――利潤と利子――
第一節 平均利潤と生産価格
一 費用価格とその超過分
前章でわれわれは、全体としての資本主義的生産の内的関係、――資本家と労働者の階級関係、労働力の価値、剰余価値および商品価値一般の必要労働、剰余労働および労働一般による内的決定の関係をみた。そしてそれによってわれわれは、資本主義的生産が特殊歴史的な社会的生産として確立する根拠、およびその経済法則――価値法則――が資本主義的生産の運動法則として確立する基礎を明らかにした。
いまやわれわれは、このことを前提にして、この価値法則が資本主義的生産の現実の運動法則としてみずからを貫徹し、またそれをとおして資本主義的生産を具体的全体として統一的に編成していくその諸形態を解明しなければならない。
ところで、前章ではわれわれは、資本を社会的全体として考察した。資本が労働力をとおしてあらゆる使用価値の商品をみずから生産しうるものとなり、そのようなものとして相互に相対することによって社会的生産の統一的な主体になるという点に即して、資本を考察したからである。
だが、価値法則の貫徹の具体的諸形態および資本主義的生産の具体的全体としての編成を問題とするここでは、われわれは、資本を、それが諸資本相互の競争関係においてあらわれるがままの具体的諸形態に即して、ふたたびまた、個々の資本として考察しなければならない。資本は、労働力との関係では、あらゆる商品を生産しうるものとして社会的全体になるとはいっても、具体的に生産するかぎりは、特定の使用価値の商品の生産を個別的に選択しなければならぬからであり、またそのかぎりでは、特定の生産部門に投下された個別資本としてあらわれざるをえないからである。
かくして、ここでのわれわれの出発点は、次のようなものとならざるをえない。
すなわち、全体としての資本主義的生産過程の内的法則をなす価値法則が、個々の資本を規制し貫徹するその直接の形態を確定すること、これである。
そしてその直接の形態とは、個々の資本家たちがかれの事業をいとなむにあたってもっとも日常的におこなっている次のような関係でしかありえないのである。
すなわち、個々の資本が個別的に生産した商品の販売価格のうちから、その生産のためにG―Wとして支出した貨幣額をさしひくこと、これである。
こうして、労働力および原料その他の流動資本部分の購入に投ぜられた貨幣額、および機械その他の固定資本に投ぜられた貨幣額のうちいわゆる原価償却に応じて商品のコストに算入される部分は、合計して、この商品の費用価格という規定をうけとり、商品の販売価格のうちからこの費用価格部分を控除されたのこりが、資本家の利得だということになる。
ところで、このばあい、最初から明らかなことは、生産諸要菜――労働力、原料、機械その他――の市場での価格がどのようなものであれ、またおなじく商品生産物の市場での販売価格がどのようなものであれ、資本家としては、自己の商品の販売価格のうちからその費用価格だけは絶対にとりもどさなければならないということである。
なぜなら、販売価格のうちから費用価格をとりもどすことができないとすれば、つまり「損」をするとすれば、資本家は、たんに自己の投下資本を増殖できないというばかりでなく、事業そのものをおなじ規模で継続すること、つまりその商品の再生産を継続することが、できなくなるからである。
たんにこればかりではない。この関係のうちには、さらに次のような資本家と労働者とのあいだの社会的関係もまた含蓄されている。
すなわち、労働者は、市場での生活資料の価格がどのようなものであれ、かれの労働の再生産に必要な生活資料を購入するに足るだけの労賃を、かれの労働力の販売からえなければならないという関係が、それである。
それゆえ、販売価格からの費用価格の填補関係のこうした絶対性こそ、資本主義的生産過程の内的法則をなす価値法則が、個々の資本を制約し貫徹する直接の形態にほかならない。
すでにみたように、価値法則の根本は、年々生産される総商品資本の価値額から、生産手段に投ぜられた資本価値――不変資本――が填補され、また労働力に投ぜられた資本価値――可変資本――が填補され、それがあらたな労働力との交換をとおして労働者にひきわたされ、かれの労働力の再生産に必要な必要労働部分として消費される、ということであった。そしてこれは、社会的再生産の絶対的な存続条件が資本主義的再生産を制約し貫徹する特殊歴史的な形態にほかならなかった。
そしてこうした価値法則が、いまや、個々の資本にたいして、商品の販売価格のうちから費用価格を回収しなければ事業の存続が不可能であるという具体的な姿をとって、あらわれているわけである。
ところで、このことは、その反面として、同時にまた、次のことを意味している。
すなわち、資本主義的に生産された商品価値のうち剰余価値部分にかんしては、可変資本部分や不変資本部分のように、それが個々の資本の商品の販売価格のうちから回収される絶対的な必然性は存在しないということ、これである。
このことは、いいかえれば、剰余価値部分にかんするかぎり、価値法則が個々の資本の活動を直接に規制し貫徹する形態は存在しないということにほかならない。
そしてこれは、さらにいいかえれば、価値法則が個々の資本の商品の販売価格を、したがって商品価格一般を、直接に規制し貫徹する形態は存在しないということでもある。
これは、いうまでもなく、もともと剰余価値の実体をなす剰余労働部分が社会の再生産の存続の必要から解放された自由に処分しうる剰余をなすということに、もとづいている。
こうして、個々の資本にとっては、費用価格をこえる販売価格の超過分の獲得は、販売価格からの費用価格の回収のような絶対性はもたないわけであるが、しかし、資本としては、たんなる事業の継続ではなくて、この超過分の獲得こそが、しかもできるだけ多くの獲得こそが、事業の目的をなすことはいうまでもない。
かくて、費用価格とそれを超える販売価格の超過分という関係においては、個々の資本は、さしあたり、この超過分をできるだけ多くする活動として、すなわち、生産諸要素を市場でできるだけ安く買いいれ、生産過程でそれらの生産要素をできるだけ節約的かつ効率的に消費し、できた商品生産物をできるだけ高く市場で売りさばく活動として、たちあらわれる。
そしてもちろん、こうした個別資本的活動にあっては、資本主義的価値増殖過程における投下資本の内的区別――可変資本と不変資本の質的区別――は、どうでもよいものとして、消失していることはいうまでもない。
二 利潤率をめぐる諸資本相互の競争
だが、無限の価値増殖をめざす価値の自立的な運動体としての資本にとっては、この費用価格超過分は、費用価格を超える販売価格のたんなる超過分として、その絶対的な大きさだけを追求されるものにはとどまりえない。
資本の価値増殖分としては、当然に、この超過分の総投下資本全体にたいする相対的な大きさが、しかも一定期間におけるこの総投下資本価値の増殖分としてのその相対的大きさが、問題とならざるをえないからである。
こうして、一定期間、たとえば一年問におけるこの費用価格超過分の総合計額が総投下資本価値の増殖分として表現されるとき、それは、たんなる費用価格超過分という形態から、さらにすすんで、利潤率によって規定された利潤というあらたな形態をとることになる。
ところで、このばあい、総投下資本価値のなかには、たんに固定資本中の磨損価値部分だけではなく、そうでない部分をもふくむ全固定資本が算入されることはいうまでもない。つまり、こうした総投下資本価値の一定期間における増殖率が利潤率をなし、またその増殖分が利潤をなすわけである。
したがって、この利潤率と利潤の形態にあっては、流動資本の一回転ごとにえられる利潤量もまた、それ自体としては、資本にとってどうでもよく、この利潤量と一定期間における流動資本の回転度数の積によってえられる利潤量の合計額が、総投下資本価値の増殖分として問題になるだけである。
それゆえ、このことは、次のことを意味する。
すなわち、さきの費用価格とその超過分という形態にあっては、資本は、特定の使用価値の商品をできるだけ安いコストで生産しそれをできるだけ高く売りさばく個別資本的活動としてあらわれたとすれば、この利潤率とそれによって規定される利潤という形態にあっては、いまや資本は、一定貨幣額の前貸資本価値としての抽象的な大きさと、その一定前貸期間としての抽象的な過程とによって、それ自身に増殖する価値としてあらわれるということ、これである。
つまり、ここでは、右の個別資本的活動の具体的な内容が、こうした一定貨幣額の前貸資本価値としての抽象的な大きさと、その一定期間としての抽象的な過程とに、還元され、溶解され、没内容化されているわけである。
そしていうまでもなくこのことは、相異なる商品の生産に投下されている相異なる個々の資本のあいだに、抽象的な自己増殖的価値としての相互の同質性――資本の資本としての相互の同質性――が定立されたということにほかならない。
こうして、いまや、資本を個々の相異なる資本として区別するものは、それらの増殖率、すなわち、利潤率の相達しかありえない。
だが、この利潤率の相違は、抽象的な自己増殖的価値としてたがいに無差別となった資本にとっては、もはや存在してはならない相違である。
かくて、利潤率とそれによって規定される利潤という形態においては、資本は相互に利潤率を均等化しようとする競争――利潤率をめぐる諸資本相互の競争を展開せざるをえないのであって、この利潤率均等化の競争こそ、資本が相異なる生産諸部門間を無差別に流動し、資本主義的生産の全体を資本に特有なかたちで編成し、商品価格をその生産過程の内的な価値増殖関係によって全面的に規制していくところの基礎的な形態にほかならない。
三 平均利潤と生産価格
第二章の第三節でみたように、商人資本にあっては、資本相互の競争関係は、利潤率を均等化しようとする無限の過程になるだけであって、それを達成しうる根拠は欠けていた。商人資本としては、資本は、商品流通世界を自己の外部に前提したんにそれを外から仲介する流通資本でしかなかったからである。
だが、社会的生産過程の全体を自己の価値形成増殖過程としてみずからの内部に包摂し、それによって商品流通世界の全体をみずからの生産した商品資本の社会的流通過程に転化している産業資本にあっては、事態はこれとまったく異なっている。産業資本にあっては、全社会的全体としてみるならば、利潤率をめぐる諸資本相互の競争関係は、資本がその生産過程を通じて生産する社会的総剰余価値を各資本のあいだに、それが社会的総資本のうちに占める大きさに比例して、平均利潤として配分する社会的な過程となるほかはない。
そしてこのことは、いうまでもなく、次のことを意味する。
すなわち、資本主義的に生産された商品価値中のたんに可変資本部分と不変資本部分だけが、販売価格からの費用価格の絶対的な填補関係として、個々の資本を制約するというばかりでなく、いまや、この商品価値中の剰余価値部分もまた、平均利潤として、費用価格を超える販売価格の超過分の大きさを制約し規定する、ということこれである。
かくて、個々の資本が販売価格中から費用価格を填補しつつ残りの価格超過分を平均利潤として獲得する過程こそ、資本主義的生産過程の内的法則をなす価値法則が、個々の資本を全面的かつ全社会的に規制し貫徹するところの形態にほかならない。
そして、このおなじ過程をとおして商品価格もまた価値法則によって全面的に規制されることになるのであって、このようにして形成された諸商品の価格が、生産価格、すなわち、各資本に――それがどのような生産部門に投下されているかにかかわりなく、――一様に平均利潤を保証する価格にほかならない。
こうしていまや、価値法則に全面的に規制されて、すべての資本は、たがいに他の資本から生産価格をもって生産手段を、また労働者から生活資料の生産価格を反映する価格をもって労働力を購入し、これを自己の商品の費用価格としつつ、それに平均利潤をつけくわえた生産価格をもってその商品を販売するわけである。
ところでこのばあい、注意しなければならぬ点は、この生産価格は、かりに各資本がみずからの生産した剰余価値を直接にみずからの利潤として獲得すると想定したばあいに成立するであろう価格――いわゆる価値どおりの価格――とは、決して一致しないということである。
これは、各生産部門間に資本の有機構成と回転期間に相違があることにもとづくのであって、これらの相違にもかかわらず、かりに価値どおりにすべての商品が販売されるとすれば、総資本中に占める可変資本の比重の大きい有機構成の低い資本や、また流動資本部分の、したがってまた可変資本部分の回転の速い資本は、その他の資本よりもより高い利潤率を実現しうることにならざるをえないであろう。剰余価値は、総投下資本からではなく、そのうちのただ可変資本部分からだけつくりだされるものだからである。
第二節 超過利潤の形成とその一部の地代への転化
一 異種部門間に形成される超過利潤――生産価格と市場価格――
個々の資本にたいする価値法則の以上のような全面的な貫徹によって形成される平均利潤と生産価格の成立は、それゆえ、当然に次のことを意味している。
すなわち、①これによって各資本は、その大きさと前貸期間とに比例して一様に増殖する自己増殖的価値として、つまり資本として、はじめて全面的に定立されるということ。②そして各資本は、こうした自己増殖的価値として、はじめて、社会的総資本の質的に一様な構成部分になるということ、③またこれをとおして社会的総資本は、資本主義的再生産の継続を保証するようなかたちで、各生産部門間に有機的かつ統一的に配分されるということ、④したがってそれは、労働力と生産手段の各生産部門への全体的配分と、それによる社会的生産の統一的な全体としての編成との資本に特有な歴史的形態にほかならぬということ、これである。
だが、同時に他方では、このばあいわれわれの忘れてはならぬことは、こうした平均利潤と生産価格の形成は、生産価格からの市場価格の不断の遊離の克服の過程としてのみ、実現されるということである。
これは、いうまでもなく、できるだけ高い利潤率の実現をめざして生産部門間を流動する個別資本間の競争関係をとおす以外には、価値法則は、みずからを貫徹する形態をもたないというさきにみた関係によるものであるが、たんにそればかりではない。
すでに第三章でみたように、産業資本の投下資本価値の一大部分は、固定資本として生産過程に固定的に緊縛されているのであって、個々の資本は、かりに自己の生産する商品の市場での価格関係が不利で、あるばあいには損失さえまねくとしても、ただちに固定資本を犠牲にして他の有利な生産部門へ移動するわけにはいかない。
いいかえれば、固定資本の制約のために、生産部門間の資本の自由な流動は、多かれ少かれ阻止されざるをえないのであって、これは当然に、平均利潤率からの各生産部門の利潤率の遊離を、したがってまた生産価格からの市場価格の遊離をひきおこさざるをえない。
このようにして、各生産部門間への社会的総資本の配分の不均衡から生ずる平均利潤からの現実の利潤の遊離、そこからでてくるプラス、マイナスの超過利潤が、異種部門間に形成される超過利潤にほかならない。
二 同種部門内に形成される超過利潤――市場生産価格と市場価値――
だが、このように固定資本の制約によって生産部門間の資本の自由な移動が阻止され、異種部門間にプラス、マイナスの超過利潤が生ずるということは、たんにそれだけのことにはとどまりえない。
それはまた、このおなじ固定資本の制約のために、資本は、同一生産部門の内部においてさえ、各個別資本のあいだの生産条件の差異を均等化しえないということをも意味している。
個々の資本は、生産性のひくい不利な機械、その他の設備を使用しているからといって、それに投下されている固定資本をただちに犠牲にしえないからであり、また生産性の高い有利な機械が開発されたからといって、既存の固定資本を犠牲にしてただちにそれを採用しうるわけではないからである。
このことは、同一生産部門の同一種類の商品であっても、それを生産する各資本の生産条件の個別的相違のために、それら商品の個別的費用価格は、したがってまたこれに平均利潤をつけくわえた個別的生産価格は、相異ならざるをえないことを意味するのであって、ここから当然に、次のような問題が展開せざるをえない。
すなわち、このように同一生産部門内における生産条件の相違のために個別的生産価格に相違が生ずるとすれば、そのうちのどの生産条件で生産する資本の個別的生産価格が、その生産部門全体の生産価格を代表する一般的な生産価格――市場生産価格――とみなされるのか。それは、この生産部門の平均的生産条件の資本の個別的生産価格なのか、比較的有利な生産条件の資本のそれなのか、あるいはそれとも、比較的不利な生産条件の資本のそれなのか、という問題がそれにほかならない。
この問題には、しかし、一般的な回答は存在しない。
というのは、この問題は、ただ次のような関係をとおして、すなわち、社会の各生産部門間の資本の不断の流動が、そしてまたこれによる社会的総資本の各生産部門間への流動的配分が、各生産部門内部のどの特定の生産条件の資本の個別的生産価格を基準にしておこなわれるか、という関係をとおして、資本家社会的に回答される以外にはないからであってかりに比較的不利な生産条件にある資本の個別的生産価格が、そうした資本移動の基準となっている個別的生産価格であるとすれば、それが、この生産部門全体を代表することを社会的総資本によって公認された生産価格、すなわち、市場価格の変動を現実に規制するところの市場生産価格とならざるをえない。
要するに、ときとばあいに応じて、比較的不利な生産条件の資本の個別的生産価格が市場生産価格になったり、比較的有利な生産条件の資本のそれが市場生産価格になったり、あるいはまた平均的生産条件の資本のそれが市場生産価格になったりするわけであって、この市場生産価格と各資本の個別的生産価格との差額から生ずるプラス・マイナスの超過利潤が、同種部門内に形成される超過利潤にほかならない。
問題は、しかし、これにもとどまりえない。
というのは、同一生産部門内における生産条件の相違から市場生産価格が成立し、これが現実には市場価格の変動の中心になるということは、さらに根本的には、このおなじ生産条件の相違から、同一種類の商品を生産または再生産するに要する労働量にも相違が生ぜざるをえないということを意味するからであり、当然にそこから、そのうちのどの生産条件で生産される商品の生産に必要な労働量が、その生産部門全体の商品価値を代表するか、という問題がでてこざるをえないからである。
さきに第三章でわれわれは、商品の価値は、資本主義的生産過程をとおして、その商品の再生産に社会的平均的に必要な抽象的人間労働の量に還元され、それによって内的に決定されることをみたわけであるが、しかしそこでは、この社会的平均的に必要な抽象的人間労働の量の内容は、たちいって解明しなかった。そこではわれわれは、資本が労働力商品を媒介にしてあらゆる使用価値の商品を、したがって当然に自己自身の生産条件をも自由にかつ流動的に生産しうるものになっているという点に即して、資本主義的生産過程を全体として考察したからである。
だが、固定資本の制約のために同一生産部門内にも種々な生産条件の相違を残さざるをえないことが明らかになったここでは、もはやわれわれは、この社会的平均的に必要な人間労働量の内容の特殊歴史的な資本主義的性格をたちいって規定することなしにはすまされないといわなければならない。
そこで、この点をふりかえって規定すれば、このばあい社会的平均的に必要な労働量というのは、社会的生産の全体を特殊歴史的に編成し総括する社会的総資本の立場からみて、資本家社会的に平均的に必要な労働量でしかありえないのであって、それは、同一生産部門内部の種々な生産条件の相違に応じて同一種類の個々の商品の生産に個別的に必要な個別的労働量のたんなる数学的平均でもなければ、またあらゆる社会に共通だと想定される一般社会的な平均でもないということである。
そしてじつは、資本が個々の商品の生産に個別的に必要なこの個別的労働量を資本家社会的に平均する方法は、ここで資本が市場生産価格の形成をとおして各生産部門内のある特定の資本の生産条件をその部門全体を代表する代表的な資本家社会的生産条件とみなすその方法以外には存在しないのである。
それゆえ、生産価格を市場生産価格として規定するそのおなじ資本の過程は、同時にまた価値を市場価値として確定する資本の過程にほかならない。そして資本は、価値の市場価値としてのこの確定をとおして、個々の商品の生産に個別的に必要な個別的労働量を、資本家社会的に平均し、それを、商品価値を決定するところの資本家社会的に平均的に必要な労働量へと形成するわけである。
三 超過利潤の地代への転化
同一生産部門内の超過利潤は、しかし、たんにこのように固定資本の制約に由来する生産条件の相違からだけ生ずるわけではない。それはまた、自然的生産手段の制限に由来する生産条件の自然的相違からも同様に生じうることはいうまでもない。
工場の立地条件の相違、農業、鉱山業等々における使用土地の豊度の相違が、それにほかならないが、とくに、土地を基本的な生産手段のひとつとしている農業、鉱山業等々では、この土地豊度の相違は、超過利潤の形成と処理に特殊な関係をつくりださざるをえない。
すなわち、まず第一に、こうした農業、鉱山業等々では、一般に最劣等地の個別的生産価格が、その部門全体を代表する市場生産価格となり、優等地にはその優等性の度合に応じて、これにたいする超過利潤が発生するということである。
最劣等地に投下された資本にも平均利潤が保証されないとすれば、そこから資本がひきあげられ、この部門全体の商品供給が資本家的再生産の社会的必要をみたしえなくなるからである。いいかえれば、資本主義的再生産過程全体からみてこの最劣等地の使用が必要なかぎり、社会的総資本は、そこに投ぜられる資本にも平均利潤を保証し、その個別的生産価格をこの部門全体の代表的な生産価格として公認せざるをえないわけである。
だが、第二に、社会的総資本は、ここから生ずる超過利潤については、もはやそれを個々の資本の価値増殖分として、個々の資本に帰属せしめることはできないということである。
というのは、おなじく利潤率均等化の障害から生じているといっても、さきにみた二つの種類の超過利潤は、資本自身によってつくりだされた、したがって資本自身によって除去されうる利潤率均等化の過渡的な障害から生じている過渡的な超過利潤であるのにたいし、この超過利潤は、資本自身によってつくりだされたものではない。したがって資本自身によって除去されえない利潤率均等化の自然的障害から生じている超過利潤だからであり、したがって前者については社会的総資本は、自己の平等な可除部分としての個々の資本にたいしても、それを過渡的な特別の価値増殖分として承認しうるのにたいし、後者については、もはやそうしえないからである。
かくて、この超過利潤は、社会的総資本の平等な構成部分としての個別資本にたいしてではなく、それ以外のものにたいして、すなわち、土地ないしはその人格化としての土地所有者にたいして、分与されなければならなくなるのであって、このようにして土地所有者にあたえられる超過利潤が差額地代にほかならない。
そしてもちろん、こうした関係にとって、資本家と土地所有者が別個の人物であるか、同一人物であるかは、どうでもよいことである。両者がかりに同一人物であるとすれば、かれは資本家としての資格で平均利潤を、また土地所有者としての資格で地代をうけとるだけである。
しかるに、第三に、このように土地所有が資本から自立し、それにたいして地代があたえられることになると、独占可能なすべての土地に所有が成立し、もはや資本は、最劣等地といえども、地代を支払うことなしには使用しえなくなる。
こうして土地所有による人為的な供給制限によって、土地生産物の市場価格は、最劣等地の市場生産価格以上に押しあげられるのであって、そこから生ずる超過利潤が地代として土地所有者に支払われるのが、絶対地代にほかならない。
だが、このばあい注意すべきは、差額地代とは異なり、絶対地代には、その大きさを決定する経済的法則は存在しないということである。土地所有者と資本家とのあいだには、土地が資本家によって使用されなければ地主は地代を取得しえず、また地代を支払うことなしには資本家は土地を使用しえないという関係が存在するにすぎぬからである。
土地所有のこうした抵抗は、しかし、次の関係によってより根本的に制約されている。
すなわち、土地所有の抵抗による市場価格の騰貴が資本の許容しうる社会的限界を超えるとすれば、資本は、優等地への追加投資によるそのより集約的な利用によって、こうした土地所有の抵抗を回避しうるという関係が、それにほかならない。
最後に、第四に、われわれは、このようにして地代に転化する超過利潤の源泉の性格を確認しておかなければならない。
まず、絶対地代に転ずる超過利潤の源泉からさきに問題にすれば、それが、平均利潤として各資本に分配さるべき社会的総剰余価値からの控除であり、その控除に応じてそれだけ平均利潤率が低下せざるをえないことは、自明であろう。
これにたいし、差額地代に転ずる超過利潤については、事情は異なっている。それは、同一生産部門内部における生産条件の相違に、しかも資本にとって外的な自然的生産条件の相違にもとづいているからである。
これを明らかにするためには、しかしわれわれは、いまいちど固定資本の相違にもとづく同一生産部門内部の超過利潤をふりかえってその源泉の社会的性格を確認しておかなければならない。
このばあいの超過利潤は、平均利潤として各資本に均等に分配される社会的総剰余価値の外にある特別剰余価値に基礎をもっている。そしてこの特別剰余価値は、個別的生産価格と市場生産価格とが一致する生産条件で生産された商品のうちに対象化されている個別的労働量が、社会的総資本によって、その商品種類の生産に必要な平均的な社会的労働量として承認され、それよりも有利な生産条件の商品に対象化されているより少い個別的労働者が、前者の基準にしたがってより生産性のたかい、いわば倍化された労働として評価されるということにもとづいている。そしてこのこと自体は、このより有利な生産条件も労働によって、したがってそれを支配する資本によって、つくりだされたものであるということにもとづいている。
だが、これに反し、差額地代に転ずる超過利潤は、こうした特別剰余価値を、したがってまた、より有利な生産条件で遂行される個別的労働が資本家社会的に倍化された労働として評価されるという関係を、その基礎にもっていない。たしかにこのばあいにも、個別的生産価格と市場生産価格とが一致する生産条件――ここでは最劣等地――で生産された商品のうちに対象化されている個別的労働量が、総資本によってこの商品種類の生産に必要な社会的労働量として承認され、市場価値を決定するものとなっている。だが、ここでは、より有利な生産条件で生産された商品のうちに対象化されているより少い個別的労働量は、もはや、さきのばあいのように倍化された労働量とはみなされえない。ここでは、この有利な生産条件は、もはやさきのように労働によって、したがって資本によって生産されたものではないからである。
このことは、いいかえれば、優等地にかんするかぎり、社会的労働に根拠をもたない超過の価値、すなわち、いわゆる「虚偽の社会的価値」が発生し、これが超過利潤という姿であらわれて、差額地代に転化する、ということにほかならない。
かくて、差額地代に転ずる超過利潤は、一方では、固定資本の相違に由来する超過利潤のように、平均利潤として分配される社会的剰余価値の外にある特別剰余価値に基礎をもつものではないが、同時にまた他方では、絶対地代に転ずる超過利潤のように、平均利潤として分配さるべき社会的剰余価値からの直接の控除でもない。
それは、特別剰余価値に基礎をもたぬという点では、絶対地代に転ずる超過利潤と同様、明らかに剰余価値からの社会的控除である。だが、それは、最劣等地の生産条件をこの部門の代表的生産条件として総資本に承認させ、それによって現実の生産力よりも資本の社会的生産力を擬制的に低く表現し、それを通じて社会的剰余価値率を擬制的に低くするという形式をとおしておこなわれるところの剰余価値の社会的控除にほかならない。
かくして、結局のところ、差額地代も、絶対地代も、資本の生産した剰余価値の社会的な控除をなすわけであるが、そしてそのかぎりでは、直接的にせよ間接的にせよ、平均利潤率の低下をもたらさざるをえないのであるが、しかし、資本は、まさにこの控除によって超過利潤を資本の過程の外部に排除することができるのであり、それによって自然的生産条件の制限性から生ずる利潤率均等化の障害を形態的には克服しうるのである。
第三節 商業資本と商業利潤
だが、資本は、このように利潤率均等化の自然的障害は超過利潤の地代化をとおして形態的に克服しうるとしても、資本自身に由来する、すなわち資本価値の一大部分の生産過程への固定に由来する利潤率均等化の障害は、こうした超過利潤の地代化によって克服しうるものではない。
そして資本は、このように利潤率の不均等を各資本のあいだに残すかぎりでは、まだ、その大きさと前貸期間とに比例して一様に増殖する自己増殖的価値としては、つまり資本としては、みずから完成しえていないのであり、まだ資本主義的生産を統一的な全体として完全に編成しえてはいないのである。
かくて、いまや、産業資本の生産過程への固定的集積に由来する利潤率均等化の障害を克服するあらたな資本形態の展開が要請されるのであるが、さしあたりそれは、産業資本の流通資本の一部が独立の資本種類として分離し産業資本の流通過程を社会的に集中代位する商業資本として自立化する以外にはありえないであろう。さきに節二章の最後のところでみた商人資本G―W―G´は、こうしていまや、産業資本の流通過程の分担を自己の専一的業務にするものとして、こうした商業資本へと転化するわけである。
そこで、産業資本と比較しながら、商業資本の特徴とその役割とを確認しておけば、まず第一に、商業資本は、もっぱら流通過程で活動する流通資本として、資本価値の生産過程への固定資本的集積から解放されており、たんに同一種類の商品の売買を同一生産部門の多数の産業資本にたいして集中的に代位することができるというばかりでなく、異なった種類の商品の売買を商況に応じてたえず交替的にひきうけたり、また同時平行的にひきうけたりすることによって、異なった生産部門の産業資本にたいしても、その流通過程を集中代位することができる。
第二に、ここからただちにでてくることは、商業資本は、同一生産部門内部の個々の産業資本の回転からも、また異種部門の産業資本の回転からも、解放されて、自己の回転を極度に促進することができるということである。
そして第三に、これによって商業資本は、産業資本の流通過程を社会的に短縮し、またおなじことだが、産業資本の流通資本を社会的に節約する。
したがって、かりに産業資本の流通資本が商業資本として自立化しないと仮定したばあいに比べれば、それが自立化したばあいの方が、社会的総資本中に占める流通資本の比重は低下し、生産資本の比重は増大するのであって、当然に同一量の投下資本をもってつくりだされる剰余価値量は増大し、平均利潤率は高まることになる。
第四に、商業資本は、このおなじ過程をとおして、すなわち、産業資本の流通過程を集中代位し促進しそれを通じてその流通資本を節約し利潤率を社会的にひきあげるという過程をとおして、産業資本の流通資本を間接的にではあるが資本家社会的に共同化し、それをとおして生産部門間の資本移転を補足し、産業資本相互のあいだの利潤率均等化を媒介する。
というのは、商業資本自身が産業資本の流通資本の自立化した形態にほかならず、しかも商業資本は、たえず有利な商品の売買――相対的に供給の不足している生産部門の原料や製品の売買――に迅速かつ集中的にたちむかうことによって、その生産部門の回転を促進し、最終販売に先だつ商品の売却代金の提供というかたちで生産の追加的拡張資金を供給するからである。
しかし、第五に、商業資本自身は、生産過程をもたぬ流通資本である以上、価値も剰余価値も生産しない。したがって当然に、商業資本自身の利潤や、商業資本がこうした売買活動のために支出しなければならぬ種々な流通費――直接の売買経費、商業労働者のための労賃、その他の諸設備、等々――は、産業資本のつくりだした社会的剰余価値からの控除とならざるをえない。そしてこの控除は、産業資本が商業資本のこれらの利潤や流通経費を商品の最終販売価格から差引いた価格をもって商業資本に商品を売却するという形式をとおしておこなわれるほかはない。
だが、このばあい注意すべきは、商業資本にあっては、流通費用は、もはや産業資本のばあいのように価値増殖の負担となり制限となるやむをえない消極的な費用としてあるのではなく、流通過程を社会的に短縮し流通資本を節約しそれによって剰余価値の生産を相対的に拡大し利潤率を上昇させる積極的な資本家社会的費用へと転じているということである。
だからこそ産業資本は、このようにして商業資本の活動によって社会的に増大させられた利潤のうちから、商業資本の総投下資本――このうちには商業資本の売買元本だけでなく売買経費もはいっている――にたいする平均利潤ばかりでなく、その流通費用をもまた支払いうるわけである。
かくて、商業資本は、産業資本の流通過程を集中代位しつつ、産業資本の利潤率の増大とその均等化を媒介し、それをとおしてさらに資本主義的生産そのものの全体的な編成を補足するわけであるが、しかしそれには、まだ根本的な制約のあることは明らかである。
というのは、商業資本は、すでに生産過程の固定資本的制約からは解放されているとはいえ、産業資本の商品売買を直接に相当する資本として、その使用価値的制約からは解放されていないからである。
いいかえれば、商業資本としての流通資本の自立化は、たしかに産業資本の流通資本の社会的資本への自立化にはちがいないが、しかしまだそれは、資本の商品売買を直接に担当する個別資本としての自立化にすぎず、したがって、個々の産業資本にたいして社会的総資本を代表する全体的な社会的資本として、その利潤率均等化と生産諸部門の全体的編成とを媒介するものとはなっていないわけである。
こうした限界は、商業資本自身の利潤率のうえに集約的に反映されざるをえない。
商業資本は、たしかに産業資本の生産資本的固定性からは解放されているが、同時にそのことによって生産過程の客観性から遊離することとなっているのであって、商業資本は、もはや産業資本のように投下資本の大きさや資本の回転期間に客観性をもたず、その売買活動にたいして産業資本から利潤を分与されるといっても、それを平均利潤として表現し、利潤率均等化の運動に参加する客観的基準を欠いているわけである。
かくしていまや、生産過程に固定された個々の産業資本にたいし、社会的総資本と資本の資本としての自己増殖とを代表するとともに、それによって同時に産業資本の利潤率の均等化と生産諸部門の全体的編成とを媒介するあらたな資本形態の展開が要請されざるをえないのであって、それを実現する形態こそ貨幣資本と利子にほかならない。
第四節 貨幣資本と利子
一 商業信用と手形の流通
すでに第二章でわれわれは、次のことを、すなわち、①貨幣が一般的富として商品販売の目的となると、そこから商品販路の拡張の手段として商品の信用売買の関係が発展し、それにともなって貨幣の貸借関係、支払手段としての貨幣の機能が生ずること、②そしてこの商品の信用売買の関係とそれにともなう貨幣の貸借関係は、商人資本の登場とともに、商人資本家相互間の商品の信用売買とそれにともなう貨幣の貸借の関係へと転化し、そこからあらたに貨幣資本と利子の形態が展開してくること、をみてきた。
いまやわれわれは、この商品の信用売買の関係をふたたびとりあげ、それをとおして形成される資本家相互間の貨幣の貸借関係が産業資本にたいしどのような役割を演ずるかを追求しなければならない。というのは、じつは、それが、近代的信用制度の基礎であり、またそこから貨幣資本と利子の関係があらたな役割をもって登場してくるからである。
ところでこのばあい、まず第一に、われわれがここであらためて確認しておかねばならぬ点は、商品の信用売買にあっては、資本家相互のあいだに直接に貨幣の貸借がおこなわれるわけではないが、売手による商品の販売代金の買手への貸付という形式をとおして、間接的に貨幣の貸借関係が形成されるということであり、しかもこの関係は、商業手形の流通をとおして資本家社会的に形成されるということである。
いま、資本家Aが資本家Bに商品を信用売りし、資本家Cから商品を信用買いするとすれば、AはBにたいして貨幣債権をもちCにたいして貨幣債務を負うことになるが、このばあいAは、Bを支払人として一定期日ののちに一定金額の支払を指図するいわゆる為替手形を振出し、それをCにひきわたす。Cは他の資本家Dから商品を信用買するとき、Aから受取った手形に連帯保証のしるしとして裏書し、それをDにひきわたす。Dのところで、この手形が満期日になれば、DはそれをBに提示して貨幣の支払をうける。この四者の関係では、さしあたりBが貨幣の最終的な借手に、またDがその最終的貸手になっており、A、Cは、一方にたいする債権をもって他方にたいする債務を相殺――ただしこの相殺は満期手形の支払によって最終的に確認される必要がある――している関係にあるわけであるが、しかし、Bもまた他の資本家に商品を信用売りし、Dもまた他の資本家から商品を信用買いする関係にあることはいうまでもない。要するに、商品の信用売買の連鎖をとおして商業手形が流通し、資本家相互のあいだに貨幣の貸借関係の連鎖が形成され、しかも終局的な貸手と借手とをたえず交替しているわけである。
そこで、第二に、商品の信用売買と商業手形の流通をとおして形成されるこうした資本家相互間の社会的な貨幣の貸借関係が、産業資本にたいしてどのような役割を演じているかが問題になるわけであるが、しかしこの点を明らかにするためには、さきにわれわれが第三章でみたところの産業資本の循環過程に生ずる種々な貨幣準備――固定資本の償却金、蓄積準備金、生産過程の連続のための準備金、価格変動準備金、等々――の次のような社会的性格をふりかえって確認しておかなければならない。
すなわち、①生産がどのような歴史的形態をとるかにかかわらず、社会的再生産の円滑な継続と拡大のためには、社会の種々な生産部門相互間の時間的差異や生産と消費とのあいだの時間的差異をたえず流動的に調整するために、社会の総生産物の一部がつねに生産物準備の形態で存在し、あらたに生産された生産物がたえずこの生産物準備のなかにはいりこむとともに、そこからたえず生産物が生産的消費および個人的消費へと流出するような関係が形成されなければならぬということ、②資本主義的生産にあっては、こうした組織が形成される場所は、社会的総商品資本W´の流通過程W´―G´・{ 以外にはなく、したがってここでは、右のような社会的な生産物準備は、このW´の社会的流通過程における一方での貨幣準備の形成と他方でのそれに対応する商品在庫の形成という二重の形態で実現される以外にないということ、これである。
かくて、産業資本の循環過程に生ずる種々な貨幣準備は、それに対応する種々な商品在庫とともに、再生産の円滑な維持拡大を保証するための生産物の社会的準備が資本主義的生産においてとる特殊歴史的形態以外のなにものでもないのであって、この点が確認されるならば、商品の信用売買をとおして形成される資本家相互間の貨幣の社会的な融通関係がなにを意味するかは、もはやあらためて指摘するまでもないであろう。
すなわち、それは、資本家相互間の貨幣の融通関係をとおして右の貨幣準備を資本家社会的に共同化しつつ節約し、それをとおしてじつは、商品在庫の形態をとっている生産物準備を資本家社会的に共同化しつつ節約するということ、いいかえれば、産業資本の流通資本――その一部はすでに商業資本の形態をとっている――を資本家社会的に共同化しつつ節約し、それをとおして利潤率の増大と均等化を媒介するということ、でしかありえないのである。
そしてこのばあい、追加的に確認しておけば、商業信用と手形流通を媒介にするこうした流通資本の資本家社会的な共同化とともに、個々の資本家――産業資本家および商業資本家――の手元にある貨幣準備が、同時にまた、商業手形の支払準備金という性格をも兼ねそなえてくることはいうまでもないであろう。
だが、第三に、以上のような商業信用による流通資本の社会的な共同化と節約およびそれによる利潤率の増大と均等化の補足にもまた、なお限界のあることは自明であろう。
というのは、商業信用によるこうした流通資本の資本家社会的な共同化は、なおまだ産業資本および商業資本の商品売買の過程と密着しており、商品の使用価値的制約およびそのうちに反映される産業資本の生産資本的制約から真に解放された社会的自立性と社会的全体性とを達成していないからである。
こうした商業信用の制限性は、具体的には、商業手形の流通性の限界に集約的に表現されざるをえない。
商業手形の流通は、商品の信用売買と密着しているため、恒常的取引のある、したがって事業の経営状態をある程度までたがいに知りあっているせまい資本家仲間のあいだに限定されざるをえないからであって、こうした商業手形の流通の限界性が、手形支払の共同保証を意味する裏書人や振出人や支払人のせまい信用力や、手形の金額や支払期日の不統一性のうちに鋭く示されていることはいうまでもない。
二 銀行券の発行と銀行信用
商業手形の流通性のこうした限界は、さしあたり、次のような業務をいとなむあらたな資本家の登場によって、ある程度まで克服されるであろう。
すなわち、多数の資本家と集中的に取引しており、したがってかれらのあいだに一般的な信用力をもっているとともに、またかれらの事業の経営状態に一般的に通じているある資本家が、自己の支払準備金を引当に、いつでも支払うことを約束する統一的金額の手形――統一的金額の一覧払いの約束手形――を発行し、それをこれら多数の資本家の種々な商業手形とひきかえてやることによって、かれらにたいする一般的な支払人および被支払人になるということ、これである。
というのは、こうした一般的な手形の登場によって、個々の商業手形の種々雑多な信用力は、この一般手形の信用力のうちに社会的に統合され、それによって集中代位されることになるからである。
ところで、一般には、こうした業務を多数の資本家にたいして集中的に遂行しうる地位にあるのは、多数の産業資本家や商業資本家と広汎に取引する大商業資本家なのであるが、そして通常の商業手形の流通においてさえ、かれによる手形の振出しや裏書きや支払引受けは、すでに潜在的にはそうした性格をもっていたのであるが、このかれが、商業活動をやめて、右のような手形の仲介業務に専門的に従事し、それをかれの資本の利潤源泉とするとき、かれは商業資本家から銀行資本家へと転化するのであって、いまやかれの振出す約束手形は、銀行の発行する銀行券という形態をとり、かれの支払準備金は、この銀行券の兌換準備金という形態をとることになる。
そしてこのばあい、注意すべきは、銀行は産業資本家や商業資本家と直接に貨幣の貸借をおこなったのではないということである。銀行券は、銀行自身の貨幣の借受証書なのであって、これを商業手形と引替えに発行することにより、銀行は、銀行券の所有者にたいしては債務者となり、手形の支払人にたいしては債権者となったわけである。つまり、銀行は、商品の信用売買によって形成された資本家間の債権債務関係を、銀行とかれらとのあいだの債権債務関係に振替え、それによって前者を社会的に集中統合し、商業手形の流通の一部を銀行券流通におきかえたわけである。
銀行券は、このようにそれ自体としては銀行の債務証書にすぎず、銀行券をうけとった者は、貨幣をうけとったわけではなく、銀行にたいする貨幣の債権者になるにすぎぬのであるが、しかし他方では、銀行券は、その流通範囲内では、いいかえれば、資本家相互間の債権債務関係が銀行に集中統合されている範囲内では、商業手形とは異なり、貨幣――信用貨幣――として通用する。銀行券による商品売買では、商業手形によるそれとは異なり、もはや個々の資本家は、それに裏書きすることによってその支払いの連帯保証人になる必要がなくなるからである。そしてこのかぎりでは、商品の信用売りによって他の資本家から受取った商業手形を銀行に持参し、それを銀行券と引替えてもらう資本家にとっては、それは、これによってかれが銀行にたいする債権者となり貨幣の貸手となるにもかかわらず、商業手形という形でのかれの債権を担保に差入れて銀行から銀行券という形で貨幣を借入れるものとしてあらわれる。だが、この銀行が破産するとすれば、あるいはかれがこの銀行の銀行券の流通範囲の外にでようとすれば、かれが銀行にたいするたんなる債権所有者であって、貨幣の所有者でないということは、一目瞭然となるであろう。
ところで、銀行は、銀行券を発行して商業手形とひきかえるさい、この商業手形の信頼性を精査し、この手形よりも低い金額の銀行券をひきわたすのであるが、これが割引料であって、銀行利潤の基礎をなす。ただし、この割引料のうちには、銀行自身の経費――流通費――や、手形が支払不能になったばあいの損失にたいする保険がふくまれることはいうまでもない。
かくて、銀行資本の基礎的業務は、銀行券発行による商業手形の割引である。
そしてこうした銀行による手形割引に支えられて、商業手形自身の流通性も増大し、商品の信用売買――商業信用もまた拡大する。いまや、商業手形は、銀行へもちこめば、いつでも、ある程度まで貨幣として通用する銀行券による割引をうけることができるようになるからである。
だが、こればかりではない。商業手形は、商品の信用売買を仲介しつつ資本家間を流通したのち、銀行による手形割引をとおして、最後には銀行に社会的に集中され、満期日の到来とともに、そこで支払われることになる。
つまり、銀行が満期手形の社会的な支払場所となるのであって、ここから、個々の産業資本家や商業資本家は、自分の手元にある支払準備金を銀行に預託集中し、それをもって銀行の帳簿上で満期手形の決済をおこなうという関係が発展してくる。
こうして銀行は、銀行券発行による手形割引業務を基礎にして、預金業務――手形決済のためのいわゆる当座預金業務――を開始し、それを通じてあらゆる産業資本家や商業資本家の貨幣準備を自己の金庫に社会的に集中するわけであるが、しかし、そうなると、銀行は、この資本家社会的に集中された準備金を、銀行券発行のための兌換準備金に組入れ、それによって銀行券発行による手形割引業務を拡大し、銀行利潤を増大させることができるようになる。だが、こうなると、そこからさらに銀行は、この増大した利潤のうちから預金者にたいしその金額と期間に応じて利子を支払うことが可能となり、また利子を支払っても預金を増大させ、社会のあらゆる貨幣準備を銀行に集中し、それを兌換準備に組入れて銀行券発行による手形割引業務を拡大しようとする。
だが、このばあい注意しなければならぬ点は、自己の発行した銀行券による預金の受入れは、銀行にとっては、銀行券発行のための兌換準備金の増大を決して意味しないということである。銀行にとっては、それは、銀行券発行高というかたちでの貨幣債務が預金というかたちでの貨幣債務に振替わることを意味するにすぎず、それだけ銀行券発行高が収縮するにすぎないからである。つまりそれは、銀行への既発行銀行券の回流の一形態にほかならないわけであるが、しかし銀行としては、こうした銀行券をもってする預金にも、現金をもってする預金と同様に利子を支払わざるをえない。これは、預金の拡大を基礎にする銀行券発行の拡大とそれによる手形割引業務の拡大にたいする自動的な制限をなしているといってよいであろう。
ところで、このように手形割引業務を基礎にして預金業務が発展し、銀行券による預金にも貨幣の預金として利子を支払われるようになると、銀行券発行による商業手形の割引も、預金としてうけいれた貨幣の貸付――商業手形を担保にする貨幣貸付――としてあらわれ、ここから一般に銀行業務は、一方の資本家から預金としてうけいれた貨幣を手形割引なりその他の担保貸付なりのかたちで他方の資本家に貸付ける業務だと観念されるようになる。つまり、銀行業務は、資本家相互間の貨幣貸借のたんなる仲介業務としてあらわれ、手形割引も貨幣の担保貸付の一種としてあらわれ、そのための銀行券発行も、預金貸付業務から生ずる補足的業務――未来の預金を引当にする貸付――として観念されるわけである。
こうして、また、手形の割引料も、貨幣の貸付利子、すなわち、貨幣の一定期間の使用権の譲渡にたいする価格としてあらわれ、銀行利潤も、貨幣を安く借入れて高く貸付けることから生ずる利鞘だということになる。
だが、こうした観念は、銀行券を発行する銀行資本家にとっては生じえない観念である。さきにもみたように、銀行券をもってする預金は、銀行券発行の準備――兌換準備――にはなりえず、たんに銀行債務の銀行券発行高の形態からの預金の形態への振替わりにすぎないからである。こうした点は、銀行の貸借対照表において、銀行券発行高と預金が負債の項目をなし、割引手形とその他の貸付および兌換準備金が資産の項目をなすという点に端的に示されている。
いいかえれば、右の観念は、銀行と取引する産業資本家や商業資本家の側に生ずる観念であるが、しかし、それもまた、商業信用――手形の発行と流通によって媒介される商品の信用取引――をとおして間接的に形成される資本家相互間の貨幣の貸借関係が、銀行券発行による手形割引をとおして、銀行にたいする貨幣の貸借関係に振替えられ、それに集中統合される範囲内においてのみ、すなわち、当該銀行券が貨幣として通用する範囲内においてのみ、ある程度まで妥当する観念にすぎぬといわなければならない。
さて、銀行信用は、以上にみた関係をとおして、商業信用の限界――商業信用による流通資本の資本家社会的な共同化およびそれによる利潤率の増大と均等化の媒介の限界――を克服するわけであるが、しかし、これにもなお限界のあることは明らかである。
というのは、銀行信用による商業信用の限界の克服は、根本的には、銀行券発行による手形割引をとおして、①商品売買と密着した個々の産業資本家や商業資本家の個別分散的な債権債務関係を銀行にたいする債権債務関係へと振替統合し、②かれらの個別分散的な支払準備金を銀行券の兌換準備金へと集中統合し、③商業手形の個別分散的な種々雑多な信用力を銀行券にたいする資本家社会的な信用力ヘと集中統合するという点にあったわけであるが、しかし、その根本前提をなす銀行券発行による商業手形の割引が、まだ、個々の銀行資本家がかれのところにもちこまれる個々の産業資本家および商業資本家の種々雑多な、様々な信用力をもった商業手形を直接かつ個別的に審査し銀行券にひきかえるということに、依存しているからである。
つまり、銀行信用は、たしかに一面では、すでに商品売買の個別性から、そしてそのうちに反映する産業資本の個別分散性から解放されてはいるが、他面ではまだ、個々の資本家の手形割引業務をとおしてそれに直接に接触しており、その制約からまだ充分に解放されていないわけである。
そしてこうした銀行信用の限界は、具体的には、それぞれ比較的狭小な特定の資本家集団や産業、商業地域を対象に銀行業務をおこなう銀行資本家自身の個別分散性と、したがってまた種々雑多な流通範囲と信用力とをもった銀行券自身の個別分散性のうちに集中的に表現されざるをえないのである。
三 中央銀行と銀行券発行の集中
銀行信用の以上のような限界は、しかし、次のような特殊な一銀行が出現するならば、すなわち、もはや個々の産業資本家や商業資本家の手形を直接に割引かないで、もっぱら銀行資本家だけを取引相手にしてかれらが一度割引いた手形にたいしてのみ銀行券を発行して割引をおこなう、つまり再割引をおこなう特殊な一銀行が出現するならば、克服されるであろう。
というのは、こうした特殊銀行――銀行にたいする銀行――の出現によって、次のようなあらたな関係が展開するからである。
すなわち、これによって、まず第一に、通常の一般銀行にたいする債権債務関係に集中統合されていた産業資本家および商業資本家相互間の債権債務関係は、そこからさらに、この一特殊銀行にたいする債権債務関係に振替えられ、集中統合されることになる。
したがって、第二に、右の範囲内では、この特殊銀行の発行する銀行券は、一般的な流通性を獲得し、貨幣として通用するようになる。
だが、第三に、こうなれば、一般銀行の発行する銀行券は、独自の銀行券としての意味を失ない、右の特殊銀行の発行する銀行券の局地的代理物にすぎなくなり、結局は、その発券業務はなりたたなくなる。
したがって、一般銀行は、銀行券発行を停止し、この特殊銀行の発行する銀行券を手形再割引をとおして入手したり、あるいはまた一般に流通しているこの特殊銀行の既発行銀行券を、預金のうけ入れや満期手形の支払のうけ入れ等々をとおして入手し、それによって個々の産業資本家や商業資本家の手形割引に応ずるほかなくなる。
こうして、右の特殊銀行は、中央発券銀行へと転化、その発行する銀行券も中央銀行券となり、通常の一般銀行は、いわゆる預金貸付銀行――または簡単に預金銀行――となる。
したがって、第四に、これらの関係を背景にして、さきに個々の銀行資本家の金庫に集中され、かれらの銀行券発行の兌換準備金に転化されていた産業資本家および商業資本家の支払準備金は、そこからさらに、中央銀行の金庫に集中され、中央銀行券の兌換準備金、いわゆる金準備へと転化される。
こうして、第五に、資本主義的信用関係は、産業資本家および商業資本家相互間の手形取引をとおして形成される商業信用を一般的な基底とし、そして、預金や満期手形の支払や中央銀行からの再割引によって入手した銀行券をもってこれらの商業手形を割引く銀行信用を中軸とし、そしてさらに、これにたいして金準備を兌換準備としつつ銀行券発行をもって手形の再割引をおこなう中央銀行信用を頂点とするところの、統一的な信用体系へと転化する。
そして、第六に、こうした資本主義的信用体制の統一的全体性は、中央銀行の再割引利子率――いわゆる公定歩合または中央銀行利子率――を頂点にする統一的な金利体系の成立のうちに集約的に表現されている。中央銀行の公定歩合、一流商業手形の銀行による割引率に代表される市場歩合または市場利子率、これを基準とする種々な貸付利子率と預金利子率、銀行間の短期資金の貸借関係の基準となるいわゆるコール・レート等々の体系が、それであって、この金利体系の全体としての動向は、中央銀行利子率の動向によって規制され、また中央銀行利子率の動向それ自体は、中央銀行の銀行券発行高と金準備高との対照関係によって規制されざるをえない。
というのは、商業信用――銀行信用――中央銀行信用という連関をとおして、産業資本家および商業資本家相互間の貨幣の貸借関係は、この中央銀行の銀行券発行高と金準備高との対照関係のうちに、資本家社会的に集約され、それに集中的に表現されているからである。
最後に、第七に、このことは、信用制度による流通資本の資本家社会的な共同化の関係が、いまやはじめて、統一的な社会的全体性――産業資本や商業資本の個別資本的制約から解放された統一的な全体性――を獲得し、まさにそのような全体として、したがってまた、社会的総資本を自立的に代表するものとして、利潤率の増大と均等化や、それによる資本主義的生産の全体的編成を媒介し統制しうるものになったということにほかならない。
それゆえ、次にわれわれは、それがどのようなものとして社会的総資本を代表し、またそれによってこうした媒介と統制とを遂行するかをたちいって追求しておかなければならない。
四 貨幣資本と利子――価値法則の貫徹形態の確立――
そのためには、しかしわれわれは、次の点をあらためて確認しておかなければならない。
すなわち、銀行券は、中央銀行へと発展しても、貨幣そのものへと転化したわけでは決してなく、たんに、資本家相互の債権債務関係が銀行信用を媒介にしてこの中央銀行信用に総括される範囲内でのみ、貨幣として通用するものにすぎぬということ、また、資本主義的生産の基礎上では、資本家相互間の貨幣の貸借関係は、貨幣そのものの直接の受渡しによって形成されるのではなく、手形の振出しと流通やその社会化された形態にほかならぬ銀行券の発行と流通をとおして資本家社会的に、したがってきわめて間接的な流動的な仕方で形成される貨幣の貸借関係であるということ、したがって、たんに貨幣の終局的な貸手、借手の関係が不明確であるというばかりでなく、全体としての貨幣貸借の社会的な需給関係についても、それを直接に表現する形態は存在せず、ただ商業信用――銀行信用――中央銀行信用という連関をとおしてきわめて間接的に、しかも幾重にも屈折した関係を媒介にして中央銀行の金準備高と銀行券発行高との対照関係のうちに反映され、中央銀行利子率の変動をとおして、資本家社会的に調整される以外にないということ、これである。
だが、このことは、すでにみたように、ひとたび銀行信用が成立すると、銀行券が一定範囲内で貨幣として通用することから、銀行は貨幣を頚金としてうけいれてそれを手形割引等々の形態で貸付け、一定期間の貨幣の使用の代価として利子をうけとるのだという観念が、産業資本家や商業資本家のあいだに生ずる、ということをさまたげるものではなかった。
そしてこうした観念は、中央銀行が成立してその銀行券が普遍的な流通性を獲得すると、そして一般の銀行が発券業務をやめていわゆる預金貸付銀行に専業化してくると、当然のことながら、いっそう普遍化し、固定観念へと転化してこざるをえない。いまや銀行券は、たんに産業資本家や商業資本家にとってばかりでなく、発券活動を停止した一般の銀行にとっても、貨幣として意義をもってくるからである。
かくて、中央銀行を頂点とする全体的な資本主義的信用体系の成立と、これによる中央銀行利子率を軸点とする統一的な金利体系の成立は、同時にまた、中央銀行を軸点とし一般預金銀行を基軸とする統一的な貨幣の貸借市場、すなわち、貨幣市場の成立としてあらわれ、金利体系は、そこでの貨幣の統一的な価格としてあらわれざるをえない。
だが、事態は、たんにこれだけのことには、すなわち、貨幣市場が成立して利子がそこでの商品としての貨幣の価格としてあらわれるというだけのことには、とどまりえない。
ここからさらに、次のようなあらたな形態が展開せざるをえないのである。
すなわち、産業資本や商業資本の利潤率の個別分散的な不均等性にたいして、貨幣市場における貨幣の価格としての利子率の客観的一様性が、資本としての資本の客観的な自己増殖を純粋に代表するものとしてあらわれざるをえないということ、そしてまたこれによって、商品としての貨幣がその代価として利子をもたらすという右の形態が、そこからさらに、資本としての貨幣がその自己増殖分として利子をうみだすというより高次の形態へと転化せざるをえないということ、これである。
かくして、いまや、貨幣→利子という形態は、貨幣資本→利子という形態へと推転するわけであって、それは、いうまでもなく、次の事情にもとづいている。
すなわち、すでにみたように、①産業資本は、生産過程への固定資本的集積によって、生産部門間の自由な資本移動と、各生産部門内部の生産諸条件の自由な均等化とを阻止されており、これによってまた、利潤率の均等化を阻止されている。②他方、商業資本は、生産過程のこうした固定資本的制約から解放されているが、それによって同時に、相互に利潤率を比較し均等化すべき客観的基準を失っている。③産業資本と商業資本の利潤率のこうした個別的不均等性は、これらの資本が、まだ純粋の自己増殖的価値としては、すなわち、資本としては、未完成であることを意味する。そしてこうした産業資本や商業資本の資本としての未完成性は、これらの資本にたいし、利子率をして、資本の純粋の自己増殖を代表するものとして登場せしめざるをえない。
そしてじつは、こうした関係――利子率が資本の自己増殖を純粋に代表する基準として産業資本や商業資本の利潤率の個別的不均等牲に相対し、その動きを規制する関係――こそ、さきにみた信用制度による流通資本の資本家社会的な共同化の関係が、統一的全体として、したがってまた社会的総資本を自立的に代表するものとして、利潤率の増大や均等化を媒介し、それをとおして資本主義的生産の全体的編成を媒介するときの、その具体的な形態にほかならない。
そしてまさにこのようなものとして、それは同時にまた、価値法則の貫徹の具体的形態の終局的な確立をも意味する。
こうして、いまやわれわれにとっては、利子率と利潤率とのこのような対向関係をとおして、価値法則がどのようにして資本主義的生産の現実の運動法則として定立され、またこれをとおして資本主義的生産の全体的編成がどのように実現されるかを追求することが、問題となったわけである。
■価値法則と近代的信用制度
<価値法則と生産価格>
■A■まず、価値法則と生産価格との関係いかんという問題からいこう。リカードの労働価値説が難破した古典的問題だ。
これにたいするマルクスの解決にたいしてどんな批判があるか。
■B■一番有名なのは、『資本論』第一巻と第三巻の矛盾というベーム・バヴェルクの批判だ。
つまり、第一巻の冒頭で、商品価値の労働による決定が、商品のいわゆる等価交換と一体となって説かれているのに、第三巻ではそれが修正されて、等価交換ではなく、生産価格での交換とされているのは、矛盾の解決ではなく、矛盾の公然たる宣言にすぎぬではないか、というわけだ。
それを日本で受売りしたのが、小泉信三や高田保馬だ。しかし、これには日本の公式マルクス主義者が大弱りしたといってよいだろう。
■C■かれらはどう答えたのか。
■B■簡単にいえば、総価値=総生産価格、総剰余価値=総利潤というマルクスの説明のくりかえしだ。
また、エンゲルスあたりに依拠して、自分の労働生産物を売る単純商品生産者の社会では、価値法則がそのままあてはまる、しかし資本主義社会になると、それが生産価格の法則に転化する、と説く者もいる。スターリンもこの部類にぞくする。
これにたいしては、しかし同じマルクス主義者の側から、単純商品生産者の社会など存在しない、また部分的に存在するとしても労働価値説は完全にあてはまらない、そこで価値法則を論証しておいてこれを資本主義社会にもちこむのは的はずれだ、という批判がある。
これにたいしては、論理的次元における単純商品生産者の社会だという答もあるが、要するに言いのがれといってよいだろう。
■F■もうひとつ、別の角度から、この問題をとりあげたものに、ボルトケヴィツやスィージーなどの「転化論」がある。
これはマルクスを否定しようというのではなく、価値の生産価格への転化をもっとうまく、首尾一貫的に説こうというものだ。かれらの特徴は、代数学的方法をつかう点にある。
つまり、価値で表現された再生産表式と生産価格で表現された再生産表式とのあいだの連関関係を、代数学的に確定しようとするものだ。
■C■それはどう評価できるか。
■F■かれらには積極的な一面がある。
かれらは、価値関係も生産価格関係もともに再生産表式をつかっているため、両者をともに総体として問題にし、総体としての価値関係と総体としての生産価格関係との関連を問題にせねばならなくなったということだ。そして両者の関係を代数学的に設定し、方程式の数と未知数の数とが同一であることを手がかりに、解を確定しうることを明らかにしたことだ。
これは、結果的には、全体としての価値体系が、全体としての生産価格体系を一義的に制約していることを示したものといってよいだろう。
われわれの言葉でいえば、それは、資本主義的生産過程の内的な価値関係が、商品価格と利潤とを同時に全面的かつ一義的に制約し貫徹しているということだ。
ところが、かれら自身は、この点を自覚しないで、たんにそれを、価値での交換関係からの生産価格での交換関係への「転化」の技術問題の解決だと思いこんでいる。
つまり、内的な本質的な関係による具体的な現実的な関係の制約、ないしは前者の後者としての発現の問題を、いわゆる「転化」問題として、おなじ次元での前後関係の問題だと思いこんでいるわけだ。これが、かれらの限界だといってよいだろう。
■H■その点では、日本の転化論者もみなおなじだ。かれらの限界内をはいずりまわっているとみてよいだろう。
■G■転化問題自身を転化してしまわなければ、どうしようもない。
■C■ところで、宇野さんは、この問題をどう展開しているのか。
■D■『資本論』と基本的にはおなじだといってよいだろう。
■C■宇野さんは、『資本論』とちがって第一巻冒頭の商品論から労働価値説の論証をはずし、それを資本の生産過程論のなかにもちこんだはずだ。宇野さんの平均利潤と生産価格の展開には、それが影響していないのか。
■D■ところが、不思議なことにそれがほとんど影響していないのだ。
『資本論』第三巻とおなじように、まず商品の価値どおりの交換を前提にしておいたうえで、個々の資本において、いきなり不変資本と可変資本の費用価格への転化を、また剰余価値の利潤への転化を説き、それによって剰余価値率の利潤率への転化を直接に規定している。
ついで、その利潤率が、生産部門間の資本構成の相違のために、各生産部門でそれぞれ異なることを明らかにしておいて、そこで突然、資本相互間の利潤率均等化の競争をもちだし、それによってこの各生産部門の相異なる利潤率を均等化させ、平均利潤と生産価格を説いているわけだ。
つまり、価値どおりの交換から、生産価格での交換へと価値法則を修正しているといってよいだろう。
ただ、宇野さんは、生活資料の価格がどう修正されようと、労働者は労働力の再生産に必要な必要労働部分を絶対にうけとらなければならぬという点で、労働力の価値にかんするかぎり価値法則は絶対に修正されないといってがんばっている。
しかし、そのことは、ひっくりかえしていえば、資本家と資本家との交換では価値法則が修正されることを暗に承認しているものだといわねばならぬだろう。
■C■結局、宇野さんも、そういう点では、他の論者と同じように、生産価格の法則を価値法則の具体的発現とみないで、両者を時間的な前後関係におき、価値どおりの交換が生産価格での交換に転化して、価値法則が部分的にもせよ、修正されるとしているわけか。
■D■少なくとも、平均利潤と生産価格の展開にかんするかぎり、そういわざるをえない。
■F■どうしてそんなことになったのか。
宇野さんの「流通論」、「生産論」、「分配論」という体系構成は、いいかえれば、形態論、その形態の背後にあるところの内的本質論、その内的本質がふたたび形態をとおして自己を現実化するものとしての具体論という構成だ。そして宇野さんは、労働価値説の論証を真中の内的本質論のところにもってきたのだ。つまり、宇野さんは、価値法則を資本制的生産の内的法則として設定したわけだ。
そうだとしたら、当然に宇野さんは、平均利潤と生産価格を、価値法則の部分的修正とするのではなく、その具体的発現形態として設定せねばならぬはずではないか。
■D■それは、前にわれわれが論じたように、せっかく資本の生産過程へ労働価値説の論証を移しておきながら、そこでまた宇野さんは、価値法則と等価交換とを一体化させてしまったことによるものだ。
価値法則イコール等価交換というのは、小泉信三や高田保馬などの三流経済学者にあげ足をとられて憤慨したあの世代のマルクス経済学者の固定観念ではないのか。
■A■固定観念かイデオロギーかはともかくとして、宇野さんの体系構成からいったら、問題は二つの点にあったといってよいだろう。
形態論からどういうかたちで、内的本質論に移るかという問題と、内的本質論からどういうかたちで具体的全体論へ移るかという問題が、それだ。
この両者は、対応関係にあるわけで、一方が明確になっていないと、他方もまた明確になりようがない。
ところが、宇野さんのばあい、われわれが前に論じたように、前者が必ずしも明確でなかつた。
たしかに宇野さんは、「流通論」では、個々の商品の他の商品にたいする価値関係――価値形態――から出発して、それを全体性へと媒介していく貨幣、資本の流通諸形態を問題にし、その最後で労働力商品と産業資本形式を登場させている。そしてそこでは論理の展開の性格は、個々のものの他の個々のものにたいする関係――個別的競争の関係――をとおして全体性を形成するというようになっている。
そしてこれにたいし宇野さんは、「生産論」では、資本家と労働者の全体的な階級関係を解明すると公言している。つまり、ここでは、論理の展開の性格は、全体的なものの内部的関係を反省しその根拠を問うというようになっている。
だが、宇野さんは、たんに事実上そうしているというだけで、その必然性を論証しているわけではない――たんに読者にたいしてばかりでなく、自分自身にたいしても論証しているわけではない――のだ。
だからこそ、宇野さんは、「生産論」のなかにも、「流通論」での論理――個別的競争の論理――を、もちこむことにならざるをえなかった。
つまり宇野さんは、労働力の価値決定にかんするかぎりは、資本家と労働者の関係はたんなる交換関係――流通関係――ではなく、労働者が生産過程で生産したもののうちから自分の労働力の再生産に必要な必要労働部分を買いもどす関係だというかたちで、それを資本主義的生産過程全体の観点から必要労働によって規定しておきながら、他方では、そうなると資本家と資本家とのあいだも等労働量交換にならざるをえないというかたちで、商品価値の労働による規定を、いきなり、等価交換と一体的に規定してしまったわけだ。
だが、後者は、明らかに、「流通論」的な個別的競争の論理だ。
資本家と労働者の関係を社会的全体として問題にし、それによって必要労働による労働力商品の価値規定をあたえたのであれば――そしてもちろんこのうちにはその反面として剰余労働による剰余価値の規定がふくまれている――、これが資本家と資本家との交換関係を規制するかたちを、当然に宇野さんは、社会的全体として問題にすべきであって、個々の商品相互の交換関係を媒介にする個々の資本家相互の関係として問題にすることはできなかったはずだろう。
そして、これを全体として問題にするかたちは、全体としての資本主義的生産過程――社会的全体としての価値形成増殖過程――によって、社会的総商品資本Wの流通過程W―G・G−Wがどのように規定されるかを問題にする以外にないのだ。
そしてそれは、再生産表式で総括的に示されるように、社会的全体としてのW−G・G−Wの過程が、価値的側面からは、同一資本価値の形式的な姿態変換過程になるということであり、使用価値的側面からは、Wとして生産された生産手段および生活資料がたがいに組替えられて生産資本Wにおける生産手段と労働力になるということなのだ。
そしてそれが、具体的にはどういう関係になるかという問題こそ、ほかならぬ、個々の資本の個別的競争関係から出発して平均利潤と生産価格を展開するという問題だったといってよいだろう。
要するに、「流通論」における個別的競争の論理から「生産論」における全体性の内的関係の論理に明確に移行できず、そこに個別的競争の論理を残したということが、そこから「分配論」における個別的競争関係をとおしての全体の具体的形成の論理へと明確に移りきれないという宇野さんの欠陥をうみだすことになったのではないか。
■B■たしかに宇野さんにはそういう一面がないとはいえないが、しかし、そこまでいうと少しいいすぎではないか。
たとえば、宇野さんは、産業資本の安く買って高く売るという商人資本的側面の確認から費用価格の規定にはいっている。これは明らかに、産業資本の個別資本としての設定をもって宇野さんが意識的に「分配論」を開始していることを示すものだ。
■A■その点は、そういっていいだろう。
だが、商人資本的な個別資本的側面から出発するということは、ふたたび商品流通を資本の外部にある商品世界として前提するということだ。そしてこのことは、商品世界の価格関係をも、個々の資本の外部にある価格関係として前提せざるをえないということを意味するのだ。
というのは、資本の生産過程を社会的全体として問題にする「生産論」においてのみ、商品流通は、商品資本Wの流通過程として解明することができ、したがってまた、価値面からは、生産過程で形成増殖された資本価値の形式的な姿態変換過程にすぎぬものとして考察することができるからだ。
ところが、宇野さんは、そうした商人資本的な個別資本において、個々の資本が自分の生産した商品の価値構成を直接に掌握できるかのように説明し、その不変資本部分と可変資本部分をもって費用価格を規定し、剰余価値部分を前貸総資本に比較するというたんなる計算手続きによって、それを利潤に転化してしまった。
しかし、商人資本的な個別資本的側面から出発するというのであれば、当然に宇野さんは、商品流通世界やそこでの商品価格を資本の外部に前提したうえで、したがってもはや資本は自分の生産した商品の価値構成を直接には把握したりまたそのうちの剰余価値部分を直接に自分の利潤に転化したりすることができないものとして、費用価格と利潤を規定せねばならなかったはずだ。
そして、かりに宇野さんがそうしていたら、市場での生産諸要素――労働力と生産手段――の価格や、商品生産物の価格がどのようなものであれ、商品の販売価格から生産の諸要素の購入価格を填補しなければ事業の存続が不可能だという関係こそ、価値法則が個々の資本を直接に制約する根本形態だということが直ちに明白になったであろうし、またこの費用価格の販売価格からの填補関係を基礎にする諸資本相互の利潤率均等化の関係――平均利潤と生産価格形成の関係――こそ、価値法則の修正どころか、まさに価値法則が個々の資本を全面的に制約し、それらのあいだの交換関係をも全面的に決定する具体的形態だということが一目瞭然になったはずだろう。
■F■その点に関連して、さきに問題になったボルトケヴィツ流の転化論をもういちどもちだせば、価値での再生産表式を価格での再生産表式に代数学的に転換するというかれらの方法は、それをただしく設定しなおすなら、価値での再生産条件、つまり価値法則が、費用価格の販売価格からの填補とか利潤率の均等化とかの個別資本的条件をとおして商品価格をどう全面的に制約するかを、数学的に解明する方法なのだ。そしてこの方法のひとつの意義――転化論者自身は気がついていない意義――は、平均利潤と生産価格の展開にとって商品相互の等価値交換の前提など少しも必要ではないということを、結果的に論証した点にあるといえる。
というのは、『資本論』は、再生産表式論で部門間の等価交換、商品の価値どおりの販売を前提しているが、しかし、表式論の根本は、総商品資本Wが流通過程をとおしてどのように組替えられて次の生産過程の出発点をなす生産手段と労働力に転化していくか、またそのためには、W自身がどのような構成で生産手段および生活資料として生産されねばならぬかを、つまり社会的総資本の再生産の存続条件を総括的に示すところにあるわけであって、この存続条件そのものは、諸商品の交換関係がどうあろうと、社会的全体としてはみずからを貫徹せざるをえない絶対的条件だからだ。
こういう点からいっても、宇野さんは、価値法則の論証を等価交換と一体化させる必要は少しもなかったし、またそれを平均利潤や生産価格の展開に前提する必要もなかったろう。
■C■少し問題がそれるかもしれないが、「利潤率の傾向的低落の法則」というのがあるだろう。平均利潤や生産価格を等価交換から展開する考え方と、この法則を強調する考え方とのあいだには、なにか関連があるか。
■G■直接には関係がないだろう。
しかし、等価交換論も利潤率低落論も、もともとスミス、リカード以来の古典経済学の伝統的テーマだったという点では関係がある。マルクスはそれをうけついでいるわけだ。1857−58年の『経済学批判』の草稿では、『資本論』よりももっと素朴な、リカード的なかたちで強調されている。
それにくらべれば、『資本論』の意義は、そういう利潤率低下論をリカードとは別のかたちで一応は展開しながらも、むしろ、それに反対の傾向を強調した点にあるといってよいだろう。
じっさいまた、第三巻第三篇「利潤率の傾向的低落の法則」の最後の章「この法則の内的矛盾の展開」では、論点が利潤率の傾向的低落の問題からむしろその循環的低落の問題に移っている。
それは、積極的には、利潤率の傾向的低落の問題としてではなく、恐慌を転換点とする利潤率の周期的運動の問題として、つまり景気循環の問題として展開さるべきものだ。
というのは、生産力の増進による剰余価値率の増大や利潤率を規定する流動資本の回転の促進を考慮するなら、利潤率が長期的傾向として低下するかどうか結論がだせないというばかりでなく、たとえ、かりに長期的傾向として低下するとしても、それは、資本の現実の運動やまたそれに示される現実の矛盾には関係ないからだ。
こうしたことは、宇野さんのばあいには、いっそう強くいえる。宇野さんも、『資本論』にならって、利潤率の傾向的低落を説いているが、しかし力点は、『資本論』よりももっと強く、資本の絶対過剰論やこれを基軸とする利潤率の循環的運動論に移されている。それなのに、なぜ宇野さんが利潤率の傾向的低落の法則にこだわっているのか、われわれには、理解できない。
■D■それは、さっきの等価交換論とおなじで、宇野さんの論理の問題というよりも、理念の問題ではないのか。
■A■その問題には、宇野さんの「分配論」の体系構成の仕方からくるもうひとつの側面がある。
つまり、宇野さんの「分配論」の体系からいえば、利潤率の傾向的低落論は、利潤論の最後におかれていて、その総括となっているわけだが、そこであまり資本過剰論や循環論に深入りすると、そこから利子論の展開をとおして景気循環の説明へと移行しなければならなくなるだろう。ところが、宇野さんの「分配論」では、利潤論の次にくるのは、利子論ではなくて、地代論だ。しかも力点は、絶対地代にある。そして地代論に移行するためには、一応利潤論はうちきらなければならない。
だから結局宇野さんは、利潤論の最後に、内容的には資本の絶対過剰論、利潤の循環運動論をおきながら、形式的にはそれを利潤率の傾向的低落論のなかにいれて、後者で利潤論全体を一応終結させているわけだ。
これにたいし、われわれは、本文では、利潤論から利子論に移行するという方法をとり、地代論は、むしろ利潤論の補論的地位に引下げたわけだ。そして、利潤論からの利子論展開の必然性を、産業資本の固定資本的制約にもとめたわけだ。
そしてそれをわれわれは、利潤率均等化の阻止という点で設定するにとどめたわけだが、それを労働力商品との関連で設定すれば、固定資本の制約による有機構成高度化の阻止、したがって労働力商品の供給制限による労賃騰貴とそれにもとづく利潤率の急落、つまり、利潤率の傾向的低落論のなかで展開されている資本の絶対的過剰論とならざるをえないわけだ。
■C■では、そういう問題との関連で、ここらあたりで論点を地代論に移したらどうか。
<原理論における地代論の地位>
■C■『資本論』では、地代論はどういう地位にあるか。
■B■第三巻「資本主義的生産の総過程」の第六篇で「超過利潤の地代への転化」として展開されている。「総過程」論の補論的地位におかれているとみてまちがいないだろう。
しかし、『経済学批判』の草稿の『序説』のプランでは、第一篇の一般的抽象的諸規定につづく第二篇のブルジョア社会の内的編成論で、「資本」、「賃労働」とならぶ一項目となっていた。
■D■「資本」、「土地所有」、「賃労働」の三者の連関によってブルジョア社会の内的編成を解明しようという『序説』のプランは、前に論じたように、もともと古典経済学の三大階級論からきたものだ。古典経済学では、地代論の地位は非常に重い。
■F■当時のブルジョアジーが土地財産分派と商工業財産分派とにわかれて喧嘩していたせいだろう。
■D■そういう実践的要請もあるだろうが、学説史的には、古典経済学の労働価値説、窮余価値説が、重農学派の批判をとおしてでてきたという点に関連があるのではないか。
学説史的には、剰余価値の源泉を生産過程にもとめたのは、フランスの重農学派だ。それをスミスが批判して、かれらの土地生産力を分業による労働の生産力におきかえ、それによって剰余価値の源泉を剰余労働一般に、したがってまた商品価値の源泉を労働一般に還元し、労働価値説を確立した。そして産業利潤をもって剰余価値の一般形態とし、その一派生形態である超過利潤が地代に転ずるものとした。それにしてもまだ重農学派にひきずられて地代論の地位は非常に大きかった。
■E■それは、資本主義経済を絶対化し、自然的経済秩序だとみる古典経済学の思考様式からいっても、そうならざるをえないだろう。かれらは原始社会の鹿と海狸の交換にさえ商品経済をみいだすわけだ。
かれらの時代では、地代といっても実体はまだ多分に前資本主義的で、封建的搾取関係が形式的に商品経済的関係に編成替されただけだという面を強く残している。だが、原始社会の鹿と海狸の交換にも商品経済的観念を投入する古典経済学の立場からすれば、そういう地代関係にも、資本主義的観念が投入されるのは当然であって、そこからもまた、地代論の地位が過大となっているのではないか。
■C■そうすると『資本論』体系の意義は、地代論の地位を、第三巻の補足的地位にひきさげた点にあるわけか。
■D■そうだ。そういう観点が明確になってくるのは、1857−58年の『経済学批判』の草稿で、剰余価値論ができあがり、『経済学批判』の出版につづく1860−63年のその続編の草稿――『剰余価値学説史』はその一部分――で、平均利潤と生産価格論ができあがることによってだ。
つまり、この続編で、平均利潤論の「例解」として地代論を展開することが計画され、ついで、『資本論』で、それが「総過程」論の最後にまとめて、いわば補論的に展開されることになったわけだ。
しかも『資本論』は、環実の地代関係、土地所有関係には、多くの前資本主義的関係が残存しているが、一応ここでは農業にも資本主義生産が成立していると想定したうえで地代論を展開するのだといういわばことわり書きを、わざわざ地代論の緒論につけている。
要するに『資本論』では、地代論の役割は非常に消極的になっているわけだ。
そしてこれに対応して、利子論が頁数からいっても内容からいっても、第三巻の主軸的な地位を占めることになっているのだ。
■C■そうすると、宇野さんは、「分配論」の構成にかんしては、『資本論』からふたたびまた古典経済学派の三大階級論的立場に逆もどりしているわけか。
■D■「分配論」にかんするかぎり、われわれはそういわざるをえない。
■A■『資本論』第三巻の「資本主義的生産の総過程」論は、われわれが前にも論じたように、また第三巻の冒頭の一節からも明らかなように、「個々の諸資本相互の競争」関係を媒介にする剰余価値および資本自身の具体的諸形態への分化論なのであり、それによる資本主義的生産そのものの「総過程」論――具体的全体論なのだ。それを宇野さんが「分配論」としたところに、もともと問題があったといってよいだろう。
そしてその背後には、前にも論じたように、純粋の資本主義社会における三大階級の設定という原理論についての宇野さんの一面的な把握がある。『資本論』を一面では純化しておきながら、他面では、古典経済学派の三大階級論に傾斜しているわけだ。
もっとも宇野さんのばあい、分配論といっても、古典経済学のように、商品価値の労賃、利潤、地代への分配による三大階級の設定論ではなく、剰余価値の利潤、地代、利子への分配論に限定されていて、労働者と資本家の関係は「生産論」として解明されてはいるが。
しかし、それにしても、「総過程論」を剰余価値の分配論にしたら、地代論の地位が高まってくるのは当然だろう。
というのは、剰余価値の地代としての分配は、資本家階級とは区別された独自の一階級――地主階級――の存立を意味するが、これに反し、利子は、利潤自身の補足的な再分配の関係にすぎず、資本家階級の独自の一分派としての利子取得者階級の存立を意味するものではないからだ。
そしてまた、こういうかたちで、利潤の対立物の地位に地代をおき、産業資本の対立物の地位に土地所有をおいたら、地代論自身の力点が、差額地代論から絶対地代論に移り、前者が後者のたんなる成立契機の地位に下ってくるのも当然だろう。
まえにも議論したように、こういう地代論の性格に規制されて、宇野さんのばあい、利子論でもまた、体系構成上からは、その力点は、信用制度とそれにともなう利子にではなく、「それ自身に果実を生むものとしての資本」に移ることになり、前者は、その成立契機の地位に下っているわけだ。
だが、これにたいし、われわれが『資本論』第三巻にあたる部分を「分配論」としてではなく、文字どおり「資本主義的生産の総過程」として展開するならば、いいかえれば、それを資本主義的生産の具体的、現実的、運動過程の解明論、価値法則の資本主義的生産の具体的、現実的運動法則としての定立論として展開するならば、当然にわれわれは、この部分の全力点を、資本家と地主の対立関係にではなく、資本主義的生産そのものの運動機構なり運動形態なりの解明におかざるをえないだろう。
そしてそれこそ、信用制度を通じて形成される利潤と利子との対抗関係を媒介にした資本主義的蓄積の現実の運動――景気循環過程――の解明なのだ。
■B■そうすると地代論の地位はどうなるか。
■D■宇野さんとは反対に、しかも『資本論』第三巻をもっと徹底させて、平均利潤論の補論的地位におけば充分だろう。
資本主義的生産は、自然的生産条件の制限から生ずる超過利潤は、差額地代として自己の運動過程から投げだすことによって処理し、土地所有そのものの抵抗から生ずる絶対地代にたいしては、優等地のより集約的、より生産的な利用によってそれを麻痺させてしまう力をもっているわけであって、そのことを証明するのが地代論だといってよいのではないか。
いいかえれば、地代論は、地代が資本の運動にとって無力であること、資本主義的生産は生産条件の自然的制限や土地所有の抵抗から解放されて運動しうることを論証すれば足りるのであって、原理論における地代論の展開も、それに必要な範囲に限定すべきだろう。
■A■そういっていいだろう。
そういう点からいえば、たしかにいろいろ細かい条件を設定して地代形成を詳しく展開するのは、閑人のなぐさみごとで、経済学のすることではないだろう。
それはまた現実的理由からいっても無意味だ。
つまり、現実的には資本主義は農業まで産業資本化しうるわけでなく、それを産業資本化するとすればそこから生ずる制限を地代として処理することのできるものとして、農業や土地所有に相対するにすぎず、そしてまた、資本主義的生産が自立的運動を展開するためにはそれだけで充分だからだ。
■B■宇野さんのように地代論を利子論展開の媒介にしないとすれば、利子論展開の必然性はなににもとめたらよいのか。
■D■では、その問題を次に利子論の問題として論じようではないか。
<利子論の必然性>
■G■利子論の展開に宇野さんのように地代論を媒介にしないとすれば、それへの必然性ないし移行の要請は、利潤論の最後で与えられねばならぬ。
そうすると、平均利潤論の次になにをおき、利潤論全体をどう総括するかという問題になる。そしてこれには二つ方法があるだろう。
ひとつは利潤率均等化の障害に関連する超過利潤論を媒介にする方法だ。
もうひとつは、平均利潤率全体の運動論――資本の絶対過剰による利潤率の周期的低下論――を媒介にする方法だ。
前者は、部門間の資本移動や部門内の生産条件の均等化を阻止する固定資本の制約から生ずる問題といってよいだろう。これにたいし後者もまた、産業資本的蓄積にたいする固定資本の制約――有機構成高度化による相対的過剰人口の造出にたいする固定資本の制約――からでてくる問題だ。
そうすると問題は、利潤論で産業資本の固定資本的制約をどう設定するか、ということになるのではないか。
■D■そういっていいだろう。
問題は、この二つのうちどちらを主とするかだ。それによって信用制度と利子の展開の仕方にもちがいがでてくる。
固定資本による利潤率均等化の制限から出発すれば、信用制度もまた、産業資本の利潤率均等化の媒介を中心にして展開せねばならぬ。そしてそれをとおして流通資本の節約による資本蓄積の促進の問題を解明せねばならぬ。
これにたいし、有機構成高度化にたいする規定資本の制約論から出発すれば、信用制度による利潤率均等化の媒介はむしろ第二義的になり、信用制度を媒介にする流通資本の節約、それによって媒介される資本蓄積の運動、すなわち、産業循環論が、はじめから主軸とならざるをえない。
■G■信用制度論、利子論の内容的な主軸は、明らかに後者だ。
しかし、「総過程」論全体の性格からいったら、個々の資本相互の競争関係をとおして資本主義的生産全体の運動を展開せねばならぬのではないか。
形態的には、利潤率均等化の媒介を主軸とし、内容的には、全体として資本蓄積の媒介を主軸とすべきだろう。
そしてそうだとすれば、利潤論からの信用制度論、利子論への移行規定は、国定資本による利潤率均等化の制限論、つまり平均利潤にたいする超過利潤の規定によってあたえるべきだ。
つまり、超過利潤論で、利潤率均等化にたいする固定資本の制限を設定し、それを資本が克服するあらたな関係として、商業信用、銀行信用の展開にすすむべきだ。
■B■そのばあい、商業資本論はどういう位置づけになるのか。
■G■両者のあいだの中間項として展開すればよいだろう。
つまり、利潤率均等化の媒介と、またそれをとおしておこなわれる流通資本の社会的節約の中間形態として、一応利潤論のすぐあとで展開し、それにはまだ限界のあるものとして、信用論に移行すればよいのではないか。
■D■産業資本からの商業資本の自立化は、前者からの流通資本の自立化と、それによる利潤率均等化の媒介の第一歩にすぎぬ。
商業資本としての自立化は、信用制度としての自立化よりも、次元が低いからだ。信用制度としての自立化は、全社会的な単一の体系――中央銀行を軸点とする統一的な信用制度――となるが、商業資本としての自立化は、まだ個別資本的な自立化にすぎぬ。
■F■そういう点は、『資本論』ではどうなっているのか。
■G■その点にかんするかぎり、『資本論』は必ずしも明確でない。
編別構成からみれば、第二篇の平均利潤論につづいて第三篇に利潤率の傾向的低落論がおかれており、第四篇に商業資本論がおかれているが、これは、商品取引資本と貨幣取扱資本の二つにわかれている。そしてこれにつづく第五篇が利子論で、それには「利子と企業者利得への利潤の分化、利子生み資本」という表題がついている。
もともとマルクスは、『経済学批判』の草稿「序説」のプランにもみられるように、古典経済学の伝統にしたがって、「資本」、「土地所有」、「賃労働」の三者の連関関係によってブルジョア社会の階級編成を明らかにしようという構想をもっていた。ところが1857−58年の草稿を書いているうちに、資本の生産過程論、流通過程論ができあがり、資本と賃労働関係を軸とする剰余価値論ができあがった。そこでかれはこれをふまえて、「資本」を、「資本一般」「競争」「信用」「株式資本」として展開しようと考えた。このうち「資本一般」というのは、「資本の生産過程」、「資本の流通過程」、両者の統一としての「利潤、利子」だ。
ところが、マルクスは、『経済学批判』第一分冊の出版につづいて、その続編の草稿――1860−63年の草稿――を書いているうちに、平均利潤と生産価格論、および地代論ができあがり、さらにそれにつづいて社会的総資本の再生産表式論ができたわけだ。
この草稿の次にマルクスが書いたのが現行『資本論』の第三巻の草稿――1863−65年の草稿――だが、そこでかれは、右の成果をふまえて、さらにプランを変え、「資本一般」の最後の生産過程と流通過程の統一を、むしろ流通過程の最後のところで「社会的総資本の再生産と流通」で設定し、利潤、利子論を「競争、信用、株式資本」の展開と一体化させて、「資本主義的生産の総過程」として展開する方向にむかったわけだ。
だが、『資本論』第三巻は、こうした点がまだ決着がつかないまま未完となっていて、二つの流れの混在になっているとみねばならぬ。
つまり、かつての「資本一般」の第三章の利潤、利子論に「競争、信用、株式資本」の展開を吸収させた一面と、逆に後者に利潤、利子論の展開を吸収させた一面とが、じっさいには第三巻で、混在しているわけだ。
さきにわれわれが議論した、剰余価値をたんに前貸総資本にたいして形式的に計算することだけによって直接に利潤に転化させる方法、「剰余価値率の利潤率への転化」という方法は、じつは、1857−58年の草稿の「資本一般」の第三章の利潤論の名残りなのだ。そしてそこでの利子論も、なんら信用論を媒介にしない非常に形式的な利子論だったわけだ。
これにたいし、費用価格を規定し、利潤率均等化の競争を設定し、それを媒介するものとして信用制度を論じ、さらに株式資本、擬制資本を展望するという第三巻の他の側面は、明らかに、「競争、信用、株式資本」の展開のうちに、利潤、第三巻に、利潤、利子論を吸収しようというマルクスのあたらしい方向を示すもので、こうした方向は、かれが、利子という表題ではなく、あらたに「総過程」という題名をつけたことや、第三巻冒頭の短かい一節――第三巻の課題を説明する一節――に強く示されているとみてよいだろう。
だが、こうした方向は、1857−58年の草稿で「資本一般」の最後におかれていた利潤、利子論の方法によって、たえず混濁され不明確にされているのだ。
剰余価値率をたんなる計算手続きによって利潤率に転化させたり、有機構成高度化のたんなる計算問題から利潤率の長期的低落を論じたり、また、利子論では、すべての貨幣額が平均利潤を生むものとして商品化しそこから貨幣資本家が登場して利潤が利子と企業利得に分割されると論じたりしている部分が、それだ。
たしかに、第三巻は、産業利潤論から商業資本論を媒介にして信用制度と利子論を展開するという構成にはなっているが、こうした形式的な方法によって混濁され、展開の必然性は不明確になっている。
■A■それが第三巻の根本的な消極面だ。
そういう消極面のため『資本論』は、剰余価値率を直接に利潤率に転化させたり、その利潤率を資本相互の競争によって直接に平均化させて平均利潤を規定したりしているわけだが、そうした平均利潤の規定の形式性のために、したがってまたその形式的な完結性のために、そこにふくまれている限界、それにたいする産業資本的固定性の制約が定立できなくなっている。
それが、利潤論から商業資本論や信用論への展開の必然性を不明確にし、後者自身の解明にも形式性を残す原因になっているとみてよいだろう。
■C■宇野さんのばあいはどうか。
■D■宇野さんの「分配論」では利潤論につづくのは地代論で、地代論展開の必然性は、直接には利潤論のなかの超過利潤論であたえられているとみてよいだろう。
もっとも、宇野さんのばあいには、この超過利潤論と地代論とのあいだに、つまり利潤論の最後に、利潤率の傾向的低落論がはいっているので、両者の連関は、形式的には分断されている。
また、利子論展開の必然性は、地代論の最後の絶対地代論で設定される。したがってそれは、資本所有の果実としての利子への要請であって、信用制度とそれにともなう利子、宇野さんのいう貸付資本利子への要請ではない。
したがって、宇野さんのばあいには、編別構成上の理由からも、信用制度、そこでの利子展開の必然性は、「分配論」のどこでも積極的に定立しがたいものとなっている。
だから、利潤率均等化にたいする固定資本の制約の問題はきわめて消極的だ。
また、平均利潤と生産価格の展開は、『資本論』とおなじ形式的な方法をとっているため、利潤論の範囲内で形式的に完成してしまっている。したがって、信用によるその媒介といっても、消極的な、補論程度のものにとどまっているとみてよいだろう。
■E■その点では、宇野さんの最大の主張である労働力商品化の矛盾が、「分配論」全体の展開では、ほとんど役割を演じていないわけだ。
というのは、この矛盾を、資本が自分自身の矛盾としてうけとめ、また表現するかたちは、固定資本の制約であり、またそれによる資本移動や資本構成高度化による相対的過剰人口造出の制限の問題であるはずだからだ。
■A■だいたいそのぐらいのことを確認しておいて、次に利子論自身の展開の問題に論点をうつそうではないか。
<商業信用と銀行信用>
■ B■信用論の最大問題は、商業信用と銀行信用との関係をどう設定するかという問題だ。
まず『資本論』ではどうなっているか。
■D■『資本論』は、一応、商業信用は銀行信用の基礎であって、銀行券は商業手形の流通に立脚するといっている。
だが、他方では、商業信用は、資本家相互間の商品の貸借であり、銀行信用は、貨幣の貸借――種々な貨幣準備や貨幣所得から貨幣をあつめて資本家に貸付ける貨幣貸借の仲介――であるとして、両者を形式的に区別している。
■C■その後者の方をさらに徹底化したのが、ヒルファディングだ。
かれは、商業信用を流通信用と規定し、その役割を、資本家相互間の支払を仲介して流通手段としての貨幣を節約するところにもとめている。
また、銀行信用を「資本信用」と規定し、その役割は、一方の資本家の遊休貨幣資本を借入れて他の資本家に貸付け、それを機能資本に転化し、こうして社会的に遊休貨幣資本を節約することだとしている。
■D■そういう混乱を整理し、商業信用を基礎に銀行信用を内的に展開しようとしたのが宇野さんだ。この点は、宇野さんの功績のひとつだろう。
つまり、宇野さんによれば、商業信用では、商品の信用売買と商業手形の流通の関係をとおして資本家相互のあいだで遊休資金が融通され、商品の販売過程が促進されて、社会的に流通資本が節約され、再生産が拡張される。だがそれはまだ資本家相互間の個別的信用にすぎぬ。その個別資本的な限界を社会的な自立化と集中によって克服し、この流通資本の節約による再生産の拡張をさらに促進するのが、銀行信用だというわけだ。
■E■そのばあい宇野さんは、商業信用から銀行信用を具体的にどう展開しているのか。
『資本論』でも、ヒルファディングでも、商業信用と銀行信用との関係が遂に明確にできなかったのは、商業手形の流通と銀行券の流通との関係が明確にできなかったからだ。
商業信用がたんなる商品の貸借関係でも、たんなる流通手段の節約でもなく、資本家相互間の遊休貨幣資本――宇野さんの表現では遊休資金――の融通関係であり、それによる流通資本の節約の基礎的形態だという点を確認したのは、たしかに宇野さんの大きな功績だといってよいだろう。
しかし、宇野さんは、それをうけて、いったい銀行信用をなにから出発させているのか。
■D■個々の資本家の遊休資金の預金による銀行への集中と、その預金による銀行の手形割引だ。
そして宇野さんは、銀行はたんに預金された資金によって手形を割引くというだけでなく、それを基礎にして銀行券を発行して、その銀行券で手形を割引くものとしている。
■E■手形割引業務を銀行の貸付業務の基本だとしたのは、たしかに宇野さんの功績だ。
だが、そのばあい宇野さんは、預金された資金による手形割引を基本としているのか、銀行券発行による手形割引を基本としているのか。
■D■宇野さんは、預金を基礎にして銀行券を発行して手形を割引くとしている。それは結果的には、どちらでも同じことではないか。
■E■結果的にはおなじことになるかもしれないが、問題は、銀行信用の端緒を、どう設定するかという問題だ。
つまり、銀行券発行による手形割引業務を銀行信用展開の出発点とするか、それとも、預金された資金による手形割引業務を出発点とするか、という問題だ。
■H■それは、別の角度から問題にすれば、銀行資本家は何に資本を投下するか、という問題にもなる。
というのは、預金された資金を基礎にして銀行券を発行し手形を割引くものとすれば、銀行資本は、営業費用――店舗とか金庫とか帳簿とかの物的費用と、事務員等々の人的費用とからなる銀行の流通費用――にだけ資本を投下すればよく、それ以外に自己資本を必要としなくなるからだ。
これに反し、銀行券発行による手形割引から出発するとすれば、銀行資本家は、まず第一番に銀行券にたいする支払準備金に自己の資本を投下しなければならなくなるからだ。
■G■それをもうひとつ別の角度から問題にすれば、こうだ。
預金された資金を基礎に銀行券を発行し手形を割引くものとすれば、その預金は、当然に利子付預金を主としなければならぬ。
それにたいし、自己資本を支払準備金に投じて銀行券を発行し手形を割引く関係を出発点とすれば、そのばあいでも結局、預金業務は説かざるをえないが、その預金は、いわゆる利子のつかない当座預金、つまり個々の資本家の支払準備金の預託を基本にしなければならぬ。
いったい、宇野さんは、どちらの預金を基本とみているのか。
■B■宇野さんとしては、利子付預金だろう。だから、銀行利潤は、貸付利子――割引料――と預金利子の差額となっている。
■F■おなじ問題をもうひとつ別の角度から提出すれば、こうだ。
銀行券を発行するにしろ、預金をうけいれるにせよ、銀行資本家自身の立場からみれば、両者はともに銀行の債務だ。つまり、貨幣を借りいれているわけだ。
そのばあい、銀行券発行、つまり銀行の債務証書の発行というかたちでの貨幣の借入れは、個々の特定の資本家からの直接の借入れではなく、不特定多数の資本家からいわば資本家社会的に借入れる仕方だ。
これにたいし、預金というかたちでの借入れは、個々の資本家から直接に貨幣を、しかも現金として借入れる方法だ。
そうとすれば、問題は、宇野さんがどちらの借入形態を、銀行が資本家社会から資金を借入れる基本形態としているのか、ということだ。
■D■そこまで突っこんで問題にするなら、その点を宇野さんは必ずしも明確にしていないといわねばならぬだろう。
■F■商業信用でさえ、個別資本的にではあるにせよ、すでに、債務証書なり債権証書なりの「発券」による資本家社会的な貨幣の貸借関係なのであって、貨幣の直接の貸借関係ではない。だから、そこでも、だれがだれに貸しているかは、わからないのであって、とにかく、商業手形の流通による商品の信用取引をとおして、資本家社会的に資金が融通されあっているとしなければならぬ。
宇野さんは、そういう点をはたして明確にわきまえているのだろうか。
もしその点が明確にわきまえられていたのであれば、当然に宇野さんは、自己資本を準備金とする銀行券発行とそれによる手形割引業務を、銀行信用の出発点とせねばならなかったはずだ。
商業信用でさえ、手形発行とその流通による資本家社会的な貨幣の融通関孫だとしたら、そしてそれにもかかわらず、宇野さんのように、銀行信用の出発点を銀行による現金の借り集めだとしたら、商業信用と銀行信用との内的同質性が切断されることになりはしないか。
■E■そういう点では、まだ宇野さんは、『資本論』やヒルファディングの限界を超えていないといってよいだろう。
『資本論』やヒルファディングが商業信用と銀行信用との内的連関を明白にしえなかったのは、銀行信用の出発点を銀行が貨幣を直接預金として個々の資本家から借り集めるとしたところにあった。だから、商業信用における貨幣の間接的な貸借関係とのあいだに論理の切断が生じたのは当然であった。
たしかに、宇野さんのばあい、銀行券発行による手形割引が強調されている。しかし、その銀行券発行は、たんに、銀行の預金・貸付業務を補足的に拡充するにすぎぬものとされている。そしてそこから銀行券発行による割引は、将来の預金形成を引当にする貸付とさえも説明されているのだ。いわゆる信用創造論におちいっているわけで、将来の預金形成を強調する点が、宇野さんの特色となっているにすぎない。
■C■さきほど預金利子の話がでたが、宇野さんが利子率というばあい、力点は預金利子にあるのか割引利子率にあるのか。
■G■銀行業務の基本が直接に貨幣を預金として集めて貸出すことにあるとしたら、むしろ預金利子率に力点をおかざるをえないだろう。
ところが、産業資本段階のいわゆる商業銀行では、預金の主要部分は、利子のつかない当座預金――いわゆる営業性の預金だ。
その理由は簡単だ。産業資本の循環過程で生ずる種々の遊休貨幣資本――蓄積準備金や原価償却引当金や価格変動準備や生産過程継続のための準備金等々は、商業信用がある程度発展すれば、たんにそうした準備金として存在しているわけでなく、同時に、商業手形にたいする支払準備金にもなっている。個々の資本家は、そういう準備金を、同時に支払準備金として銀行に積んでいるわけで、資本家の頚金の大部分は、一般には、当座預金にならざるをえない。
つまり、銀行の手形割引業務の結果として銀行が満期手形の社会的な決済場所となるので、個々の資本家としては、そこに自己の決済資金を積んでおいて、手形や小切手を振出すわけだ。
銀行信用を銀行券発行による手形割引から展開するとすれば、銀行の頚金業務は、支払準備金の銀行への預託を基本としなければならぬ。そしてそこから補足的に利子付預金がでてくるものとしなければならぬだろう。
したがってまた、利子の実体は、貨幣の貸付にたいする代価というよりも、商業手形をより流通性のある銀行券と交換してやることにたいする代価、あるいは商業信用を銀行信用として社会化することにたいする代価、としなければならぬであろう。
宇野さんのばあい、銀行信用の基本が貨幣貸借の仲介となっているため、そこからただちに資金の商品化とその代価としての利子という結論がでてくるわけだ。
また、銀行券で手形を割引くばあい、銀行は手形の支払人にたいしては債権者になり、銀行券の受取人にたいしては債務者になるわけだが、つまり資本家相互間の債権債務関係が銀行にたいする債権債務関係に振替るわけだが、宇野さんはそれを単純に銀行による資金の貸付としているのではないのか。
それによって手形流通が銀行券流通におきかわるということは、手形流通による債権債務関係の流動的形成と移転が銀行券流通によるそれにおきかわり、個々の商品売買の使用価値的制約から解放されて社会化されるということなのだ。
利子は、商業信用のそういう社会化とそれによる流通資本の節約にたいして、銀行が自己の投下資本にたいする利潤として要求するところの代価とみなければならぬ。そして預金利子は、預金による自己資本の節約にたいして銀行が支払う代価とみるべきだ。
■D■しかし、そういう種々な限界を残しているとしても、宇野さんが、商業信用から銀行信用を展開し、またそこから銀行券発行の集中を通じて中央銀行を設定しようとしたのは、大きな功績だとみるべきではないか。
■E■われわれはそういう功績を決して否定するわけではないが、しかしまだそれは、問題提起にとどまっているとみなければならない。
■D■銀行券発行の集中による中央銀行の展開の方はどうか。
こういう問題は、商業信用と銀行信用のあいだに断絶があったら、そもそも問題として提起することさえできない問題ではないか。
■C■それはたしかにそうだ。銀行信用が直接に貨幣を預金として集めてそれを貸出すことだとされていたら、中央発券銀行とふつうの預金貸付銀行とのあいだの論理に断絶が生じ、銀行信用から中央銀行信用を内的に展開することは問題にならなくなる。
そういう点では、中央銀行を軸点とし商業信用を基礎とする統一的な信用体系として信用制度を設定しようとしたのは、宇野さんの功績だ。
だが、宇野さんのばあい、預金貸付業務を出発点として銀行信用を説き、これに発券業務を補足的につけくわえたことから、銀行信用と中央銀行信用との内的連関もまた不明確になっているのではないか。
というのは、そういう銀行信用の説き方をしたら、中央銀行信用の銀行信用からの分離独立は、預金と貸付という銀行の基本業務からの発券というその補足業務の分離独立として説かざるをえなくなり、一般銀行にたいして中央銀行は補足的なものとならざるをえなくなるはずだからだ。
これにたいし、銀行の基本業務が銀行券発行による手形割引で、そこから預金業務が派生するというかたちで銀行信用を展開するなら、中央銀行信用こそ銀行信用の要めで、一般普通銀行は、その下部機構だということにならざるをえないだろう。
その点、宇野さんはいったいどちらの考え方にたっているのか。
■F■そのおなじ問題を利子率決定機構の観点から提起すれば、こうだ。
一般普通銀行にたいして中央銀行を補足的地位におくとすれば、利子率の主軸は、一般銀行の窓口での預金、貸付の利子率とならざるをえない。したがって、そこでの預金、貸付の需給関係が利子率の主要動向を決定し、これにたいし中央銀行の再割引利子率はたんに補足的影響しかもたぬことになろう。
これにたいし、中央発券銀行が銀行信用の要めだとすれば、中央銀行利子率こそ利子率全体の動向を決定するもので、それに規制されて、預金、貸付の利子率やその他の種々な利子率が決定されるとしなければならない。
つまり、後者のばあいには、利子率は、中央銀行利子率を軸とする金利体系としなければならぬわけだ。
宇野さんには、こういう金利体系という考え方がないのではないか。
■B■宇野さんが利子率というばあい、普通銀行窓口での預金、貸付の利子率を考えているとみてまちがいないだろう。
■F■ということは、つまり、宇野さんが一般銀行信用にたいし中央銀行信用を補足的地位においているということだ。
そして宇野さんのようなかたちで、預金、貸付業務を基礎にして銀行信用を展開したら、そうなるのは当然だろう。
宇野さんのばあい、商業信用と銀行信用とのあいだに断絶が残っていることに対応して、銀行信用と中央銀行信用とのあいだにも断絶が残っているのではないか。
■E■中央銀行信用が銀行券の発券による信用であり、また信用の一番の基礎をなす商業信用もまた手形の発券による信用であり、その中間にある銀行信用の出発点もまた発券による信用であるとすれば、商業信用、銀行信用、中央銀行信用という展関系列の内的一貫性は、単純明解だ。
それは、商品の信用売買をとおして間接的に形成される資本家相互間の貨幣の貸借関係が、銀行にたいする貨幣の貸借関係に振替えられて社会的に集中流動化され、そこからさらに中央銀行にたいする貨幣の貸借関係に振替えられて全社全的に集中流動化され、それによって流通資本の資本家社会的な共同化が全社会的な自立牲と統一性を獲得することにある。
そしてその軸点が、中央銀行の銀行券発行高と金準備高との対照関係なのだ。
宇野さんは、近代的信用制度を媒介にした貨幣の貸借関係のそういうきわめて屈折した間接性を明確にしていないのではないか。
■A■宇野さんのばあい、資本家社会の貨幣の貸借関係のそういう間接性は、むしろ、商業信用のばあいの方がはっきりしているのだ。商業信用では、手形の振出しと流通による商品の信用売買をとおして資金の相互的融通関係が形成され、それが直接現金の貸借をとおして形成されるのでないことは一目瞭然だからだ。
ところが、銀行信用になると、預金・貸付業務が銀行の基本とされるため、かえって、資金の相互的融通関係のそうした資本家社会的な間接性は不明確になってくるのだ。
そしてそこから、資本家社会における資金の需要供給の関係が直接に銀行の窓口での預金と貸付の需給関係に集約表現され、それによって利子率が決定されて、資金の社会的な需給関係が調節されるかのような観念がでてくるわけだ。
だからこそまた、銀行券発券による中央銀行信用が再生産の拡大による将来の資金形成の増大を見越した信用拡張であるかのような観念がでてくるわけで、俗流経済学の信用創造論への屈服が生ずるわけだ。
要するに、宇野さんの信用論では、商業信用、銀行信用、中央銀行信用のあいだにまだ断絶が残されているために、近代的信用制度が、最初の商業信用からして、また銀行信用、中央銀行信用を通ずる全信用体系を一貫して、貨幣の直接の受け渡しを通して形成されるような資金の相互的融通関係では決してなく、手形や銀行券等々の債権債務証書の発行と流通を媒介にするきわめて間接的な社会的な資金の相互的融通関係であること、したがって、資本家社会は、この資金の社会的な需給関係を直接に表現しそれを直接に利子率のうえに反映させ、それをとおしてこの需給関係を統制しうるようななんらの直接的機構をももちえないこと、したがってまた、資本家社会のこうした資金の需給関係は、きわめて間接的な、屈折し遊離した仕方で、結局は、中央銀行信用における銀行券発行高の動向とそれにたいする金準備の流出入の動向との対照関係に集約され、これによって規制される中央銀行利子率の動きによって、これまたきわめて間接的、屈折的に調整される以外にないということが、明確になっていないわけだ。
かりにそういう点が明確であったとすれば、当然に宇野さんにとっては、全信用体系が資本家的再生産過程における現実の資金の形成と需要の関係から相対的に遊離して運動しうること、したがってまた、信用制度によるこの資本家的再生産過程の資金の需給関係の調節や、またそれによるこの資本家的再生産過程そのものの統制は、全信用体系それ自体にたいする金準備のきわめて外面的、かつ物象的な統制によって強行的に遂行される以外にないことは一目瞭然であったろう。
<貸付資本と利子生み資本>
■B■宇野さんの利子論には、しかし、もうひとつの側面がある。「貸付資本」と「それ自身に利子を生むものとしての資本」との区別がそれだ。
この点はどう評価すべきか。
■G■その点を論ずるには、まず『資本論』の利子論の構成を確認しておくことが必要だ。
『資本論』の利子論は前半部分と後半部分との二つに大きくわかれている。
まず前半部分から問題にすると、第五篇の表題は「利子と企業者利得への利潤の分裂、利子生み資本」となっているが、その表題に当る内容が展開されているのは主として第二一章から第二四章にいたるこの前半部分だ。
この部分は、1857−58年の『経済学批判』の草稿にいう「資本一般」の第三章の「利潤、利子」のその利子論の展開系列にぞくする部分とみてよいだろう。したがって、この部分の特徴は非常に形式的なことで、まず、資本主義的生産の基礎上ではすべての貨幣額が資本として投下すれば平均利潤をもたらしうるものとしてそれ自体商品になるとされ、ここから貨幣を可能的資本として貸付けて利子をえる貨幣資本家と、その貨幣を借りうけて産業、商業に投下する機能資本家とに、資本家が分離するものとされ、それがさらに利潤自体の質的分割、すなわち「利子と企業者利得への利潤の分裂」をもたらすものとされている。つまり、資本そのものの果実としての利子と、機能資本家の資本家的活動にたいする報酬としての企業者利得とに利潤が質的に分化するというわけだ。
こうした前半部分にたいして、第二五章から第三五章にいたる後半部分は、資本主義的信用制度の解明や、それを基礎にする「貨幣資本と現実資本」の対立的運動の解明や、したがってまたそれに対応するところの景気循環にともなう利子率と利潤率の対立的運動の解明にあてられており、最後にそれに関連して「信用制度下の流通手段」、「通貨主義と1844年のイギリス銀行立法」、「金準備の運動」、「為替相場」等々が論じられている。
■B■そうすると、宇野さんの利子論は、そういう『資本論』の利子論の二つの構成部分の順序をひっくりかえしたわけか。
■G■そうだ。そしてその点は、宇野さんの功績だといってよいだろう。
というのは、『資本論』では、利子論の前半部分に「利子と企業者利得」とへの利潤の形式的な分割論がおかれたために、資本主義的信用制度の展開やそこでの利子関係の成立や利子と利潤との対立運動を媒介にする資本主義的生産の現実的運動過程――景気循環過程――の解明が不明確にされたというばかりでなく、これと利潤論や商業資本論との関連がそれによって切断されることになったからだ。
宇野さんは、『資本論』の利子論の後半部分を利子論の前半部分にもってくることによって、はじめて、商業信用、銀行信用、中央銀行信用の内的展開を真正面から利子論の課題として設定することができたわけだ。
そして同時にそれによって宇野さんは、こうした信用制度論を基礎にして、『資本論』の利子論の前半部分、「利子と企業者利得とへの利潤の分裂」をどう展開するかという課題に直面することになったとみてよいだろう。
■H■そのために宇野さんが苦心の結果思いついた専売特許が、商業資本論を信用論と利潤の質的分割論とのあいだにもつてくるということだろう。これは宇野さんの得意なところだ。
■G■そうだ。つまり宇野さんは、商業資本では、利潤が資本の売買活動の所産としてあらわれるというところから、企業者利得的観念が生ずるとし、他方また、商業資本は流通資本であるために投下資本を大規模に信用に依存するというところから、商業利潤のかなり大きな部分は利子として控除されるとし、こうしてここから『資本論』のいう利潤の利子と企業者利得とへの質的分化が具体的に生ずるとしたわけだ。
そしてこの商業利潤における質的分化が、商業資本を媒介にして産業資本にも「移入」されるとして、『資本論』の利子論の前半部分の展開にはいったのであって、それが宇野さんのいう、「それ自身に利子を生むものとしての資本」のその利子と、資本家的活動にたいする報酬としての企業者利得とへの利潤の質的分割だ。
そして宇野さんによれば、この質的分割は、「株式会社制度」で具体的に示されることになっている。
■B■そのばあいの宇野さんの問題点はどこにあるのか。
■G■もともと『資本論」の「利子と企業者利得とへの利潤の分裂」論が、無理なのだ。その無理は、宇野さんのように商業資本を媒介にしたところで、除去できるものではない。
流通資本にすぎぬ商業資本の利潤ならともかく、産業資本の利潤にも質的分割が「移入」されるためには、産業資本の全投下資本が貨幣資本とみなされねばならぬ。貨幣資本としての資格によってのみ全投下資本は、「それ自身に利子を生む資本」とみなされうるからであり、またそれによってこの利子部分をこえる利潤の超過分が企業者利得とみなされうることになるからだ。
だが、産業資本は、商業資本とちがい、流通資本――貨幣や貨幣の経過的形態としての商品からなる資本――ではなく、生産過程に固定的に投下されている資本なのであって、それを商業資本とおなじように貨幣市場にある自由な貨幣資本とみなすわけにはいかない。
『資本論』が利子論で利潤の質的分割論を展開したさい、この点を忘れていたわけだが、宇野さんもまた、商業資本を媒介にするという自分の思いつきに夢中になって、その点を忘れているのではないのか。
生産過程に固定されている産業資本の全投下資本を貨幣資本とみなし、貨幣資本として利子をもたらすものとみなすためには、その利潤を貨幣市場の利子率によって逆算し資本還元してえられた貨幣資本額を産業資本に擬制する以外にないのだ。
そしてそれは、利潤の利子と企業者利得への分割ではなく、利潤そのものを利子に擬制し、それをとおして、産業資本そのものに貨幣資本の形態を擬制するということなのだ。
■A■そうだ。そうすれば、「競争」、「信用」、「株式資本」というマルクスの構想が、産業資本相互の利潤率均等化の競争、それを媒介するものとしての信用、そこからの株式資本の展開というかたちで生きてくる。そしてまさにそれこそ、諸資本が相互の競争においてあらわれるときの具体的諸形態を展開する「資本主義的生産の総過程」だ。
これにたいし、『資本論』の利子論の前半部分は、むしろマルクスの古い構想――「資本一般」論において、第一章を「資本の生産過程」とし、第二章を「資本の流通過程」とし、それを第三章でただちに「利潤、利子」に総括するという形式的な構想――の名残りとみてよいだろう。
■B■そうすると、宇野さんは、そういうマルクスの古い形式的な構想にひっかかってむだ骨をおったというわけか。
■A■宇野さんには少々気の毒だが、まあそういうことだろう。
■C■ところで、話しを少しまえにもどすようだが、宇野さんは、資金の商品化と貸付資本とをおなじ意味で使っているのか。それとも貸付資本とは銀行資本のことなのか。
『資本論』は、貨幣の商品化――商品としての貨幣――のことを、貨幣の資本としての使用可能性が商品化するという意味で、貨幣の可能的資本としての商品化であるとし、それを貸付資本とも呼んでいるわけだが。
E■宇野さんは、『資本論』のいう意味での、貨幣の可能的資本としての商品化を、たんに資金としての貨幣の商品化、資金の商品化としている。また銀行資本家の投下資本のことを貸付資本と呼んでいるわけでもない。
商品としての資金を貸付資本と呼んでいるわけだが、なぜそう呼ぶかその理由は必ずしもはっきりしていない。
■A■一応宇野さんは、商業信用における資本家相互間の貨幣の融通関係が銀行信用として自立化してくると、銀行は、自己の手元に集中された社会的資金を自己の自由に処理しうるものとして諸資本家に貸付け配分するようになるという意味で、つまり、個々の産業資本の資金が銀行に社会的に集中されて社会的資金として自立化したという意味で、それを貸付資本と呼んでいるわけだ。
だが、もちろん、これには問題がある。というのは、たとえば、産業資本から商業資本が自立化し、前者の商品販売が後者によって集中代位されるからといって、商業資本家が商品を買手にたいし資本として販売するわけではないからだ。
結論的にいえば、宇野さんは、何によって、商品としての資金が貸付資本――われわれの言葉では貨幣資本――という形態をあたえられ、その価格としての利子が貸付資本利子――貨幣資本利子――という形態をあたえられるかを、追求せねばならなかつたわけだ。
そしてそれは、貨幣市場での貨幣の価格としての利子率の客観的統一性が、産業資本や商業資本の利潤率の個別的不均等性にたいして、資本の資本としての純粋の自己増殖を代表するものとなる、ということ以外にはありえないのだ。つまり、貨幣の価格としての利子が資本の自己増殖分としての利子という形態をあたえられることによって商品としての貨幣にもまた、自己増殖的価値としての資本、しかも純粋の資本、資本そのものだという形態があたえられるわけだ。
そしてじつは、宇野さんは、これによって「それ自身に利子を生むものとしての資本」を規定せねばならなかったわけだ。「それ自身に利子を生む」というのは、資本価値それ自体として自己増殖するということ以外のなにものでもなく、また利子がそういう資本価値そのものの自己増殖分としてあらわれるということ以外のなにものでもないからだ。
そしてさらにここで株式資本について一言すれば、産業資本の株式資本化とは、産業利潤の利子率による資本還元によって産業資本にこうした貨幣資本の形態を擬制すること以外のなにものでもないのだ。
だから、こういう点からいっても宇野さんは、なぜ、商品としての貨幣が資本としての貨幣という形態をあたえられるかを、しかも信用論の最後の総括として追求しておかなければならなかったわけだ。