミア戦争を戦うまで になった。こうしたことは、マルクスの視野に入らなかったのだろうか。 むしろ興味深かったのは、マルクスがギュルリッヒの『現代のもっとも重要な商業取引国 家の商業、産業、農業の歴史』(全五巻)からの抜粋ノートを丹念に取り、ノートの長さは、 『資本論』一巻分に相当したという。商業・交通・産業・金融といった経済史・経済政策に ついての現実の姿をギュルリッヒの書物からどん欲に学んだ。そのことが、その後の経済学 研究の下地になったのではないか。 (2)世界史に対するマルクス・エンゲルスの認識――政治評論、政治文書、新聞記事― ―は、読んでみるとわかるように、政治力学の客観的解明ではなく、「革命家」としての「総 括と革命の展望」であり、「革命観」と一体化したものであった。この点が、資本主義の運 動法則を抽出しようとした『資本論』とは異なる。 たとえば、マルクスの「ロシア嫌い」は、1848 年の東欧ブルジョア革命を帝政ロシアが つぶしたことからくる。「ロシア嫌い」は、「ブルジョア革命→資本主義の発展→プロレタリ ア革命」という一国的二段階革命論と一体化している。 こうした「一国的二段階革命論」は、のちに「ザスーリッチへの手紙」でロシア革命と先 進国革命の関連を考える時期には、変化しています。「先進国のプロレタリア革命と後進国 のブルジョア革命が一体化した世界革命」です。その基礎は、第一期のギュルリッヒノート で「マルクスにとって重要なことは、世界経済が先進国であるヨーロッパ経済のための分業 になっていること...今や世界は一蓮托生で相互にしっかりとつながっている」という認識 にあったと思われます。 (3)的場さんによると、マルクスが『資本論』第1巻を 1867 年に刊行した後、第2巻、 第3巻を刊行せずに放っておいたのは、謎だという[マルクスが 1883 年死去した後、エン ゲルスによって、第2巻は 1885 年刊行、第 3 巻は 1894 年刊行]。エンゲルスはマルクスの病気のせいにしているが、マルクスは「第三期」に、ロシア問題や農業問題に取り組んでお り、病気説は疑わしいという。 マルクスの膨大なノート類が未刊行。的場さんは、生きているうちに刊行されて、『マル クス伝』全3巻を完成させたいという。 期待しています。 ■質疑 [前半講演についての質疑] ●矢沢(司会者) 第2期でマルクスは「イギリスを先頭に(ブルジョア革命によって)資本主義化し、資本 主義化を進めることによってプロレタリア革命に進むことができる」とした。こうした「唯 物史観」は、第1期で形成されたのか?それとも第2期で形成されたのか?ヘーゲル的な 「世界精神の発展」という世界歴史観からどのように転換したのか? ▲的場 「唯物史観」が明確に証明されたのは『資本論』です。『ドイツ・イデオロギー』でも、 『哲学の貧困』でも『共産党宣言』でも、唯物史観の学問的な証明はない。マルクスは18 48年革命が終わってロンドンに亡命し、経済学の研究に入る。ドイツのブルジョア革命が 腰砕けに終わり、マルクスはブルジョア革命をいったん捨てて、プロレタリア革命になるに は「時期」、つまり恐慌が必要だと考えて、資本主義の研究に没頭し、十数年かかって『資 本論』にまとめ上げた。 ●太田仁樹 『18 世紀の秘密外交』がソ連で刊行されなかったのは、その中にアーカートの「偽書」 が含まれていたからか? ▲的場 そのとおりです。アーカートの創作した文書も含まれていました。 ●河村哲二 資本論形成史で「ロンドンノート」が注目されてきましたが、これはどういう位置づけに なりますか? ▲的場 ロンドンノートは、1850 年代から書き始めますが、はじめは貨幣論・信用論についてノ ートをとっていました。ニューヨークの新聞の特派員をしていたので、記事を書くために、 大英図書館の新聞を読んでノートをとっていた。これを十数年続けた。ただ、この二つ(経 済学と政治記事)は、ノートの中で、区別されていない。『資本論』には、政治記事のため のノートも、入っている。 [全体についての質疑] ●矢沢国光 マルクスは世界の政治的動向についてもノートしていますが、次のようなことについて は、ノートにあるか、マルクスがどのような認識をしていたか知りたい‥イギリスのインド 40 植民地支配、クリミア戦争、ルイ・ナポレオン時代のフランスが経済的にも政治的にも強く なってイギリスと一緒にクリミア戦争を戦うまでになったこと...。 ▲的場拙著 『マルクスで読み解く世界史』(教育評論社、2022)に書きましたが、1850 年代、 1860 年代のマルクスは次のように認識していたと思います。イギリス[イギリス帝国主義で はない]を中心とした資本主義の発展が世界の隅々に及ぶ。それにより、旧来の制度が様々 な機能不全を引き起こす。とくに、東欧(オーストリア、ポーランド、ロシア)では、資本 主義の発展に対する抵抗勢力を作り出している。こうした国々は、やがて「帝国」体制を崩 壊させ、国民国家に変わっていかざるをえない――これはマルクスの発想でもあるが、(共 和党の)『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』の発想でもある。 オーストリア、ポーランド、ロシアが近代国家になりうるかどうかが問題だった。 ●高原浩之 報告の32ページに「資本主義化していない国々で革命が起きた」と書かれていますが、 疑問です。ロシア革命も中国革命も、プロレタリア革命への前進は挫折し、ブルジョア革命 =資本主義化に終わった。後進国でプロレタリア革命が起きたというのは、事実に反する。 ▲的場 ここで「革命が起きた」というのは、資本主義の影響を受けて農民が反乱を起こした、と いうことです。こうした反乱(革命)があっても資本主義化しないまま推移した、というこ とです。 ●高原浩之 資本主義化していない国に、先進国の社会主義の思想が入ってきて、ブルジョア革命の中 でボリシェビキや中国共産党など社会主義を目指す潮流が主導してブルジョア革命を行っ た、ということですね。 ▲的場 資本主義の要素が入ってくると、それに対する抵抗闘争が起きる。そのさい、「マルクス 主義」も入ってくる。「マルクス主義」といっても、資本主義の発展がない(遅れている) 国では、「マルクス主義」の概念を理解できない。だから、国によって「マルクス主義」の 内容に「ずれ」がある。「ずれ」はあるが、「マルクス主義」を進めていった、ということだ と思います。 ●河村哲二 斎藤幸平さんはリービッヒのノートに依拠して、また資本蓄積の問題に結び付けて、資本 主義をのりこえないとエコロジー問題が解決しない、としていますが、これについてどう考 えるか? ▲的場 たしかに資本蓄積の問題は、自己矛盾を含んでいる。どこかに原料などが集中し配分が偏 る。消費も同じく、偏る。しかし、マルクス[に依拠して]でエコロジー問題まで行くのはど うかと思う。「マルクス」をやめるしかないのではないか。斎藤幸平さんの本を読んで、と くに「マルクス」でなくても、エコロジーでよいのではないかと思った。 マルクスは、ユダヤ人の家庭に育っており、キリスト教の西欧的学問に違和感があった。 42 西欧はどうして農薬・肥料を大量に使って自然を破壊する無茶なことまでしたのか。西欧に 対する違和感がエコロジーの発想をもたらしたともいえる。わたしたち日本人が西欧的学 問を学ぶときにも、「ずれ」がある。その意味で日本人のほうがマルクスのエコロジーに共 感することはあるのかもしれない。 ●矢沢国光 斎藤幸平氏は、商品化の反対概念として「コモン」を提起しています。そして「コモン主 義がすなわち共産主義」だ、としています。マルクスのノートからこうした「コモン主義」 を読み取ることはできるのでしょうか? ▲的場 「コミュニズム」はマルクス以前からある概念で、「財産の共同体」という意味だった。 1840 年代に「財産の共同体」と言われたのは、農民の共同体ではなく、家具や道具を共有 する職人の共同体のことであった。これは「財産を共有する」共同体ですが、マルクスはコ ミュニズムを単なる財産の共同体に収まるものではなく、歴史の流れの中で出てくる、資本 主義の後に出てくるもっと大きな概念に作り替えた。 ●河村哲二 マルクスには『古代史ノート』(『古代史・人類学研究抜粋ノート(1876-82 年)というも のがあり、マルクスは晩年、とくに L.H モルガンによるアメリカのイロコイ・インディア ンの研究について詳しいノートを作成している。これはどんな意味があったのか? ▲的場 マルクスには古代の共同体に関するノートが多い。マルクスは「ゲルマン共同体が発展し て私的所有に変わり、そこから資本主義が発展した」と思いたかったが、実際にはそうなら なかった。なぜそうならなかったか、そのためそれをもっと研究して、人類学の研究に進ん だ。 マルクスは晩年膨大なノートをとったが、それに基づいて著作を書いたわけではない。模 索していたのではないか。『資本論』第2巻、第3巻ができていたにもかかわらず刊行しな かったのは、[エンゲルスは病気のせいにしているが]じつは、『資本論』のあと、何かを模 索していたからではないか。 マルクスの「第三期」には、意味不明の部分が多い。 ●太田仁樹 1870 年代のマルクスの著作は少ないが、その中で言っているのは、『資本論』(で説かれ た法則)は、西欧の中でしか通用しない、ということです。 質問1。アイルランド問題で、イギリスの労働者のとらえ方が、マルクスとエンゲルスで はかなり違う。エンゲルスは、イギリスが世界の覇権国で、「イギリスの労働者は保守化し ている」と見抜いていたが、マルクスは「先進国は後進国の未来像」という考えで、「イギ リス労働者はアイルランド労働者より進んでいる」とした。 ▲的場 アイルランドの安い労働力がイギリスに、流入し、イギリスの労働者は、これに対して反 感を持っていた。イギリスは、アイルランドの安い労働者を使っていたが、アイルランドの 経済的発展は、押しとどめられるだけであった。マルクスは、「イギリスは、アイルランドの未来像」というだけで、アイルランド労働者の運動については、特別な関心がなかった。 エンゲルスは、アイルランドに行ったこともあり、農業についても調べていて、詳しい。 マルクスは、エンゲルスの知識を学んだだけで、具体的にとらえていなかった。 ●太田仁樹 質問2。「ザスーリッチの手紙」のザスーリッチは、ロシアのナロードニキ運動の中では プレハーノフ派でした。プレハーノフは「ロシアは資本主義になっていないから革命はまだ 先の話だ、いまは学習の時だ」と主張した。マルクスはプレハーノフを革命運動からの脱落 派として嫌っていた。そのことが、「手紙」に影響していなかったか? ▲的場 事実関係は、調べてみないと、わかりません。 ●蓼沼紘明 ⓵マルクスは自然と人間の関係をどのように認識していたのか。 ▲的場 マルクスが若いとき、フォイエルバッハの影響下にあり、『経済学・哲学草稿』では、自 然に深く結びついた人間を考察しています。ところが『ドイツ・イデオロギー』になると、 自然と人間を分離し、「対象としての自然をどう使って経済を発展させていくか」になる。 「類的人間」という概念もなくなり、自然から区別された人間が出てくる。 晩年になって、人類学の発展もあり、マルクスは勉強しなおします。 1960 年代、サルトルが「ヒューマニズム」を主張したとき、「自然を排除したヒューマニ ズムは成立しない」という批判が起きた。 フォイエルバッハが自然をとりいれたのは、1830 年代のスピノザの影響がある。 ●蓼沼紘明 2 今日の労働者の中には、株式を所有したり「資本家」的になっている者もいる。これを どう考えたらよいか。 ▲的場 キャピタルゲインの問題ですね。「労働貴族」の問題です。労働者はキャピタルゲインの 取得によって、労働者の階級意識をどこまで維持できるか、という問題です。 先進国では「市民社会・中産階級」が生まれる。市民社会の「中産階級」は、労働者の闘 争の担い手になりうるかどうか、問題になった。これはなかなか難しい問題です。先進国に 「労働者階級」はどれほどいるか。しかし、世界全体でみると、それは難しい問題ではない。 先進国労働者の中産階級化は、バングラデシュのような後進国の労働者の搾取と対(つい) になっている。先進国・後進国を合わせて、インターナショナルで考えなければならない。 キャピタルゲインも資本主義が発展しなくなると、消えてしまう。「中産階級」も上下に 二極分解する。 ■終わりの言葉 世界資本主義フォーラム顧問・河村哲二 的場さんはマルクスを三つの時期にわけて 3 巻の『マルクス伝』を書くということです。 これまでのマルクス研究は、マルクスの特定の時期の研究・著作にもとずくものがほとん どでした。三つの時期にわたるマルクスの研究に大いに期待します。 わたしは、資本主義の発展段階を「パックス・ブリタニカ」段階、「パックス・アメリカ ーナ」段階として、段階論を構成しようとしていますが、マルクスはまさに「パックス・ブリタニカ」の確立期から変質期の入り口までをとらえています。そのあとは、とくに第二次 大戦後は、アメリカ中心の資本主義に変質しています。もちろ「パックス・ブリタニカ段階 とパックス・アメリカーナ段階の資本主義には共通する面はありますが、独自の面もかなり あります。パックス・アメリカーナ段階の資本主義を、改めて解明することがわれわれの大 きな課題になっています。こうした資本主義の発展をとらえるには、輸入学問ではなく、日 本独自のマルクス研究の発展が必要です。そのために、的場先生の『マルクス伝』が出まし たら大いに活用させていただこうと思っています。 今後も、よろしくお願いいたします。 またこの場で、研究の成果を発表していただければありがたいです。 本日は、ありがとうございました。 ■参加者アンケート回答から ●高原浩之[1]感想・質問質疑をより詳しく。 ※斜体は、講師(的場)の報告文書からの引用部分 1資本主義の発展を経ないで社会主義 それはなかった「20 世紀に起こった世界中の革命運動がなぜ資本主義化してない地域で起こっていったの かも理解できるようになる」。ロシア革命や中国革命を社会主義革命と認識し、資本主義が 発展したヨーロッパよりも遅れた国で先に起きたと認識している、こう理解するしかあり ません(ブルジョア革命と資本主義化はヨーロッパが先なのは議論の余地がない)。しかし、 これは歴史的事実に反します。 ロシア革命や中国革命は、プロレタリア階級=共産党が指導しましたが、ブルジョア民主主義革命でした。プロレタリア革命へ前進し社会主義を実現しようとしましたが(それがマル クス・レーニン主義)、挫折した。出現したのは、名は「社会主義」だが、実際は官僚制国家資 本主義でした(その意味でマルクス・レーニン主義は破綻)。ブルジョア革命と資本主義化を ヨーロッパに遅れて達成した、そういう結果に終わりました。 2社会主義を担うのはプロレタリア階級の階級闘争が生み出す新しい共同体 「マルクスとスラブ社会、すなわち非西欧社会との関係は、マルクスの考え方に新しい問題 を提起しました。西欧的資本主義の発展は、そのまま西欧型資本主義を生み出すのではなく、 それがそれぞれの国で抵抗を生み出し、違うタイプの資本主義を生み出すということです。 その根本的問題は、それぞれの地域にある伝統的制度がどうなるかという問題であり、それ は資本主義の影響を受けつつも、独自に発展し、場合によっては新しい社会を開く可能性も 秘めているということです。」 「違うタイプの資本主義を生み出す」は正しい。しかし、「伝統的制度が...場合によっては新 しい社会を開く可能性も秘めている」、これはないでしょう。なぜなら、遅れた国で資本主 義の発展を経ないで社会主義を実現する(プロレタリア階級のヘゲモニーで)、この、ロシア 革命・中国革命とマルクス・レーニン主義の基本精神は破綻したからです。 ロシア革命は「北」ですが、中国革命など、「南」の、帝国主義の植民地支配に反対する民族 解放闘争は、社会主義を目指すのが少なくはなかったが、全て資本主義化しました(ベトナ ムも)。共産党独裁=全体主義と開発独裁=権威主義、二つ(双生児)の国家資本主義。グロー バリズムは、「北」による資本輸出=資本主義の移植よりも、「南」における資本主義の内在的 な発展です。現在はアジアですが、中南米とアフリカが続く。 世界全体が資本主義化し、社会主義は、そこにおける矛盾の展開、とりわけプロレタリア 階級の階級闘争で実現される。これは唯物史観そのものです。社会主義を担うのは、旧い共同体よりも、プロレタリア階級の階級闘争が生み出す新しい共同体でしょう。 3社会主義は「北」が先か? 「南」が先か? それはまだ分かりません。 資本主義の不均等発展で、「南」は勃興する「新世界」、工業化と資本主義の成長、労働者階級 の増大と階級闘争の発展でしょう。反対に、「北」は衰退し没落する「旧世界」、工業的空洞化 と金融化、労働者階級の大分裂でしょう。レーニンが帝国主義論で示唆した腐朽性と寄生性 が全面化するでしょう。危機の進行は「南」よりも「北」が先の感じです。(おわり)

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