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第六章 株式資本と資本主義の歴史的限界


 

第一節 株式資本

 

   一 貨幣資本と産業資本の統一

 

 われわれは、第四章の展開をとおして、次のことをみた。

 すなわち、①諸資本相互の競争関係をとおして剰余価値を平均利潤として分配し、それをとおしてみずからを社会的総資本の質的に平等な可除部分――その大きさと前貸期間とに比例して均等に自己増殖する可除部分――として定立する過程こそ、資本がそれに固有の形態をとおして資本主義的生産を種々な生産部門の総体からなる統一的な社会的生産として全体的に編成し定立する現実の過程にほかならぬこと、だが、②この過程は、産業資本の投下資本価値の一大部分が生産過程に固定的に集積されているという事情により、大きく制約され阻止されていること、③こうした制約を資本が克服する資本家社会的な機構こそ、商業信用を基底とし銀行信用を基軸とし中央銀行信用を軸点とする近代的信用制度にほかならぬこと、そして④こうした近代的信用制度――中央銀行を中心とする統一的な貨幣市場――の成立を通じて、産業資本は、形態的には、資本の社会的全体性とその資本価値としての自己増殖とを代表する社会的貨幣資本と、個々の商品の生産に固定された個別的資本としての産業資本との対立関係に分化し、したがってまた産業利潤は、資本価値の自己増殖率を社会的に代表する利子率と、それによって資本としての増殖率を社会的に尺度されるものとしての利潤率との対立関係に分化するということ、これである。

 これにたいし第五章では、われわれは次のことをみた。

 すなわち、①信用制度を媒介にする、したがって社会的貨幣資本による産業資本の規制を媒介にする資本主義的生産の現実の運動過程こそ、恐慌――不況――好況――恐慌という景気循環の過程にほかならぬこと、そして②この景気循環過程は、価値法則が、資本主義的生産の現実の運動法則としてみずからを貫徹し、また資本主義的生産がみずからを統一的な社会的生産として現実に編成する過程にほかならぬこと、また③資本主義は、こうした景気循環過程を自由主義段階のイギリスを中心にする国際的景気循環過程として歴史的に実現すること、これである。

 それゆえ、われわれは、この第六章では、第四章および第五章の以上のような展開を基礎にして、次のようなあらたな資本形態を展開しなければならない。

 すなわち、貨幣資本と産業資本、利子と利潤とを単一の資本形態のうちに統一し、それによって資本の統一的全体性を形式のうえからも完成するあらたな資本形態が、それである。

 そしてこうしたあらたな資本形態の展開への要請は、二つの側面から、すなわち、形態面および実体面の両面から生じている。

 まず、形態面から問題にすれば、貨幣市場の成立を媒介にする社会的貨幣資本と産業資本との対立関係への産業資本の社会的分裂――これには商業資本や銀行資本の産業資本からの自立化がふくまれている――それ自体が、したがってまた利子と利潤との対向関係への利潤の社会的分化それ自体が、両者を統一しそれによって資本の社会的全体性を形態的に完成するあらたな資本形態を要請するということである。

 というのは、こうした分化は、たしかに、社会的貨幣資本が産業資本相互の利潤率の均等化を媒介し、それを通じて社会的総資本の可除部分としての個々の産業資本の定立を媒介する形態には違いないが、しかし、この分化そのものは、すなわち、利子率が資本価値そのものの自己増殖を代表するものとして産業資本の利潤率の個別的不均等性に相対するという関係そのものは、産業資本がたんなる産業資本としては客観的な価値の自己増殖体にはなりえないこと、したがってまだ資本としては未完であること、したがってまた資本はまだ産業資本をもふくめての全体性を達成しえていないことを公然と表明する以外のなにものでもないからである。つまり、この分化それ自体が、同時にまた、産業資本自身にも社会的貨幣資本と同様な形態――それ自身によって一様に増殖する価値の自己増殖体という形態――をあたえるあらたな資本形態への形態的要請なのである。そこで、この点を確認しておいて、次に実体面に視点をうつせば、そうしたあらたな資本形態を実体的に要請し、また現実的に準備するのは、次のような過程にほかならない。

 すなわち、①景気循環過程を媒介にする既存生産力の周期的な破壊とより高度な生産力によるそれの周期的な更新を通じて、生産過程への固定資本の集積に代表される近代的生産力の巨大化がすすみ、ついにそれが恐慌――不況の過程による生産力と生産関係の矛盾の周期的な解決を不可能にするようなあらたな段階にまで達すること、そして②これによって、景気循環過程を媒介にする価値法則の貫徹や資本主義的生産の全体的編成が、不可能になること、③ここからこれらの障害を打開するあらたな資本関係が要請されてくること、これである。

 だが、ここではわれわれは、こうした実体面の内容的な追及は第二節にゆずり、第一の形態的要請を確認したうえで、それを実現するあらたな資本形態を、さしあたり形式的に展開すべきである。

 

   二 株式資本

 

 ところでこのばあい、最初から明らかなことは、貨幣資本と産業資本との、また利子と利潤率とのこの統一は、両者の現実の統一にはなりえないということである。

 というのは、資本が生産過程を包摂し剰余労働を剰余価値として取得する現実の形態は、産業資本と産業利潤という形態G―W……W´―G´という形態以外にはありえないからであり、したがって、資本が社会的生産を資本主義的生産として全体的に編成する現実の形態は、個々の産業資本相互の利潤率均等化の競争以外にはありえないからである。

 かくて、右の統一は、両者の現実の統一ではなく、擬制的な統一でしかありえないのであって、それは、利潤を貨幣市場の利子率によって資本還元し、そこから想定される一定額の貨幣資本に産業資本を擬制する関係以外にはありえない。

 すなわち、たとえば、100万ポンドの産業資本――これは特定の生産過程に固定的に投下されている――が一年間に10万ポンドの利潤をもたらすとき、貨幣市場の利子率が5パーセントであるとすれば、この5パーセントで10万ポンドの利潤を割算してえられる200万ポンドの貨幣額――10万ポンドの利潤を利子とみなしたばあいにそれをもたらすのに必要な貨幣資本額――に、100万ポンドの産業資本を擬制する関係が、それであって、このようにして、現実的には生産過程に固定されていながら自由な社会的貨幣資本の形態を擬制された産業資本こそ、株式資本、――貨幣資本と産業資本とを貨幣資本の形態において統一するあらたな資本形態としての株式資本にほかならない。

 だが、このような株式資本が現実に成立するためには、次のような関係が存在していなければならない。

 すなわち、①株式会社制度が資本家たちの共同出資と事業の共同経営のための制度として産業にも普及すること、②株式証券――会社資本にたいする共同持分証書および会社利潤にたいする共同権利証書としての株式証券――が資本家たち相互のあいだで売買形式をとおして持手を転換するための証券市場、すなわち、株式証券の流通市場としての証券市場が、成立すること、これである。

 というのは、こうした証券市場の存在によってはじめて、株式証券の購入に投下された貨幣はその売却によっていつでも貨幣として回収しうることになり、またこの関係によってはじめて、貨幣市場にある社会的貨幣資本の一部が、貨幣市場の利子率と株式証券にたいする利潤配当とを比較しつつ、貨幣市場と証券市場とのあいだを自由に流動しうるようになるからであり、そしてまたこうした社会的貨幣資本の自由な流動関係によってはじめて利子率による利潤の資本還元に照応する株式価格が成立するからであり、そしてまさにそれこそは、産業資本――生産過程に固定的に投下されている現実資本――に一定額の社会的貨幣資本の形態が擬制され、また利潤に貨幣資本利子の形態が擬制される現実の機構にほかならぬからである。

 ところで、このような関係をとおして、株式資本が成立すると、いまや産業資本は、現実的には個々の資本として生産過程に固定的に投下され、したがってたがいに相異なる個別的利潤を取得していながら、しかも同時に他方では、一定額の貨幣資本として、その資本価値としての大きさと前貸期間とに比例して一様にまた客観的に自己増殖するという形態をあたえられることになる。

 それゆえ、株式資本においては、すべての資本は社会貨幣資本の無差別な可除部分として定立されており、資本の社会的全体性は形態的に完成されている。

 かくて、株式資本とは、資本の最後の、そして最高の完成形態にほかならない。

 

   三 資本市場と資本の商品化

 

 だが、たんにこればかりではない。

 株式資本において、生産過程に固定的に投下されている個々の産業資本に、したがってもちろん商業資本や銀行資本にも、一様に社会的貨幣資本の形態があたえられることになると、そこからまた、株式証券の流通市場としての証券市場にもあらたな形態があたえられることになる。

 さきにもふれたように、株式会社制度は、制度それ自体としては、資本家たちの共同出資と事業の共同経営のための制度にすぎない。そこでは、資本の人格化としての資本家が、法人格としての会社と会社にたいする株主資本家とに形式的に分離され、またこれに対応して、資本にたいする資本家の所有関係が、会社による現実資本の所有と株主資本家による会社の共同所有とに二重化されるわけであって、それは、多数資本家による共同出資と現実資本の統一的運営とを同時に保証する合理的制度にほかならない。また、株式証券も、それ自体としては、各社にたいする株主資本家の共同所有証書、したがってまた会社の利潤にたいする共同の権利証書にすぎず、したがって、株式証券の流通市場としての証券市場は、それ自体としては、こうした株式証書の売買形式による持手転換の市場にすぎない。いいかえればそれは、生産過程に固定的に投下されている現実資本の売買市場では決してなく、たんにそれにたいする持分証書の売買市場にすぎない。

 だが、こうした証券市場と貨幣市場とのあいだに社会的貨幣資本の流動関係が成立し、それによる株式価格形成の関係を通じて産業資本に社会的貨幣資本の形態が擬制されることになると、そこから、現実資本にたいする持分証書としての株式証券に、そうした貨幣資本にたいする所有証書という形態が擬制されることになり、これをとおしてまた株式証券の流通市場としての証券市場に、貨幣資本の所有証書の売買市場――貨幣資本としての資本の売買市場――という形態が擬制されることになる。証券市場の資本市場としての形態が、いうまでもなく、それにほかならない。

 そしてこのことは、いまや資本市場において資本そのものが、しかも社会的貨幣資本としての資本が商品としてあらわれるにいたったということを意味する。

 そしてこのことそれ自体は、さらに次のことを意味する。

 すなわち、いまや資本主義的生産の全内容、資本のすべての具体的諸形態が、ふたたびまた抽象的な商品形態のうちに総括され溶解されたということ、これである。

 さて、以上でわれわれは、貨幣資本と産業資本とを統一する資本形態への形態面からの要請と、それを実現する株式資本の形態的特質をみた。いまやわれわれは、この点を前提にして、さきにわれわれが留保しておいた問題すなわち、株式資本への実体面からの要請にたちかえり、株式資本が現実になにを意味するかを追求しなければならない。

 

 

第二節 株式資本の歴史的意義

 

   一 自由主義段階の国際的景気循環の歴史的条件

 

 株式資本への実体面からの要請を明らかにするためには、しかしわれわれは、いまいちど自由主義段階の国際的景気循環にたちかえり、その歴史的条件を検討してみなければならない。

 自由主義段階の国際景気循環の運動基軸がイギリス貨幣市場―—イギリス世界商業―—イギリス綿工業という連関にあったことは、すでにみたとおりであるが、これにはしかし、いまひとつの副軸があった。すなわち、イギリス貨幣市場—―イギリス資本市場―—イギリス国際鉄道投資―—イギリス鉄工業という連関が、それにほかならない。

 もともと、ロンドンを中心とするイギリス資本市場は、ナポレオン戦争中の大規模な公債発行と財政インフレーションの戦後処理――イングランド銀行券の戦前平価での金交換の再開――の過程を通じて、公債の流通市場として成立したものであるが、これにさらに1840年代の鉄道建設時代になると鉄道証券の取引がつけくわわった。

 そしていうまでもなくこれは、次のような事情にもとづくものであった。

 すなわち、①鉄道事業は、一般の産業とは異なり、流通過程に位置を占め、しかも一地域の多数の資本家や一般住民大衆を広く対象にする多かれ少かれ独占性をもった大規模な社会的事業であること、②鉄道事業のこうした大規模な社会的性格は、事業資金の調達のために最初から株式会社制度の利用による多数の資本家の共同出資を必要にするとともに、同時にまたそれを可能にすること、③しかもこのおなじ鉄道事業の大規模な社会性は、鉄道会社の株式や社債に政府公債に類似した性格をあたえ、公債取引市場での鉄道証券の取引を可能にしたこと、これである。

 そしてこのことは、次のことを意味していた。

 すなわち、①貨幣市場の利子率と資本市場の証券利廻りとの比較関係を基準にして貨幣市場の社会的資金の一部が資本市場を経由して鉄道投資へとむかう機構が、すでに自由主義段階の中期には成立していたこと、②したがって鉄道建設は、すでにこの時期から、こうした機構を媒介にして貨幣市場の社会的貨幣資本の動向に大きく依存していたこと、③またほぼこの頃からはじまったイギリス鉄工業の急速な拡大は、こうした鉄道建設の発展にともなう鉄道資材の需要の拡大に主として依存していたこと、これである。

 しかも、こうしたイギリス資本市場は、イギリス貨幣市場が同時に世界貨幣市場であったことに対応して、1850年代以後の鉄道建設の国際的波及とともに――ことにアメリカ合衆国での鉄道建設の発展とともに――、直接、間接の鉄道証券を基軸とする大規模な世界資本市場へと発展していったのであり、またこれに促進されてイギリス鉄工業は、このおなじ時期に、鉄道資材の輸出を中心とする大規模な輸出産業へと発展していったのである。

 そしてこのことは、すでに自由主義段階の中期に、イギリス貨幣市場――イギリス世界商業――イギリス綿工業という連関とならんで、イギリス貨幣市場――イギリス資本市場――イギリス国際鉄道投資――イギリス鉄工業というもうひとつの連関が、国際的景気循環過程の基軸として登場していたことを意味していたわけである。

 ところで、この第二の連関は、第一の連関とは、最初からして性格の異なるものであった。

 すなわち、①この第二の連関の産業的基底をなす鉄工業は、軽工業に属する綿工業とは異なり、大規模な設備投資を要するいわゆる装置産業であった。したがって、②好況期にも綿工業のような信用を利用する流動資本的な拡張をなしえず、そこから生ずる製品価格の異常な値上りとそれによる超過利潤の蓄積をとおして好況末期に設備投資による固定資本的拡張にむかう傾向があった。したがって、③ここでは、恐慌――不況の過程で過剰蓄積を暴露されたのは、むしろ好況末期に新設拡張された固定資本であって、当然にこれは、不況期の合理化による過剰資本の整理を困難にするとともに、不況期の製品価格の低落を激化し長期化せざるをえなかった。しかも、④こうした鉄工業そのものの内部事情につけくわえて、鉄工業の拡大と縮小が主として依存していたのは、一般産業ではなく、国際的な鉄道建設の伸縮であった。そして⑤この国際的な鉄道建設は、たんにそれ自体としても再生産の一般的動向から相対的に独立して伸縮しうる――というのは、それは直接の生産手段や生活資料ではないから――というばかりでなく、ロンドンを中心にする国際的資本市場での証券価格の動向に大きく依存していたのである。しかるに⑥この証券価格は、貨幣市場の利子率の動向と鉄道会社の予想収益の動向とに依存していて、一般的な好況・不況の振幅よりもはるかに大きな振幅で変動し、それによって鉄道建設を好況期には熱狂的に促進し、また不況期にはそれに異常な沈滞をもたらしたのであった。

 かくて、イギリス貨幣市場――イギリス資本市場――国際的鉄道建設――イギリス鉄工業という第二の連関は、イギリス貨幣市場――イギリス世界商業――イギリス綿工業という第一の連関とは、最初から異なる動きを示すものとして登場したのであって、それは、自由主義段階の中期以後の国際的景気循環を撹乱した主要要因のひとつであった。

 だが、自由主義段階としては、この第二の連関は、第一の関連にたいしてまだ国際的景気循環の副軸の地位を占めていたにすぎず、第一の連関を反映するロンドン貨幣市場の利子率の動きに規制されて、基本的には第一の連関に同調せしめられ、その振幅を増幅するいわば増幅器として作用するにとどまっていた。

 そしてまさにこうした関係こそ、自由主義段階の国際的景気循環が、資本主義の生産力と生産関係の矛盾の周期的解決機構、および価値法則の運動法則としての貫徹機構として作用するための歴史的条件なのであった。

 

   二 1873年恐慌と「大不況」

 

 だが、1860年代末から70年代初頭にかけて実現された急激な国際的好況は、もはや、イギリス貨幣市場――イギリス世界商業――イギリス綿工業という連関を主軸とする好況ではなかった。それは、イギリス貨幣市場――イギリス資本市場――国際的鉄道建設――イギリス鉄工業という第二の連関がいまや右の第一の連関にかわって国際的景気循環の主軸として登場するにいたったことを告げる最初の好況的発展であつた。

 そして1873年の恐慌から90年代前半の不況にまでつづくいわゆる「大不況」は、国際的景気循環の主軸のこうした転換の帰結にほかならなかった。

 じっさい、この時期の三つの好況――1870年代初頭、80年代初頭、および80年代末の好況は、いずれも基本的には、ロンドンを中心にする資本市場の国際的な拡張と、アメリカを中心にする鉄道建設の国際的な拡大をもって開始され、鉄工業製品の急騰とこれに誘発された重工業の集中的な新設拡張をとおして最好況期に移行したのであった。またこれにつづく三つの恐慌は、いずれも基本的には、こうした過程を背景にする資本市場の投機的拡張が、貨幣市場を圧迫して利子率の騰貴をひきおこし、それが他方での鉄道資材の値上りによる鉄道会社の収益力の低下とも重なって、資本市場の国際的崩壊をよびおこし、鉄道建設と重工業の新設拡張を突然に停止することから、生じたのであった。

 これは当然のことながら、一方では、重工業における固定資本の巨大化ともあいまって、好況末期に集中的に新設拡張された生産能力を過剰能力として不況期に慢性的に残し、不況期を長期化する傾向をつくりだすとともに、他方ではまた、不況期の合理化――既存生産力の更新とそれを基礎にする資本主義的生産開係の再編成――を困難にし、不況期の好況期への移行を、不況期の産業的蓄積の停滞にもとづく貨幣市場の異常な緩慢が利子率の低下をとおしてふたたびまた資本市場の投機的拡張とそれを利用する鉄道建設の拡大とをよびおこすという関係に、依存せしめることにもなった。そしてここから生ずる景気循環の特殊な様相が、この時期全体を「大不況」として特徴づけることになったわけである。

 かくて、「大不況」の到来は、資本主義がその生産力と生産関係の矛盾をもはやそれまでのように世界恐慌――世界不況の過程をとおして周期的に解決しえなくなったことを、具体的に告げるものであった。

 ところで、すでにみたように、資本主義がその生産様式の限界内で生産力と生産関係の矛盾を解決する方法は、恐慌――不況の過程における既存生産力の破壊、あらたな生産力によるそれの代置、これを基礎にする資本主義的生産関係の全面的な再編成以外にはありえなかったわけであるが、しかしこれは、個々の資本にとって多大の犠牲と苛酷な負担をともなう不況期の個別資本的競争戦をとおして遂行される以外になく、既存資本価値の維持増殖という資本の根本的要請とは鋭く矛盾するものであった。いいかえれば、資本主義は、こうした不況期の個別資本的競争戦の負担と犠牲に耐える限界に生産力の発達段階がとどまっているかぎりでのみ、恐慌――不況の過程で、その生産力と生産関係の矛盾を周期的に解決しえたにすぎなかったのであって、そうした生産力の発達段階を具体的に示すものこそ、イギリス綿工業を生産基軸とする自由主義段階の資本主義世界体制であった。だが、早くも1840年代には、この自由主義段階の国際的景気循環過程――国際的資本蓄境過程――の内部に、そうした生産力と生産関係の矛盾の解決をゆるさないあらたな関係、すなわち、イギリスを中心とする貨幣市場――資本市場――鉄道建設――鉄工業という連関とそこに実現されるあらたな生産力が、その副軸として生長しつつあったのであって、60年代末の好況とともにこの関係が主軸として登場するやいなや、国際的景気循環の様相は一変し、自由主義段階はおわりを告げ、資本主義は、あらたな世界史的段階――もはや生産力と生産関係の矛盾を解決しえないでかえってそれを激成しそこからあらたな関係を展開せざるをえない段階――にむかって移行を開始したわけである。

 そしてここから生じてきたあらたな関係こそ、鉄工業を中心とする重工業における株式会社制度の次のような役割であった。

 すなわち、不況期における既存重工業会社の株式会社制度を利用する集中合併――株式の交換や相互保有、新株や社債の発行等々の種々な形式を利用する既存重工業会社の集中や統合――が、それにほかならない。

 株式会社制度は、自由主義段階中期には、一般産業にもかなり普及をみていたのであるが、しかしそれは、さきにもみたように、制度それ自体としては、資本家たちの共同出資のための形式にすぎず、現実の経済過程――景気の循環過程としてあらわれる資本蓄積の現実的過程――にたいしては、特別の経済的意味はもたなかつた。だが、鉄道建設の国際的な発展にともなって重工業が産業的蓄積の基軸となり、しかも、好況末期にその新設拡張が集中し、したがって不況期には新設拡張されたばかりのないしその途中にある生産設備が過剰資本として集積されることになると、もはや従来の方法――既存設備の破壊と新設備によるその更新という方法――ではそれを処理しえなくなり、むしろ既存資本と既存設備を集中統合しつつそれを温存するための方法として、株式会社制度があらたな経済的役割を担って登場するにいたったわけである。

 ところでこのばあい、注意すべき点は、まだこの「大不況」期には、鉄道証券とは異なり、重工業証券は、資本市場での一般社会的な市場性をもたず、したがって重工業会社は、鉄道会社のように、資本市場を介して貨幣市場の社会的資金を投資資金として動員する機構はもっていなかったということである。

 したがって、この時期の重工業の集中は、すでに株式会社制度を利用するものとなっていたとはいえ、まだ、貨幣市場――資本市場の関連を利用する資本家社会的な、組織的な集中合併ではなく、そうした金融機構の援助なしに主として産業独自でおこなわれていた、あるいはせいぜいそれと特別の出資関係にあった地方金融機関の援助をうけたにすぎぬ個別的な集中合併であった。

 だが、それにしてもこの集中合併は、株式会社制度を利用する既存重工要会社の集中合併であって、90年代後半から20世紀初頭にかけての重工業会社の大規模な統合運動――貨幣市場と資本市場の連関を金融的に利用する資本家社会的な統合運動――を直接に準備しまた要請したものは、まさにこうした「大不況」期における重工業会社の集中合併なのであった。

 そしてそれが、じつは、資本の株式資本化への実体面からの現実の要請にほかならなかったのである。

 

   三 金融資本

 

 「大不況」期につづく次の時期、1890年代後半の好況期から1907年の恐慌にいたる時期は、その間一度の比較的軽微な恐慌によって中断されたとはいえ、重工業を基軸とする好況的発展期としてあらわれる。

 だが、この好況的発展は、もはや「大不況」期のように、イギリスを中心にする資本市場の国際的拡張とそれに支えられた鉄道建設の国際的拡大にもとづくものではなかった。じっさい、この時期には、イギリス、アメリカ、ドイツ等の諸国における国内証券発行高のいちじるしい増大にもかかわらず、イギリスを中心とするヨーロッパ諸国の海外投資はかえって減少し、これに対応して鉄道建設の国際的規模も大幅に縮小したのであって、この事実は、次のことをなによりも明白にものがたるものであった。

 すなわち、①この時期の好況的発展の産業的基軸となっていたのは、もはや鉄道建設の拡大に支えられた重工業の拡大ではなく、重工業それ自身の内部要因にもとづくその拡大であったこと、そして、②この重工業の拡大を資本市場の拡張が、もはや鉄道投資を媒介にしないで、直接に支えていたこと、これである。いまや、以前のイギリスを中心にする貨幣市場――資本市場――国際的鉄道投資――重工業という連関にかわって、貨幣市場――資本市場――重工業という直接的な連関が、資本主義的蓄積過程の主軸として登場するにいたったわけである。

 だが、もちろんこうした関係は、重工業証券が資本市場で鉄道証券や公債とならぶ市場性を獲得し、それによって貨幣市場の社会的資金が資本市場を介して直接に重工業に投資資金として投ぜられる関係が成立することなしには、不可能である。そしてじつは、そうした関係を直接に準備し媒介したものこそ、「大不況」期の特殊な不況圧力のもとでくりかえされた重工業会社の集中合併――すでに株式会社制度を広汎に利用していたとはいえまだ貨幣市場、資本市場との金融的連関なしに個別分散的におこなわれていた重工業会社の整理統合――の過程にほかならなかった。

 というのは、鉄道証券とは異なり、重工業証券は、個々の生産過程に固定的に集積されている産業資本としての重工業資本の使用価値的制約を反映せざるをえず、したがってそれがこうした産業資本的個別性をある程度まで止揚しないかぎり、いいかえれば、それがもはや個々の産業会社ではなく、すでにある程度の事業所や生産部門を統合する統合会社となっていないかぎり、資本市場での一般的な市場性を取得しうるものではないからである。いいかえれば、重工業証券の市場化のためには、重工業会社が集中合併のくりかえしによってある程度の巨大統合会社となり、いわば鉄道会社に類似してくることが必要であったわけであって、それを実現したのが、株式会社制度を利用する「大不況」期の重工業会社の整理統合の過程にほかならなかったからである。

 したがって、じっさいには、貨幣市場――資本市場――重工業という連関の成立の結果として生じたのは、たんに、重工業がその新設拡張のために貨幣市場の社会的資金を資本市場を介して動員するという関係ではなく、むしろ、そうした金融的連関を大規模に利用する資本家社会的な重工業の統合運動へと「大不況」期の個別分散的な重工業の集中合併の過程が転化したことであった。そしてこうした重工業の金融的な統合運動のそのまた結果として成立したものこそ、金融資本にほかならなかったのである。

 すなわち、まず第一に、右の金融的連関の成立によって、はじめて、重工業資本――重工業部門に固定的に集積された現実資本――にたいし、社会的貨幣資本の形態が擬制されることになった。つまり、重工業資本の株式資本化が達成されたわけである。

 第二に、これは当然のことながら、重工業会社の現実資本――生産過程に固定的に集積されている現実資本の集中合併に、貨幣資本――擬制資本としての貨幣資本――の集中統合という形式をあたえることになった。

 いいかえれば、擬制的貨幣資本としての株式証券の統合をとおして、現実資本の集中合併を組織することを可能にした。こうしていまや、たんなる共同出資のための形式としての株式会社制度を利用したにすぎぬ「大不況」期の重工業の集中合併は、社会的貨幣資本への重工業資本の擬制を利用した――つまり重工業資本の株式資本化を利用した――その集中合併へと転化することになったわけである。

  第三に、これはこれでまた、重工業の集中合併のために、資本市場を介して貨幣市場の社会的資金を大規模に利用することを可能にした。こうして貨幣市場の社会的資金は、重工業資本の株式資本化にともない、たんに重工業の新設拡張のための資金としてではなく、むしろこの株式資本化を利用する重工業の現実資本の大規模な統合運動とそれを補足する新設拡張のための資金として、資本市場を介して動員されることになったわけである。

 第四に、しかしこれとともに、重工業の集中合併の目的もまた質的に変化することとなった。

 すでにみたように、「大不況」期の重工業の集中合併は、資本市場の拡張を利用する鉄道建設の投機的拡大に誘発されて好況末期に生産能力を新設拡張した重工業会社が、それにつづく不況期に整理統合されるという点にあったのであって、まだ市場の独占的支配を目標にするものではなく、また、もともとそれを目標にしうるような規模をもたなかった。それはまだ、貨幣市場、資本市場との金融的連関なしに、産業だけで個別分散的におこなわれていた集中合併にすぎなかったからである。

 しかるに、「大不況」期のこうした集中合併が、1890年代後半になって、資本市場を介して貨幣市場の社会的資金を大規模に利用する資本家社会的な、組織的な重工業の統合運動へと転化するとともに、事態は一変し、そこから成立してくる金融的・産業的資本集団による市場の独占的支配が、重工業の集中合併の直接の目標となるにいたったわけである。

 したがって、第五に、この時期に大規模におこなわれた重工業の設備拡張も、じつは、たんに重工業会社の集中合併にともなう設備拡張であったばかりでなく、同時にまた、こうした資本集団――金融資本――による市場の独占的分割戦のための手段としての生産能力の拡大であった。つまり、それは、市場の独占的分割戦によって強制された独占的資本集団相互間の生産能力の拡張戦から生じていたわけであって、じつはそれが、さきにわれわれの指摘した1890年代の後半から1907年の恐慌にかけて実現された急激な重工業の発展の内部的な動力なのであった。

 以上が19世紀90年代の後半から20世紀初頭にかけて実現された金融資本の成立過程にほかならないが、こうした過程は、われわれに次のことをものがたっている。

 すなわち、①金融資本とは、生産過程に固定的に集積されている個々の重工業資本を社会的貨幣資本の形態をもって統合している独占的資本集団――金融・産業集団――以外のなにものでもないということ、そして②こうした金融資本こそ、株式資本の具体的、歴史的姿態にほかならぬということ、これである。

 

 

第三節 資本主義の歴史的限界

 

 かくして、株式資本の具体的歴史的内容をなすものは、多数の事業所や種々な生産部門に固定的に投下されている現実資本を社会的貨幣資本――擬制資本としての社会的貨幣資本――の形態をもって統合するところの少数の独占的資本家団体の成立であり、これらの独占体による市場の独占的分割戦であり、一言でいえば、資本主義の国内編成の統一的全体牲の独占的分断とその分割支配である。くりかえしていえば、産業資本の株式資本化は、一方では現実資本の集中合併を擬制資本の集中統合という形式をもって遂行することを可能にするとともに、他方ではこの集中合併やそれを補足する統合会社の設備拡張のために貨幣市場の社会的資金を資本市場を介して動員することを可能にすることによって、こうした資本主義的国内編成の独占的分断とその分割支配とを激成せざるをえないからである。

 だが、株式資本の意味するところは、これだけにはとどまらなかった。それはまた、イギリスの国際的鉄道投資を中心とする資本市場の国際的統一性の解体を、したがってそれをとおして維持されてきたイギリス鉄工業を中心とする重工業の国際的連関性の分断を、したがってまたこれらにたいするイギリス貨幣市場の国際的統括力の麻痺を意味するものであった。いいかえれば、重工業資本の株式資本化とともに、したがって、貨幣市場――資本市場――重工業という直接的連関が国際的資本蓄積過程の主軸として登場するとともに、同時にその主軸は、相対立するいくつかの国民的主軸へと分極化し、資本主義はその世界市場編成の統一的な産業基軸を失なうにいたったわけである。

 これを決定的にしたのは、1890年代初頭におけるアメリカ資本市場のイギリス資本市場からの自立化と、アメリカの鉄工業製品の国内自給体制の終局的な確立であった。じっさいこれによって、イギリス鉄工業製品の輸出は、かつての綿製品の輸出と同様、後進諸国や植民地諸国を中心にする輸出へと転換をせまられることになったのであり、またこれにたいし、ちょうどこの頃ようやくその輸出依存度を増大しつつあったドイツの鉄工業が、貨幣市場、資本市場との国民的な金融的連関を背景にして急激な進出を開始したのであって、これは当然のことながら、すでに1870、80年代に工業製品の後進諸国への輸出とこれらの諸国への鉄道投資の拡大とともにあらたに復活されていた資本主義諸国の帝国主義的膨脹を、するどい帝国主義的対立に転化せざるをえなかった。

 かくて、さらにたちいって規定すれば、株式資本とは、資本の全体性を形式的には完成しながら、実体にはむしろそれを破壊し、それによってたんに資本主義の国内編成の不均衡ばかりでなく、その世界編成の不均衡をも激成せざるをえないような資本形態だといわなければならない。

 株式資本の意味するところは、しかし、これにもまたとどまらなかった。1907年の恐慌以後、資本主義は、さらにあらたな関係を世界的に展開することになったからである。

 すなわち、1907年の恐慌から第一次世界大戦にいたる時期は、1907−09年の不況期とそれにつづく1910−13年の好況的発展期とに分かれているのであるが、後者は、もはや重工業における集中合併戦やそれによって誘発された巨大独占体相互間の設備拡張競争にもとづく好況ではなかった。というのは、こうした競争戦は、その性質上、独占体相互間の力関係が硬直化して国内市場の独占的分割戦が一段落するとともに、一種の休戦状態へと移行し、それとともにこの競争戦によって支えられてきた好況的発展もまた終了せざるをえないからであって、これを具体的に示すものは、1905年−07年の最好況期の資本市場ブームが1890年代末のそれに比べてすでにいちじるしく弱々しかったという事実や、1907年恐慌後10年にいたるまで、たんにイギリスにおいてだけではなくドイツやアメリカにおいても工業生産が容易に回復しなかったという事実であった。いわゆる独占体制の固定化にもとづく停滞の時代がはじまったわけである。

 そしてこうした産業的蓄積の停滞にもとづく過剰生産能力と過剰資金の形成を反映して、1907年以降、ヨーロッパ諸国の海外投資はふたたび回復し、以前の最高ピークをこえて急激に増大するのであって、10年−13年の好況的発展は、根本的には、このような海外投資とそれによって国際的に支えられたこの時期の輸出の急増にもとづくものであった。こうして、さきの貨幣市場――資本市場の連関を金融的に利用する国内市場の独占的分割戦は、その一段落とともに、いまやおなじ連関を金融的手段にする世界市場の独占的分割戦へと転化するにいたったわけである。

 じじつこの時期には、イギリスの海外投資もまた、イギリスの政治的、金融的、商業的支配下にある後進諸国を中心にするものへと転換し、すでにそれらの諸地域を中心にするものへと転換しつつあったイギリス工業製品の輸出を間接的にではあるが支える方向へと向ったのであり、またこれにたいしドイツは、貨幣市場――資本市場と重工業との緊密な国民的連関を背景にする進出をさらに積極化し、ついには重工業製品の輸出高でイギリスを追いこすにいたったのである。そしてこれは、周知のように、さきの帝国主義的対立をさらに尖鋭化し、それまでのヨーロッパ諸国の政治的、軍事的陣営配置の再編成をうながすとともに、これをイギリスとドイツを中心にする敵対的な軍事ブロックへと転化することになった。

 かくて、イギリスとドイツの対立に集約される資本主義諸国のこうした帝国主義的対立は、他方でのこの時期におけるロンドン貨幣市場の国際的資金決済市場としての最後の表皮的な完成――第一次世界大戦前のいわゆる国際金本位制度の最後の完成――とともに、さきにみた資本の株式資本化――産業資本の擬制資本化による資本の全体性の形式的な完成とその実質的な否定――の最後の帰結を、われわれになによりも明白にものがたっている。

 以上でわれわれは、株式資本――資本の最後の、最高の、究極の完成形態をなすものとしての株式資本――が、歴史的に何を意味するかをみてきたのであるが、それを最後に簡単に総括すれば、次のようになるであろう。

 すなわち、資本の株式資本化こそは、資本主義――19世紀中期にイギリス綿工業をその産業的主軸としまたイギリス鉄工業をその副軸としつつ統一的な世界的運動体として確立した資本主義――が、その内部に包摂した生産力の発展に規制されつつ、歴史的に変質転化し、その生産力と生産関係の矛盾をもはやみずからの生産様式の限界内では解決しえなくなったことを、つまり一言でいえば、みずからの歴史的限界を、承認しかつ宣言するところの資本形態にほかならぬ、ということ、これである。

 

 

■原理論と資本主義の歴史的限界

 

 <株式資本と金融資本>

■A■原理論の最後をなす株式資本と帝国主義の経済的基礎をなす金融資本との関係から問題にしよう。

■B■その問題を、はじめて問題として提起したのはヒルファディングだ。

■C■かれはそれをどう提起しているのか。

■B■まず、金融資本の方からさきにとりあげれば、かれはこう規定している。

 「銀行への産業の従属は、かくて所有関係の結果である。産業のますます増大する資本部分は、これを充用する産業家には属さない。産業家が資本にたいする処理権を獲得するのは、ただかれらにたいし所有者を代表する銀行をとおしてだけである。他方では銀行は、その諸資本のますます増大する部分を産業に固定しなければならない。これによって銀行は、ますます大きな範囲で産業資本家となる。こうした仕方で現実には産業資本に転化されている銀行資本、したがって貨幣形態における資本を、わたくしは金融資本と名づける。それは、所有者たちにとってはつねに貨幣形態を保持しており、かれらによって貨幣資本の形態、利子生み資本の形態で投下されている。そしてかれらにとりいつでも貨幣形態で回収されうるものである。だが、このようにして銀行に投ぜられた資本の最大部分は、現実的には、産業的、生産的資本(生産手段と労働力)に転化されており、生産過程に固定されている。産業に充用されている資本のますます増大する部分は、金融資本、すなわち、銀行家の処理し産業家の充用する資本である」。

■C■そのばあい、ヒルファディングは、「銀行資本」という言葉によって何を指しているのか。

 銀行業に投下されている銀行資本を指しているのか、それとも銀行に預金されている社会的資金――貨幣市場に集積されている社会的貨幣資本――を指しているのか。

■D■明らかに後者だ。つまりそれは、貨幣市場に集積されて銀行の処理にゆだねられている資金、利子を要求する社会的資金のことだ。

■C■そうすると、かれは、そういう貨幣市場の社会的資金が銀行の手をへて産業資本に転化されるというところから、金融資本を規定しているわけか。

■B■そういってよいだろう。

 ヒルファディングの株式資本の規定もその点に関連している。

 そういう意味での「銀行資本」、つまり利子を要求する貨幣資本が、産業に固定的に投下されるためには、産業自体が株式会社形式をとっていなければならぬというところから、金融資本の規定に先行して、株式会社制度を論じ、それと銀行との関連を論じているわけだ。

 かれによれば、株式会社制度とは、社会的貨幣資本を産業に動員し、それを貨幣資本という形態を保持したまま産業資本に転化するための制度だ。

 そしてそれを銀行が、株式会社の創業設立業務や株式の発行業務等々を通じて、仲介するというところから、銀行と産業の融合ないし銀行による産業支配を説いているわけだ。

■C■その点、宇野さんのばあいは、どうなっているのか。

■D■宇野さんも、その点では、ヒルファディングと基本的におなじだといってよいだろう。

 つまり、宇野さんのばあいも、株式会社制度は、利子を要求する社会的資金を投資資金として産業に集中動員するための制度とされており、それが銀行によって主導され援助されるというところから、金融資本が規定されているわけだ。

■F■そういうのが、金融資本の一般的理解だといってよいだろう。

 そして、アメリカでは、独占体の成立期をすぎると産業独占が銀行の金融的援助から自立するというところから、たとえば、スィージィなどが、金融資本という概念のかわりに、より包括的な概念として、独占資本という概念を主張しているわけだ。

■D■宇野さんが原理論では、株式会社の内容を規定すべきでなく、たんに形式だけを、いわば資本の理念として規定すべきだというのも、株式会社制度や金融資本についてのそういう一般的な理解と関連している。

 原理論で株式会社の内容を論ずると、資本家階級や労働者階級以外の一般投資家層ないし金利生活者層を原理論に導入せざるをえなくなるというのが、それに反対する宇野さんの理由のひとつだ。

■C■そうすると、問題の根本は、株式資本を、社会的貨幣資本の産業資本への転化によって規定するか、産業資本の社会的貨幣資本への擬制によって規定するか、という点にあるわけか。

■A■そうだ。

 そのどちらに力点をおくかによって、株式資本の理解も、したがってまた金融資本の理解も、まったく性質がちがってくる。

 株式資本を、貨幣を社会的に寄集めて産業に投資するための形式と解すれば、たしかに宇野さんの心配するように、資本家階級と労働者階級以外の第三の貨幣資本家層――レントナー層――の存在を想定せざるをえないし、また資本市場を投資市場ないし発行市場として説かざるをえないだろう。

 それにたいし、株式資本を産業資本の社会的貨幣資本への擬制と解すれば、そういう第三の階級の存在を想定する必要はなく、また、資本市場も、既発行株式の売買形式による持手転換のための市場――いわゆる証券の流通市場――として説けば足りるのであって、そこに貨幣市場の社会的貨幣資本の一部が流出入するものとすればよいわけだ。

 宇野さんの原理論では、株式資本は、一応、利子と企業者利得とへの利潤の分割を具体的に実現する制度として導入されているわけだが、必ずしもそれが一貫しているわけではなく、利潤の利子率による資本還元とそれによる現実資本の貨幣資本への擬制も説かれているのであって、どちらの関係を主軸にして株式資本を展開するかという問題がつきつめて考えられていないといってよいだろう。

■C■株式資本を産業資本の貨幣資本への擬制として規定したばあい、金融資本の規定はヒルファディングとどうちがってくるのか。

■A■一応その問題はあとまわしにして、まず金融資本の方から問題にすれば、いわゆる金融資本的独占体が歴史的に成立するのは、19世紀90年代の後半から20世紀初頭にかけての重工業の集中合併運動――統合運動ないし合同運動――をとおしてなのだが、そこで集中合併されるのは、産業に投下され生産過程に固定されている現実資本なのであって、貨幣市場の社会的資金では決してない。こうした現実資本の集中合併が、証券資本――擬制的貨幣資本としての株式や社債――の交換や相互保有をとおして、つまり擬制資本としての貨幣資本の集中統合という形式をとおして、遂行されたわけだ。そしてその結果として成立したのは、擬制資本の相互保有をとおして結合されている現実資本の独占的統合体なのだ。

 たしかにこのばあいにも、貨幣市場の社会的資金が資本市場を介して、したがって両者の担手をなす金融機関の仲介によって、産業に投資資金として動員されている。だが、このようにして現実に動員された社会的資金は、この統合運動によって統合された現実資本の大きさに比べれば、そのとるに足らぬ一部分だとみてよいだろう。

 逆にいえば、貨幣市場――資本市場の金融的連関を利用することによって、比較的小額の資金をもって擬制資本を操作することにより、それに何倍もする現実資本を集中合併し、統合しているわけだ。そしてまたこの点に、この時期の統合運動において金融機関が主導権をとりえた根拠があるとみてよいだろう。

 だから、こういう歴史的現実をふまえて金融独占資本を規定するとすれば、当然それは、擬制資本の相互保有をとおして結合されている――社会的貨幣資本の統合という形式で結合されている――現実資本の独占的統合体、しかも、銀行資本や商業資本をもふくむ現実資本の独占的統合体とされねばならぬだろう。

 そしてまた、じつは、そういう独占的統合体とならなければ、産業証券は、資本市場での一般的市場性――公債や鉄道証券とならぶ市場性――をもちえないのだ。

 つまり、歴史的には、産業資本の株式資本化と、株式の相互保有によるこうした独占体の形成とは、同時平行的に進行する過程なのだ。

 そしてこのことは、株式資本の具体的歴史的な現実の姿態が金融資本であり、また金融資本の形態規定性だけとりだしたものが株式資本だということだろう。

 要するに、資本の株式資本化の現実的内容は、擬制的貨幣資本の結合という形式をもってする現実資本の独占的統合にあるわけだ。そして原理論の景気循環論が自由主義段階の国際的景気循環の内的模写でしかありえなかったように、原理論の株式資本論も、帝国主義段階の金融資本の内的模写でしかありえないのだ。

■C■ヒルファディングや宇野さんは、株式資本や金融資本の擬制的形式を現実の実体だと早合点したわけか。

■G■そういってよいのではないか。

 たしかに、株式資本や金融資本は、できあがった形式からみれば、貨幣市場の社会的貨幣資本から投ぜられ、そしてまた貨幣資本の形態にいつでも復帰しうる資本という形式をもっている。だがそれは、擬制的形態であって、現実にそうなのではない。

 たとえば、ヒルファディングの強調する創業利得にしても、現実資本と擬制資本の差額としてあるのであって、現実の利得として存在するわけではない。株式を相場で売却すればえられる利得としてあるわけだが、多数の株式所有者が株式を売却すれば、株式の需給関係が悪化して相場が下落し、創業利得どころかマイナスの創業利得とならざるをえないだろう。

 そういう常識的な点がヒルファディングには分っていないのだ。

■E■それはヒルファディングばかりではない。名前をあげるとさしさわりがあるが、たいていの連中がそうなのだ。

 

 <原理論と資本主義の歴史的限界>

■H■原理論の最後で株式資本をそういうかたちで規定するということは、原理論で資本主義の歴史的終末を論証するということか。

■E■歴史的終末ではなく、歴史的限界だ。

 歴史的に終末になるためには、資本主義が実践的に廃棄されなければならない。しかし、歴史的限界は、原理論で設定しうるとみてよいのではないか。

■H■その点、『資本論』ではどうなっているのか。

■B■第一巻の資本蓄積論の最後のところで、「最後の鐘」を鳴らして「収奪者の収奪」が説かれている。これはしかし、『資本論』体系からみれば、宇野さんの指摘するように雑音だ。

 『経済学批判』の草稿の序説のプランからみれば、もともとマルクスは、恐慌によって資本主義の歴史的限界を明らかにしようとしていたとみてよいのではないか。

■H■だが、周期的恐慌が、資本主義の歴史的限界を示すというよりも、むしろ、その生産力と生産関係の内的矛盾による自立的運動を示すものだとすれば、いいかえれば、歴史的な自立的存立性を示すものだとすれば、『資本論』は、結局、資本主義の歴史的限界は論証しえていないのではないか。

■A■大きな意味では、『資本論』第三巻の全展開が資本主義の歴史約限界を示すものとなっているとみてよいだろう。

 というのは、第三巻は、資本主義的生産の具体的全体としての編成を明らかにするものだが、そういう具体的全体としての生産の編成を、資本が特殊な形式でしか実現しえないということは、つまり、資本主義的生産の特殊歴史性を体系的に明らかにするということは、その歴史的限界をも体系的に明らかにすることだとみてよいからだ。

 たしかに周期的恐慌は、一社会的生産としての資本主義の自立的存立を示すものだが、しかし資本主義的生産がその自立的存立性をそういう恐慌――不況――好況――恐慌という特殊な循環としてしか実現しえぬということは、大きな意味では、資本主義の歴史的限界性を示すものだといってよいだろう。

 この点は、前に論じたように、『共産党宣言』と『資本論』とを比べると、はっきりしてくる。

 『共産党宣言』では、普遍的人間的解放というプロレタリア階級の歴史的任務は、プロレタリアがブルジョア的富の所有から排除されているという点にもとめられている。また、資本主義の歴史的限界は、直接に恐慌そのものにもとめられている。

 それにたいし『資本論』では、体系そのものの性格からみて、普遍的人間的解放というプロレタリア階級の歴史的任務は、資本の過程の内部に労働生産過程一般が包摂されており、またそこに労働生産主体一般としてプロレタリア階級の資本にたいする抵抗がふくまれているということによって、究極的に根拠づけられている。また、資本主義の歴史的限界性は、資本主義的生産の全体的編成が特殊な形式によってしか実現されないということの解明をとおして、体系的に論証されているとみなければならない。

■H■そうすると、それにたいして株式資本論はどういう意味をもっているのか。

■A■総過程論による資本主義の歴史的限界性のそういう体系的な論証を最終的に完成し、そのことを資本みずからが終局的に宣言する形態が株式資本だといってよいだろう。

  資本主義がその内部に包摂した生産力を処理しその発展を実現する形態が、恐慌――不況の過程による既存生産力の破壊とあらたな生産力によるその更新という特殊な形式をとらざるをえないからこそ、それをもはや自己の限界内で処理しえない形態が、株式資本とならざるをえないわけだ。

■H■そういう点は、帝国主義論、あるいは資本主義の世界史的発展段階論としてはどうか。

■E■帝国主義論としては、資本主義の歴史的限界は、資本主義がその生産力と生産関係の矛盾を世界的に解決しえなくなり、それを帝国主義的対立として、したがって終局的には帝国主義世界戦争として発現せざるをえないというかたちで、解明される。

 1873年恐慌から90年代にかけての「大不況」期、90年代後半から1907年恐慌にかけての金融資本の成立期、07年から第一次大戦にかけての世界市場の独占的分割戦の時期という帝国主義段階自身の三つの小段階の推移が、それを具体的に示すものだといってよいだろう。資本主義は、その生産力と生産関係の矛盾をもはや経済的に解決しえなくなっているからこそ、そういう三つの小段階を次々に経過して、最後には帝国主義世界戦争という破局に突入せざるをえないわけだ。そしてまたその点に、帝国主義段階が資本主義の「爛熟期」または「腐朽期」をなす根本があるのではないか。

■H■それは、帝国主義段階論が革命の必然性を明らかにするということか。

■E■いや、そうではない。革命の必然性でなく、革命情勢ないし革命的危機の必然性を明らかにするということだ。

 つまり、帝国主義世界戦争の必然性を明らかにし、それによって資本主義の世界史的危機の不可避性を明らかにするわけだ。

 だが、革命的危機ないし革命情勢は、同時に、反革命の危機ないし情勢でもある。それが革命に転化するか、反革命に転化するかは、それこそ、主体的実践の問題だろう。

■A■だいたいそういってよいだろう。

 だが資本主義の世界史的発展的段階論としても、資本主義の歴史的限界は、重商主義段階、自由主義段階、帝国主義段階というその世界史的発展の特殊な段階的推移の全体によって、はじめて全面的に解明されると考えなければならない。

 というのは、資本主義が自己の固有の基礎のうえに確立し自立的に運動する唯一可能な形態が、自由主義段階の国際的景気循環という特殊な過程にならざるをえないからこそ、もはやそういう自立的運動を実現しえない形態が帝国主義的対立とならざるをえないからだ。

 だが、この点は、次の第二篇の「帝国主義論の根本問題」のところで、もっとたちいって議論しようではないか。

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