2023年12月7日 文責・矢沢
目次
■11.25 フォーラムの案内文書
11.25 的場昭弘フォーラム「マルクスの世界史認識と革命 観の変遷」のご案内
●主催 世界資本主義フォーラム
●企画の趣旨 世界史に対するマルクス・エンゲルスの認識は、資本主義の運動法則を抽出しようとした『資本論』とは異なって、「革命家」 としての「総括と革命の展望」であり、「革命観」と一体化した ものであった。
革命観が世界史の認識をどう深化させ、または制約したか、ぎゃくに、世界史の認識が革 命観をどう発展させたか。こうしたマルクス革命観と世界認識の変遷をたどることによっ て、20世紀の「マルクス・レーニン主義」の過ちと悲劇を総括する一助となるのではない か。また、「資本主義後の世界」を展望するためにも、一度、こうした視点から「マルクス 主義」を歴史的に振り返ってみることが役立つのではないか。
以上の趣旨で、「ジャーナリストとしてのマルクス」研究を続けてこられた的場昭弘先生 を講師にフォーラムをもつことにしました。 [世界資本主義フォーラム・矢沢国光]
●日時 2023年11月25日(土) 午後1時30分―4時30分
●開催方式 ZOOM によるオンライン
●テーマ 「マルクスの世界史認識と革命観の変遷」
●講師 的場昭弘(神奈川大学名誉教授)
●報告要旨マルクスは、1842 年からジャーナリストという職業について、ほぼ亡くなる(1883)ま
でいろいろな新聞、雑誌に原稿を送って、それを生活の糧としてきました。マルクスが当時 のヘーゲル左派の人々とちがって、世界を現実的にしっかりと認識できたのは、思弁的では なく、ジャーナリストとしての現状認識が背景にあったからです。今回、マルクスの世界認 識の過程を、こうした視点から辿ることにします。
マルクスは、ヘーゲルの『歴史哲学』と『精神現象学』の世界史認識に大きな影響を受け てきました。その西欧中心的な世界史認識過程を、生産力と生産諸関係という現実から生ま れる歴史認識に変えたとしても、世界史を普遍史と考え、その世界史を分業と交通、世界貿 易という発想で考え、世界史は西欧の先進資本主義に主導されていくという認識は変わり ませんでした。
それを明確に示したのが、ブリュッセル時代(1845-48)の草稿の『ドイツ・イデオロギ ー』と『ギュルリッヒのノート』ですが、公表されたものとしては、『哲学の貧困』と『共 産党宣言』、そして『ブリュッセル・ドイツ人新聞』に掲載された記事です。
こうした認識は 1848・49 年革命の失敗後も継続し、『資本論』第一巻が書かれる頃まで は変わることがありませんでした。その間、マルクスは、『新ライン新聞』、『ニューヨーク・ デイリー・トリビューン』に記事を書きながら、そうした観点から世界を分析していきまし た。
もっとも、大英博物館で始めた経済学と新聞記事のためのノートをとっていくなかで、こうした世界史認識に次第に疑問を感じ始めたことは確かです。それが農業問題についての 認識でした。資本主義における農業をどう位置づけるか。資本主義に農業は包摂されるのかどうか。
この中で 1967 年以降、マルクスは農業問題、農業科学の問題に取り組み、次第に農業の 側、もっといえば資本主義の分業の中の原料生産と位置づけられている部門の重要さに気 づき、先進国からではなく、後進諸国から世界を見るようになっていきます。これらは、ナ ロードニキに近づき、チェルヌイシェフスキーやフレロフスキーなどの書物を読んだこと から、また具体的にはアイルランド問題についての記事を書いたことからも理解できるこ とです。後進国から見た世界史認識の登場です。
今回の報告はこの流れを、初期マルクスから後期マルクスへの世界史認識の変化と考え、 その変化の経緯をノート、新聞、著作などから分析することとします。
●参考文献的場昭弘『マルクスから読む世界史講義』(教育評論社、2022 年) 的場昭弘『19 世紀でわかる世界史講義』(日本実業出版社、2022 年)
■当日のフォーラムの進行
前日の夜、講師の的場先生から長文の講演内容(Word 文書)が届いた。当日朝、参加者に 配布したが、おそらく事前に読んだ人は少なかったのではないか。
フォーラムは、的場先生に前半55分の講演。休憩をはさんで質疑に続いて、後半40分 の講演。そのあと40分の質疑。
的場先生の講演は、Word 文書を画面に表示しながらのお話であったが、読むより聞くほ うがはるかにわかりやすかった。[もっとも、用意された文書が長文なので、文書からの引用は1/3もできなかった。参加された皆さんは、じっくり文書を読んでフォローしてほし い]
参加者15名。 最後に、世界資本主義フォーラム顧問・河村哲二哲二氏の終わりのあいさつ。 参加者15名。
■講師(的場昭弘)の報告・マルクスの世界認識と革命観の変容
はじめに第一期 1844-1848 年
主要作品から見る世界認識と革命認識
ギュルリッヒノート 第二期 1848-1867 年
歴史なき民族とインドの植民地化 西欧のロシア観 マルクスのロシア観19 世紀に出た偽書とアーカート第三期 1867-1883 年 リービッヒに関するノート 世界観と革命観の変化 ロシア観の変化 ザスーリッチ宛の手紙
おわりに
はじめに
今私は、マルクスの伝記の執筆に取り組んでいます。全三巻で出版する予定で、今ほぼ第 一巻を完成しつつあります。第一巻、マルクスの誕生 1818 年から 1848 年革命(『共産党宣 言』)まで、第二巻は 1848 年革命から 1867 年(『資本論』第一巻の出版)まで、第三巻は 1867 年から亡くなる 1883 年までを対象にしています。
この三つの分類は、マルクスの世界認識の三つの区分に照応しています。第一の時期は、 マルクスが唯物史観を形成し、共産主義運動へと進んでいく時期ですが、この時期は西欧中 心的世界史認識を持っている時代で、それをヘーゲル哲学の上で理解したマルクスは、現実 の運動、生産力と生産関係、そして分業と交通という過程に落とし込んでいく時期です。そ の結実が、『共産党宣言』です。
しかし、この時期は 1848 年のフランスの二月革命によっていったん中断されます。少な くとも 1848 年までは、マルクスは共産主義者同盟と民主協会(イギリスでは友愛会)、そ して労働者協会と連携しながら、ブルジョワ革命という方向にいました。いまだ共産主義へ 到達するには早しと考え、制限議会である州議会にプロレタリアの選挙権を獲得してくれ るブルジョワ議員を送り、議会から革命を起すという方向を模索していました。ケルンの民 主協会とベルギーの民主協会との連携がその流れで、マルクスはベルギーの民主協会の副 議長をしていました。
なぜブルジョワ革命説であったのかといえば、革命は後進地域からは起こらない。それは ブルジョワとプロレタリアとの対立が明確ではないからです。彼の共産主義概念は、ヘーゲ ル哲学によって共産主義を実現しようという真正社会主義者や、職人の運動によって共産主義を実現しようという義人同盟の人々とまったくちがって、生産力と生産関係の分析な く、それは不可能という考えがあったからです。マルクスが主張した「共産主義は運動であ る」という意味は、現実社会の生産力と生産関係を反映するという意味でした。
これによると世界は、もっとも発展した地域から起こる。そのために、世界史を分業と交 通の歴史として考えます。その典拠となったのが、ギューリヒの書物で、それは 1000 ペー ジを越えるノートです。
しかし、こうした発想は、1849 年に崩壊し、マルクスはロンドンに亡命することになり ます。その頃からマルクスは、革命ということばと経済との関係をしっかりと考え始め、恐 慌と革命という考えを明確に出します。それと同時に、ブルジョワ革命とプロレタリア革命 の二段階説は蜂起し、ブルジョワ社会の発展とプロレタリア革命との関係に焦点を絞りは じめます。
ロンドンでの革命騒ぎから離れ、共産主義者同盟も解散し、ひたすら経済の分析を行いま す。それと同時に、経済問題を基盤にして、世界中の時事的問題を 10 年以上にわたって分 析します。こうしてイギリスにおける資本主義の発展、それとそれに照応したヨーロッパ、 アジア、アフリカ、アメリカの経済発展を分析し、資本主義の頂点のイギリスでの革命の時 期を恐慌の到来によって期待します。
『資本論』は、階級闘争の激化と、世界資本主義のイギリスを中心とした発展が展開され るのですが、実際にイギリスで起こったことは、むしろ「労働貴族化」や、人々の生活改善 であったことです。もちろん、それはイギリス以外の諸国、アジアやアフリカ、中南米での 帝国主義的搾取の増大による結果であったことも確かで、そうした中で資本主義の先進地 域では革命運動や共産主義運動が停滞していくことに気づきます。
そうした中マルクスは、ロシア問題、農業問題に注目し始めます。実際に書かれた書物の中ではなく、ノートの中で、そうした問題が彼の関心であったことがわかります。 現存の文献資料としては、彼の公表された著作、新聞の原稿、ノート、そして書簡の四つ があります。この中で、これまでほとんど知られることがなかったのがノートです。これは Werke 版にもなく、新 MEGA になって徐々に出版されてきたものです。1848 年までのノ ートはほぼ出版されていますが、それ以降はまだ不完全で、1867 年以降となるとまだ数冊
しか刊行されていません。こうした点から見て、1867 年以降についての彼の革命や世界認識の変化は、十分な論拠がそろっているというわけではありません。しかし、50 年前に比べると格段の相違といえ ます。
第三期は、『資本論』の翻訳を通じてロシア人との接触が始まり、ロシアの文献を読むた めにロシア語を勉強します。とりわけインターナショナルでのアイルランド問題が、大きな テーマとなり、発展途中の資本主義の問題が、次第に彼の関心の的になります。そして農業 共同体の意味、発展を拒む社会の意味を知ろうとマルクスは晩年膨大なノートをとるので す。
しかし、その間に発表されたものは少なく、彼の思考を生前未刊の『ザスーリッチへの手 紙』、あるいは『ゴータ綱領批判』などに頼るしかないという現状です。
その意味で、第三期は今のところ仮説の域を出ていないということになります。私が亡く なる前にノートが全巻そろえばいいのですが。私自身 IV/29 を担当していたので、その年 表だけは未刊でもわかるのですが。
第一期 1844-1848 年
●主要作品から見る世界認識と革命認識
ここから具体的な内容にはいっていきます。第一期は文献的にはほぼ公刊されています。
マルクスが、西欧中心の世界史、そして資本主義的に発展した地域による世界史という概 念を最初に述べたのは、1844 年の『独仏年誌』に掲載された「ヘーゲル法哲学批判―序説」 です。
「だから、ドイツではフランスとイギリスで終わりはじめていることが、今日始まってい るということになる―――わが歴史は従来ただ罰として遅れた歴史の特別訓練を受ける課 題しかもっていなかったということである」(拙訳『新訳 初期マルクス』作品社、2013 年、 108-109 ページ)・
イギリスやフランスに対して遅れているのは、現実の経済であり、ヘーゲル哲学はむしろ 進んでいるとマルクスは述べるのですが、いずれにしろ世界の歴史は発展ということが存 在するという点では同じで、マルクスはここで資本主義的発展に遅れた国を認識していま す。こうして世界の歴史は一直線上にならぶ「世界史」になるのだという考えが出ています。
それが生前未刊の『ドイツ・イデオロギー』になると、かなりすっきりと資本主義による 世界史の発展として展開されます。
「さて、この発展過程で、現在に作用し合う個々の領域が拡大すればするほど、つまり 個々の民族性の原初的な閉鎖性がーーより成長した生産様式や交通形態によって、また(大 規模な)これらによって自然発生的にもたらされている諸国民間の分業によってーー(止揚) 廃棄されればされるほど、それだけますます歴史は世界史になっていく。例えば、イギリス である機械が発明され、それがインドや中国で無数の労働者から生活の糧を奪い、これらの 国々の生活形態を根本から変えるようになる場合、この発明はひとつの世界史的な出来事となる」(『新編輯版ドイツ・イデオロギー』岩波書店、77 ページ)。 生産力の発展によって、世界は世界史として一連託生で関係していくとマルクスは考
え、それを世界史と呼んでいます。こうなると先進と後進というランキングが出来、当然西 欧、とりわけイギリスがその先頭に立つことになります。
マルクス最初の著作である『哲学の貧困』ではこう書かれています。 「直接的奴隷制は、機械、信用などと同様、ブルジョワ的産業の軸である。奴隷制がなけれ ば綿花は得られない。植民地に価値を与えているのは、奴隷制であり、世界の貿易をつくり あげたのは植民地であり、大工業の条件と世界の貿易である」(『新訳 哲学の貧困』作品社、2020 年、p.91).
資本主義は世界を分業と交通によって結びつけ、先進国が世界を支配すると述べていま す。
そして共産主義者同盟の綱領、『共産党宣言』ではこう述べます。 「アメリカの発見、アフリカ航路によって来るべきブルジョワ階級に新しい領土がつくり出された。東インド会社と中国市場、アメリカの植民地化、植民地との貿易、とりわけ交換 手段や商品の増大によって、商業、船舶交通、産業は、かつて知り得なかったほどの飛躍を 生み出し、没落する封建社会にあった革命的要素に急激な加速をつけた」(『新訳 共産党宣 言』作品社、2010 年、44 ページ)
マルクスは、この三つの著作で、世界はひとつの世界経済という体系をなしていて、それ は世界の地域の必然的な発展を示すものであり、遅れた地域といわれるものは、進歩してい る西欧資本主義の発展に規定されているのだということを語ります。
こうした考えは 1845 年以後マルクスの頭の中にできあがった史的唯物論というもので すが、これによって歴史は、階級闘争の歴史として進展していくと考えています。
●ギュルリッヒノート
こうした考え方を理解するためにマルクスは、ドイツの保護主義の経済学者のギュルリッ ヒの書物を丁寧に読みます。ギュルリッヒの保護主義に対してマルクスは批判的なのです が、彼の世界史、とりわけ世界の経済史に対する理解は、この全五巻の膨大な書物から来て います。このノートはマルクスの最大のノートで、『資本論』一巻以上の量があります。
マルクスのノートは、一般に通常数ページのもので、必要な箇所を抜粋し、そこにある ときはコメントを書くのですが、たいていはただ抜粋するだけです。
しかし、そうしたノートの中で特異なノートがこのブリュッセル時代に書かれたグスタ フ・フォン・ギューリヒの『現代のもっとも重要な商業取引国家の商業、産業、農業の歴史』 (全五巻)からの抜粋ノートです。その長さがほぼ『資本論』一巻分に相当する長さであるこ とが、まず異常です。これに匹敵するのが、1881 年に取ったシュレッツァーの『世界史』 からの年表の抜粋か(新メガ未刊の IV/31)、あるいは1878年のユークスの『地学マニ ュアル』(IV/26)しかありません。1846 年 9 月から 1847 年 12 月にかけて書かれたといわ れるノートですが、そのほとんどがこのギューリヒの著作に当てられています(一部フラン スの経済学者マリー・オージエ『古代以来の公信用とその歴史』(1842)もそこに少し入っ てはいますが)。
このノートは、『ドイツ・イデオロギー』をほぼ書き終わった頃から始められています。 その後、マルクスはプルードンの『貧困の哲学』を批判するのですが、ギューリヒはまった く利用されていません。ではなんのためにこうしたノートを作成したのでしょうか。
考えられるのは、マルクスは経済史を丹念に分析することで、歴史が生産力によって規定 されているかどうかを、具体的な歴史の中でみようとしたということでしょう。実際、プルードンを批判する際にも、プルードンの方法論の欠陥として歴史的分析がないことを批判 しています。すでにマルクスとエンゲルスは、歴史を決定する経済の役割を認識していたか らです。ただし、これには証拠が必要である。
ギュルリッヒはゲッティンゲン大学の私講師で、経済史の研究に生涯をかけた人物でし た。全五巻の作品は、1830 年から 1845 年までに出版されたものです。第一巻はフランス、 イギリス、オランダの歴史で、第二巻アメリカを含む非ヨーロッパの歴史であり、そこにド イツも含まれていまし。その後の著作で、世界へと歴史を広げていきます。
マルクスがこのノートを本格的に使ったのは、ブリュッセルで講演した「保護関税論者、 自由貿易論者、労働者階級」の冒頭で、彼を保護貿易論者の二つの学派、一つはリスト、も うひとつはギューリヒ、を紹介し、幻想的保護主義者と批判しているところです。もちろん 『資本論』でも第一巻で二回引用しています。
「彼らは保護関税制度だけでなく、本来の輸入禁止制度をも要求する。この学派の指導者 フォン・ギューリヒ氏は、大変科学的な商工業史を書いたことがある。それはフランス語に も翻訳されている。フォン・ギューリッヒ氏は真面目な博愛家だ。彼は手労働の保護、国民 労働の保護に大真面目になっている。よろしい!彼は何をやったか?彼はまず手始めにリ スト博士を反駁し、リスト流の制度では労働者階級の福利はみせかけにすぎず、空景気のき まり文句にすぎないことを証明し、ついで彼なりに次のような案を出した(割愛)。そうす るとどうなるか?外国の工業製品の輸入ばかりでなく、国内工業の進歩まで妨げることに なるのだ。リスト氏とギューリヒ氏はこの制度の両極をなしている。工業の進歩を保護しよ うとすれば、たちまち手労働が犠牲になる。労働を保護しようとすれば、工業の進歩が犠牲 になる」(『マルクス=エンゲルス全集』第四巻、312ページ)。 ここで取り上げられている話は、資本主義に後ろ向きのロマン主義的保護主義者の話です。
またそれはロマン主義的社会主義者の考えであり、マルサスを含む保護主義的古典派経済 学者と同じ考えとして上がられています。 もちろん、ここで五巻本の商工業史については、非常に高く評価しています。このように批 判したギュルリッヒから、マルクスが膨大なノートをとっていたなどとだれがそのとき理 解しえたでしょうか。
特筆すべき点をあげると、この書物はアフリカやラテンアメリカ、アジアといったヨーロ ッパの外にも目配りをしている点です。またマルクスは第一巻から読んだのではなく、五巻 から問題意識にしたがってノートをとっていたように思えます。
第二巻にあるインド、中国、日本の情況をこの本から抜き書きしています。それこそ国別 に見ていくと、マルクスは西欧諸国のみならず、北欧、南欧、ブラジル、ハイチ、フィリピ ン、ラプラタ(アルゼンチン)、チリ、ペルー、ボリヴィア、エクアドル、ヴェネズエラ、コ ロンピア、グアテマラ、メキシコ、トルコ、ギリシア、エジプト、モロッコ、リビア、アフ リカ東海岸、中央アフリカ、シリア、カシミール、ビルマ、シャム、コーシチナ、東欧のポ ーランド、モルドヴァ、ワラキア、ブルガリアまでギューリヒの書物からノートをとってい ます。
このノートからマルクスが当時世界をどう理解していたのかがわかります。それは、この ノートにある最後のまとめです。 「イギリス人にとって、東インドの木綿マニュファクチュアへの機械の利用はかなり危険 なものだったはずである。イギリスの労働者階級にとって、パンの小麦は、そのほかの国と 違って、たいして重要な消費部分ではなかった。彼らは肉、茶、砂糖などを比較的必要とし ていた。この階級の生活様式が変われば、イギリスの国家収入の巨大な額が失われることに なった。
フランス革命まで、フランスの外国貿易、とりわけ植民地商業は、重要な交易部門であった。 農業を台無しにしたために、他のヨーロッパの農民よりも、多くの場合貧しかった。アメリ カのスペイン支配の時代まで、貴金属は、大部分スペイン国王への献上、あるいはスペイン にいる鉱山企業家に流れた。この流入は、非常に大きなものであった。それは、植民地自身 がスペインのあらゆる商業部門に制限されており、そこで獲得された銀や金にとっての大 きな市場にならなかったからである。今では、貴金属の国内市場の発展が交易の拡大と、と りわけ合衆国との拡大によって大きくなっている。アメリカの金や銀は、かろうじて商業の 道でヨーロッパへ流れ、商品と交換されている。この交換は限られている。1)ヨーロッパ の製品などの多くが、以前のスペインアメリカの生産物、たとえばインディ―ゴ、毛皮など と交換されているということである。アメリカや外国の商人に、貴金属商品と比べて、こう した商品の輸出に際して得られる利潤を大きくしている。2)生産システム。3)アメリカの 銀のアジアへの輸出。船乗りたちは、貨物の往復を行おうとする。メキシコでこの荷物を必 ずしもおろさないため、かれらは船で受け取ったピアストル通貨でもって東インドと中国 に銀を送った。そこからこの船はお茶やそのほかのアジア商品を持った船をヨーロッパに 戻す。英国は多くの金をブラジルから受け取るが、しかしそれはポルトガルからとっていた ほど、もはやそんなに多くはない。ブラジルは、メキシコなどと同様、アジアとの直接の重 要な交易を行い、金と銀を多く送っている。 最近ヨーロッパ大陸では、商品交換を拡大する国は、とりわけとドイツように少ない。アメ リカの戦争がドイツの輸出を減らした。以前は多く輸出されていなかった穀物や木材が、今 ではリンネルとならんで重要な輸出品となっている。以前のすべての戦争において、ドイツ はフランス革命戦争のときほど、大きく金を流出していない。1815 年以来木綿製品の輸出 がもっとも重要になっている。
最近、英国の信用がドイツ産業を引き上げる手段となった。ドイツの貨幣業を行うイギリス 商人とドイツの貨幣取引、為替業者は、これを別の場所に移す方が利点であると考えている はずだ。ドイツの貨幣業の流出が起こると、貨幣制度の大きな混乱が起こる。イギリスがも はやその資本をヨーロッパの外の対象へ投資せず、イギリスの破局が突然起こるとすれば、 こうした流出は確かなものとなる」。(『新 MEGAIV/6,937 ページ)
ギュルリッヒは、世界貿易の歴史を分析した後の結論として、ドイツ経済を守るためには、 国内に産業の保護が重要だという結論を出しますが、マルクスにとってそのことより重要 なことは、世界経済が先進国であるヨーロッパ経済のための分業になっていることでした。
今や世界は一蓮托生で相互にしっかりとつながっているというわけです。とりわけラテ ンアメリカはヨーロッパによるアメリカ大陸の発見以来、原料供出国としてヨーロッパ経 済と結びついたことを強調します。
マルクスは、ロシアについても同様に、この世界史からノートをとり、アジア的支配によ る衰退と、西欧による勃興という具合に、きわめて西欧中心的な史観で書いています。
ラテンアメリカやアジアに対して、1867 年頃までに十分関心が及ばなかったのは、まさ に資本主義の先進国の解剖こそ、後進諸国の解剖だと考えていたからでもあります。エンゲ ルスの「人間の解剖はサルの解剖」という言葉がありますが、よりすぐれた地域を分析すれ ば、それ以外の地域がわかるという考えは、マルクスを先進国イギリスの経済分析に向かわ せた理由です。
こうしてマルクスは、世界史を垂直的な発展構造ととらえ、先進資本主義国ではその結果 ブルジョワ階級とプロレタリア階級が成立しているが、後進諸国では生産力が低いことで 発展が進んでいないと考えます。共産主義が資本主義による階級闘争の結果もたらされるものであるならば、共産主義革命のためには資本主義が発展することが条件になってくる というわけです。
だからこそ、1848 年 1 月の民主協会での穀物法反対の論議の中で、マルクスは、それと はまったく反対に、自由主義運動を進めるべきだという衝撃的発言をするのです。
「諸君、われわれが通称の自由を批判するのは保護貿易制度を擁護するつもりなのだ、な どと考えてはならない。立憲政体の敵だと自称しても、だからといって、旧体制の見方だと 自称することにはならない。それにまた保護貿易制度は、一国民内に大産業を樹立する、い いかえればその国民を全世界の市場に依存させる、一手段であるにすぎない。そして全世界 の市場に依存するようになるやいなや、すでに多かれ少なかれ自由貿易に依存するもので ある。それだけではなく、保護貿易制度は一国内にある自由競争の発達に寄与する。ブルジ ョワジーが階級としてのさばりはじめている国々、たとえばドイツにおいて、保護関税獲得 のために彼等が大きな努力をはるのがみられるのは、このためである。彼等にとって保護関 税は、封建制度と絶対主義政府に対する武器なのだ。彼らにとってそれは、自己の力を結集 し、その国の内部に自由貿易を実現する一手段なのだ。しかし、一般的には、今日では保護 貿易制度は保守的である。これにたいして自由貿易は破壊的である。それは古い民族性を解 消し、ブルジョワジーとプロレタリア―トとのあいだの敵対的関係を極端にまでおしすす める。一言でいえば、通商自由の制度は社会革命を促進する。この革命的意義においてのみ、 諸君、私は自由貿易に賛成するのである」(前掲書、471)。
要するに、ブルジョワ階級とプロレタリア階級の敵対関係が極限まで進み、階級闘争と革 命が起きるために、自由貿易をあえて賛成するというわけです。
第二期 1848-1867 年●歴史なき民族とインドの植民地化 まさにこれと同じような発想は、『新ライン新聞』でも展開されます。有名な歴史なき民
族という言葉は、エンゲルスが使った言葉ですが、マルクスが編集長でそれを通したのです ので、マルクスも同じような考えであったことは間違いないでしょう。
「繰り返していう。ポーランド人、ロシア人、およびせいぜいトルコのスラブ人を除いて は、スラブ民族のひとつとして未来をもっているものはない。―――かつて固有の歴史をも ったことがなく、最初の最も粗野な文明段階に達したその時から外国の支配を受けている 民族、あるいは外国のくびきによってはじめて最初の文明段階に引きずりこまれる民族、そ うした民族は生存能力をもっておらず、どんな独立もけっして到達することはできないだ ろう。そしてこれがオーストリアのスラブ人の運命であった。チェコ人(われわれはチェコ 人という中に言語や歴史を異にしてはいるが、モラビア人とスロヴァキア人も含めたいと 思う)このチェコ人は、かつて歴史をもったことがない。――本来のいわゆる南スラブ族に ついてもまったく同じである。イリリアのスロヴェニア人、ダルマチア人、クロアチア人、 ショカーツェン(ショクチースラヴォニア地域の原住民)人の歴史は、いったいどこにある のか」(「民主的半スラブ主義」『新ライン新聞』『マルクス=エンゲルス全集』第六巻、27 1‐2ページ)。
革命の失敗への怒りが満ち満ちているので、割引が必要だとしても、資本主義の発展とい う観点から見て、東欧の諸民族は遅れていたことは確かで、そうした発想があったことは間 違いないでしょう。もっともチェコのプラハは中世において神聖ローマ帝国の首都でした し、クロアチアにもトミスラフ王国が短い間ですが、存在していました。
この問題は、やがてインド、ロシアと相手を変えながらも、ひとつの世界史的認識の型をつくっていきます。 『ニュ―ヨーク・デイリー・トリビューン』の記事の中で、マルクスはこう述べています。
「なるほど、イギリスは社会革命をヒンドゥースタンにもたらしたことで、最悪の利益に よって動かされ、その利益を強要するというやり方の点で愚かであったことは真実である。 しかし、それが問題なのではない。問題は、こうだ。人類は、アジアにおいて社会的状態の 根本的な革命なくしてその運命を充足することは可能かどうかである。もしそうでなかっ たとしても、イギリスの罪がたとえどんなものであろうとも、イギリスはその革命を押しす すめたことで歴史の無意識的道具となったのである」(1853年6月25日『ニューヨー ク・デイリー・トリビューン』『マルクス=エンゲルス全集』第九巻、127 ページ)。
アジアにおいて旧体制を崩壊させ、近代的資本主義をもたらすことは、たとえイギリスの 植民地であったとしても必要なことで、その限りにおいて、イギリスの支配は正当化される と主張しているのです。おそらく、資本主義が徹底することで、階級闘争が起き、それがイ ギリスの階級闘争と結びつき、共産主義への道を開くと考えていたのでしょうが、自由貿易 論と並んで、マルクスの世界認識、そして革命認識を規定していたのは、あくまでも西欧中 心史観、そしてそれが唯物史観にいろどられていたことは間違いないでしょう。
とりわけそうした意味でのマルクスの発想が顕著な形で現れるのは、ロシアに対する論 文です。
マルクスはクリミア戦争の頃、集中的にロシアに関する文献を読みます。それが新メガの IV/12 ですでに刊行されています。ほぼ 400 ページ近いノートがとられていて、とりわけ アーカート)を中心とする書物からの引用です。クリミア戦争についての記事を『ニューヨ ーク・デイリー・トリビューン』に送るという仕事もあったのでしょうが、スペインに関す るノートを含め大部のノートをこの時期にとっています(引用されているのは、アーカートの『西、北そして南におけるロシアの発展』1853 年、『一派に対するアピール』1843 年、 『危機』1840 年です)。
ここで注目しなければならないのは、イギリス人アーカートです。彼はとりわけイギリス において、イギリス内閣のロシア政策を批判し、徹底した反ロシア主義を主張し、新聞やマ スコミをたきつけた人物でした。
●西欧のロシア観
18 世紀の歴史をつくりだしたのは、資本主義による西欧圏のヘゲモニーの増大です。そ れが、一方で民主主義と人権といったイデオロギーと結びつき、世界支配のための格好の道 具となってきます。ナポレオン戦争は、その意味で西欧のイデオロギーを示す格好の戦争で もありました。東方侵略戦争というのが実態なのですが、フランスから見れば、それは虐げ られた民族の解放、不当な皇帝の支配に悩む民衆の解放ということで語られる神話となり ます。その神話は、崩壊以後も民族独立運動、ツァー支配からの脱却としてその後も語り継 がれ、ナポレオン戦争の後のウィーン議定書は、国際法の施行と、国際均衡の世界を実現さ せ、ナポレオンの意味を高めました。
ちなみにナポレオン戦争は、ロシアでは祖国戦争といわれ、祖国を守ったという意味が付 与されています。だからナポレオンはロシアでは侵略者です。さらに第二次大戦でのナチス ドイツとの戦いは、大祖国戦争を言われていて、ドイツもナポレオンもともにロシアにとっ て侵略者となっています。
だからウィーン議定書は、ロシアやオーストリアの古い帝国支配を永続化させているだ けではないかという批判、またこの議定書破りをしているのではないかという批判が西欧 から出てきます。その対象は、とりわけロシアのツァー体制に向けられたのです。ポーランドは自治が認められることになっていたのに、ロシア支配地域ではそれが無視され、住民が 弾圧されている。ロシアは西欧とは違うアジアの野蛮な地域ではないかという批判が、あち こちからあがってきます。それが一八三〇年代以降、ロシアの脅威と結びつき、ロシア批判 が書物となって続々と現れたのです。
二〇一五年にオーランドー・ファイジズという人の『クリミア戦争』(上下巻、染谷徹訳、 白水社)という書物が翻訳されました。これはとてもよくできた書物で、ロシア側の資料も 見て、クリミア戦争の背景を詳しく描いています。
とくに言論が果たしたロシア批判が重要です。イギリスでもっとも反ロシアをあおった のが、デーヴィッド・アーカート(Urquhart)で、彼は後にマルクスと親しくなり、マルク スは彼の著作に大きな影響を受けます。アーカートとマルクスとの関係は、一八五〇年代初 めにマルクスが、公金を横領したという批判をとりけしてもらおうと、その新聞『デイリー・ テレグラフ』と訴訟したとき、やはり、イギリス政府からロシア問題でさんざんな批判と訴 訟をうけていたアーカ ―トに相談を持ちかけたときでした。この辺りのことについて、詳しくは、拙訳のジャック・ アタリ『世界精神マルクス』藤原書店、2014 年の 3 章を参照のこと。
●マルクスのロシア観
マルクスは、ロシアとりわけツァ―体制を、遅れた資本主義の典型と考えていたこともあ り、ツァー体制を倒れ、ロシアの資本主義が発展することを期待していました。それとマル クス自身のなかにあったロシアのイメージの悪さでした。
そもそもマルクスのロシアに対するイメージはどう形成されたでしょうか。生まれ故郷 のトリ―アは、1794 年から 1814 年までフランスでした。後にプロイセンに併合されるのですが、一定のフランスへの親近感はあったと思われます。ナポレオンを追って、ロシアの コサックが町の中にはいってきたときの報告があります。
「コサック兵は、なまけものーコサックはなんと下劣な人間だろう。彼らにも一応宗教は あるように思えるーしかし所有や人格にかんして注意を払わないし、仲間意識もないし、哀 れみもない」(拙著『トリ―アの社会史』六〇ページ)。
多くのフランスやドイツでのロシア人のイメージは、このとき、すなわちナポレオン戦争 のときの、野蛮さで色づけされていったのです。これが印象に残っている姿であったと思え ます。
またマルクスのロシアへのイメージは、バクーニンという知り合いにもありました。1844 年 3 月パリでマルクスはこの人物に出会います。最初はいい仲だった二人が決裂したのは、 パリでトルストイという、あの『戦争と平和』の文豪とは全く違った二人の人物にありまし た。バクーニンからマルクスに紹介されたのは、スパイのトルストイで、マルクスはその紹 介者のバクーニンもロシアのスパイだと思ったわけです。本当はもうひとりのトルストイ を紹介するはずで、バクーニンはスパイではなかったのですが、これがきっかけでバクーニ ンをロシアのスパイだとずっと勘ぐることになります。
その頃、ポーランド独立問題を議論していた真最中で、マルクスはロシアを批判しながら、 ロシア人への不信の目を向けるのです。1848 年には、マルクスは『新ライン新聞』紙上で、 本当にバクーニンをロシアのスパイを断定するのです。
その頃、『新ライン新聞』での話題は、ウィーンの革命を台無しにしたオーストリア勢力 批判で、ロシアがオーストリアの裏にいることをつきとめ、その背後のロシア勢力の拡大を 画策するスラブ主義者勢力がいると判断し、バクーニンを中心としたスラブ主義者を批判 するのです。
マルクスのロシア批判は、アーカートと知り合うことでさらに悪化していきます。ミクロ ス・モルナルは、非西欧とマルクスとの関係を扱った書物で(Mikolas Molnar, Marx Engels et Politique Internationale,1975)で、二人が接近したのは、このロシア嫌いという共通点か らであったからだと主張しています。マルクスは、アーカートが編集した外交記録集を熱心 に読んでいます(Portfolio:or Collection of State Papers, Illustrative of our times, London, 1936-37)。
マルクスは、ロシアを非西欧の遅れた国と考え、その国の資本主義化を促進し、民主化せ ざるをえないと考えていました。これは、ロシアに限らず、あるときはクロアチア、インド、 中国に応用され、後にオリエンタリズム的思考だと批判されるべき内容を含んでいました。
それは当時執筆中であった、『資本論』の第一草稿である、『経済学批判要綱』の中にも現 れ、「資本主義に先行する諸形態」としての共同体が問題となり、遅れたものとしてアジア 的共同体が問題になり、その中のひとつにロシアの共同体が位置づけられていました。共同 体的所有が私的所有に変わらないところでは、個人の人格が発展せず、専制支配が一般化す るというわけです。
アーカートが編集していた新聞に、マルクスの論文「18 世紀の秘密外交史」が掲載され ます。彼はここでこう述べます。ロシアは、非西欧的国家であり、モンゴル的国家である。 ロシアの外交は野蛮なアジア的外交であると。そしてロシアはアジア的侵略性をもってい ると、そのロシアとイギリスが実は一八世紀以来深く関係しているというのです。この記事 をソ連はマルクスの全集にいれなかったのは、ひとつはその史料の信憑性に疑問があった からでもあります。
問題は、こうしたマルクスの考えは、当時多くのイギリス人やフランス人がもっていた偏 見をそのまま表現したものでもあったことです。ここでそうした思想の原因になった著作をいくつかみていきます。
●19 世紀に出た偽書とアーカート
フランスのナポレオンの敗北は、ある意味王侯貴族にとって、王政の復活であり、ヨーロ ッパの安定の復活だったのですが、一方で大きな不安が残ります。それがロシアという国の 野蛮さと強さです。マルクスと一緒に『独仏年誌』を編集したアーノルト・ルーゲはパリに 現れたドイツ人が、美しく繁栄しているパリを見て、勝利者の喜びではなく、一種の絶望に 陥ったという話を書いていますが、ロシアのピヨトルもなるほど、西欧社会の発展に目を見 張り、絶望し、それをまねようと考えていたわけです。
19 世紀のロシア観を決定づけたのは、19 世紀に発見されたピヨトル大帝の遺書というも のが出版されたことです(The Testament of Peter The Great)。この書物は、1812 年、ち ょうどナポレオンのロシアへの攻撃が始まった時に出版されました。この書物は、ロシアが 世界支配を企もうとしていることを立証するもので、ピヨトル大帝は、西欧支配という壮大 な計画をすでにもっていて、この計画を阻止しなければ、西欧はロシアの支配に屈するとい うものでした。こうした偽書は一種のプロパガンダのようにしばしば出てくるもので、たと えば、ユダヤ人の陰謀説の論拠となった『シオンの議定書』などがありますが、たいていは 当時の世論にしたがって、都合良く書かれたもので、偽書が多いのです。
とりわけギリシア戦争の後アドリアノープル条約(1829)によってワラキアやモラビア を支配したロシアに対し繰り返し、ロシアの陰謀を非難する書物が、三〇年代に出現します。 そうした書物のひとつが、マルクスと知り合いでもあった、アーカートの『ロシアとイギ
リス』でした。これは 1835 年に出版されたもので、ヨーロッパは二つの世界に分裂してい ると主張します。まさに西欧の敵はもはやトルコのイスラム圏ではなく、同じキリスト教の東方正教会ロシアであると宣告します。アーカートはギリシア独立戦争に参加し、トルコに 魅せられ、トルコ風の生活を始めた風変わりな人物でした。イギリスの使節団としてコンス タンチノープルに派遣されたのですが、ロシアを挑発する行為を繰り返したことで、本国に 召還されます。マルクスが大英図書館で読んだ『ポートフォリオ』なるものも、そのほとん どアーカートの創作物だったとも言われています。
彼が主張している次の文章は、今もロシアについて繰り返し西欧で語られている議論の 基礎をなしているものです。これはマルクスが影響を受けた『ポートフォリオ』の文章です。 先ほどのオーランドー・ファイジズから孫引きします。
「ロシア国民はその無知蒙昧さによって他のすべての諸国の国民と明確に区別される。ロ シア人は彼らの支配者の不正が外国の批判にさらされるたびに、自分たち自身が攻撃され たと感ずる国民である。しかも、ロシア政府は外国からのいかなる道徳的批判も決して受け 入れないことを法律によって宣言しているのである」(上巻、一三三ページ)。
アーカートは、こうした発言によって、イギリスで大変な人気となり、再度コンスタンチ ノープルの大使館に外交官として派遣されます。やがてコーカサスへの軍事侵攻計画を企 てたとして再度召喚され、外務省から解雇され、パーマストン首相から秘密を流したという 罪で告訴されるのですが、今度は『ロンドン・タイムズ』を味方につけ、首相批判を始め、 イギリス下院議員に当選し、反ロ政策で大きな力を持ち続けたわけです。
マルクスも 1853 年ちょうどクリミア戦争がはじまったころ、この人物をエンゲルスから 言われて知るようになりました。アーカートは、マルクスが彼のロシアとイギリスの陰謀説 を支持してくれることを知り、『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』のマルクスの記 事を賞賛します。もちろんマルクスもアーカートを一種気が狂っている人物ではと疑って はいたのです。やがて、この人物の狂信性についてまわりの人物から諭され、「彼についてはまったく仲間などではなく、パーマストンに関する以外彼とのなんの共通性もない」と主 張することになります(拙稿「マルクスとクリミア戦争 今に残る西欧的偏見の問題として」 『環』藤原書店、五八号、二〇一四年を参照)。 マルクスのロシア嫌いは、彼の理論としてもある意味正しかったと思えます。すべてが西欧 的資本主義から発展するという考え方に初期は左右されていたからです。ヘーゲルを学び、 唯物史観を発展させる中で、アジアやアフリカの地域が西欧的発展に追いついてくること を期待するしかなかったともいえます。そうした文献を初期には盛んに読んでいたわけで す。その中で、当時の世論は、反ロシアで高まっていました。
そんな中、一八四〇年代最初の労働運動として、ベルギーのブリュッセルの民主協会の運 動に参加し、その大きな議題が、ベルギーのフランドルの独立であり、その独立を支持する ために、ポーランドの独立支持が民主教会の中心の運動になったわけです。
そこで、西欧の民主化のためには、ロシアというツァー独裁国家からヨーロッパを守らね ばならないという考えが出てきます。それは、まずは資本主義の発展を進め、遅れた地域を 資本主義化しなければならないという問題でもあります。だからこそ、自由貿易賛成を謳い、 ブルジョワ政党とも共闘するという政策へとマルクスは進んだわけです。そんな中、ブルジ ョワ革命は敵ではなく味方であり、敵はそれを阻止するロシアやオーストリアなど野野蛮 なアジア的体制であるということ考えが出てきます。
一八四八-九年革命を破滅へと追いやったのは、資本主義ではなく、資本主義化していな い旧体制に原因があったという考えは、その後一八五〇年代も継続していきます。そこで、 その後書かれる彼の論文の主題が、非西欧の資本主義化であったのは、至極当然であったと もいえます。
その意味で、共産主義者同盟というプロレタリア共産主義者の組織と、ブルジョワ組織である民主協会や友愛協会という組織が、共闘し、その中にマルクスもエンゲルスも積極的に 参加していたことが理解できます。
第三期 1867 年―1883 年
マルクスは、『資本論』のためのノート作りの中で、次第に非ヨーロッパに対して、それ までの観点を批判するようになっていきます。特にそれが農業問題と化学との関係で問題 になっていきます。
全般的な資本主義化は可能なのかどうか、資本主義に抵抗する農業はありえるのかどう かについて、農業のもっているエコロジー的問題にマルクスは関心を持つようになってい きます。
●リービッヒに関するノート
マルクスのこうした先進国革命に対する思考変化の決定的な要因は、ナロードニキとの 接触、ロシア語の学習、アイルランド問題ですが、マルクスは 1860 年代から農業に関する ノートをとっていました。このノートから彼の微妙な思考変化の後を辿ることにします。
1849 年以後のマルクスとエンゲルスのノートはまだ完全に出版されていませんが(とり わけ 1870 年以降の晩年のマルクスのノート『新メガ』IV/19 から IV/31 まで)、最近 1860 年代後半のノートの一部が出版されました(IV/18)。そこにリービッヒのノートがありま す。リービヒは、『資本論』にも第一巻で、合計 5 回引用されています。
特に第三巻では、南アメリカのチリと思われる地域の労働者についてこう言う記述が引 用されている。これはマルクスのノートからの引用です。 「南アメリカの鉱山労働者の毎日の仕事(おそらく世界中での最重労働)は、重量 180-200ポンドの鉱石の荷を、450 フィ―トの深部から、肩で地上に運び出すことであるが、彼らは、 パンド豆だけで生きている。彼等は、パンだけを食いたいのであろうが、パンでは、彼等が そのように激しくは労働しないことを知っている彼等の雇い主は、彼等を馬のように扱っ て、豆を食うことを彼等に強制する。しかし、豆はパンに比して燐酸石灰に富んでいるので ある」(『資本論』第一巻、向坂訳、岩波文庫、第三巻、112-113)(新 MEGAVI/18,S.160)。
リービヒの最も重要な内容は、農業の生産物が、都市と農村との対立、そして農村の疲弊 をもたらすという点にありました。とくにイギリスでは、南米の鳥の糞グアノを肥料として 大量に輸入することで、イギリスの土地が痩せることを回避していました。南米の肥料を使 うことで、都市の栄養分を補給するということは、南米を疲弊させていくことでもあります。 イギリス自体では、農村部の滋養は都市で消費され、そのまま川に棄てられることで、都市 と農村との間には栄養分に関する搾取が存在しているわけです。こうして先進地域が後進 地域の農業、また都市が農村に依存することで、資本主義には大きな問題が生じています。
初期にはこれは、西欧諸国の世界に対する分業の押しつけとして世界史の発展の重要な 問題として提起されていました。だからこそ、こうした後進地域は、やがて農業から工業へ と変化し、世界が工業化、そしてプロレタリア化していくという論理構成でできていたわけ です。
しかし、マルクスは農業を研究することで、資本主義化できない農業の問題に到達します。 それは後進地域の農業がやはり原料を生産する過程で、資本主義化できない農業の本質を 支えていることです。人口増大が食糧の増大に関連しているとしたら、それは農業に関係し ている。農業が貧困化することは工業が貧困化する過程です。
農業は、農業として留まらねばならない。工業を拒むエコロジー上の問題があるというわ けです。マルクスは地学と化学を晩年学び、この問題に注目します。
『資本論』では日本の話がいくつかでていますが、その中でも日本の排便のはなしはリー ビヒを語るとき大きな問題となります。『資本論』ではこう書かれています。
「この分借地は家から遠く、家には便所がない。家族のものは、彼等の小耕地まで行って 排泄するか、または汚い話だが、ここでは実際に行われるように、戸棚の抽斗に用便するか、 せねばならない。抽斗がいっぱいになれば、それを抜いて、中身をそれを必要とするところ に棄てる。日本でも生命条件の循環は、もっと清潔に行われている」(前掲書、3 巻、303 ペ ージ)。
マルクスは、マロンの『日本の農業について、ベルリンの農業問題大臣への報告から』 (1862)という書物によって、日本の農業が循環的であることを問題にしています。ここで 日本の農業がいかにすばらしいかが語られます。そこでは排便と肥料、そして農業生産が循 環的に行われていることが書かれています。マルクス次のように引用しています。
「日本の農業の気候は、中部ドイツと北イタリアとのあらゆる段階を含んでいます。農業 は、農民と小農民の手のうちにある、――イギリスと反対に、「牧草もなく、飼料の倉庫も なく、家畜もまったくおらず(用益したり、牽引したりする)、グアノの供給もなく、骨粉 もなく、硝石もなく、油かすもなく、日本の土地は、とても素晴らしく耕作されている。継 続的下肥がなくては、生産ができていない。」(新 MEGAIV/18,183)。
「日本人は、中腰の姿勢で、単純で、長い四つ角の穴の上で、排便する。入り口のドアを 入ると、横ぼうが渡してあり、排便は、下の穴に吸い込まれ、貧しい小農民によって掃除さ れるのである」(184)・この便所の記述は正確で、事細かに書かれていますが、要するに日本の農業には、都市と 農村と滋養による搾取関係がない。循環しているということです。 その意味では、非資本主義的農業は、資本主義そのものに危機を与えるものをもっている。
それは原料生産という自然をもつことでもっているある種の強みが彼等にあるかです。農 業は原料として、労働者の食料として資本主義のプロレタリアートを支えている。こうした 支えがなくなると、資本主義の存立すら危うくなる。その意味では農業国は切り札である、 食糧と原料生産というものをもっていることになります。
マルクスは、この頃から農業問題、そして地質、化学を本格的に学び、農業を無視した資 本主義はなりたたないということを考え始めます。とはいえ、彼がこうした問題から書いた 書物も論文もないことは確かです。あるとすれば、ザスーリッチの手紙や、これまでの書物 への後書きといったものです。だからその世界史認識がどうだったかは、実際のところわか りません。
しかし、こうした認識から世界史の発展を見れば、ギューリヒのノートや『共産党宣言』 のような西洋中心的、資本主義の宗主国中心的歴史にはならないだろうし(資本の文明化作 用)、また資本主義の宗主国の革命が世界の革命をつくるなどとは書かないでしょう。それ だからこそ、彼は彼が資本主義の発展した国から共産主義に移るという漠然と描いていた 考えを変化させざるをえないと考えたことでしょう。
革命はどこから起こってもいい。それは革命が資本主義という世界の分業にたいし、大き な影響を与えるからであると考えていたからです。
そう考えると、遅れた国の革命運動は資本主義の発展を待つ必要はないということにな ります。そして 20 世紀に起こった世界中の革命運動が、なぜ資本主義化してない地域で起 こっていったのかも、理解できるようになると思います。
●世界認識と革命観の変化
このノートは 1864-65 年で、まだ『資本論』一巻を執筆していた最中で、後のアイルラ
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ンド問題やロシアの共同体の問題ほど明確に意識されていなかったとしても、こうしたノ ートをとりながら、少しずつ資本主義化されない農業のもつ意味について考察しつつあっ たと思われます。
『資本論』では、最終章のアメリカの植民地としての問題となり、アメリカではなぜ労働 者が増えないのかという問題を考えています。もちろん、社会関係が資本主義化されていな いという点で否定的に見ていて、農業が資本主義の規定していくのだという逆の側面では まだ見ていません。
しかしアイルランド問題(1867 年)の演説になると、アイルランドの独立運動を支持し てこう書いています。
「1846 年以来、それ(圧迫)が形式的には野蛮さを減じているとはいえ、実質的には根 絶的なものであり、イギリスによるアイルランドの自発的な解放か、生死をかけての闘争か、 そのいずれかよりほかの出口を残さないものだということである」(『マルクス=エンゲル ス全集』16 巻、437 ページ)
アイルランドはイギリスにとって不毛の土地として、完全に発展を阻止されてしまった がゆえに、独立への闘争が必要だというのです。
●ロシア観の変化
そしてそれはそのままロシアの問題として提起され、資本主義化されえないロシアの農 民がいかに資本主義に革命的影響を与えられるのかという問題として現れています。 一八六八年年はじめ、ロシアから『資本論』の翻訳をしたいという申し出を、マルクスは突 然受けます。その手紙の主はダニエリソンで、彼は一巻のみならず、二巻も翻訳したいとい い、さらに写真や伝記についても送ってくれるよう問い合わせてきます。彼は二四歳というとても若い青年でした。マルクスは、いつも批判してきたロシアが、『資本論』最初の翻訳 国になることを知って、運命の皮肉だと考えます(和田春樹『マルクス・エンゲルスと革命 ロシア』勁草書房、一九七五年が詳しい)。 やがて、ダニエリソンは、ロシア語のフレロフスキーの『ロシアにおける労働者階級の状態』 という五〇〇ページを超す大作をマルクスに送ってきます。マルクスはこの本に興味をも ち、一八六九年一〇月からロシア語の勉強を始めます。フレロフスキーに関心をもったのは、 スラブ主義者が述べているように、共同体礼賛に対して厳しく批判を展開していたからで す。当然ながら、マルクスは、資本主義的発展はすべからく西欧的道を通ると考えていたの で、ロシア人がいうスラブ的な問題は、無視していいと考えていました。 マルクスはその流れで、ゲルツェンと論争を繰り返していたチェルヌイシェフシキーとフ レロフスキーを、マルクスの宿敵バクーニン、そしてゲルツェンなどのスラブ主義者との対 抗に利用しようとして考えたのですが、そのうちに、ロシア的ななるものの特殊性にどんど んはまっていきます。当時第一インターのバクーニン派との闘争、マルクスを良く思わない ゲルツェンとの闘争において、彼らを批判するチェルヌイシェフスキーは格好の材料であ ったわけです。 やがて一八七〇年にロパーチンがマルクスの家を訪問します。このロパーチンこそロシア 語への『資本論』の翻訳を担当することになる人物だったのです。 その彼がマルクスに紹介した書物が、チェルヌイシェフスキーの『J.S.ミル経済学原理への 評注』でした。 とくに彼が関心をもったのは、資本主義への移行が、その国の事情によってことなるという 部分でした。資本主義への移行は必然だが、それはそれの国がおかれた情況によって変化し ていくという内容は、マルクスの思想を動かすに足る部分だったわけです。その情況とは、その国独特の制度ではなく、その制度が、どのように先進的資本主義の影響を受けるかとい う問題でした。
一八七一年『資本論』ロシア語訳が、初めての外国語訳として出版され、マルクスとロシ アとの関係はますます深くなっていきます。ドイツのハクストハウゼン(これについて肥前 栄一『ドイツとロシア』未來社、1986 年参照)がロシア調査の上で、農村共同体の未来を、 やがて崩壊するもの考えていたのに対し、チェルヌイシェフスキーは、それに反対し、この 農村共同体と資本主義への発展の関係について、資本主義への移行のスピードが後進地域 の方が早いという問題として捉えます。つまり、西欧の資本主義は、後進的に地域の影響を あたえるがゆえに、その発展が西欧と同じにならないということです。だからその発展は、 西欧の影響を受けつつ、まったく違った形になるという考えです。
つまり、ロシアは遅れているがゆえに、資本主義への移行も急ピッチで進む。それは西欧 の資本が流れ込んでくるからです。急ピッチであるがゆえに、共同体も十分に破壊されて資 本主義に移るというよりは、破壊されない形で形態を変え、それが資本主義から社会主義へ の変化においても残っていくのだと主張するわけです。
おそらくこうした発想は、マルクスが若い頃から抱いてきた、遅れた地域の発展は、不十 分であるがゆえに、進んだ地域からの影響をうけることで一気に進み、それは先進地域より もより急激に進むという発想の延長線上にあったからかもしれません(たとえば「ヘーゲル 法哲学批判序説」など)。マルクスの歴史的発展の法則は、単純に遅れた地域がその後を追 うというのではなく、むしろ進んだ地域の影響をうけることで、先進国以上に、資本主義化 が加速化して進展し、それがまったく先進国と違う道をとおるということです。
こうした発想の中で、その頃、マルクスは『資本論』(1875)の仏語版を分冊で出し始め ます。そして本源的蓄積について、発展の形式についてそれは西ヨーロッパだけを対象にしたものであり、それ以外を対象にしていないとまで述べることになります。それは、後進地 域は、先進地域の発展に影響されることで、先進地域と同じ発展をとらないからだと考えは じめます。
しかし、この問題は、マルクスにとっていまだ十分な研究に裏付けされたものではなく、 彼が公に発表することはありませんでした。ただ、少しずつ西欧とは違う発展について、非 西欧的共同体の研究を進めることで、問題に本質に迫ろうとしてきたのではないかと思い ます。その結果のひとつが、ザスーリッチへの手紙です。
●ザスーリッチ宛の手紙
マルクスのロシア論にとってもっとも大きな影響をもっているのは、ナロードニキのヴ ェラ・ザスーリッチ宛の私信です。これについては、すでに私は以下の書物を書いています。 的場昭弘編『マルクスから見たロシア、ロシアから見たマルクス』五月書房、2007 年です。 その序文が私の論文「マルクスのロシア観」です。
このザスーリッチの手紙は、七〇年代の研究のひとつの成果を示すものかもしれません。 この手紙には四つの草稿があります。手紙それ自身は非常に短いもので、結論部分だけです。 その結論部分は、ロシアの共同体は、西欧の共同体のように解体せず、ロシアの社会再生に 資する形で発展する。ただしそこには条件がある。その条件とはそうした共同体の崩壊を強 要していく勢力との闘争に勝利することができればということでした。
草稿を見ると、こうした結論にいたる詳しい内容が書かれています。西欧での農村共同体 は、私的所有が一般化していることで、次第に崩壊していったのだが、ロシアでは私的所有 すらないことで、その崩壊は簡単に進まないのだと展開されています。そしてそれは西欧的 なものではないロシア的問題として展開されています。
先進国と接触する後進諸国の発展は、どういう形で発展していくのかという問題でもあ り、それらの国が急激な資本輸出や交通によって資本主義国に組み込まれていく場合、それ らの地域にある資本主義以前の制度はどうなるかという問題の提起でした。
ゲルマン的共同体は、耕作地の私有地化と森林の共有地化に特徴があり、それは森林をも やがて私有地化というかたちへ進んでいくのですが、共同体のように私有地のないところ では、私有地化への反対が農民から起こり、それが私有地化を遅らせていくというのです。 ロシアでは土地の私有のみならず、その耕作における労働も協同型(アルテリ)であること で、私有地化は簡単には進まないというのです。むしろそうであるがゆえに、共同体は崩壊 せず残存し、資本主義を飛び越えて社会主義への進む余地を残しているといいます。
もちろんこうした共同体には、当然欠陥があるというのです。それは共同体と共同体とが ばらばらでいとなまれていて、そうであるがゆえに、巨大な専制的独裁権力がその上に位置 し、それを利用することによってツアーの国家体制ができているという問題です。それを避 けるには、共同体相互を束ねる農村共同体の会議が必要だというのです。
この点において、マルクスは、ロシアの共同体が資本主義の抵抗勢力となると同時に、未 来社会への架け橋にもなるという期待をもっています。
しかし、それはあくまでも期待であり、ここには大きな留保条件がつけられています。ロ シア全体の資本主義のける位置関係の問題です。ロシアが資本主義にたいし、消極的な保護 主義をとり続けるかぎり、農村共同体は、かえってツアー体制の搾取の対象となり、共同体 の未来の可能性よりも、共同体がこうした体制のための基礎をつくるだろうというのです。 だからこそ、ロシアは農村共同体を一方での利用することで、より封建的な関係を維持して いるわけです。しかし、他面で資本主義化を一気に進めるということも西欧列強の圧力の中 でうまれていて、その場合農村共同体は一気のロシアから駆逐される可能性も秘めているわけです。 未来への可能性を残しつつ、一方でロシア権力に牛耳られ、ロシア権力の方向如何で崩壊
の危機にさらされているミール共同体は、それを守るために農民の積極的な活動が必要だ というわけです。
特にロシア外部の資本主義は、このロシアの共同体を一気に崩壊させる要因をもってい るともいえます。それに農村共同体が対抗できるかどうか。ロシアの国家は、かつてはこの 農村共同体を維持しようとしていたのが、今ではむしろ破壊しようとしている状況の中、農 民はそれとどう戦うのか。
そうした中で、ロシアの新しい可能性の問題がでてきます。それは、ロシアに革命が起こ るという問題です。ロシアはミール共同体を生かすには、自ら革命を起こすしかないという ことです。農村共同体が危機に瀕している今こそ、ロシアの革命の時期だというのです。帝 国主義的列強と戦い、革命を行うというのです。
マルクスのツアー体制批判は相変わらずで変わっていません。しかし、その体制をむしろ 農村共同体が革命を行うことで崩壊させることに意味があるというのです。
マルクスのロシア観はここで二つに分かれます。ロシアの体制に対するロシア観は相変 わらず変化していないのですが、つまり遅れたロシア、野蛮なロシアという考えは変わって いないのですが、ロシアの農村共同体に関しては、それはロシアを近代化するためのむしろ 進歩的な部分だと主張するのです。
要するに、マルクスのロシア人に対する考え方は、一面的なロシア批判から、ロシアのツ アー体制批判、そしてロシア人の農民運動への礼賛ということに変わっています。
しかしながら、マルクスは、ロシアの農村の革命を引き起こすのは、進んだ西欧の資本主 義のロシアに対する圧力であると述べることで、西欧先進国の先進性はそのまま認めています。しかし、その圧力はロシアの資本主義化を進めるだけでなく、ロシアの資本主義をそ れ以上の社会への導きの糸にもなるとのべることで、西欧を追い抜いて、西欧での革命を促 進する役割をロシアが担うのではないかという論理になっています。
だからこそ、ロシアの農民運動の可能性は、西欧のプロレタリアとの連携がなくてはすす まないことになります。つまり、西欧の資本主義やロシアのツアー体制はおめおめと、農村 共同体の運動を認めるわけはないので、ロシアの農民運動(ナロードニキの運動は)は、西欧 におけるプロレタリアの革命と連携を必要とするわけです。
だからこそ、マルクスは、ロシアの革命の可能性は、西欧との連携がなければ成功しない ということを述べているわけで、これはやがてロシア革命の問題、そして一国社会主義と世 界革命の問題としてマルクス死後の問題にもつながってくる問題になります。
マルクスとスラブ社会、すなわち非西欧社会との関係は、マルクスの考え方に新しい問題 を提起しました。西欧的資本主義の発展は、そのまま西欧型資本主義を生み出すのではなく、 それがそれぞれの国で抵抗を生み出し、違うタイプの資本主義を生み出すということです。 その根本的問題は、それぞれの地域にある伝統的制度がどうなるかという問題であり、それ は資本主義の影響を受けつつも、独自に発展し、場合によっては新しい社会を開く可能性も 秘めているということです。
おわりに
私は、マルクスの世界認識、そして革命観は時とともに大きく変化していったと考えてい ます。その変化とは、西欧中心的歴史観からの脱却であったし、一面的な唯物史観からの脱 却だったわけです。
マルクスはユダヤ人の伝統あるラビの家系で、ユダヤ社会という非西欧の世界に長いこと住んでいたわけです。しかも、マルクスの顔は黒く、家庭や友人の間ではモール人と呼ば れていたほどです。だから外見によっても、つねにユダヤ人と思われることに、誇りと自己 嫌悪を持っていたと思われます。その彼が、幼い頃からカトリックの中心地で、西欧人とし て簡単に同化していったとは思えません。
西欧人になろうとしてなれなかったというのが、私の書く伝記の全体のストーリーでも あるのですが、それは彼の世界観の変容と結びついています。マルクスはヘーゲル哲学を学 びながらも、そこにある種の違和感をもっていた。その違和感が、結局西欧が作り上げた資 本主義と合理性に対するある種の抵抗で、すなわち共産主義運動であったのではないかと。
もし共産主義が西欧的合理主義の延長上に達成される理想社会などではなく、それとの 戦いの中で生まれるものであるとすれば、共産主義という運動は、資本主義によってつくり だされたブルジョワとプロレタリアとの闘争の上にできるものではないことになります。
若い頃はなるほど、マルクスは資本主義の延長線上に共産主義と革命を考えていたので すが、そうだとすると世界はすべて資本主義化され、ブルジョワとプロレタリアだらけにな らねばならない。しかしその資本主義は、一方で資本主義化への猛烈な抵抗を各地で生み出 す。その抵抗が共産主義と無関係なはずはない。それがロシアやアイルランドに対する考え 方の変化であったと思われます。その抵抗が資本主義を揺り動かし、それぞれの地域で新し い運動を生み出す。それを次第に理解しはじめたのではないかと考えています。
もっとも、マルクスの中にそうしたことを物語る文献が少ない。彼の残されたノートだけ では説得力が欠ける点もあります。今のところ、文献的に十分説明できるわけではありませ ん。ただ、1870 年代からの彼の沈黙、『資本論』を西欧社会に限定したこと、そうしたこと で、彼は世界認識の変化とともに、新たな革命観をもちつつあったのではないかと、私は考 えています。
■司会者(矢沢国光)の感想
(1)講師の取り上げた「第一期 1844-1848 年」は、イギリス主導の英露普墺による 4次にわたるナポレオン包囲体制→ナポレオン敗退後のウィーン体制が 1848 年ヨーロッパ 革命によって崩壊する時期です。
「第二期 1848-1867 年」は、ナポレオン 3 世(ルイ・ナポレオン)によるフランス第 二帝政とその対外戦争政策、クリミア戦争、プロイセンの台頭と富国強兵化、ハプスブルク 帝国の弱体化によって、「パクス・ブリタニカ」の様相が大きく変化する時期でした。
「第三期 1867-1883 年」は、ビスマルク=プロイセンによるドイツの統一とオースト リアの弱体化(オーストリアは、バルカンの「オーストリア・ハンガリー帝国」へ)、普仏 戦争・ドイツ帝国の成立、イギリスによるインドの植民地化を経て、19世紀末の「帝国主 義対立」の時代への過渡期でもありました。
講師の的場さんも、「マルクスの世界認識」というばあい、こうした世界史の推移にたい してマルクスがどう認識していたか、を前提にしていると思いますが、この日の報告は、未 だ刊行されていないマルクスのノートなどの発掘調査が中心で、紹介されたマルクスの「世 界認識」のテーマそれ自体[例えばロシア認識]は、「全体の見えない部分」のように、偏っ ていると思えました。
マルクスはルイ・ナポレオンについては生前刊行の著作を残していますが、的場さんの 『マルクスで読み解く世界史』によれば、マルクスはルイ・ナポレオンを過小評価していた。 ルイ・ナポレオンは、フランス資本主義を強化し、200家族とエリート支配体制を作り、 対外戦争を繰り返してそれなりに発展させた。イギリスと共同でクリミア戦争を戦うまで になった。こうしたことは、マルクスの視野に入らなかったのだろうか。
むしろ興味深かったのは、マルクスがギュルリッヒの『現代のもっとも重要な商業取引国 家の商業、産業、農業の歴史』(全五巻)からの抜粋ノートを丹念に取り、ノートの長さは、 『資本論』一巻分に相当したという。商業・交通・産業・金融といった経済史・経済政策に ついての現実の姿をギュルリッヒの書物からどん欲に学んだ。そのことが、その後の経済学 研究の下地になったのではないか。
(2)世界史に対するマルクス・エンゲルスの認識――政治評論、政治文書、新聞記事― ―は、読んでみるとわかるように、政治力学の客観的解明ではなく、「革命家」としての「総 括と革命の展望」であり、「革命観」と一体化したものであった。この点が、資本主義の運 動法則を抽出しようとした『資本論』とは異なる。
たとえば、マルクスの「ロシア嫌い」は、1848 年の東欧ブルジョア革命を帝政ロシアが つぶしたことからくる。「ロシア嫌い」は、「ブルジョア革命→資本主義の発展→プロレタリ ア革命」という一国的二段階革命論と一体化している。
こうした「一国的二段階革命論」は、のちに「ザスーリッチへの手紙」でロシア革命と先 進国革命の関連を考える時期には、変化しています。「先進国のプロレタリア革命と後進国 のブルジョア革命が一体化した世界革命」です。その基礎は、第一期のギュルリッヒノート で「マルクスにとって重要なことは、世界経済が先進国であるヨーロッパ経済のための分業 になっていること...今や世界は一蓮托生で相互にしっかりとつながっている」という認識 にあったと思われます。
(3)的場さんによると、マルクスが『資本論』第1巻を 1867 年に刊行した後、第2巻、 第3巻を刊行せずに放っておいたのは、謎だという[マルクスが 1883 年死去した後、エン ゲルスによって、第2巻は 1885 年刊行、第 3 巻は 1894 年刊行]。エンゲルスはマルクスの病気のせいにしているが、マルクスは「第三期」に、ロシア問題や農業問題に取り組んでお り、病気説は疑わしいという。
マルクスの膨大なノート類が未刊行。的場さんは、生きているうちに刊行されて、『マル クス伝』全3巻を完成させたいという。
期待しています。
■質疑
[前半講演についての質疑]
●矢沢(司会者)
第2期でマルクスは「イギリスを先頭に(ブルジョア革命によって)資本主義化し、資本 主義化を進めることによってプロレタリア革命に進むことができる」とした。こうした「唯 物史観」は、第1期で形成されたのか?それとも第2期で形成されたのか?ヘーゲル的な 「世界精神の発展」という世界歴史観からどのように転換したのか?
▲的場
「唯物史観」が明確に証明されたのは『資本論』です。『ドイツ・イデオロギー』でも、 『哲学の貧困』でも『共産党宣言』でも、唯物史観の学問的な証明はない。マルクスは18 48年革命が終わってロンドンに亡命し、経済学の研究に入る。ドイツのブルジョア革命が 腰砕けに終わり、マルクスはブルジョア革命をいったん捨てて、プロレタリア革命になるに は「時期」、つまり恐慌が必要だと考えて、資本主義の研究に没頭し、十数年かかって『資 本論』にまとめ上げた。
●太田仁樹
『18 世紀の秘密外交』がソ連で刊行されなかったのは、その中にアーカートの「偽書」
が含まれていたからか?
▲的場
そのとおりです。アーカートの創作した文書も含まれていました。
●河村哲二
資本論形成史で「ロンドンノート」が注目されてきましたが、これはどういう位置づけに なりますか?
▲的場
ロンドンノートは、1850 年代から書き始めますが、はじめは貨幣論・信用論についてノ ートをとっていました。ニューヨークの新聞の特派員をしていたので、記事を書くために、 大英図書館の新聞を読んでノートをとっていた。これを十数年続けた。ただ、この二つ(経 済学と政治記事)は、ノートの中で、区別されていない。『資本論』には、政治記事のため のノートも、入っている。
[全体についての質疑]
●矢沢国光
マルクスは世界の政治的動向についてもノートしていますが、次のようなことについて
は、ノートにあるか、マルクスがどのような認識をしていたか知りたい‥イギリスのインド 40
植民地支配、クリミア戦争、ルイ・ナポレオン時代のフランスが経済的にも政治的にも強く なってイギリスと一緒にクリミア戦争を戦うまでになったこと...。
▲的場拙著
『マルクスで読み解く世界史』(教育評論社、2022)に書きましたが、1850 年代、
1860 年代のマルクスは次のように認識していたと思います。イギリス[イギリス帝国主義で はない]を中心とした資本主義の発展が世界の隅々に及ぶ。それにより、旧来の制度が様々 な機能不全を引き起こす。とくに、東欧(オーストリア、ポーランド、ロシア)では、資本 主義の発展に対する抵抗勢力を作り出している。こうした国々は、やがて「帝国」体制を崩 壊させ、国民国家に変わっていかざるをえない――これはマルクスの発想でもあるが、(共 和党の)『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』の発想でもある。
オーストリア、ポーランド、ロシアが近代国家になりうるかどうかが問題だった。
●高原浩之
報告の32ページに「資本主義化していない国々で革命が起きた」と書かれていますが、 疑問です。ロシア革命も中国革命も、プロレタリア革命への前進は挫折し、ブルジョア革命 =資本主義化に終わった。後進国でプロレタリア革命が起きたというのは、事実に反する。
▲的場
ここで「革命が起きた」というのは、資本主義の影響を受けて農民が反乱を起こした、と いうことです。こうした反乱(革命)があっても資本主義化しないまま推移した、というこ とです。
●高原浩之
資本主義化していない国に、先進国の社会主義の思想が入ってきて、ブルジョア革命の中 でボリシェビキや中国共産党など社会主義を目指す潮流が主導してブルジョア革命を行っ た、ということですね。
▲的場
資本主義の要素が入ってくると、それに対する抵抗闘争が起きる。そのさい、「マルクス 主義」も入ってくる。「マルクス主義」といっても、資本主義の発展がない(遅れている) 国では、「マルクス主義」の概念を理解できない。だから、国によって「マルクス主義」の 内容に「ずれ」がある。「ずれ」はあるが、「マルクス主義」を進めていった、ということだ と思います。
●河村哲二
斎藤幸平さんはリービッヒのノートに依拠して、また資本蓄積の問題に結び付けて、資本 主義をのりこえないとエコロジー問題が解決しない、としていますが、これについてどう考 えるか?
▲的場
たしかに資本蓄積の問題は、自己矛盾を含んでいる。どこかに原料などが集中し配分が偏 る。消費も同じく、偏る。しかし、マルクス[に依拠して]でエコロジー問題まで行くのはど うかと思う。「マルクス」をやめるしかないのではないか。斎藤幸平さんの本を読んで、と くに「マルクス」でなくても、エコロジーでよいのではないかと思った。
マルクスは、ユダヤ人の家庭に育っており、キリスト教の西欧的学問に違和感があった。 42
西欧はどうして農薬・肥料を大量に使って自然を破壊する無茶なことまでしたのか。西欧に 対する違和感がエコロジーの発想をもたらしたともいえる。わたしたち日本人が西欧的学 問を学ぶときにも、「ずれ」がある。その意味で日本人のほうがマルクスのエコロジーに共 感することはあるのかもしれない。
●矢沢国光
斎藤幸平氏は、商品化の反対概念として「コモン」を提起しています。そして「コモン主
義がすなわち共産主義」だ、としています。マルクスのノートからこうした「コモン主義」 を読み取ることはできるのでしょうか?
▲的場
「コミュニズム」はマルクス以前からある概念で、「財産の共同体」という意味だった。
1840 年代に「財産の共同体」と言われたのは、農民の共同体ではなく、家具や道具を共有 する職人の共同体のことであった。これは「財産を共有する」共同体ですが、マルクスはコ ミュニズムを単なる財産の共同体に収まるものではなく、歴史の流れの中で出てくる、資本 主義の後に出てくるもっと大きな概念に作り替えた。
●河村哲二
マルクスには『古代史ノート』(『古代史・人類学研究抜粋ノート(1876-82 年)というも
のがあり、マルクスは晩年、とくに L.H モルガンによるアメリカのイロコイ・インディア ンの研究について詳しいノートを作成している。これはどんな意味があったのか?
▲的場
マルクスには古代の共同体に関するノートが多い。マルクスは「ゲルマン共同体が発展し
て私的所有に変わり、そこから資本主義が発展した」と思いたかったが、実際にはそうなら なかった。なぜそうならなかったか、そのためそれをもっと研究して、人類学の研究に進ん だ。
マルクスは晩年膨大なノートをとったが、それに基づいて著作を書いたわけではない。模 索していたのではないか。『資本論』第2巻、第3巻ができていたにもかかわらず刊行しな かったのは、[エンゲルスは病気のせいにしているが]じつは、『資本論』のあと、何かを模 索していたからではないか。
マルクスの「第三期」には、意味不明の部分が多い。
●太田仁樹
1870 年代のマルクスの著作は少ないが、その中で言っているのは、『資本論』(で説かれ た法則)は、西欧の中でしか通用しない、ということです。
質問1。アイルランド問題で、イギリスの労働者のとらえ方が、マルクスとエンゲルスで はかなり違う。エンゲルスは、イギリスが世界の覇権国で、「イギリスの労働者は保守化し ている」と見抜いていたが、マルクスは「先進国は後進国の未来像」という考えで、「イギ リス労働者はアイルランド労働者より進んでいる」とした。
▲的場
アイルランドの安い労働力がイギリスに、流入し、イギリスの労働者は、これに対して反 感を持っていた。イギリスは、アイルランドの安い労働者を使っていたが、アイルランドの 経済的発展は、押しとどめられるだけであった。マルクスは、「イギリスは、アイルランドの未来像」というだけで、アイルランド労働者の運動については、特別な関心がなかった。 エンゲルスは、アイルランドに行ったこともあり、農業についても調べていて、詳しい。
マルクスは、エンゲルスの知識を学んだだけで、具体的にとらえていなかった。
●太田仁樹
質問2。「ザスーリッチの手紙」のザスーリッチは、ロシアのナロードニキ運動の中では プレハーノフ派でした。プレハーノフは「ロシアは資本主義になっていないから革命はまだ 先の話だ、いまは学習の時だ」と主張した。マルクスはプレハーノフを革命運動からの脱落 派として嫌っていた。そのことが、「手紙」に影響していなかったか?
▲的場
事実関係は、調べてみないと、わかりません。
●蓼沼紘明
⓵マルクスは自然と人間の関係をどのように認識していたのか。
▲的場
マルクスが若いとき、フォイエルバッハの影響下にあり、『経済学・哲学草稿』では、自 然に深く結びついた人間を考察しています。ところが『ドイツ・イデオロギー』になると、 自然と人間を分離し、「対象としての自然をどう使って経済を発展させていくか」になる。 「類的人間」という概念もなくなり、自然から区別された人間が出てくる。
晩年になって、人類学の発展もあり、マルクスは勉強しなおします。
1960 年代、サルトルが「ヒューマニズム」を主張したとき、「自然を排除したヒューマニ ズムは成立しない」という批判が起きた。
フォイエルバッハが自然をとりいれたのは、1830 年代のスピノザの影響がある。
●蓼沼紘明 2
今日の労働者の中には、株式を所有したり「資本家」的になっている者もいる。これを
どう考えたらよいか。
▲的場
キャピタルゲインの問題ですね。「労働貴族」の問題です。労働者はキャピタルゲインの 取得によって、労働者の階級意識をどこまで維持できるか、という問題です。
先進国では「市民社会・中産階級」が生まれる。市民社会の「中産階級」は、労働者の闘 争の担い手になりうるかどうか、問題になった。これはなかなか難しい問題です。先進国に 「労働者階級」はどれほどいるか。しかし、世界全体でみると、それは難しい問題ではない。
先進国労働者の中産階級化は、バングラデシュのような後進国の労働者の搾取と対(つい) になっている。先進国・後進国を合わせて、インターナショナルで考えなければならない。 キャピタルゲインも資本主義が発展しなくなると、消えてしまう。「中産階級」も上下に
二極分解する。
■終わりの言葉
世界資本主義フォーラム顧問・河村哲二 的場さんはマルクスを三つの時期にわけて 3 巻の『マルクス伝』を書くということです。 これまでのマルクス研究は、マルクスの特定の時期の研究・著作にもとずくものがほとん
どでした。三つの時期にわたるマルクスの研究に大いに期待します。 わたしは、資本主義の発展段階を「パックス・ブリタニカ」段階、「パックス・アメリカ ーナ」段階として、段階論を構成しようとしていますが、マルクスはまさに「パックス・ブリタニカ」の確立期から変質期の入り口までをとらえています。そのあとは、とくに第二次 大戦後は、アメリカ中心の資本主義に変質しています。もちろ「パックス・ブリタニカ段階 とパックス・アメリカーナ段階の資本主義には共通する面はありますが、独自の面もかなり あります。パックス・アメリカーナ段階の資本主義を、改めて解明することがわれわれの大 きな課題になっています。こうした資本主義の発展をとらえるには、輸入学問ではなく、日 本独自のマルクス研究の発展が必要です。そのために、的場先生の『マルクス伝』が出まし たら大いに活用させていただこうと思っています。
今後も、よろしくお願いいたします。 またこの場で、研究の成果を発表していただければありがたいです。 本日は、ありがとうございました。
■参加者アンケート回答から
●高原浩之[1]感想・質問質疑をより詳しく。 ※斜体は、講師(的場)の報告文書からの引用部分 1資本主義の発展を経ないで社会主義 それはなかった「20 世紀に起こった世界中の革命運動がなぜ資本主義化してない地域で起こっていったの かも理解できるようになる」。ロシア革命や中国革命を社会主義革命と認識し、資本主義が 発展したヨーロッパよりも遅れた国で先に起きたと認識している、こう理解するしかあり ません(ブルジョア革命と資本主義化はヨーロッパが先なのは議論の余地がない)。しかし、 これは歴史的事実に反します。 ロシア革命や中国革命は、プロレタリア階級=共産党が指導しましたが、ブルジョア民主主義革命でした。プロレタリア革命へ前進し社会主義を実現しようとしましたが(それがマル クス・レーニン主義)、挫折した。出現したのは、名は「社会主義」だが、実際は官僚制国家資 本主義でした(その意味でマルクス・レーニン主義は破綻)。ブルジョア革命と資本主義化を ヨーロッパに遅れて達成した、そういう結果に終わりました。 2社会主義を担うのはプロレタリア階級の階級闘争が生み出す新しい共同体 「マルクスとスラブ社会、すなわち非西欧社会との関係は、マルクスの考え方に新しい問題 を提起しました。西欧的資本主義の発展は、そのまま西欧型資本主義を生み出すのではなく、 それがそれぞれの国で抵抗を生み出し、違うタイプの資本主義を生み出すということです。 その根本的問題は、それぞれの地域にある伝統的制度がどうなるかという問題であり、それ は資本主義の影響を受けつつも、独自に発展し、場合によっては新しい社会を開く可能性も 秘めているということです。」 「違うタイプの資本主義を生み出す」は正しい。しかし、「伝統的制度が...場合によっては新 しい社会を開く可能性も秘めている」、これはないでしょう。なぜなら、遅れた国で資本主 義の発展を経ないで社会主義を実現する(プロレタリア階級のヘゲモニーで)、この、ロシア 革命・中国革命とマルクス・レーニン主義の基本精神は破綻したからです。
ロシア革命は「北」ですが、中国革命など、「南」の、帝国主義の植民地支配に反対する民族 解放闘争は、社会主義を目指すのが少なくはなかったが、全て資本主義化しました(ベトナ ムも)。共産党独裁=全体主義と開発独裁=権威主義、二つ(双生児)の国家資本主義。グロー バリズムは、「北」による資本輸出=資本主義の移植よりも、「南」における資本主義の内在的 な発展です。現在はアジアですが、中南米とアフリカが続く。
世界全体が資本主義化し、社会主義は、そこにおける矛盾の展開、とりわけプロレタリア 階級の階級闘争で実現される。これは唯物史観そのものです。社会主義を担うのは、旧い共同体よりも、プロレタリア階級の階級闘争が生み出す新しい共同体でしょう。 3社会主義は「北」が先か? 「南」が先か? それはまだ分かりません。 資本主義の不均等発展で、「南」は勃興する「新世界」、工業化と資本主義の成長、労働者階級 の増大と階級闘争の発展でしょう。反対に、「北」は衰退し没落する「旧世界」、工業的空洞化 と金融化、労働者階級の大分裂でしょう。レーニンが帝国主義論で示唆した腐朽性と寄生性 が全面化するでしょう。危機の進行は「南」よりも「北」が先の感じです。(おわり)
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