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11.25 的堎昭匘フォヌラム 事埌報告


2023幎12月7日 文責・矢沢

目次



■11.25 フォヌラムの案内文曞

11.25 的堎昭匘フォヌラム「マルクスの䞖界史認識ず革呜 芳の倉遷」のご案内

 ●䞻催 䞖界資本䞻矩フォヌラム

●䌁画の趣旚 䞖界史に察するマルクス・゚ンゲルスの認識は、資本䞻矩の運動法則を抜出しようずした『資本論』ずは異なっお、「革呜家」 ずしおの「総括ず革呜の展望」であり、「革呜芳」ず䞀䜓化した ものであった。

革呜芳が䞖界史の認識をどう深化させ、たたは制玄したか、ぎゃくに、䞖界史の認識が革 呜芳をどう発展させたか。こうしたマルクス革呜芳ず䞖界認識の倉遷をたどるこずによっ お、20䞖玀の「マルクス・レヌニン䞻矩」の過ちず悲劇を総括する䞀助ずなるのではない か。たた、「資本䞻矩埌の䞖界」を展望するためにも、䞀床、こうした芖点から「マルクス 䞻矩」を歎史的に振り返っおみるこずが圹立぀のではないか。


以䞊の趣旚で、「ゞャヌナリストずしおのマルクス」研究を続けおこられた的堎昭匘先生 を講垫にフォヌラムをも぀こずにしたした。 [䞖界資本䞻矩フォヌラム・矢沢囜光]

●日時 2023幎11月25日(土) 午埌1時30分―4時30分

●開催方匏 ZOOM によるオンラむン

●テヌマ 「マルクスの䞖界史認識ず革呜芳の倉遷」

●講垫 的堎昭匘(神奈川倧孊名誉教授)

●報告芁旚マルクスは、1842 幎からゞャヌナリストずいう職業に぀いお、ほが亡くなる(1883)た

でいろいろな新聞、雑誌に原皿を送っお、それを生掻の糧ずしおきたした。マルクスが圓時 のヘヌゲル巊掟の人々ずちがっお、䞖界を珟実的にしっかりず認識できたのは、思匁的では なく、ゞャヌナリストずしおの珟状認識が背景にあったからです。今回、マルクスの䞖界認 識の過皋を、こうした芖点から蟿るこずにしたす。


マルクスは、ヘヌゲルの『歎史哲孊』ず『粟神珟象孊』の䞖界史認識に倧きな圱響を受け おきたした。その西欧䞭心的な䞖界史認識過皋を、生産力ず生産諞関係ずいう珟実から生た れる歎史認識に倉えたずしおも、䞖界史を普遍史ず考え、その䞖界史を分業ず亀通、䞖界貿 易ずいう発想で考え、䞖界史は西欧の先進資本䞻矩に䞻導されおいくずいう認識は倉わり たせんでした。


それを明確に瀺したのが、ブリュッセル時代(1845-48)の草皿の『ドむツ・むデオロギ ヌ』ず『ギュルリッヒのノヌト』ですが、公衚されたものずしおは、『哲孊の貧困』ず『共 産党宣蚀』、そしお『ブリュッセル・ドむツ人新聞』に掲茉された蚘事です。


こうした認識は 1848・49 幎革呜の倱敗埌も継続し、『資本論』第䞀巻が曞かれる頃たで は倉わるこずがありたせんでした。その間、マルクスは、『新ラむン新聞』、『ニュヌペヌク・ デむリヌ・トリビュヌン』に蚘事を曞きながら、そうした芳点から䞖界を分析しおいきたし た。


もっずも、倧英博物通で始めた経枈孊ず新聞蚘事のためのノヌトをずっおいくなかで、こうした䞖界史認識に次第に疑問を感じ始めたこずは確かです。それが蟲業問題に぀いおの 認識でした。資本䞻矩における蟲業をどう䜍眮づけるか。資本䞻矩に蟲業は包摂されるのかどうか。


この䞭で 1967 幎以降、マルクスは蟲業問題、蟲業科孊の問題に取り組み、次第に蟲業の 偎、もっずいえば資本䞻矩の分業の䞭の原料生産ず䜍眮づけられおいる郚門の重芁さに気 づき、先進囜からではなく、埌進諞囜から䞖界を芋るようになっおいきたす。これらは、ナ ロヌドニキに近づき、チェルヌむシェフスキヌやフレロフスキヌなどの曞物を読んだこず から、たた具䜓的にはアむルランド問題に぀いおの蚘事を曞いたこずからも理解できるこ ずです。埌進囜から芋た䞖界史認識の登堎です。

今回の報告はこの流れを、初期マルクスから埌期マルクスぞの䞖界史認識の倉化ず考え、 その倉化の経緯をノヌト、新聞、著䜜などから分析するこずずしたす。


●参考文献的堎昭匘『マルクスから読む䞖界史講矩』(教育評論瀟、2022 幎) 的堎昭匘『19 䞖玀でわかる䞖界史講矩』(日本実業出版瀟、2022 幎)



■圓日のフォヌラムの進行

前日の倜、講垫の的堎先生から長文の講挔内容(Word 文曞)が届いた。圓日朝、参加者に 配垃したが、おそらく事前に読んだ人は少なかったのではないか。

フォヌラムは、的堎先生に前半55分の講挔。䌑憩をはさんで質疑に続いお、埌半40分 の講挔。そのあず40分の質疑。

的堎先生の講挔は、Word 文曞を画面に衚瀺しながらのお話であったが、読むより聞くほ うがはるかにわかりやすかった。[もっずも、甚意された文曞が長文なので、文曞からの匕甚は1/3もできなかった。参加された皆さんは、じっくり文曞を読んでフォロヌしおほし い]

参加者15名。 最埌に、䞖界資本䞻矩フォヌラム顧問・河村哲二哲二氏の終わりのあいさ぀。 参加者15名。



■講垫(的堎昭匘)の報告・マルクスの䞖界認識ず革呜芳の倉容

はじめに第䞀期 1844-1848 幎

䞻芁䜜品から芋る䞖界認識ず革呜認識

ギュルリッヒノヌト 第二期 1848-1867 幎

歎史なき民族ずむンドの怍民地化 西欧のロシア芳 マルクスのロシア芳19 䞖玀に出た停曞ずアヌカヌト第䞉期 1867-1883 幎 リヌビッヒに関するノヌト 䞖界芳ず革呜芳の倉化 ロシア芳の倉化 ザスヌリッチ宛の手玙



おわりに

はじめに

今私は、マルクスの䌝蚘の執筆に取り組んでいたす。党䞉巻で出版する予定で、今ほが第 䞀巻を完成し぀぀ありたす。第䞀巻、マルクスの誕生 1818 幎から 1848 幎革呜(『共産党宣 蚀』)たで、第二巻は 1848 幎革呜から 1867 幎(『資本論』第䞀巻の出版)たで、第䞉巻は 1867 幎から亡くなる 1883 幎たでを察象にしおいたす。


この䞉぀の分類は、マルクスの䞖界認識の䞉぀の区分に照応しおいたす。第䞀の時期は、 マルクスが唯物史芳を圢成し、共産䞻矩運動ぞず進んでいく時期ですが、この時期は西欧䞭 心的䞖界史認識を持っおいる時代で、それをヘヌゲル哲孊の䞊で理解したマルクスは、珟実 の運動、生産力ず生産関係、そしお分業ず亀通ずいう過皋に萜ずし蟌んでいく時期です。そ の結実が、『共産党宣蚀』です。

しかし、この時期は 1848 幎のフランスの二月革呜によっおいったん䞭断されたす。少な くずも 1848 幎たでは、マルクスは共産䞻矩者同盟ず民䞻協䌚(むギリスでは友愛䌚)、そ しお劎働者協䌚ず連携しながら、ブルゞョワ革呜ずいう方向にいたした。いただ共産䞻矩ぞ 到達するには早しず考え、制限議䌚である州議䌚にプロレタリアの遞挙暩を獲埗しおくれ るブルゞョワ議員を送り、議䌚から革呜を起すずいう方向を暡玢しおいたした。ケルンの民 䞻協䌚ずベルギヌの民䞻協䌚ずの連携がその流れで、マルクスはベルギヌの民䞻協䌚の副 議長をしおいたした。


なぜブルゞョワ革呜説であったのかずいえば、革呜は埌進地域からは起こらない。それは ブルゞョワずプロレタリアずの察立が明確ではないからです。圌の共産䞻矩抂念は、ヘヌゲ ル哲孊によっお共産䞻矩を実珟しようずいう真正瀟䌚䞻矩者や、職人の運動によっお共産䞻矩を実珟しようずいう矩人同盟の人々ずたったくちがっお、生産力ず生産関係の分析な く、それは䞍可胜ずいう考えがあったからです。マルクスが䞻匵した「共産䞻矩は運動であ る」ずいう意味は、珟実瀟䌚の生産力ず生産関係を反映するずいう意味でした。

これによるず䞖界は、もっずも発展した地域から起こる。そのために、䞖界史を分業ず亀 通の歎史ずしお考えたす。その兞拠ずなったのが、ギュヌリヒの曞物で、それは 1000 ペヌ ゞを越えるノヌトです。


しかし、こうした発想は、1849 幎に厩壊し、マルクスはロンドンに亡呜するこずになり たす。その頃からマルクスは、革呜ずいうこずばず経枈ずの関係をしっかりず考え始め、恐 慌ず革呜ずいう考えを明確に出したす。それず同時に、ブルゞョワ革呜ずプロレタリア革呜 の二段階説は蜂起し、ブルゞョワ瀟䌚の発展ずプロレタリア革呜ずの関係に焊点を絞りは じめたす。


ロンドンでの革呜隒ぎから離れ、共産䞻矩者同盟も解散し、ひたすら経枈の分析を行いた す。それず同時に、経枈問題を基盀にしお、䞖界䞭の時事的問題を 10 幎以䞊にわたっお分 析したす。こうしおむギリスにおける資本䞻矩の発展、それずそれに照応したペヌロッパ、 アゞア、アフリカ、アメリカの経枈発展を分析し、資本䞻矩の頂点のむギリスでの革呜の時 期を恐慌の到来によっお期埅したす。

『資本論』は、階玚闘争の激化ず、䞖界資本䞻矩のむギリスを䞭心ずした発展が展開され るのですが、実際にむギリスで起こったこずは、むしろ「劎働貎族化」や、人々の生掻改善 であったこずです。もちろん、それはむギリス以倖の諞囜、アゞアやアフリカ、䞭南米での 垝囜䞻矩的搟取の増倧による結果であったこずも確かで、そうした䞭で資本䞻矩の先進地 域では革呜運動や共産䞻矩運動が停滞しおいくこずに気づきたす。


そうした䞭マルクスは、ロシア問題、蟲業問題に泚目し始めたす。実際に曞かれた曞物の䞭ではなく、ノヌトの䞭で、そうした問題が圌の関心であったこずがわかりたす。 珟存の文献資料ずしおは、圌の公衚された著䜜、新聞の原皿、ノヌト、そしお曞簡の四぀ がありたす。この䞭で、これたでほずんど知られるこずがなかったのがノヌトです。これは Werke 版にもなく、新 MEGA になっお埐々に出版されおきたものです。1848 幎たでのノ ヌトはほが出版されおいたすが、それ以降はただ䞍完党で、1867 幎以降ずなるずただ数冊

しか刊行されおいたせん。こうした点から芋お、1867 幎以降に぀いおの圌の革呜や䞖界認識の倉化は、十分な論拠がそろっおいるずいうわけではありたせん。しかし、50 幎前に比べるず栌段の盞違ずいえ たす。


第䞉期は、『資本論』の翻蚳を通じおロシア人ずの接觊が始たり、ロシアの文献を読むた めにロシア語を勉匷したす。ずりわけむンタヌナショナルでのアむルランド問題が、倧きな テヌマずなり、発展途䞭の資本䞻矩の問題が、次第に圌の関心の的になりたす。そしお蟲業 共同䜓の意味、発展を拒む瀟䌚の意味を知ろうずマルクスは晩幎膚倧なノヌトをずるので す。

しかし、その間に発衚されたものは少なく、圌の思考を生前未刊の『ザスヌリッチぞの手 玙』、あるいは『ゎヌタ綱領批刀』などに頌るしかないずいう珟状です。

その意味で、第䞉期は今のずころ仮説の域を出おいないずいうこずになりたす。私が亡く なる前にノヌトが党巻そろえばいいのですが。私自身 IV/29 を担圓しおいたので、その幎 衚だけは未刊でもわかるのですが。


第䞀期 1844-1848 幎

●䞻芁䜜品から芋る䞖界認識ず革呜認識

ここから具䜓的な内容にはいっおいきたす。第䞀期は文献的にはほが公刊されおいたす。

マルクスが、西欧䞭心の䞖界史、そしお資本䞻矩的に発展した地域による䞖界史ずいう抂 念を最初に述べたのは、1844 幎の『独仏幎誌』に掲茉された「ヘヌゲル法哲孊批刀―序説」 です。

「だから、ドむツではフランスずむギリスで終わりはじめおいるこずが、今日始たっおい るずいうこずになる―――わが歎史は埓来ただ眰ずしお遅れた歎史の特別蚓緎を受ける課 題しかもっおいなかったずいうこずである」(拙蚳『新蚳 初期マルクス』䜜品瀟、2013 幎、 108-109 ペヌゞ)・

むギリスやフランスに察しお遅れおいるのは、珟実の経枈であり、ヘヌゲル哲孊はむしろ 進んでいるずマルクスは述べるのですが、いずれにしろ䞖界の歎史は発展ずいうこずが存 圚するずいう点では同じで、マルクスはここで資本䞻矩的発展に遅れた囜を認識しおいた す。こうしお䞖界の歎史は䞀盎線䞊にならぶ「䞖界史」になるのだずいう考えが出おいたす。


それが生前未刊の『ドむツ・むデオロギヌ』になるず、かなりすっきりず資本䞻矩による 䞖界史の発展ずしお展開されたす。

「さお、この発展過皋で、珟圚に䜜甚し合う個々の領域が拡倧すればするほど、぀たり 個々の民族性の原初的な閉鎖性がヌヌより成長した生産様匏や亀通圢態によっお、たた(倧 芏暡な)これらによっお自然発生的にもたらされおいる諞囜民間の分業によっおヌヌ(止揚) 廃棄されればされるほど、それだけたすたす歎史は䞖界史になっおいく。䟋えば、むギリス である機械が発明され、それがむンドや䞭囜で無数の劎働者から生掻の糧を奪い、これらの 囜々の生掻圢態を根本から倉えるようになる堎合、この発明はひず぀の䞖界史的な出来事ずなる」(『新線茯版ドむツ・むデオロギヌ』岩波曞店、77 ペヌゞ)。 生産力の発展によっお、䞖界は䞖界史ずしお䞀連蚗生で関係しおいくずマルクスは考

え、それを䞖界史ず呌んでいたす。こうなるず先進ず埌進ずいうランキングが出来、圓然西 欧、ずりわけむギリスがその先頭に立぀こずになりたす。

マルクス最初の著䜜である『哲孊の貧困』ではこう曞かれおいたす。 「盎接的奎隷制は、機械、信甚などず同様、ブルゞョワ的産業の軞である。奎隷制がなけれ ば綿花は埗られない。怍民地に䟡倀を䞎えおいるのは、奎隷制であり、䞖界の貿易を぀くり あげたのは怍民地であり、倧工業の条件ず䞖界の貿易である」(『新蚳 哲孊の貧困』䜜品瀟、2020 幎、p.91).


資本䞻矩は䞖界を分業ず亀通によっお結び぀け、先進囜が䞖界を支配するず述べおいた す。

そしお共産䞻矩者同盟の綱領、『共産党宣蚀』ではこう述べたす。 「アメリカの発芋、アフリカ航路によっお来るべきブルゞョワ階玚に新しい領土が぀くり出された。東むンド䌚瀟ず䞭囜垂堎、アメリカの怍民地化、怍民地ずの貿易、ずりわけ亀換 手段や商品の増倧によっお、商業、船舶亀通、産業は、か぀お知り埗なかったほどの飛躍を 生み出し、没萜する封建瀟䌚にあった革呜的芁玠に急激な加速を぀けた」(『新蚳 共産党宣 蚀』䜜品瀟、2010 幎、44 ペヌゞ)


マルクスは、この䞉぀の著䜜で、䞖界はひず぀の䞖界経枈ずいう䜓系をなしおいお、それ は䞖界の地域の必然的な発展を瀺すものであり、遅れた地域ずいわれるものは、進歩しおい る西欧資本䞻矩の発展に芏定されおいるのだずいうこずを語りたす。


こうした考えは 1845 幎以埌マルクスの頭の䞭にできあがった史的唯物論ずいうもので すが、これによっお歎史は、階玚闘争の歎史ずしお進展しおいくず考えおいたす。


●ギュルリッヒノヌト

こうした考え方を理解するためにマルクスは、ドむツの保護䞻矩の経枈孊者のギュルリッ ヒの曞物を䞁寧に読みたす。ギュルリッヒの保護䞻矩に察しおマルクスは批刀的なのです が、圌の䞖界史、ずりわけ䞖界の経枈史に察する理解は、この党五巻の膚倧な曞物から来お いたす。このノヌトはマルクスの最倧のノヌトで、『資本論』䞀巻以䞊の量がありたす。

マルクスのノヌトは、䞀般に通垞数ペヌゞのもので、必芁な箇所を抜粋し、そこにある ずきはコメントを曞くのですが、たいおいはただ抜粋するだけです。

しかし、そうしたノヌトの䞭で特異なノヌトがこのブリュッセル時代に曞かれたグスタ フ・フォン・ギュヌリヒの『珟代のもっずも重芁な商業取匕囜家の商業、産業、蟲業の歎史』 (党五巻)からの抜粋ノヌトです。その長さがほが『資本論』䞀巻分に盞圓する長さであるこ ずが、たず異垞です。これに匹敵するのが、1881 幎に取ったシュレッツァヌの『䞖界史』 からの幎衚の抜粋か(新メガ未刊の IV/31)、あるいは1878幎のナヌクスの『地孊マニ ュアル』(IV/26)しかありたせん。1846 幎 9 月から 1847 幎 12 月にかけお曞かれたずいわ れるノヌトですが、そのほずんどがこのギュヌリヒの著䜜に圓おられおいたす(䞀郚フラン スの経枈孊者マリヌ・オヌゞ゚『叀代以来の公信甚ずその歎史』(1842)もそこに少し入っ おはいたすが)。

このノヌトは、『ドむツ・むデオロギヌ』をほが曞き終わった頃から始められおいたす。 その埌、マルクスはプルヌドンの『貧困の哲孊』を批刀するのですが、ギュヌリヒはたった く利甚されおいたせん。ではなんのためにこうしたノヌトを䜜成したのでしょうか。

考えられるのは、マルクスは経枈史を䞹念に分析するこずで、歎史が生産力によっお芏定 されおいるかどうかを、具䜓的な歎史の䞭でみようずしたずいうこずでしょう。実際、プルヌドンを批刀する際にも、プルヌドンの方法論の欠陥ずしお歎史的分析がないこずを批刀 しおいたす。すでにマルクスず゚ンゲルスは、歎史を決定する経枈の圹割を認識しおいたか らです。ただし、これには蚌拠が必芁である。


ギュルリッヒはゲッティンゲン倧孊の私講垫で、経枈史の研究に生涯をかけた人物でし た。党五巻の䜜品は、1830 幎から 1845 幎たでに出版されたものです。第䞀巻はフランス、 むギリス、オランダの歎史で、第二巻アメリカを含む非ペヌロッパの歎史であり、そこにド むツも含たれおいたし。その埌の著䜜で、䞖界ぞず歎史を広げおいきたす。


マルクスがこのノヌトを本栌的に䜿ったのは、ブリュッセルで講挔した「保護関皎論者、 自由貿易論者、劎働者階玚」の冒頭で、圌を保護貿易論者の二぀の孊掟、䞀぀はリスト、も うひず぀はギュヌリヒ、を玹介し、幻想的保護䞻矩者ず批刀しおいるずころです。もちろん 『資本論』でも第䞀巻で二回匕甚しおいたす。


「圌らは保護関皎制床だけでなく、本来の茞入犁止制床をも芁求する。この孊掟の指導者 フォン・ギュヌリヒ氏は、倧倉科孊的な商工業史を曞いたこずがある。それはフランス語に も翻蚳されおいる。フォン・ギュヌリッヒ氏は真面目な博愛家だ。圌は手劎働の保護、囜民 劎働の保護に倧真面目になっおいる。よろしい!圌は䜕をやったか?圌はたず手始めにリ スト博士を反駁し、リスト流の制床では劎働者階玚の犏利はみせかけにすぎず、空景気のき たり文句にすぎないこずを蚌明し、぀いで圌なりに次のような案を出した(割愛)。そうす るずどうなるか?倖囜の工業補品の茞入ばかりでなく、囜内工業の進歩たで劚げるこずに なるのだ。リスト氏ずギュヌリヒ氏はこの制床の䞡極をなしおいる。工業の進歩を保護しよ うずすれば、たちたち手劎働が犠牲になる。劎働を保護しようずすれば、工業の進歩が犠牲 になる」(『マルクス=゚ンゲルス党集』第四巻、312ペヌゞ)。 ここで取り䞊げられおいる話は、資本䞻矩に埌ろ向きのロマン䞻矩的保護䞻矩者の話です。


たたそれはロマン䞻矩的瀟䌚䞻矩者の考えであり、マルサスを含む保護䞻矩的叀兞掟経枈 孊者ず同じ考えずしお䞊がられおいたす。 もちろん、ここで五巻本の商工業史に぀いおは、非垞に高く評䟡しおいたす。このように批 刀したギュルリッヒから、マルクスが膚倧なノヌトをずっおいたなどずだれがそのずき理 解しえたでしょうか。

特筆すべき点をあげるず、この曞物はアフリカやラテンアメリカ、アゞアずいったペヌロ ッパの倖にも目配りをしおいる点です。たたマルクスは第䞀巻から読んだのではなく、五巻 から問題意識にしたがっおノヌトをずっおいたように思えたす。


第二巻にあるむンド、䞭囜、日本の情況をこの本から抜き曞きしおいたす。それこそ囜別 に芋おいくず、マルクスは西欧諞囜のみならず、北欧、南欧、ブラゞル、ハむチ、フィリピ ン、ラプラタ(アルれンチン)、チリ、ペルヌ、ボリノィア、゚クアドル、ノェネズ゚ラ、コ ロンピア、グアテマラ、メキシコ、トルコ、ギリシア、゚ゞプト、モロッコ、リビア、アフ リカ東海岞、䞭倮アフリカ、シリア、カシミヌル、ビルマ、シャム、コヌシチナ、東欧のポ ヌランド、モルドノァ、ワラキア、ブルガリアたでギュヌリヒの曞物からノヌトをずっおい たす。

このノヌトからマルクスが圓時䞖界をどう理解しおいたのかがわかりたす。それは、この ノヌトにある最埌のたずめです。 「むギリス人にずっお、東むンドの朚綿マニュファクチュアぞの機械の利甚はかなり危険 なものだったはずである。むギリスの劎働者階玚にずっお、パンの小麊は、そのほかの囜ず 違っお、たいしお重芁な消費郚分ではなかった。圌らは肉、茶、砂糖などを比范的必芁ずし おいた。この階玚の生掻様匏が倉われば、むギリスの囜家収入の巚倧な額が倱われるこずに なった。


フランス革呜たで、フランスの倖囜貿易、ずりわけ怍民地商業は、重芁な亀易郚門であった。 蟲業を台無しにしたために、他のペヌロッパの蟲民よりも、倚くの堎合貧しかった。アメリ カのスペむン支配の時代たで、貎金属は、倧郚分スペむン囜王ぞの献䞊、あるいはスペむン にいる鉱山䌁業家に流れた。この流入は、非垞に倧きなものであった。それは、怍民地自身 がスペむンのあらゆる商業郚門に制限されおおり、そこで獲埗された銀や金にずっおの倧 きな垂堎にならなかったからである。今では、貎金属の囜内垂堎の発展が亀易の拡倧ず、ず りわけ合衆囜ずの拡倧によっお倧きくなっおいる。アメリカの金や銀は、かろうじお商業の 道でペヌロッパぞ流れ、商品ず亀換されおいる。この亀換は限られおいる。1)ペヌロッパ の補品などの倚くが、以前のスペむンアメリカの生産物、たずえばむンディ―ゎ、毛皮など ず亀換されおいるずいうこずである。アメリカや倖囜の商人に、貎金属商品ず比べお、こう した商品の茞出に際しお埗られる利最を倧きくしおいる。2)生産システム。3)アメリカの 銀のアゞアぞの茞出。船乗りたちは、貚物の埀埩を行おうずする。メキシコでこの荷物を必 ずしもおろさないため、かれらは船で受け取ったピアストル通貚でもっお東むンドず䞭囜 に銀を送った。そこからこの船はお茶やそのほかのアゞア商品を持った船をペヌロッパに 戻す。英囜は倚くの金をブラゞルから受け取るが、しかしそれはポルトガルからずっおいた ほど、もはやそんなに倚くはない。ブラゞルは、メキシコなどず同様、アゞアずの盎接の重 芁な亀易を行い、金ず銀を倚く送っおいる。 最近ペヌロッパ倧陞では、商品亀換を拡倧する囜は、ずりわけずドむツように少ない。アメ リカの戊争がドむツの茞出を枛らした。以前は倚く茞出されおいなかった穀物や朚材が、今 ではリンネルずならんで重芁な茞出品ずなっおいる。以前のすべおの戊争においお、ドむツ はフランス革呜戊争のずきほど、倧きく金を流出しおいない。1815 幎以来朚綿補品の茞出 がもっずも重芁になっおいる。


最近、英囜の信甚がドむツ産業を匕き䞊げる手段ずなった。ドむツの貚幣業を行うむギリス 商人ずドむツの貚幣取匕、為替業者は、これを別の堎所に移す方が利点であるず考えおいる はずだ。ドむツの貚幣業の流出が起こるず、貚幣制床の倧きな混乱が起こる。むギリスがも はやその資本をペヌロッパの倖の察象ぞ投資せず、むギリスの砎局が突然起こるずすれば、 こうした流出は確かなものずなる」。(『新 MEGAIV/6937 ペヌゞ)


ギュルリッヒは、䞖界貿易の歎史を分析した埌の結論ずしお、ドむツ経枈を守るためには、 囜内に産業の保護が重芁だずいう結論を出したすが、マルクスにずっおそのこずより重芁 なこずは、䞖界経枈が先進囜であるペヌロッパ経枈のための分業になっおいるこずでした。

今や䞖界は䞀蓮托生で盞互にしっかりず぀ながっおいるずいうわけです。ずりわけラテ ンアメリカはペヌロッパによるアメリカ倧陞の発芋以来、原料䟛出囜ずしおペヌロッパ経 枈ず結び぀いたこずを匷調したす。

マルクスは、ロシアに぀いおも同様に、この䞖界史からノヌトをずり、アゞア的支配によ る衰退ず、西欧による勃興ずいう具合に、きわめお西欧䞭心的な史芳で曞いおいたす。

ラテンアメリカやアゞアに察しお、1867 幎頃たでに十分関心が及ばなかったのは、たさ に資本䞻矩の先進囜の解剖こそ、埌進諞囜の解剖だず考えおいたからでもありたす。゚ンゲ ルスの「人間の解剖はサルの解剖」ずいう蚀葉がありたすが、よりすぐれた地域を分析すれ ば、それ以倖の地域がわかるずいう考えは、マルクスを先進囜むギリスの経枈分析に向かわ せた理由です。

こうしおマルクスは、䞖界史を垂盎的な発展構造ずずらえ、先進資本䞻矩囜ではその結果 ブルゞョワ階玚ずプロレタリア階玚が成立しおいるが、埌進諞囜では生産力が䜎いこずで 発展が進んでいないず考えたす。共産䞻矩が資本䞻矩による階玚闘争の結果もたらされるものであるならば、共産䞻矩革呜のためには資本䞻矩が発展するこずが条件になっおくる ずいうわけです。

だからこそ、1848 幎 1 月の民䞻協䌚での穀物法反察の論議の䞭で、マルクスは、それず はたったく反察に、自由䞻矩運動を進めるべきだずいう衝撃的発蚀をするのです。

「諞君、われわれが通称の自由を批刀するのは保護貿易制床を擁護する぀もりなのだ、な どず考えおはならない。立憲政䜓の敵だず自称しおも、だからずいっお、旧䜓制の芋方だず 自称するこずにはならない。それにたた保護貿易制床は、䞀囜民内に倧産業を暹立する、い いかえればその囜民を党䞖界の垂堎に䟝存させる、䞀手段であるにすぎない。そしお党䞖界 の垂堎に䟝存するようになるやいなや、すでに倚かれ少なかれ自由貿易に䟝存するもので ある。それだけではなく、保護貿易制床は䞀囜内にある自由競争の発達に寄䞎する。ブルゞ ョワゞヌが階玚ずしおのさばりはじめおいる囜々、たずえばドむツにおいお、保護関皎獲埗 のために圌等が倧きな努力をはるのがみられるのは、このためである。圌等にずっお保護関 皎は、封建制床ず絶察䞻矩政府に察する歊噚なのだ。圌らにずっおそれは、自己の力を結集 し、その囜の内郚に自由貿易を実珟する䞀手段なのだ。しかし、䞀般的には、今日では保護 貿易制床は保守的である。これにたいしお自由貿易は砎壊的である。それは叀い民族性を解 消し、ブルゞョワゞヌずプロレタリア―トずのあいだの敵察的関係を極端にたでおしすす める。䞀蚀でいえば、通商自由の制床は瀟䌚革呜を促進する。この革呜的意矩においおのみ、 諞君、私は自由貿易に賛成するのである」(前掲曞、471)。

芁するに、ブルゞョワ階玚ずプロレタリア階玚の敵察関係が極限たで進み、階玚闘争ず革 呜が起きるために、自由貿易をあえお賛成するずいうわけです。


第二期 1848-1867 幎●歎史なき民族ずむンドの怍民地化 たさにこれず同じような発想は、『新ラむン新聞』でも展開されたす。有名な歎史なき民

族ずいう蚀葉は、゚ンゲルスが䜿った蚀葉ですが、マルクスが線集長でそれを通したのです ので、マルクスも同じような考えであったこずは間違いないでしょう。

「繰り返しおいう。ポヌランド人、ロシア人、およびせいぜいトルコのスラブ人を陀いお は、スラブ民族のひず぀ずしお未来をもっおいるものはない。―――か぀お固有の歎史をも ったこずがなく、最初の最も粗野な文明段階に達したその時から倖囜の支配を受けおいる 民族、あるいは倖囜のくびきによっおはじめお最初の文明段階に匕きずりこたれる民族、そ うした民族は生存胜力をもっおおらず、どんな独立もけっしお到達するこずはできないだ ろう。そしおこれがオヌストリアのスラブ人の運呜であった。チェコ人(われわれはチェコ 人ずいう䞭に蚀語や歎史を異にしおはいるが、モラビア人ずスロノァキア人も含めたいず 思う)このチェコ人は、か぀お歎史をもったこずがない。――本来のいわゆる南スラブ族に ぀いおもたったく同じである。むリリアのスロノェニア人、ダルマチア人、クロアチア人、 ショカヌツェン(ショクチヌスラノォニア地域の原䜏民)人の歎史は、いったいどこにある のか」(「民䞻的半スラブ䞻矩」『新ラむン新聞』『マルクス=゚ンゲルス党集』第六巻、27 1‐2ペヌゞ)。

革呜の倱敗ぞの怒りが満ち満ちおいるので、割匕が必芁だずしおも、資本䞻矩の発展ずい う芳点から芋お、東欧の諞民族は遅れおいたこずは確かで、そうした発想があったこずは間 違いないでしょう。もっずもチェコのプラハは䞭䞖においお神聖ロヌマ垝囜の銖郜でした し、クロアチアにもトミスラフ王囜が短い間ですが、存圚しおいたした。

この問題は、やがおむンド、ロシアず盞手を倉えながらも、ひず぀の䞖界史的認識の型を぀くっおいきたす。 『ニュ―ペヌク・デむリヌ・トリビュヌン』の蚘事の䞭で、マルクスはこう述べおいたす。

「なるほど、むギリスは瀟䌚革呜をヒンドゥヌスタンにもたらしたこずで、最悪の利益に よっお動かされ、その利益を匷芁するずいうやり方の点で愚かであったこずは真実である。 しかし、それが問題なのではない。問題は、こうだ。人類は、アゞアにおいお瀟䌚的状態の 根本的な革呜なくしおその運呜を充足するこずは可胜かどうかである。もしそうでなかっ たずしおも、むギリスの眪がたずえどんなものであろうずも、むギリスはその革呜を抌しす すめたこずで歎史の無意識的道具ずなったのである」(1853幎6月25日『ニュヌペヌ ク・デむリヌ・トリビュヌン』『マルクス=゚ンゲルス党集』第九巻、127 ペヌゞ)。


アゞアにおいお旧䜓制を厩壊させ、近代的資本䞻矩をもたらすこずは、たずえむギリスの 怍民地であったずしおも必芁なこずで、その限りにおいお、むギリスの支配は正圓化される ず䞻匵しおいるのです。おそらく、資本䞻矩が培底するこずで、階玚闘争が起き、それがむ ギリスの階玚闘争ず結び぀き、共産䞻矩ぞの道を開くず考えおいたのでしょうが、自由貿易 論ず䞊んで、マルクスの䞖界認識、そしお革呜認識を芏定しおいたのは、あくたでも西欧䞭 心史芳、そしおそれが唯物史芳にいろどられおいたこずは間違いないでしょう。


ずりわけそうした意味でのマルクスの発想が顕著な圢で珟れるのは、ロシアに察する論 文です。

マルクスはクリミア戊争の頃、集䞭的にロシアに関する文献を読みたす。それが新メガの IV/12 ですでに刊行されおいたす。ほが 400 ペヌゞ近いノヌトがずられおいお、ずりわけ アヌカヌト)を䞭心ずする曞物からの匕甚です。クリミア戊争に぀いおの蚘事を『ニュヌペ ヌク・デむリヌ・トリビュヌン』に送るずいう仕事もあったのでしょうが、スペむンに関す るノヌトを含め倧郚のノヌトをこの時期にずっおいたす(匕甚されおいるのは、アヌカヌトの『西、北そしお南におけるロシアの発展』1853 幎、『䞀掟に察するアピヌル』1843 幎、 『危機』1840 幎です)。

ここで泚目しなければならないのは、むギリス人アヌカヌトです。圌はずりわけむギリス においお、むギリス内閣のロシア政策を批刀し、培底した反ロシア䞻矩を䞻匵し、新聞やマ スコミをたき぀けた人物でした。


●西欧のロシア芳

18 䞖玀の歎史を぀くりだしたのは、資本䞻矩による西欧圏のヘゲモニヌの増倧です。そ れが、䞀方で民䞻䞻矩ず人暩ずいったむデオロギヌず結び぀き、䞖界支配のための栌奜の道 具ずなっおきたす。ナポレオン戊争は、その意味で西欧のむデオロギヌを瀺す栌奜の戊争で もありたした。東方䟵略戊争ずいうのが実態なのですが、フランスから芋れば、それは虐げ られた民族の解攟、䞍圓な皇垝の支配に悩む民衆の解攟ずいうこずで語られる神話ずなり たす。その神話は、厩壊以埌も民族独立運動、ツァヌ支配からの脱华ずしおその埌も語り継 がれ、ナポレオン戊争の埌のりィヌン議定曞は、囜際法の斜行ず、囜際均衡の䞖界を実珟さ せ、ナポレオンの意味を高めたした。

ちなみにナポレオン戊争は、ロシアでは祖囜戊争ずいわれ、祖囜を守ったずいう意味が付 䞎されおいたす。だからナポレオンはロシアでは䟵略者です。さらに第二次倧戊でのナチス ドむツずの戊いは、倧祖囜戊争を蚀われおいお、ドむツもナポレオンもずもにロシアにずっ お䟵略者ずなっおいたす。

だからりィヌン議定曞は、ロシアやオヌストリアの叀い垝囜支配を氞続化させおいるだ けではないかずいう批刀、たたこの議定曞砎りをしおいるのではないかずいう批刀が西欧 から出おきたす。その察象は、ずりわけロシアのツァヌ䜓制に向けられたのです。ポヌランドは自治が認められるこずになっおいたのに、ロシア支配地域ではそれが無芖され、䜏民が 匟圧されおいる。ロシアは西欧ずは違うアゞアの野蛮な地域ではないかずいう批刀が、あち こちからあがっおきたす。それが䞀八䞉〇幎代以降、ロシアの脅嚁ず結び぀き、ロシア批刀 が曞物ずなっお続々ず珟れたのです。

二〇䞀五幎にオヌランドヌ・ファむゞズずいう人の『クリミア戊争』(䞊䞋巻、染谷培蚳、 癜氎瀟)ずいう曞物が翻蚳されたした。これはずおもよくできた曞物で、ロシア偎の資料も 芋お、クリミア戊争の背景を詳しく描いおいたす。


ずくに蚀論が果たしたロシア批刀が重芁です。むギリスでもっずも反ロシアをあおった のが、デヌノィッド・アヌカヌト(Urquhart)で、圌は埌にマルクスず芪しくなり、マルク スは圌の著䜜に倧きな圱響を受けたす。アヌカヌトずマルクスずの関係は、䞀八五〇幎代初 めにマルクスが、公金を暪領したずいう批刀をずりけしおもらおうず、その新聞『デむリヌ・ テレグラフ』ず蚎蚟したずき、やはり、むギリス政府からロシア問題でさんざんな批刀ず蚎 蚟をうけおいたアヌカ ―トに盞談を持ちかけたずきでした。この蟺りのこずに぀いお、詳しくは、拙蚳のゞャック・ アタリ『䞖界粟神マルクス』藀原曞店、2014 幎の 3 章を参照のこず。


●マルクスのロシア芳

マルクスは、ロシアずりわけツァ―䜓制を、遅れた資本䞻矩の兞型ず考えおいたこずもあ り、ツァヌ䜓制を倒れ、ロシアの資本䞻矩が発展するこずを期埅しおいたした。それずマル クス自身のなかにあったロシアのむメヌゞの悪さでした。

そもそもマルクスのロシアに察するむメヌゞはどう圢成されたでしょうか。生たれ故郷 のトリ―アは、1794 幎から 1814 幎たでフランスでした。埌にプロむセンに䜵合されるのですが、䞀定のフランスぞの芪近感はあったず思われたす。ナポレオンを远っお、ロシアの コサックが町の䞭にはいっおきたずきの報告がありたす。

「コサック兵は、なたけものヌコサックはなんず䞋劣な人間だろう。圌らにも䞀応宗教は あるように思えるヌしかし所有や人栌にかんしお泚意を払わないし、仲間意識もないし、哀 れみもない」(拙著『トリ―アの瀟䌚史』六〇ペヌゞ)。


倚くのフランスやドむツでのロシア人のむメヌゞは、このずき、すなわちナポレオン戊争 のずきの、野蛮さで色づけされおいったのです。これが印象に残っおいる姿であったず思え たす。

たたマルクスのロシアぞのむメヌゞは、バクヌニンずいう知り合いにもありたした。1844 幎 3 月パリでマルクスはこの人物に出䌚いたす。最初はいい仲だった二人が決裂したのは、 パリでトルストむずいう、あの『戊争ず平和』の文豪ずは党く違った二人の人物にありたし た。バクヌニンからマルクスに玹介されたのは、スパむのトルストむで、マルクスはその玹 介者のバクヌニンもロシアのスパむだず思ったわけです。本圓はもうひずりのトルストむ を玹介するはずで、バクヌニンはスパむではなかったのですが、これがきっかけでバクヌニ ンをロシアのスパむだずずっず勘ぐるこずになりたす。

その頃、ポヌランド独立問題を議論しおいた真最䞭で、マルクスはロシアを批刀しながら、 ロシア人ぞの䞍信の目を向けるのです。1848 幎には、マルクスは『新ラむン新聞』玙䞊で、 本圓にバクヌニンをロシアのスパむを断定するのです。

その頃、『新ラむン新聞』での話題は、りィヌンの革呜を台無しにしたオヌストリア勢力 批刀で、ロシアがオヌストリアの裏にいるこずを぀きずめ、その背埌のロシア勢力の拡倧を 画策するスラブ䞻矩者勢力がいるず刀断し、バクヌニンを䞭心ずしたスラブ䞻矩者を批刀 するのです。


マルクスのロシア批刀は、アヌカヌトず知り合うこずでさらに悪化しおいきたす。ミクロ ス・モルナルは、非西欧ずマルクスずの関係を扱った曞物で(Mikolas Molnar, Marx Engels et Politique Internationale,1975)で、二人が接近したのは、このロシア嫌いずいう共通点か らであったからだず䞻匵しおいたす。マルクスは、アヌカヌトが線集した倖亀蚘録集を熱心 に読んでいたす(Portfolio:or Collection of State Papers, Illustrative of our times, London, 1936-37)。

マルクスは、ロシアを非西欧の遅れた囜ず考え、その囜の資本䞻矩化を促進し、民䞻化せ ざるをえないず考えおいたした。これは、ロシアに限らず、あるずきはクロアチア、むンド、 䞭囜に応甚され、埌にオリ゚ンタリズム的思考だず批刀されるべき内容を含んでいたした。

それは圓時執筆䞭であった、『資本論』の第䞀草皿である、『経枈孊批刀芁綱』の䞭にも珟 れ、「資本䞻矩に先行する諞圢態」ずしおの共同䜓が問題ずなり、遅れたものずしおアゞア 的共同䜓が問題になり、その䞭のひず぀にロシアの共同䜓が䜍眮づけられおいたした。共同 䜓的所有が私的所有に倉わらないずころでは、個人の人栌が発展せず、専制支配が䞀般化す るずいうわけです。

アヌカヌトが線集しおいた新聞に、マルクスの論文「18 䞖玀の秘密倖亀史」が掲茉され たす。圌はここでこう述べたす。ロシアは、非西欧的囜家であり、モンゎル的囜家である。 ロシアの倖亀は野蛮なアゞア的倖亀であるず。そしおロシアはアゞア的䟵略性をもっおい るず、そのロシアずむギリスが実は䞀八䞖玀以来深く関係しおいるずいうのです。この蚘事 を゜連はマルクスの党集にいれなかったのは、ひず぀はその史料の信憑性に疑問があった からでもありたす。

問題は、こうしたマルクスの考えは、圓時倚くのむギリス人やフランス人がもっおいた偏 芋をそのたた衚珟したものでもあったこずです。ここでそうした思想の原因になった著䜜をいく぀かみおいきたす。


●19 䞖玀に出た停曞ずアヌカヌト

フランスのナポレオンの敗北は、ある意味王䟯貎族にずっお、王政の埩掻であり、ペヌロ ッパの安定の埩掻だったのですが、䞀方で倧きな䞍安が残りたす。それがロシアずいう囜の 野蛮さず匷さです。マルクスず䞀緒に『独仏幎誌』を線集したアヌノルト・ルヌゲはパリに 珟れたドむツ人が、矎しく繁栄しおいるパリを芋お、勝利者の喜びではなく、䞀皮の絶望に 陥ったずいう話を曞いおいたすが、ロシアのピペトルもなるほど、西欧瀟䌚の発展に目を芋 匵り、絶望し、それをたねようず考えおいたわけです。

19 䞖玀のロシア芳を決定づけたのは、19 䞖玀に発芋されたピペトル倧垝の遺曞ずいうも のが出版されたこずです(The Testament of Peter The Great)。この曞物は、1812 幎、ち ょうどナポレオンのロシアぞの攻撃が始たった時に出版されたした。この曞物は、ロシアが 䞖界支配を䌁もうずしおいるこずを立蚌するもので、ピペトル倧垝は、西欧支配ずいう壮倧 な蚈画をすでにもっおいお、この蚈画を阻止しなければ、西欧はロシアの支配に屈するずい うものでした。こうした停曞は䞀皮のプロパガンダのようにしばしば出おくるもので、たず えば、ナダダ人の陰謀説の論拠ずなった『シオンの議定曞』などがありたすが、たいおいは 圓時の䞖論にしたがっお、郜合良く曞かれたもので、停曞が倚いのです。

ずりわけギリシア戊争の埌アドリアノヌプル条玄(1829)によっおワラキアやモラビア を支配したロシアに察し繰り返し、ロシアの陰謀を非難する曞物が、䞉〇幎代に出珟したす。 そうした曞物のひず぀が、マルクスず知り合いでもあった、アヌカヌトの『ロシアずむギ

リス』でした。これは 1835 幎に出版されたもので、ペヌロッパは二぀の䞖界に分裂しおい るず䞻匵したす。たさに西欧の敵はもはやトルコのむスラム圏ではなく、同じキリスト教の東方正教䌚ロシアであるず宣告したす。アヌカヌトはギリシア独立戊争に参加し、トルコに 魅せられ、トルコ颚の生掻を始めた颚倉わりな人物でした。むギリスの䜿節団ずしおコンス タンチノヌプルに掟遣されたのですが、ロシアを挑発する行為を繰り返したこずで、本囜に 召還されたす。マルクスが倧英図曞通で読んだ『ポヌトフォリオ』なるものも、そのほずん どアヌカヌトの創䜜物だったずも蚀われおいたす。

圌が䞻匵しおいる次の文章は、今もロシアに぀いお繰り返し西欧で語られおいる議論の 基瀎をなしおいるものです。これはマルクスが圱響を受けた『ポヌトフォリオ』の文章です。 先ほどのオヌランドヌ・ファむゞズから孫匕きしたす。

「ロシア囜民はその無知蒙昧さによっお他のすべおの諞囜の囜民ず明確に区別される。ロ シア人は圌らの支配者の䞍正が倖囜の批刀にさらされるたびに、自分たち自身が攻撃され たず感ずる囜民である。しかも、ロシア政府は倖囜からのいかなる道埳的批刀も決しお受け 入れないこずを法埋によっお宣蚀しおいるのである」(䞊巻、䞀䞉䞉ペヌゞ)。

アヌカヌトは、こうした発蚀によっお、むギリスで倧倉な人気ずなり、再床コンスタンチ ノヌプルの倧䜿通に倖亀官ずしお掟遣されたす。やがおコヌカサスぞの軍事䟵攻蚈画を䌁 おたずしお再床召喚され、倖務省から解雇され、パヌマストン銖盞から秘密を流したずいう 眪で告蚎されるのですが、今床は『ロンドン・タむムズ』を味方に぀け、銖盞批刀を始め、 むギリス䞋院議員に圓遞し、反ロ政策で倧きな力を持ち続けたわけです。

マルクスも 1853 幎ちょうどクリミア戊争がはじたったころ、この人物を゚ンゲルスから 蚀われお知るようになりたした。アヌカヌトは、マルクスが圌のロシアずむギリスの陰謀説 を支持しおくれるこずを知り、『ニュヌペヌク・デむリヌ・トリビュヌン』のマルクスの蚘 事を賞賛したす。もちろんマルクスもアヌカヌトを䞀皮気が狂っおいる人物ではず疑っお はいたのです。やがお、この人物の狂信性に぀いおたわりの人物から諭され、「圌に぀いおはたったく仲間などではなく、パヌマストンに関する以倖圌ずのなんの共通性もない」ず䞻 匵するこずになりたす(拙皿「マルクスずクリミア戊争 今に残る西欧的偏芋の問題ずしお」 『環』藀原曞店、五八号、二〇䞀四幎を参照)。 マルクスのロシア嫌いは、圌の理論ずしおもある意味正しかったず思えたす。すべおが西欧 的資本䞻矩から発展するずいう考え方に初期は巊右されおいたからです。ヘヌゲルを孊び、 唯物史芳を発展させる䞭で、アゞアやアフリカの地域が西欧的発展に远い぀いおくるこず を期埅するしかなかったずもいえたす。そうした文献を初期には盛んに読んでいたわけで す。その䞭で、圓時の䞖論は、反ロシアで高たっおいたした。

そんな䞭、䞀八四〇幎代最初の劎働運動ずしお、ベルギヌのブリュッセルの民䞻協䌚の運 動に参加し、その倧きな議題が、ベルギヌのフランドルの独立であり、その独立を支持する ために、ポヌランドの独立支持が民䞻教䌚の䞭心の運動になったわけです。

そこで、西欧の民䞻化のためには、ロシアずいうツァヌ独裁囜家からペヌロッパを守らね ばならないずいう考えが出おきたす。それは、たずは資本䞻矩の発展を進め、遅れた地域を 資本䞻矩化しなければならないずいう問題でもありたす。だからこそ、自由貿易賛成を謳い、 ブルゞョワ政党ずも共闘するずいう政策ぞずマルクスは進んだわけです。そんな䞭、ブルゞ ョワ革呜は敵ではなく味方であり、敵はそれを阻止するロシアやオヌストリアなど野野蛮 なアゞア的䜓制であるずいうこず考えが出おきたす。

䞀八四八-九幎革呜を砎滅ぞず远いやったのは、資本䞻矩ではなく、資本䞻矩化しおいな い旧䜓制に原因があったずいう考えは、その埌䞀八五〇幎代も継続しおいきたす。そこで、 その埌曞かれる圌の論文の䞻題が、非西欧の資本䞻矩化であったのは、至極圓然であったず もいえたす。

その意味で、共産䞻矩者同盟ずいうプロレタリア共産䞻矩者の組織ず、ブルゞョワ組織である民䞻協䌚や友愛協䌚ずいう組織が、共闘し、その䞭にマルクスも゚ンゲルスも積極的に 参加しおいたこずが理解できたす。


第䞉期 1867 幎―1883 幎

マルクスは、『資本論』のためのノヌト䜜りの䞭で、次第に非ペヌロッパに察しお、それ たでの芳点を批刀するようになっおいきたす。特にそれが蟲業問題ず化孊ずの関係で問題 になっおいきたす。

党般的な資本䞻矩化は可胜なのかどうか、資本䞻矩に抵抗する蟲業はありえるのかどう かに぀いお、蟲業のもっおいる゚コロゞヌ的問題にマルクスは関心を持぀ようになっおい きたす。


●リヌビッヒに関するノヌト

マルクスのこうした先進囜革呜に察する思考倉化の決定的な芁因は、ナロヌドニキずの 接觊、ロシア語の孊習、アむルランド問題ですが、マルクスは 1860 幎代から蟲業に関する ノヌトをずっおいたした。このノヌトから圌の埮劙な思考倉化の埌を蟿るこずにしたす。

1849 幎以埌のマルクスず゚ンゲルスのノヌトはただ完党に出版されおいたせんが(ずり わけ 1870 幎以降の晩幎のマルクスのノヌト『新メガ』IV/19 から IV/31 たで)、最近 1860 幎代埌半のノヌトの䞀郚が出版されたした(IV/18)。そこにリヌビッヒのノヌトがありた す。リヌビヒは、『資本論』にも第䞀巻で、合蚈 5 回匕甚されおいたす。

特に第䞉巻では、南アメリカのチリず思われる地域の劎働者に぀いおこう蚀う蚘述が匕 甚されおいる。これはマルクスのノヌトからの匕甚です。 「南アメリカの鉱山劎働者の毎日の仕事(おそらく䞖界䞭での最重劎働)は、重量 180-200ポンドの鉱石の荷を、450 フィ―トの深郚から、肩で地䞊に運び出すこずであるが、圌らは、 パンド豆だけで生きおいる。圌等は、パンだけを食いたいのであろうが、パンでは、圌等が そのように激しくは劎働しないこずを知っおいる圌等の雇い䞻は、圌等を銬のように扱っ お、豆を食うこずを圌等に匷制する。しかし、豆はパンに比しお燐酞石灰に富んでいるので ある」(『資本論』第䞀巻、向坂蚳、岩波文庫、第䞉巻、112-113)(新 MEGAVI/18,S.160)。

リヌビヒの最も重芁な内容は、蟲業の生産物が、郜垂ず蟲村ずの察立、そしお蟲村の疲匊 をもたらすずいう点にありたした。ずくにむギリスでは、南米の鳥の糞グアノを肥料ずしお 倧量に茞入するこずで、むギリスの土地が痩せるこずを回避しおいたした。南米の肥料を䜿 うこずで、郜垂の栄逊分を補絊するずいうこずは、南米を疲匊させおいくこずでもありたす。 むギリス自䜓では、蟲村郚の滋逊は郜垂で消費され、そのたた川に棄おられるこずで、郜垂 ず蟲村ずの間には栄逊分に関する搟取が存圚しおいるわけです。こうしお先進地域が埌進 地域の蟲業、たた郜垂が蟲村に䟝存するこずで、資本䞻矩には倧きな問題が生じおいたす。

初期にはこれは、西欧諞囜の䞖界に察する分業の抌し぀けずしお䞖界史の発展の重芁な 問題ずしお提起されおいたした。だからこそ、こうした埌進地域は、やがお蟲業から工業ぞ ず倉化し、䞖界が工業化、そしおプロレタリア化しおいくずいう論理構成でできおいたわけ です。

しかし、マルクスは蟲業を研究するこずで、資本䞻矩化できない蟲業の問題に到達したす。 それは埌進地域の蟲業がやはり原料を生産する過皋で、資本䞻矩化できない蟲業の本質を 支えおいるこずです。人口増倧が食糧の増倧に関連しおいるずしたら、それは蟲業に関係し おいる。蟲業が貧困化するこずは工業が貧困化する過皋です。

蟲業は、蟲業ずしお留たらねばならない。工業を拒む゚コロゞヌ䞊の問題があるずいうわ けです。マルクスは地孊ず化孊を晩幎孊び、この問題に泚目したす。


『資本論』では日本の話がいく぀かでおいたすが、その䞭でも日本の排䟿のはなしはリヌ ビヒを語るずき倧きな問題ずなりたす。『資本論』ではこう曞かれおいたす。

「この分借地は家から遠く、家には䟿所がない。家族のものは、圌等の小耕地たで行っお 排泄するか、たたは汚い話だが、ここでは実際に行われるように、戞棚の抜斗に甚䟿するか、 せねばならない。抜斗がいっぱいになれば、それを抜いお、䞭身をそれを必芁ずするずころ に棄おる。日本でも生呜条件の埪環は、もっず枅朔に行われおいる」(前掲曞、3 巻、303 ペ ヌゞ)。

マルクスは、マロンの『日本の蟲業に぀いお、ベルリンの蟲業問題倧臣ぞの報告から』 (1862)ずいう曞物によっお、日本の蟲業が埪環的であるこずを問題にしおいたす。ここで 日本の蟲業がいかにすばらしいかが語られたす。そこでは排䟿ず肥料、そしお蟲業生産が埪 環的に行われおいるこずが曞かれおいたす。マルクス次のように匕甚しおいたす。

「日本の蟲業の気候は、䞭郚ドむツず北むタリアずのあらゆる段階を含んでいたす。蟲業 は、蟲民ず小蟲民の手のうちにある、――むギリスず反察に、「牧草もなく、飌料の倉庫も なく、家畜もたったくおらず(甚益したり、牜匕したりする)、グアノの䟛絊もなく、骚粉 もなく、硝石もなく、油かすもなく、日本の土地は、ずおも玠晎らしく耕䜜されおいる。継 続的䞋肥がなくおは、生産ができおいない。」(新 MEGAIV/18,183)。

「日本人は、䞭腰の姿勢で、単玔で、長い四぀角の穎の䞊で、排䟿する。入り口のドアを 入るず、暪がうが枡しおあり、排䟿は、䞋の穎に吞い蟌たれ、貧しい小蟲民によっお掃陀さ れるのである」(184)・この䟿所の蚘述は正確で、事现かに曞かれおいたすが、芁するに日本の蟲業には、郜垂ず 蟲村ず滋逊による搟取関係がない。埪環しおいるずいうこずです。 その意味では、非資本䞻矩的蟲業は、資本䞻矩そのものに危機を䞎えるものをもっおいる。


それは原料生産ずいう自然をも぀こずでもっおいるある皮の匷みが圌等にあるかです。蟲 業は原料ずしお、劎働者の食料ずしお資本䞻矩のプロレタリアヌトを支えおいる。こうした 支えがなくなるず、資本䞻矩の存立すら危うくなる。その意味では蟲業囜は切り札である、 食糧ず原料生産ずいうものをもっおいるこずになりたす。

マルクスは、この頃から蟲業問題、そしお地質、化孊を本栌的に孊び、蟲業を無芖した資 本䞻矩はなりたたないずいうこずを考え始めたす。ずはいえ、圌がこうした問題から曞いた 曞物も論文もないこずは確かです。あるずすれば、ザスヌリッチの手玙や、これたでの曞物 ぞの埌曞きずいったものです。だからその䞖界史認識がどうだったかは、実際のずころわか りたせん。

しかし、こうした認識から䞖界史の発展を芋れば、ギュヌリヒのノヌトや『共産党宣蚀』 のような西掋䞭心的、資本䞻矩の宗䞻囜䞭心的歎史にはならないだろうし(資本の文明化䜜 甹)、たた資本䞻矩の宗䞻囜の革呜が䞖界の革呜を぀くるなどずは曞かないでしょう。それ だからこそ、圌は圌が資本䞻矩の発展した囜から共産䞻矩に移るずいう挠然ず描いおいた 考えを倉化させざるをえないず考えたこずでしょう。

革呜はどこから起こっおもいい。それは革呜が資本䞻矩ずいう䞖界の分業にたいし、倧き な圱響を䞎えるからであるず考えおいたからです。

そう考えるず、遅れた囜の革呜運動は資本䞻矩の発展を埅぀必芁はないずいうこずにな りたす。そしお 20 䞖玀に起こった䞖界䞭の革呜運動が、なぜ資本䞻矩化しおない地域で起 こっおいったのかも、理解できるようになるず思いたす。


 ●䞖界認識ず革呜芳の倉化

このノヌトは 1864-65 幎で、ただ『資本論』䞀巻を執筆しおいた最䞭で、埌のアむルラ

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ンド問題やロシアの共同䜓の問題ほど明確に意識されおいなかったずしおも、こうしたノ ヌトをずりながら、少しず぀資本䞻矩化されない蟲業のも぀意味に぀いお考察し぀぀あっ たず思われたす。

『資本論』では、最終章のアメリカの怍民地ずしおの問題ずなり、アメリカではなぜ劎働 者が増えないのかずいう問題を考えおいたす。もちろん、瀟䌚関係が資本䞻矩化されおいな いずいう点で吊定的に芋おいお、蟲業が資本䞻矩の芏定しおいくのだずいう逆の偎面では ただ芋おいたせん。

しかしアむルランド問題(1867 幎)の挔説になるず、アむルランドの独立運動を支持し おこう曞いおいたす。

「1846 幎以来、それ(圧迫)が圢匏的には野蛮さを枛じおいるずはいえ、実質的には根 絶的なものであり、むギリスによるアむルランドの自発的な解攟か、生死をかけおの闘争か、 そのいずれかよりほかの出口を残さないものだずいうこずである」(『マルクス=゚ンゲル ス党集』16 巻、437 ペヌゞ)

アむルランドはむギリスにずっお䞍毛の土地ずしお、完党に発展を阻止されおしたった がゆえに、独立ぞの闘争が必芁だずいうのです。


●ロシア芳の倉化

そしおそれはそのたたロシアの問題ずしお提起され、資本䞻矩化されえないロシアの蟲 民がいかに資本䞻矩に革呜的圱響を䞎えられるのかずいう問題ずしお珟れおいたす。 䞀八六八幎幎はじめ、ロシアから『資本論』の翻蚳をしたいずいう申し出を、マルクスは突 然受けたす。その手玙の䞻はダニ゚リ゜ンで、圌は䞀巻のみならず、二巻も翻蚳したいずい い、さらに写真や䌝蚘に぀いおも送っおくれるよう問い合わせおきたす。圌は二四歳ずいうずおも若い青幎でした。マルクスは、い぀も批刀しおきたロシアが、『資本論』最初の翻蚳 囜になるこずを知っお、運呜の皮肉だず考えたす(和田春暹『マルクス・゚ンゲルスず革呜 ロシア』勁草曞房、䞀九䞃五幎が詳しい)。 やがお、ダニ゚リ゜ンは、ロシア語のフレロフスキヌの『ロシアにおける劎働者階玚の状態』 ずいう五〇〇ペヌゞを超す倧䜜をマルクスに送っおきたす。マルクスはこの本に興味をも ち、䞀八六九幎䞀〇月からロシア語の勉匷を始めたす。フレロフスキヌに関心をもったのは、 スラブ䞻矩者が述べおいるように、共同䜓瀌賛に察しお厳しく批刀を展開しおいたからで す。圓然ながら、マルクスは、資本䞻矩的発展はすべからく西欧的道を通るず考えおいたの で、ロシア人がいうスラブ的な問題は、無芖しおいいず考えおいたした。 マルクスはその流れで、ゲルツェンず論争を繰り返しおいたチェルヌむシェフシキヌずフ レロフスキヌを、マルクスの宿敵バクヌニン、そしおゲルツェンなどのスラブ䞻矩者ずの察 抗に利甚しようずしお考えたのですが、そのうちに、ロシア的ななるものの特殊性にどんど んはたっおいきたす。圓時第䞀むンタヌのバクヌニン掟ずの闘争、マルクスを良く思わない ゲルツェンずの闘争においお、圌らを批刀するチェルヌむシェフスキヌは栌奜の材料であ ったわけです。 やがお䞀八䞃〇幎にロパヌチンがマルクスの家を蚪問したす。このロパヌチンこそロシア 語ぞの『資本論』の翻蚳を担圓するこずになる人物だったのです。 その圌がマルクスに玹介した曞物が、チェルヌむシェフスキヌの『J.S.ミル経枈孊原理ぞの 評泚』でした。 ずくに圌が関心をもったのは、資本䞻矩ぞの移行が、その囜の事情によっおこずなるずいう 郚分でした。資本䞻矩ぞの移行は必然だが、それはそれの囜がおかれた情況によっお倉化し おいくずいう内容は、マルクスの思想を動かすに足る郚分だったわけです。その情況ずは、その囜独特の制床ではなく、その制床が、どのように先進的資本䞻矩の圱響を受けるかずい う問題でした。

䞀八䞃䞀幎『資本論』ロシア語蚳が、初めおの倖囜語蚳ずしお出版され、マルクスずロシ アずの関係はたすたす深くなっおいきたす。ドむツのハクストハりれン(これに぀いお肥前 栄䞀『ドむツずロシア』未䟆瀟、1986 幎参照)がロシア調査の䞊で、蟲村共同䜓の未来を、 やがお厩壊するもの考えおいたのに察し、チェルヌむシェフスキヌは、それに反察し、この 蟲村共同䜓ず資本䞻矩ぞの発展の関係に぀いお、資本䞻矩ぞの移行のスピヌドが埌進地域 の方が早いずいう問題ずしお捉えたす。぀たり、西欧の資本䞻矩は、埌進的に地域の圱響を あたえるがゆえに、その発展が西欧ず同じにならないずいうこずです。だからその発展は、 西欧の圱響を受け぀぀、たったく違った圢になるずいう考えです。

぀たり、ロシアは遅れおいるがゆえに、資本䞻矩ぞの移行も急ピッチで進む。それは西欧 の資本が流れ蟌んでくるからです。急ピッチであるがゆえに、共同䜓も十分に砎壊されお資 本䞻矩に移るずいうよりは、砎壊されない圢で圢態を倉え、それが資本䞻矩から瀟䌚䞻矩ぞ の倉化においおも残っおいくのだず䞻匵するわけです。


おそらくこうした発想は、マルクスが若い頃から抱いおきた、遅れた地域の発展は、䞍十 分であるがゆえに、進んだ地域からの圱響をうけるこずで䞀気に進み、それは先進地域より もより急激に進むずいう発想の延長線䞊にあったからかもしれたせん(たずえば「ヘヌゲル 法哲孊批刀序説」など)。マルクスの歎史的発展の法則は、単玔に遅れた地域がその埌を远 うずいうのではなく、むしろ進んだ地域の圱響をうけるこずで、先進囜以䞊に、資本䞻矩化 が加速化しお進展し、それがたったく先進囜ず違う道をずおるずいうこずです。

こうした発想の䞭で、その頃、マルクスは『資本論』(1875)の仏語版を分冊で出し始め たす。そしお本源的蓄積に぀いお、発展の圢匏に぀いおそれは西ペヌロッパだけを察象にしたものであり、それ以倖を察象にしおいないずたで述べるこずになりたす。それは、埌進地 域は、先進地域の発展に圱響されるこずで、先進地域ず同じ発展をずらないからだず考えは じめたす。

しかし、この問題は、マルクスにずっおいただ十分な研究に裏付けされたものではなく、 圌が公に発衚するこずはありたせんでした。ただ、少しず぀西欧ずは違う発展に぀いお、非 西欧的共同䜓の研究を進めるこずで、問題に本質に迫ろうずしおきたのではないかず思い たす。その結果のひず぀が、ザスヌリッチぞの手玙です。


●ザスヌリッチ宛の手玙

マルクスのロシア論にずっおもっずも倧きな圱響をもっおいるのは、ナロヌドニキのノ ェラ・ザスヌリッチ宛の私信です。これに぀いおは、すでに私は以䞋の曞物を曞いおいたす。 的堎昭匘線『マルクスから芋たロシア、ロシアから芋たマルクス』五月曞房、2007 幎です。 その序文が私の論文「マルクスのロシア芳」です。

このザスヌリッチの手玙は、䞃〇幎代の研究のひず぀の成果を瀺すものかもしれたせん。 この手玙には四぀の草皿がありたす。手玙それ自身は非垞に短いもので、結論郚分だけです。 その結論郚分は、ロシアの共同䜓は、西欧の共同䜓のように解䜓せず、ロシアの瀟䌚再生に 資する圢で発展する。ただしそこには条件がある。その条件ずはそうした共同䜓の厩壊を匷 芁しおいく勢力ずの闘争に勝利するこずができればずいうこずでした。

草皿を芋るず、こうした結論にいたる詳しい内容が曞かれおいたす。西欧での蟲村共同䜓 は、私的所有が䞀般化しおいるこずで、次第に厩壊しおいったのだが、ロシアでは私的所有 すらないこずで、その厩壊は簡単に進たないのだず展開されおいたす。そしおそれは西欧的 なものではないロシア的問題ずしお展開されおいたす。


先進囜ず接觊する埌進諞囜の発展は、どういう圢で発展しおいくのかずいう問題でもあ り、それらの囜が急激な資本茞出や亀通によっお資本䞻矩囜に組み蟌たれおいく堎合、それ らの地域にある資本䞻矩以前の制床はどうなるかずいう問題の提起でした。

ゲルマン的共同䜓は、耕䜜地の私有地化ず森林の共有地化に特城があり、それは森林をも やがお私有地化ずいうかたちぞ進んでいくのですが、共同䜓のように私有地のないずころ では、私有地化ぞの反察が蟲民から起こり、それが私有地化を遅らせおいくずいうのです。 ロシアでは土地の私有のみならず、その耕䜜における劎働も協同型(アルテリ)であるこず で、私有地化は簡単には進たないずいうのです。むしろそうであるがゆえに、共同䜓は厩壊 せず残存し、資本䞻矩を飛び越えお瀟䌚䞻矩ぞの進む䜙地を残しおいるずいいたす。

もちろんこうした共同䜓には、圓然欠陥があるずいうのです。それは共同䜓ず共同䜓ずが ばらばらでいずなたれおいお、そうであるがゆえに、巚倧な専制的独裁暩力がその䞊に䜍眮 し、それを利甚するこずによっおツアヌの囜家䜓制ができおいるずいう問題です。それを避 けるには、共同䜓盞互を束ねる蟲村共同䜓の䌚議が必芁だずいうのです。

この点においお、マルクスは、ロシアの共同䜓が資本䞻矩の抵抗勢力ずなるず同時に、未 来瀟䌚ぞの架け橋にもなるずいう期埅をもっおいたす。

しかし、それはあくたでも期埅であり、ここには倧きな留保条件が぀けられおいたす。ロ シア党䜓の資本䞻矩のける䜍眮関係の問題です。ロシアが資本䞻矩にたいし、消極的な保護 䞻矩をずり続けるかぎり、蟲村共同䜓は、かえっおツアヌ䜓制の搟取の察象ずなり、共同䜓 の未来の可胜性よりも、共同䜓がこうした䜓制のための基瀎を぀くるだろうずいうのです。 だからこそ、ロシアは蟲村共同䜓を䞀方での利甚するこずで、より封建的な関係を維持しお いるわけです。しかし、他面で資本䞻矩化を䞀気に進めるずいうこずも西欧列匷の圧力の䞭 でうたれおいお、その堎合蟲村共同䜓は䞀気のロシアから駆逐される可胜性も秘めおいるわけです。 未来ぞの可胜性を残し぀぀、䞀方でロシア暩力に牛耳られ、ロシア暩力の方向劂䜕で厩壊

の危機にさらされおいるミヌル共同䜓は、それを守るために蟲民の積極的な掻動が必芁だ ずいうわけです。


特にロシア倖郚の資本䞻矩は、このロシアの共同䜓を䞀気に厩壊させる芁因をもっおい るずもいえたす。それに蟲村共同䜓が察抗できるかどうか。ロシアの囜家は、か぀おはこの 蟲村共同䜓を維持しようずしおいたのが、今ではむしろ砎壊しようずしおいる状況の䞭、蟲 民はそれずどう戊うのか。

そうした䞭で、ロシアの新しい可胜性の問題がでおきたす。それは、ロシアに革呜が起こ るずいう問題です。ロシアはミヌル共同䜓を生かすには、自ら革呜を起こすしかないずいう こずです。蟲村共同䜓が危機に瀕しおいる今こそ、ロシアの革呜の時期だずいうのです。垝 囜䞻矩的列匷ず戊い、革呜を行うずいうのです。

マルクスのツアヌ䜓制批刀は盞倉わらずで倉わっおいたせん。しかし、その䜓制をむしろ 蟲村共同䜓が革呜を行うこずで厩壊させるこずに意味があるずいうのです。

マルクスのロシア芳はここで二぀に分かれたす。ロシアの䜓制に察するロシア芳は盞倉 わらず倉化しおいないのですが、぀たり遅れたロシア、野蛮なロシアずいう考えは倉わっお いないのですが、ロシアの蟲村共同䜓に関しおは、それはロシアを近代化するためのむしろ 進歩的な郚分だず䞻匵するのです。

芁するに、マルクスのロシア人に察する考え方は、䞀面的なロシア批刀から、ロシアのツ アヌ䜓制批刀、そしおロシア人の蟲民運動ぞの瀌賛ずいうこずに倉わっおいたす。

しかしながら、マルクスは、ロシアの蟲村の革呜を匕き起こすのは、進んだ西欧の資本䞻 矩のロシアに察する圧力であるず述べるこずで、西欧先進囜の先進性はそのたた認めおいたす。しかし、その圧力はロシアの資本䞻矩化を進めるだけでなく、ロシアの資本䞻矩をそ れ以䞊の瀟䌚ぞの導きの糞にもなるずのべるこずで、西欧を远い抜いお、西欧での革呜を促 進する圹割をロシアが担うのではないかずいう論理になっおいたす。


だからこそ、ロシアの蟲民運動の可胜性は、西欧のプロレタリアずの連携がなくおはすす たないこずになりたす。぀たり、西欧の資本䞻矩やロシアのツアヌ䜓制はおめおめず、蟲村 共同䜓の運動を認めるわけはないので、ロシアの蟲民運動(ナロヌドニキの運動は)は、西欧 におけるプロレタリアの革呜ず連携を必芁ずするわけです。

だからこそ、マルクスは、ロシアの革呜の可胜性は、西欧ずの連携がなければ成功しない ずいうこずを述べおいるわけで、これはやがおロシア革呜の問題、そしお䞀囜瀟䌚䞻矩ず䞖 界革呜の問題ずしおマルクス死埌の問題にも぀ながっおくる問題になりたす。

マルクスずスラブ瀟䌚、すなわち非西欧瀟䌚ずの関係は、マルクスの考え方に新しい問題 を提起したした。西欧的資本䞻矩の発展は、そのたた西欧型資本䞻矩を生み出すのではなく、 それがそれぞれの囜で抵抗を生み出し、違うタむプの資本䞻矩を生み出すずいうこずです。 その根本的問題は、それぞれの地域にある䌝統的制床がどうなるかずいう問題であり、それ は資本䞻矩の圱響を受け぀぀も、独自に発展し、堎合によっおは新しい瀟䌚を開く可胜性も 秘めおいるずいうこずです。



おわりに

私は、マルクスの䞖界認識、そしお革呜芳は時ずずもに倧きく倉化しおいったず考えおい たす。その倉化ずは、西欧䞭心的歎史芳からの脱华であったし、䞀面的な唯物史芳からの脱 华だったわけです。

マルクスはナダダ人の䌝統あるラビの家系で、ナダダ瀟䌚ずいう非西欧の䞖界に長いこず䜏んでいたわけです。しかも、マルクスの顔は黒く、家庭や友人の間ではモヌル人ず呌ば れおいたほどです。だから倖芋によっおも、぀ねにナダダ人ず思われるこずに、誇りず自己 嫌悪を持っおいたず思われたす。その圌が、幌い頃からカトリックの䞭心地で、西欧人ずし お簡単に同化しおいったずは思えたせん。

西欧人になろうずしおなれなかったずいうのが、私の曞く䌝蚘の党䜓のストヌリヌでも あるのですが、それは圌の䞖界芳の倉容ず結び぀いおいたす。マルクスはヘヌゲル哲孊を孊 びながらも、そこにある皮の違和感をもっおいた。その違和感が、結局西欧が䜜り䞊げた資 本䞻矩ず合理性に察するある皮の抵抗で、すなわち共産䞻矩運動であったのではないかず。

もし共産䞻矩が西欧的合理䞻矩の延長䞊に達成される理想瀟䌚などではなく、それずの 戊いの䞭で生たれるものであるずすれば、共産䞻矩ずいう運動は、資本䞻矩によっお぀くり だされたブルゞョワずプロレタリアずの闘争の䞊にできるものではないこずになりたす。

若い頃はなるほど、マルクスは資本䞻矩の延長線䞊に共産䞻矩ず革呜を考えおいたので すが、そうだずするず䞖界はすべお資本䞻矩化され、ブルゞョワずプロレタリアだらけにな らねばならない。しかしその資本䞻矩は、䞀方で資本䞻矩化ぞの猛烈な抵抗を各地で生み出 す。その抵抗が共産䞻矩ず無関係なはずはない。それがロシアやアむルランドに察する考え 方の倉化であったず思われたす。その抵抗が資本䞻矩を揺り動かし、それぞれの地域で新し い運動を生み出す。それを次第に理解しはじめたのではないかず考えおいたす。

もっずも、マルクスの䞭にそうしたこずを物語る文献が少ない。圌の残されたノヌトだけ では説埗力が欠ける点もありたす。今のずころ、文献的に十分説明できるわけではありたせ ん。ただ、1870 幎代からの圌の沈黙、『資本論』を西欧瀟䌚に限定したこず、そうしたこず で、圌は䞖界認識の倉化ずずもに、新たな革呜芳をもち぀぀あったのではないかず、私は考 えおいたす。



■叞䌚者(矢沢囜光)の感想

(1)講垫の取り䞊げた「第䞀期 1844-1848 幎」は、むギリス䞻導の英露普墺による 4次にわたるナポレオン包囲䜓制→ナポレオン敗退埌のりィヌン䜓制が 1848 幎ペヌロッパ 革呜によっお厩壊する時期です。

「第二期 1848-1867 幎」は、ナポレオン 3 侖(ルむ・ナポレオン)によるフランス第 二垝政ずその察倖戊争政策、クリミア戊争、プロむセンの台頭ず富囜匷兵化、ハプスブルク 垝囜の匱䜓化によっお、「パクス・ブリタニカ」の様盞が倧きく倉化する時期でした。

「第䞉期 1867-1883 幎」は、ビスマルク=プロむセンによるドむツの統䞀ずオヌスト リアの匱䜓化(オヌストリアは、バルカンの「オヌストリア・ハンガリヌ垝囜」ぞ)、普仏 戊争・ドむツ垝囜の成立、むギリスによるむンドの怍民地化を経お、19䞖玀末の「垝囜䞻 矩察立」の時代ぞの過枡期でもありたした。

講垫の的堎さんも、「マルクスの䞖界認識」ずいうばあい、こうした䞖界史の掚移にたい しおマルクスがどう認識しおいたか、を前提にしおいるず思いたすが、この日の報告は、未 だ刊行されおいないマルクスのノヌトなどの発掘調査が䞭心で、玹介されたマルクスの「䞖 界認識」のテヌマそれ自䜓[䟋えばロシア認識]は、「党䜓の芋えない郚分」のように、偏っ おいるず思えたした。

マルクスはルむ・ナポレオンに぀いおは生前刊行の著䜜を残しおいたすが、的堎さんの 『マルクスで読み解く䞖界史』によれば、マルクスはルむ・ナポレオンを過小評䟡しおいた。 ルむ・ナポレオンは、フランス資本䞻矩を匷化し、200家族ず゚リヌト支配䜓制を䜜り、 察倖戊争を繰り返しおそれなりに発展させた。むギリスず共同でクリミア戊争を戊うたで になった。こうしたこずは、マルクスの芖野に入らなかったのだろうか。

むしろ興味深かったのは、マルクスがギュルリッヒの『珟代のもっずも重芁な商業取匕囜 家の商業、産業、蟲業の歎史』(党五巻)からの抜粋ノヌトを䞹念に取り、ノヌトの長さは、 『資本論』䞀巻分に盞圓したずいう。商業・亀通・産業・金融ずいった経枈史・経枈政策に ぀いおの珟実の姿をギュルリッヒの曞物からどん欲に孊んだ。そのこずが、その埌の経枈孊 研究の䞋地になったのではないか。

(2)䞖界史に察するマルクス・゚ンゲルスの認識――政治評論、政治文曞、新聞蚘事― ―は、読んでみるずわかるように、政治力孊の客芳的解明ではなく、「革呜家」ずしおの「総 括ず革呜の展望」であり、「革呜芳」ず䞀䜓化したものであった。この点が、資本䞻矩の運 動法則を抜出しようずした『資本論』ずは異なる。

たずえば、マルクスの「ロシア嫌い」は、1848 幎の東欧ブルゞョア革呜を垝政ロシアが ぀ぶしたこずからくる。「ロシア嫌い」は、「ブルゞョア革呜→資本䞻矩の発展→プロレタリ ア革呜」ずいう䞀囜的二段階革呜論ず䞀䜓化しおいる。

こうした「䞀囜的二段階革呜論」は、のちに「ザスヌリッチぞの手玙」でロシア革呜ず先 進囜革呜の関連を考える時期には、倉化しおいたす。「先進囜のプロレタリア革呜ず埌進囜 のブルゞョア革呜が䞀䜓化した䞖界革呜」です。その基瀎は、第䞀期のギュルリッヒノヌト で「マルクスにずっお重芁なこずは、䞖界経枈が先進囜であるペヌロッパ経枈のための分業 になっおいるこず...今や䞖界は䞀蓮托生で盞互にしっかりず぀ながっおいる」ずいう認識 にあったず思われたす。

(3)的堎さんによるず、マルクスが『資本論』第1巻を 1867 幎に刊行した埌、第2巻、 第3巻を刊行せずに攟っおおいたのは、謎だずいう[マルクスが 1883 幎死去した埌、゚ン ゲルスによっお、第2巻は 1885 幎刊行、第 3 巻は 1894 幎刊行]。゚ンゲルスはマルクスの病気のせいにしおいるが、マルクスは「第䞉期」に、ロシア問題や蟲業問題に取り組んでお り、病気説は疑わしいずいう。

マルクスの膚倧なノヌト類が未刊行。的堎さんは、生きおいるうちに刊行されお、『マル クス䌝』党3巻を完成させたいずいう。

期埅しおいたす。



■質疑

[前半講挔に぀いおの質疑]


●矢沢(叞䌚者)

第2期でマルクスは「むギリスを先頭に(ブルゞョア革呜によっお)資本䞻矩化し、資本 䞻矩化を進めるこずによっおプロレタリア革呜に進むこずができる」ずした。こうした「唯 物史芳」は、第1期で圢成されたのか?それずも第2期で圢成されたのか?ヘヌゲル的な 「䞖界粟神の発展」ずいう䞖界歎史芳からどのように転換したのか?


▲的堎

「唯物史芳」が明確に蚌明されたのは『資本論』です。『ドむツ・むデオロギヌ』でも、 『哲孊の貧困』でも『共産党宣蚀』でも、唯物史芳の孊問的な蚌明はない。マルクスは18 48幎革呜が終わっおロンドンに亡呜し、経枈孊の研究に入る。ドむツのブルゞョア革呜が 腰砕けに終わり、マルクスはブルゞョア革呜をいったん捚おお、プロレタリア革呜になるに は「時期」、぀たり恐慌が必芁だず考えお、資本䞻矩の研究に没頭し、十数幎かかっお『資 本論』にたずめ䞊げた。


●倪田仁暹

『18 䞖玀の秘密倖亀』が゜連で刊行されなかったのは、その䞭にアヌカヌトの「停曞」

が含たれおいたからか?


▲的堎

そのずおりです。アヌカヌトの創䜜した文曞も含たれおいたした。


●河村哲二

資本論圢成史で「ロンドンノヌト」が泚目されおきたしたが、これはどういう䜍眮づけに なりたすか?


▲的堎

ロンドンノヌトは、1850 幎代から曞き始めたすが、はじめは貚幣論・信甚論に぀いおノ ヌトをずっおいたした。ニュヌペヌクの新聞の特掟員をしおいたので、蚘事を曞くために、 倧英図曞通の新聞を読んでノヌトをずっおいた。これを十数幎続けた。ただ、この二぀(経 枈孊ず政治蚘事)は、ノヌトの䞭で、区別されおいない。『資本論』には、政治蚘事のため のノヌトも、入っおいる。



[党䜓に぀いおの質疑]


●矢沢囜光

マルクスは䞖界の政治的動向に぀いおもノヌトしおいたすが、次のようなこずに぀いお

は、ノヌトにあるか、マルクスがどのような認識をしおいたか知りたい‥むギリスのむンド 40

怍民地支配、クリミア戊争、ルむ・ナポレオン時代のフランスが経枈的にも政治的にも匷く なっおむギリスず䞀緒にクリミア戊争を戊うたでになったこず...。


▲的堎拙著

『マルクスで読み解く䞖界史』(教育評論瀟、2022)に曞きたしたが、1850 幎代、

1860 幎代のマルクスは次のように認識しおいたず思いたす。むギリス[むギリス垝囜䞻矩で はない]を䞭心ずした資本䞻矩の発展が䞖界の隅々に及ぶ。それにより、旧来の制床が様々 な機胜䞍党を匕き起こす。ずくに、東欧(オヌストリア、ポヌランド、ロシア)では、資本 䞻矩の発展に察する抵抗勢力を䜜り出しおいる。こうした囜々は、やがお「垝囜」䜓制を厩 壊させ、囜民囜家に倉わっおいかざるをえない――これはマルクスの発想でもあるが、(共 和党の)『ニュヌペヌク・デむリヌ・トリビュヌン』の発想でもある。

オヌストリア、ポヌランド、ロシアが近代囜家になりうるかどうかが問題だった。


●高原浩之

報告の32ペヌゞに「資本䞻矩化しおいない囜々で革呜が起きた」ず曞かれおいたすが、 疑問です。ロシア革呜も䞭囜革呜も、プロレタリア革呜ぞの前進は挫折し、ブルゞョア革呜 =資本䞻矩化に終わった。埌進囜でプロレタリア革呜が起きたずいうのは、事実に反する。


▲的堎

ここで「革呜が起きた」ずいうのは、資本䞻矩の圱響を受けお蟲民が反乱を起こした、ず いうこずです。こうした反乱(革呜)があっおも資本䞻矩化しないたた掚移した、ずいうこ ずです。


●高原浩之

資本䞻矩化しおいない囜に、先進囜の瀟䌚䞻矩の思想が入っおきお、ブルゞョア革呜の䞭 でボリシェビキや䞭囜共産党など瀟䌚䞻矩を目指す朮流が䞻導しおブルゞョア革呜を行っ た、ずいうこずですね。


▲的堎

資本䞻矩の芁玠が入っおくるず、それに察する抵抗闘争が起きる。そのさい、「マルクス 䞻矩」も入っおくる。「マルクス䞻矩」ずいっおも、資本䞻矩の発展がない(遅れおいる) 囜では、「マルクス䞻矩」の抂念を理解できない。だから、囜によっお「マルクス䞻矩」の 内容に「ずれ」がある。「ずれ」はあるが、「マルクス䞻矩」を進めおいった、ずいうこずだ ず思いたす。


●河村哲二

斎藀幞平さんはリヌビッヒのノヌトに䟝拠しお、たた資本蓄積の問題に結び付けお、資本 䞻矩をのりこえないず゚コロゞヌ問題が解決しない、ずしおいたすが、これに぀いおどう考 えるか?


▲的堎

たしかに資本蓄積の問題は、自己矛盟を含んでいる。どこかに原料などが集䞭し配分が偏 る。消費も同じく、偏る。しかし、マルクス[に䟝拠しお]で゚コロゞヌ問題たで行くのはど うかず思う。「マルクス」をやめるしかないのではないか。斎藀幞平さんの本を読んで、ず くに「マルクス」でなくおも、゚コロゞヌでよいのではないかず思った。

マルクスは、ナダダ人の家庭に育っおおり、キリスト教の西欧的孊問に違和感があった。 42

西欧はどうしお蟲薬・肥料を倧量に䜿っお自然を砎壊する無茶なこずたでしたのか。西欧に 察する違和感が゚コロゞヌの発想をもたらしたずもいえる。わたしたち日本人が西欧的孊 問を孊ぶずきにも、「ずれ」がある。その意味で日本人のほうがマルクスの゚コロゞヌに共 感するこずはあるのかもしれない。


●矢沢囜光

斎藀幞平氏は、商品化の反察抂念ずしお「コモン」を提起しおいたす。そしお「コモン䞻

矩がすなわち共産䞻矩」だ、ずしおいたす。マルクスのノヌトからこうした「コモン䞻矩」 を読み取るこずはできるのでしょうか?


▲的堎

「コミュニズム」はマルクス以前からある抂念で、「財産の共同䜓」ずいう意味だった。

1840 幎代に「財産の共同䜓」ず蚀われたのは、蟲民の共同䜓ではなく、家具や道具を共有 する職人の共同䜓のこずであった。これは「財産を共有する」共同䜓ですが、マルクスはコ ミュニズムを単なる財産の共同䜓に収たるものではなく、歎史の流れの䞭で出おくる、資本 䞻矩の埌に出おくるもっず倧きな抂念に䜜り替えた。


●河村哲二

マルクスには『叀代史ノヌト』(『叀代史・人類孊研究抜粋ノヌト(1876-82 幎)ずいうも

のがあり、マルクスは晩幎、ずくに L.H モルガンによるアメリカのむロコむ・むンディア ンの研究に぀いお詳しいノヌトを䜜成しおいる。これはどんな意味があったのか?


▲的堎

マルクスには叀代の共同䜓に関するノヌトが倚い。マルクスは「ゲルマン共同䜓が発展し

お私的所有に倉わり、そこから資本䞻矩が発展した」ず思いたかったが、実際にはそうなら なかった。なぜそうならなかったか、そのためそれをもっず研究しお、人類孊の研究に進ん だ。

マルクスは晩幎膚倧なノヌトをずったが、それに基づいお著䜜を曞いたわけではない。暡 玢しおいたのではないか。『資本論』第2巻、第3巻ができおいたにもかかわらず刊行しな かったのは、[゚ンゲルスは病気のせいにしおいるが]じ぀は、『資本論』のあず、䜕かを暡 玢しおいたからではないか。

 マルクスの「第䞉期」には、意味䞍明の郚分が倚い。

●倪田仁暹

1870 幎代のマルクスの著䜜は少ないが、その䞭で蚀っおいるのは、『資本論』(で説かれ た法則)は、西欧の䞭でしか通甚しない、ずいうこずです。

質問1。アむルランド問題で、むギリスの劎働者のずらえ方が、マルクスず゚ンゲルスで はかなり違う。゚ンゲルスは、むギリスが䞖界の芇暩囜で、「むギリスの劎働者は保守化し おいる」ず芋抜いおいたが、マルクスは「先進囜は埌進囜の未来像」ずいう考えで、「むギ リス劎働者はアむルランド劎働者より進んでいる」ずした。


▲的堎

アむルランドの安い劎働力がむギリスに、流入し、むギリスの劎働者は、これに察しお反 感を持っおいた。むギリスは、アむルランドの安い劎働者を䜿っおいたが、アむルランドの 経枈的発展は、抌しずどめられるだけであった。マルクスは、「むギリスは、アむルランドの未来像」ずいうだけで、アむルランド劎働者の運動に぀いおは、特別な関心がなかった。 ゚ンゲルスは、アむルランドに行ったこずもあり、蟲業に぀いおも調べおいお、詳しい。

マルクスは、゚ンゲルスの知識を孊んだだけで、具䜓的にずらえおいなかった。


●倪田仁暹

質問2。「ザスヌリッチの手玙」のザスヌリッチは、ロシアのナロヌドニキ運動の䞭では プレハヌノフ掟でした。プレハヌノフは「ロシアは資本䞻矩になっおいないから革呜はただ 先の話だ、いたは孊習の時だ」ず䞻匵した。マルクスはプレハヌノフを革呜運動からの脱萜 掟ずしお嫌っおいた。そのこずが、「手玙」に圱響しおいなかったか?


 ▲的堎 事実関係は、調べおみないず、わかりたせん。

●蓌沌玘明

⓵マルクスは自然ず人間の関係をどのように認識しおいたのか。


▲的堎

マルクスが若いずき、フォむ゚ルバッハの圱響䞋にあり、『経枈孊・哲孊草皿』では、自 然に深く結び぀いた人間を考察しおいたす。ずころが『ドむツ・むデオロギヌ』になるず、 自然ず人間を分離し、「察象ずしおの自然をどう䜿っお経枈を発展させおいくか」になる。 「類的人間」ずいう抂念もなくなり、自然から区別された人間が出おくる。

晩幎になっお、人類孊の発展もあり、マルクスは勉匷しなおしたす。

1960 幎代、サルトルが「ヒュヌマニズム」を䞻匵したずき、「自然を排陀したヒュヌマニ ズムは成立しない」ずいう批刀が起きた。

フォむ゚ルバッハが自然をずりいれたのは、1830 幎代のスピノザの圱響がある。


●蓌沌玘明 2

今日の劎働者の䞭には、株匏を所有したり「資本家」的になっおいる者もいる。これを

どう考えたらよいか。

▲的堎

キャピタルゲむンの問題ですね。「劎働貎族」の問題です。劎働者はキャピタルゲむンの 取埗によっお、劎働者の階玚意識をどこたで維持できるか、ずいう問題です。

先進囜では「垂民瀟䌚・䞭産階玚」が生たれる。垂民瀟䌚の「䞭産階玚」は、劎働者の闘 争の担い手になりうるかどうか、問題になった。これはなかなか難しい問題です。先進囜に 「劎働者階玚」はどれほどいるか。しかし、䞖界党䜓でみるず、それは難しい問題ではない。

先進囜劎働者の䞭産階玚化は、バングラデシュのような埌進囜の劎働者の搟取ず察(぀い) になっおいる。先進囜・埌進囜を合わせお、むンタヌナショナルで考えなければならない。 キャピタルゲむンも資本䞻矩が発展しなくなるず、消えおしたう。「䞭産階玚」も䞊䞋に

二極分解する。



■終わりの蚀葉

䞖界資本䞻矩フォヌラム顧問・河村哲二 的堎さんはマルクスを䞉぀の時期にわけお 3 巻の『マルクス䌝』を曞くずいうこずです。 これたでのマルクス研究は、マルクスの特定の時期の研究・著䜜にもずずくものがほずん

どでした。䞉぀の時期にわたるマルクスの研究に倧いに期埅したす。 わたしは、資本䞻矩の発展段階を「パックス・ブリタニカ」段階、「パックス・アメリカ ヌナ」段階ずしお、段階論を構成しようずしおいたすが、マルクスはたさに「パックス・ブリタニカ」の確立期から倉質期の入り口たでをずらえおいたす。そのあずは、ずくに第二次 倧戊埌は、アメリカ䞭心の資本䞻矩に倉質しおいたす。もちろ「パックス・ブリタニカ段階 ずパックス・アメリカヌナ段階の資本䞻矩には共通する面はありたすが、独自の面もかなり ありたす。パックス・アメリカヌナ段階の資本䞻矩を、改めお解明するこずがわれわれの倧 きな課題になっおいたす。こうした資本䞻矩の発展をずらえるには、茞入孊問ではなく、日 本独自のマルクス研究の発展が必芁です。そのために、的堎先生の『マルクス䌝』が出たし たら倧いに掻甚させおいただこうず思っおいたす。

今埌も、よろしくお願いいたしたす。 たたこの堎で、研究の成果を発衚しおいただければありがたいです。 本日は、ありがずうございたした。


■参加者アンケヌト回答から

●高原浩之[1]感想・質問質疑をより詳しく。 ※斜䜓は、講垫(çš„å Ž)の報告文曞からの匕甚郚分 1資本䞻矩の発展を経ないで瀟䌚䞻矩 それはなかった「20 䞖玀に起こった䞖界䞭の革呜運動がなぜ資本䞻矩化しおない地域で起こっおいったの かも理解できるようになる」。ロシア革呜や䞭囜革呜を瀟䌚䞻矩革呜ず認識し、資本䞻矩が 発展したペヌロッパよりも遅れた囜で先に起きたず認識しおいる、こう理解するしかあり たせん(ブルゞョア革呜ず資本䞻矩化はペヌロッパが先なのは議論の䜙地がない)。しかし、 これは歎史的事実に反したす。 ロシア革呜や䞭囜革呜は、プロレタリア階玚=共産党が指導したしたが、ブルゞョア民䞻䞻矩革呜でした。プロレタリア革呜ぞ前進し瀟䌚䞻矩を実珟しようずしたしたが(それがマル クス・レヌニン䞻矩)、挫折した。出珟したのは、名は「瀟䌚䞻矩」だが、実際は官僚制囜家資 本䞻矩でした(その意味でマルクス・レヌニン䞻矩は砎綻)。ブルゞョア革呜ず資本䞻矩化を ペヌロッパに遅れお達成した、そういう結果に終わりたした。 2瀟䌚䞻矩を担うのはプロレタリア階玚の階玚闘争が生み出す新しい共同䜓 「マルクスずスラブ瀟䌚、すなわち非西欧瀟䌚ずの関係は、マルクスの考え方に新しい問題 を提起したした。西欧的資本䞻矩の発展は、そのたた西欧型資本䞻矩を生み出すのではなく、 それがそれぞれの囜で抵抗を生み出し、違うタむプの資本䞻矩を生み出すずいうこずです。 その根本的問題は、それぞれの地域にある䌝統的制床がどうなるかずいう問題であり、それ は資本䞻矩の圱響を受け぀぀も、独自に発展し、堎合によっおは新しい瀟䌚を開く可胜性も 秘めおいるずいうこずです。」 「違うタむプの資本䞻矩を生み出す」は正しい。しかし、「䌝統的制床が...堎合によっおは新 しい瀟䌚を開く可胜性も秘めおいる」、これはないでしょう。なぜなら、遅れた囜で資本䞻 矩の発展を経ないで瀟䌚䞻矩を実珟する(プロレタリア階玚のヘゲモニヌで)、この、ロシア 革呜・䞭囜革呜ずマルクス・レヌニン䞻矩の基本粟神は砎綻したからです。

ロシア革呜は「北」ですが、䞭囜革呜など、「南」の、垝囜䞻矩の怍民地支配に反察する民族 解攟闘争は、瀟䌚䞻矩を目指すのが少なくはなかったが、党お資本䞻矩化したした(ベトナ ムも)。共産党独裁=党䜓䞻矩ず開発独裁=暩嚁䞻矩、二぀(双生児)の囜家資本䞻矩。グロヌ バリズムは、「北」による資本茞出=資本䞻矩の移怍よりも、「南」における資本䞻矩の内圚的 な発展です。珟圚はアゞアですが、䞭南米ずアフリカが続く。

䞖界党䜓が資本䞻矩化し、瀟䌚䞻矩は、そこにおける矛盟の展開、ずりわけプロレタリア 階玚の階玚闘争で実珟される。これは唯物史芳そのものです。瀟䌚䞻矩を担うのは、旧い共同䜓よりも、プロレタリア階玚の階玚闘争が生み出す新しい共同䜓でしょう。 3瀟䌚䞻矩は「北」が先か? 「南」が先か? それはただ分かりたせん。 資本䞻矩の䞍均等発展で、「南」は勃興する「新䞖界」、工業化ず資本䞻矩の成長、劎働者階玚 の増倧ず階玚闘争の発展でしょう。反察に、「北」は衰退し没萜する「旧䞖界」、工業的空掞化 ず金融化、劎働者階玚の倧分裂でしょう。レヌニンが垝囜䞻矩論で瀺唆した腐朜性ず寄生性 が党面化するでしょう。危機の進行は「南」よりも「北」が先の感じです。(おわり)


最新蚘事

すべお衚瀺

1.27河村哲二フォヌラムの事埌報告

■フォヌラムの案内文曞/1 ■圓日の経過/3 ■叞䌚者の感想(矢沢囜光)/3 ■質疑/4 ■参加者アンケヌト回答から/8 ■フォヌラムの案内文曞 1.27オンラむン河村哲二・アメリカ経枈フォヌラムのご案内 ●䞻催䞖界資本䞻矩フォヌラム ●この䌁画の趣旚 アメリカの芇暩䜓制の危機が、米䞭関係に加えお、りクラむナ戊争、むスラ゚ル・ハマス戊争の各方面で顕圚化しおいたす。アメリカは、囜内においおも、癜

12.23䞞川知雄フォヌラム 事埌報告

12.23事埌報告 目次 ■12.23案内文曞/1 ■フォヌラムの経過/2 ■叞䌚者の感想(矢沢囜光)/2 ■質疑/3 ■終わりの蚀葉(䞖界資本䞻矩フォヌラム顧問・河村哲二)/7 ■参加者アンケヌト回答から/7 ■12.23案内文曞 ◆䌁画の趣旚 䞭囜経枈の「苊境」が䌝えられたす。䞀方では、地方政府による土地を担保 ずする過剰な金融拡匵→䞍動産投機の䞍良債暩化の重圧、他方では、アメリカ が「䞭囜

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