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第五章 資本蓄積と恐慌

       ――資本主義的生産の運動法則としての価値法則――

 

第一節 好況期の蓄積とその矛盾

 

   一 好況期の資本蓄積

 

 すでに第三章で、われわれは、社会的生産過程の資本による包摂とともに、資本の価値増殖はこの社会的生産過程の一般的な存立条件――いわゆる経済原則――をその内的根拠とすることになり、それによって価値法則は、この経済原則が資本主義社会においてとる特殊歴史的な形態として、そしてまさにそのようなものとして資本主義的生産の内的法則として、確立することをみた。

 また、このおなじ第三章で、われわれは、こうした社会的生産過程の資本による包摂とともに、商品の価値と使用価値の矛盾、およびこの矛盾の具体的表現にほかならぬ商品流通世界のいっさいの矛盾は、資本主義的生産過程そのものの矛盾へと溶解され、そこにおける資本家と労働者の階級的矛盾へと転化し、資本主義的生産は、この矛盾につき動かされて展開することをみた。

 すなわち、それは、まず資本の直接的生産過程の内部において、労働力を資本にとっての使用価値として自由に使用しようとする資本家と、労働生産過程一般の人間的主体としてそれに抵抗する労働者とのあいだの矛盾としてあらわれたのであり、そしてこの労働者の抵抗を、資本は、生産過程への機械体系の導入とそれへの労働者の従属化とによって、一言でいえば、生産過程そのものの物化によって、克服したのであった。

 だが、労働力の物化によるこうした矛盾の克服によって、同時にまた資本は、あらゆる使用価値的制約から解放された抽象的な価値の自己増殖体としての自分自身を犠牲にし、生産過程に固定的に集積された使用価値的特殊へとみずからをしばりつけ、こうして自分自身をもまた特定の機械体系として物化したのであった。かくて、直接的生産過程における資本の矛盾の解決は、矛盾のなんらの解決でもなく、たんにその矛盾の他の矛盾への転化、すなわち、資本の流通過程の矛盾――貨幣資本的流動性と生産資本的固定性とのあいだの矛盾――への転化でしかなかった。

 そしてこの矛盾は、資本の再生産過程においては、さらに姿をかえて、生産過程に固定的に集積されている既存資本価値を犠牲にするようなあらたな生産方法の採用を阻止するというかたちで、生産力の発展にたいする制限へと転化し、したがってまたそれにもとづく資本の有機構成の高度化とそれによる相対的過剰人口の造出――資本自身による労働者人口の造出――にたいする制限へと転化し、こうして資本自身による資本蓄積過程の制約となったのであった。

 だが、第三章ではわれわれは、労働力商品化の矛盾がこうした資本蓄積過程の矛盾へと転化したことを確認するだけにとどめて、それを資本がどのように解決しまたどのように再生産するかについてのたちいった追及は、この第五章にゆだねたのであった。

 これにたいし、第四章では、われわれは、まず第一に、資本主義的生産の内的法則としての価値法則が、諸資本相互の競争関係をとおしてみずからを貫徹し、個々の資本の利潤と商品価格とを規制し、それをとおして資本主義的生産を種々な生産部門の社会的統一からなる具体的全体として編成していくところのその基礎的な形態こそ、平均利潤と生産価格にほかならぬことをみたのであった。

 だが第二にわれわれは、こうした平均利潤と生産価格の形成は、したがってまた価値法則の貫徹とそれによる資本主義的生産の全体編成は、個々の生産部門への産業資本の固定資本的集積のため生産諸部門間の自由な資本移動が阻止されているという事情により、根底から制約されていることをみたのであった。つまり、労働力商品化の矛盾の転化形態にほかならぬ産業資本の固定資本的制約が、ふたたびまたここで、利潤率均等化やそれによる生産諸部門の均衡的編成にたいする障害という姿で登場し、価値法則の貫徹を阻止するにいたったわけである。

 そして最後にわれわれは、商業資本の自立化と、中央銀行を軸点とする近代的信用制度の確立とにおいて、資本がこうした障害を克服し価値法則の貫徹を媒介するところの資本家社会的な機構の成立をみた。産業資本の流通資本の一部の商業資本としての自立化、信用制度による流通資本の資本家社会的な共同化と各生産部門へのそれの流動的な配分と再配分、中央銀行の金準備の運動とそれによって規制される利子率の変動によるそうした関係――流通資本の資本家社会的共同化とその流動的配分の関係――の全社全的な統制、等々、一言でいえば、近代的貨幣市場とそこでの貨幣資本、利子の形態の成立が、それにほかならない。

 かくして、いまやここでのわれわれの課題は、こうした機構をとおして価値法則がどのように具体的にみずからを貫徹し、資本主義的生産の全体編成を実現し、資本主義的蓄積過程の矛盾を解決しまたそれを再生産するかを追及することとなった。

 だが、そのためにはわれわれは、まず第一番に、既存の生産方法を基礎とする、したがって生産力の質的な高度化をともなわない、したがってまた資本の有機的構成不変のままおこなわれる資本蓄積の性格をたちいって確認しておかなければならない。

 というのは、まさにこうした資本蓄積こそ、資本蓄積の基礎的な、また一般的な形態にほかならないからである。

 そしてその理由は、くりかえし確認しておけば、次の点にある。

 すなわち、①産業資本の投下資本価値の一大部分は、機械設備、建物、等々のかたちで生産過程に固定資本として集積されている、したがって、②この固定資本を犠牲にするようなあらたな生産方法の採用は、既存資本価値の維持増殖という資本の形態的要請によって阻止されざるをえない、③剰余価値の資本への転化による生産の拡張は、一般には、個々の資本家による剰余価値の追加的な生産手段と労働力への転化による個別的な生産の拡張とならざるをえないが、こうした個別資本的な生産の追加的拡張は、右の事情によって制約されて、既存の生産設備を基礎とするそれへの追加的拡張、いわば継ぎたし的拡張とならざるをえない、ということ、これである。

 だが、このことは、生産方法の部分的な改善や部分的な合理化がおこなわれうることを決して排除するものではない。こういう部分的改良は、しかし、既存の生産設備と生産体系を基礎とし前提とする改良であることはいうまでもない。

 また、このことは、剰余価値が多年にわたって準備金として蓄積され、それによってあらたな生産方法による新工場が建設されうることも決して排除するものではない。しかしそれは、社会全体としてみれば、旧生産方法による大部分の工場や、その追加的拡張と並存した新設工場の建設にすぎず、こうした資本蓄積の社会的な一般性を否定するものではない。

 そこで、この蓄積――有機構成不変のままおこなわれる蓄積――の社会的性格を確認すれば、さしあたりそれは、次のようなものとなろう。

 ①この蓄積は既存の生産力水準と既存の資本構成のもとでの生産の量的な拡大にすぎず、したがって剰余価値率と利潤率はともに変化しない。

 ②蓄積の進展による再生産の拡大に比例して雇用労働者数が増大せざるをえない。したがってこの蓄積は、相対的過剰人口――産業予備軍――があらかじめ存在していることを前提にし、それを動員しつつおこなわれる蓄積である。

 ③したがって、この蓄積がつづくと、剰余価値率と利潤率はともに不変であっても、剰余価値と利潤の絶対量は、再生産の拡大に比例して、ともに増大する。したがって、かりに剰余価値のうち資本蓄積にまわる部分の比率が年々一定であるとすれば、再生産規模と剰余価値および利潤の絶対量は、累積的に増大する。

 かくて、この資本蓄積は、たんに固定費本に制約されてそうならざるをえないという意味で、一般的かつ基礎的な資本蓄積の形態であるというばかりでなく、蓄積の進展に応じて累積的に剰余価値と利潤とを増大させ、資本の価値増殖を実現するという意味で、資本の積極的な蓄積ともなるのである。

 それは、このようなものとして、好況期の蓄積をなすわけであるが、たんにそればかりではない。

 じつは、信用制度が流通資本の資本家社会的な共同化と節約の関係をとおして社会的に促進し加速するのは、好況期のこの蓄積にほかならない。

 だから、それはまた、信用制度を積極的に利用する資本家社会的な蓄積としてもあらわれる。

 

   二 信用による資本蓄積の資本家社会的促進

 

 好況期の蓄積が信用によって加速される資本家社会的な蓄積としてあらわれるのは、次の事情による。

 ①信用は、すでにみたように、商業手形や銀行券の発行と流通を媒介にする流通資本の資本家社会的な共同化と節約の関係にほかならない。

 ②したがって、信用が積極的に介入しうるのは、流動資本(労働力や原料等々)の追加的投資による既存設備の操業率の引上げや労働時間の延長や交代制の採用による生産期間の短縮や既存設備の部分的な増強による再生産のいわば流動資本的な拡張に、限定されざるをえない。

 ③そしてこうした流動資本的な、追加的な再生産の拡張こそ、有機構成の根本的な高度化をともなわないでおこなわれる好況期の蓄積の特徴である。

 かくて、好況期には、資本は、信用制度を通じて流通資本を相互に節約し、回転を促進し、生産過程を緊張させ、それらをとおして利潤率を一般的に上昇させるというばかりでなく、またこのおなじ過程をとおして、好況部門の生産を集中的に拡大させ、生産部門間の流動的編成と利潤率の均等化とを促進し、比較的均衡のとれた発展を持続することになる。そしてこのばあい、利子率と各生産部門や各資本の利潤率との比較関係をとおして、信用による流通資本の節約と各生産部門への資本の流動的な配分がおこなわれることは、いうまでもない。

 そこで、こうした好況期の蓄積を媒介する利子率と利潤率の動きをみておけば、次のようになろう。

 ①まず好況期の発端では、利潤率も低いが、利子率も低い。再生産の不活発を反映して生産過程で形成増殖される資本価値もなお停滞しており、貨幣市場に供給される貨幣も低水準であるが、貨幣市場にたいする貨幣の需要もまた低水準にとどまっているからである。

 ②だが、つづいて生産活動が回復し、商品価格も回復し、流通過程がある程度まで緊張してきて、いわゆる中位的活況の時期が開始されると、利潤率もまた中位的水準となり、利潤量は累積的に増大しはじめる。そしてこうした再生産の累積的な拡大とともに、貨幣市場にたいする貨幣の需要は、当然に増大する。だが同時に、再生産の順調な拡大と生産過程で形成増殖される資本価値の増大とを反映して、貨幣市場への貨幣の供給や還流もまた順調である。かくてこの時期には、利潤率の中位的水準にたいして利子率の中位的水準での安定が対応する。

 ③この時期にはまた、一般の銀行信用、商業信用は、中央銀行信用から、すなわち、中央銀行の追加的な銀行券発行による手形再割引の拡大の関係から、相対的に自立しており、したがって市場利子率――一般銀行による手形割引率――は、中央銀行利子率を下まわっている。中央銀行信用の積極的な拡大がなくとも、銀行信用、商業信用の流動性と信頼性は高く、資本家相互の貨幣の融通関係やそれによる流通資本の資本家社会的な共同化と節約は、銀行信用、商業信用の段階で充分に媒介しうるからである。だが、このことは、中央銀行信用とその利子率が全信用体系と全貨幣市場の軸点をなすものとして、銀行信用、商業信用のこうした流動性と信頼性を背後から支えていることを決して否定するものではない。

 ところで、この時期のこうした再生産の順調な拡張と利潤率および利子率の中位的安定は、じつは、この中位的活況期こそが、次のような時期にほかならぬことをものがたっている。

 すなわち、①労働力の市場での価格、労賃水準が労働力の価値に比較的一致しており、また②各生産部門間の利潤率が比較的均等で、諸商品の市場価格がその生産価格と比較的一致しており、したがって③再生産の均衡的拡大が比較的よく実現されており、そして最後に④これらすべての関係を信用が流動的に媒介しているような時期、これである。

 

   三 最好況期における労賃騰貴と信用の役割

 

 だが、こうした好況期の資本家社会的な蓄積は、無限に進行しうるものではない。再生産の累積的な拡張をとおして最好況局面に近づくとともに、またその限界にも近づかざるをえない。

 というのは、それは、さきにもふれたように、次のような諸条件を根本前提とし、かつその基礎のうえに実現されている再生産の量的な拡大にすぎないからである。

 すなわち、①既存の生産方法、既存の生産設備等々のうちに示される既存の生産力水準、②この既存の生産力水準を資本のうえに反映する既存の資本構成――資本の有機構成――、③この資本の有機構成のもとに形成された一定規模の相対的過剰人口――産業予備軍――の存在、④これらの諸関係によって形成されている労働力商品の既存の価値水準、剰余価値率、および利潤率が、それであって、これを総括的に表現すれば、一定の生産力水準のもとに形成されている資本の一定の社会的な価値増殖関係といってよいであろう。

 そしてこの資本の社会的な価値増殖関係こそ、じつは、資本主義的生産関係そのものにほかならず、したがって、右の諸条件をさらにいいかえれば、それは、一定の生産力水準とそのもとに形成された一定の資本主義的生産関係以外のなにものでもないのである。

 つまり、この好況期の資本蓄積は、一定の生産力水準と一定の資本主義的生産関係を既存の前提とし、またその限界内で実現されているところの再生産の量的な拡大、したがってまた社会的生産力の量的な拡大にすぎぬわけである。

 そして、この社会的生産力の量的な拡大がその前提をなす資本主義的生産関係の限界に近づく形態こそ、いうまでもなく、既存の相対的過剰人口の動員による産業予備軍の涸渇であり、それによってひきおこされる労賃の労働力の価値以上への騰貴であり、これによる資本の価値増殖の社会的圧迫である。こうした生産力の量的な拡大によって、資本は、あらたに資本に転化さるべきますます多くの生産手段と生活資料とをつくりだすが、それらを現実に資本に転化するための追加的労働力を直接にみずからの生産過程によってつくりだしうるものではないからである。

 ところでこのばあい、さきにもみたように、好況期の蓄積を資本家社会的に促進し再生産の均衡的な拡大を媒介してきたのは、中央銀行を軸点とする信用制度――資本の社会的全体性と価値増殖の客観性とを自立的に代表するものとしての統一的貨幣市場――にほかならなかったが、しかしこうした信用制度は、以上のような好況期の蓄積の社会的限界にたいしては、たんにそれをただちに自己の限界として表現しそれによってこの蓄積を抑制したり方向を転じさせたりすることができないというばかりでなく、むしろかえって、この蓄積を加速し右の社会的限界と衝突する方向へと駆りたてざるをえないのである。

 そしてこれは、根本的には次の事情にもとづいている。

 ①信用制度では、すでにみたように、貨幣市場の利子率が個々の産業資本や商人資本の利潤率にたいして資本価値の自己増殖を客観的に代表するものとなっているため、そしてまたこうした利子率と個々の資本の利潤率との比較関係を基準にして流通資本や追加資本が各生産部門や各資本に流動的に配分されるものとなっているため、追加的投資による生産の追加的拡張によってえられる利潤の追加分がこの貨幣市場の利子率を上まわるかぎりは、信用制度は、生産の拡張を促進し加速するものとして作用せざるをえない。

 しかもこうした事情は、個々の資本が労賃騰貴による利潤率の低下を利潤量の拡大によっておぎなおうとする傾向のために、さらに加速されざるをえない。

 ②これは、当然に、貨幣市場にたいする産業、商業の側からの貨幣需要を増大させざるをえないが、しかも、これにたいして、貨幣市場への産業、商業の側からの貨幣供給の増大は、生産過程における資本の価値増殖力の低下によって停滞的とならざるをえないが、しかし信用制度は、すでにみたように、貨幣市場におけるこうした貨幣の現実の需給関係の悪化を、直接に貨幣市場の逼迫として表現する機構をもっていないのである。

 くりかえしていえば、資本主義的信用制度は、商業手形の振出と流通や銀行券の発行と流通をとおして間接的に形成される貨幣の貸借関係であって、現金の直接の受渡しによって形成される貨幣の貸借関係ではないからである。

 たしかに、貨幣市場におけるこうした現実の需給関係の悪化は、商業信用、銀行信用を緊張させて、銀行の手形割引率――市場利子率――を上昇させるが、かえってそれは、市場利子率を中央銀行利子率の水準にまで引上げて、中央銀行の銀行券発行による手形再割引を拡大させ、全信用体系のいっそうの膨脹をうながし、再生産の拡張をさらに加速させ、労賃騰貴を激化させるものとして作用することにならざるをえない。

 だが、事態はたんにこれだけにとどまらない。

 貨幣市場へのこうした現実の貨幣供給――それは生産過程で形成増殖された資本価値のうちただちに再生産に投下されないで流通過程で留保されている価値部分の貨幣形態にほかならず、それが他方における商品在庫の形態でのこの価値部分の留保に対応することはすでにみたとおりである――の増大の停滞にもかかわらず、中央銀行の銀行券発行をとおして全信用体系の拡張が生ずるということは、社会的には、商品供給をともなわない一方的な購買力が信用制度を通じて造出されるということにほかならず、当然にそれは、全般的な物価騰貴をひきおこさざるをえない。そしてまた当然にこの物価騰貴は、信用を大規模に利用する商業資本の投機的活動をひきおこさざるをえない。そしてまたこの商業資本の投機的活動は、それはそれで、産業資本の、これまた信用を利用する、投機的な生産拡張を誘発せざるをえない。

 そしていうまでもなく、このことは、次のことを意味する。

 すなわち、さきに中位的活況期に利潤率の均等化を媒介し、生産諸部門間の均衡的編成を媒介し、かくして価値法則の貫徹を媒介した信用制度は、いまや、労賃の労働力の価値以上への騰貴を加速し、利潤率の不均等を激化させ、生産諸部門間の不均衡を激成し、かくして価値法則の貫徹を阻止する資本家社会的な機構へと転化するにいたった、ということ、これである。

 こうして、いまや、好況期の蓄積は、その最後の段階をなす最好況局面へと突入するにいたったわけである。

 

 

第二節 資本の絶対過剰と恐慌

 

   一 資本の絶対過剰

 

 以上にみてきたような最好況局面における生産の拡張――信用を大規模に利用する商業資本の投機的活動によって誘発される生産の投機的拡張――は、ついには資本蓄積を次のような段階にまでおしすすめざるをえない。

 すなわち、蓄積の進展が、労賃騰貴を通じて資本の価値増殖率を低下させるというだけではなく、蓄積による再生産の拡張にもかかわらずかえって剰余価値の絶対量までも減少させはじめるという段階が、それにほかならない。

 このことは、現存の労働者人口――資本の現実の搾取材料――にたいし、資本に転化すべき生産手段と生活質料が過剰に蓄積され、それらがもはやかれらの剰余労働を吸収する手段として、すなわち資本として役立ちえなくなりはじめたことを意味する。これが、資本の過剰蓄積または絶対過剰にほかならない。

 このことは、しかし、次のことを意味するものでは決してない。

 すなわち、生産手段と生活資料が社会一般にとって過剰に蓄積され、社会の消費とそのための生産にとって過大になったということ、これである。

 それは、たんに、社会の資本主義的形態にとってのみ、すなわち、生産者の大衆がただ剰余労働を提供するかぎりでのみ生産し消費することをゆるされ、しかもこの剰余労働の提供それ自体もそれがさらにより多くの剰余労働の吸収のための手段として役立つかぎりでのみゆるされるような社会の特殊な歴史的敵対関係にとってのみ、生産手段と生活資料が過剰に生産されたということを意味するにすぎない。

 もちろんまたこのことは、次のことをも決して意味するものではない。

 すなわち、剰余価値の生産の条件が市場でのその実現の条件と矛盾するにいたったということ、これである。

 というのは、すでにみたように、市場なるものは、資本主義的生産過程の全体からみれば、資本自身の流通過程――社会的総商品資本W´の流通過程――にすぎず、したがって、価値的には、生産過程で形成増殖された資本価値の形式的姿態変換をなし、また使用価値的には、商品資本W´として生産された生産手段と生活資料が、流通手段としての貨幣を媒介にする資本家相互間の交換および資本家と労働者との交換を通じて、次の生産過程の出発点をなす生産手段と労働力とに組替えられる過程をなすものにすぎないからである。

 つまり、商品資本W´の販売は、したがって資本主義的市場は、生産の外部によこたわる独立の世界をなすものでは決してなく、そのうちの生産手段部分の販売については直接に、また生活資料部分の販売については労働力の販売をとおして間接的に、たえず次の生産が開始され拡大されるということにまったく依存しているわけであって、こうした生産の動向それ自体を決定するものこそ、ほかならぬ剰余価値生産の条件なのである。

 そしてこの剰余価値生産の条件のそのまた軸点をなすものこそ、資本がみずからの生産した生活資料をどれだけの労働力に転化することができるか、またその労働力からどれだけの剰余労働をひきだすことができるかという条件にほかならない。

 それゆえ、資本の絶対過剰とは、ひらたくいいかえれば、資本の搾取材料にたいする資本の過剰蓄積の結果、労働者大衆が、資本の搾取材料としてのかれらにゆるされる限界をこえて、かれらの消費を拡大しているということにほかならない。

 そしていうまでもなくこのことは、資本にとっては、生産力の量的な拡大――資本構成の高度化をともなわない好況期の蓄積――が、資本の既存の価値増殖条件――既存の生産力水準の基礎のうえに形成されている既存の資本主義的生産関係――の限界をこえてすすみ、それと矛盾するにいたっているということを、意味する。

 ところで、こうした資本の過剰蓄積は、さらにまた、次のことをも意味する。

 すなわち、貨幣市場への貨幣の現実の供給が、たんにその増加を鈍化させるというばかりでなく、絶対的にも減少に転じはじめるということ、これである。

 というのは、再生産は、極度に、しかも不均衡に緊張しているのであって、貨幣市場への貨幣の追加的供給は、この好況末期には、もっぱら、生産過程でつくりだされる剰余価値量の増大に、すなわち、その剰余価値量のうちただちに再生産に投下されないで蓄積資金として留保されている部分の増大に、依存するものとなっているからである。

 こうして、貨幣市場における貨幣の現実の需給関係は、こうした資本の絶対過剰とともに急速に悪化することになるが、しかもこの悪化を貨幣市場は、さきにみた信用制度の間接性――貨幣の貸借が現金の直接の受け渡しによってではなく、手形や銀行券の発行と流通をとおして間接的におこなわれるという信用制度の間接性――のために、直接に貨幣市場の逼迫と利子率の急騰として、かくしてまた貨幣市場の収縮として、表現し、それによって資本の過剰蓄積のいっそうの進行をくいとめることはできない。

 商業信用、銀行信用の緊張を反映して市場利子率は騰貴するとしても、中央銀行は、金準備に不安のないかぎり、銀行券発行による手形再割引を拡大して、一般普通銀行に銀行券を供給しつづけ、それによって市場利子率の騰貴を阻止するとともに、銀行信用の拡張を持続させるからであるが、たんにこればかりではない。

 資本家社会における貨幣の貸借関係は、したがってまたその現実の需給関係は、こうしたまわり道をとおしてきわめて屈折的かつ間接的に結局は中央銀行における銀行券発行高と金準備高との対照関係に集約されざるをえないわけであるが、しかし、このような過程をとおして増大する銀行券発行高にたいし、いったい中央銀行がその地下室にどれだけの金をねむらせていなければならないかという点についてもまた、なにか絶対的な基準が存在するわけでは決してなく、たんに事後的で経験的な、したがってきわめて曖昧で屈伸自在な、どうにでも理由をつけることのできる基準――したがって種々な資本家の分派のあいだの闘争や取引や思惑やまたかれらの職業的イデオローグたちの口喧嘩に格好の材料を提供するような基準――が存在するにすぎないからである。

 かくて、資本の絶対過剰の結果として生ずるのは、直接には、過剰信用のいっそうの促進であり、それによる過剰蓄積のいっそうの加速である。

 

   二 過剰信用と金流出

 

 こうした過剰信用は、しかし、無限に進行しうるものではない。

 それは、結局は、中央銀行券にたいする信頼の動揺をひきおこしてその金兌換を誘発し、中央銀行金準備の突然の流出をまねかざるをえないからである。

 そしてこうした金準備の流出は、具体的には、次のようなまわり道をとおして生ずることになる。

 ① すでにみたように、中央銀行券が貨幣として通用する範囲は、たんに、商業信用――銀行信用――中央銀行信用という連関をとおして資本家相互間の債権債務関係がこの中央銀行にたいする債権債務関係に振替えられ集中統合される範囲にすぎず、決して商品世界の全体をおおいうるものではない。

 ② したがって、右の範囲の外部にたいする取引では、もはやこの中央銀行券は貨幣として通用せず、そこから生ずる債権債務関係は、最終的には、現金をもって決済される以外にない。

 ③ したがって、中央銀行金準備は、それが貨幣として通用する範囲の内部における発行銀行券にたいする兌換準備として単純に存在しているわけではなく、同時にまた、その外部にある商品世界との取引から生ずる債権債務関係にたいする支払準備金――しかも資本家社会的に集中された共同支払準備金――としても存在しているのであり、そしてじつは、まさにこのような共同支払準備金として、右の範囲の内部における発行銀行券にたいする兌換準備金となっているのである。

 ④ こうした関係をもっとも純粋にかつ一目瞭然に示すのは、いうまでもなく、対外貿易である。そして、この対外貿易は、国内商品取引とまったく同様、商業信用をもって、すなわち、商業手形――為替手形――の振出しと流通によって媒介される商品の信用売買の関係をもって、とりおこなわれており、これらをとおして形成される債権債務関係は、これまた国内商品取引のばあいと同様、ある程度まで、商業手形自身をもって決済される。だが、その最終的決済は、国内取引のばあいとは異なり、もはや銀行券では役立たず、現金をもって、すなわち、世界貨幣としての現身の金をもって、なされる以外にはない。そして現実には、中央銀行の金準備にたいして銀行券の兌換が請求されるのは、国内信用取引の決済のためにではなく、こうした対外商業信用をとおして生じた債権債務関係の最終的決済のためなのである。つまり、中央銀行の金準備は、現実には、商業信用――銀行信用――中央銀行信用という連関関係をとおして資本家社会的に集中された資本家たちの共同の対外支払準備金以外のなにものでもないのであって、まさにこのようなものとしてのみ、それは、中央銀行券にたいする兌換準備金となっているわけである。

 ⑤ そしてまた、すでにみたように、資本主義は現実にはただ世界市場体制としてのみ、つまり、世界資本主義としてのみ、歴史的に存在するのであり、したがって資本主義的生産は、こうした世界市場の中心的または局地的な生産基軸としてのみ存在するのであり、したがってまた、資本主義的再生産過程は、こうした世界市場関係を、商品、貨幣、資本の流通諸形態を通じて自己の内部関係のうちに集約し還元し内面化するかぎりでのみ、自立的再生産体をなすものにすぎず、世界市場からまったくはなれて、それ自身に自立しているものではない。

 ⑥ それゆえ、この資本主義的再生産過程の内部における右の過剰信用は、労賃騰貴と一般的物価騰貴を激成し再生産の不均衡と投機的拡張を激化させることを通じて、輸出にたいしては阻止的に、輸入にたいしては促進的に作用し、いわゆる貿易収支を悪化させ、それを通じて対外債権債務関係を悪化させ、為替相場の低落を通じて、この債権債務関係の最終的決済のための対外金流出をひきおこさざるをえない。そしてまさにこの対外金流出が、中央銀行金準備にたいする銀行券の急激な兌換請求となってあらわれるわけである。

 以上が、好況末期の過剰信用の結果として突然に生ずる中央銀行金準備の急激な流出の具体的な過程にほかならないが、こうした金準備の流出は、当然のことながら、中央銀行を強制して、急遽、中央銀行利子率の引上げをはじめとする中央銀行信用の引締を強行せしめざるをえない。そしてこれはまたこれで、それまで中央銀行信用の拡張に依存して自己の信用業務を拡大してきた一般普通銀行を強制して、急遽、市場利子率の引上げをはじめとする一般銀行信用の引締――産業、商業にたいする信用の突然の引上げ――を強行せしめざるをえないのである。

 こうして、資本の過剰蓄積を激成させてきた過剰信用は、その最後の局面で、突如として、信用の絶対的欠乏――「貨幣の絶対的欠乏」――へと転化するのであって、これによってはじめて好況期の蓄積は、全面的に停止されることになる。

 ところで、中央銀行がこのように金準備の流出に強制されて全貨幣市場の引締とそれによる好況期の蓄積の停止にふみきらざるをえないのは、そうするほかには中央銀行は、金準備を防衛しえないからであり、またそれほどまでにして中央銀行が金準備を防衛せざるをえないのは、金準備が、さきにもふれたように、たんに銀行券の対内流通にたいする保証ではなく、資本家社会の共同の対外支払準備金だからであり、これの防衛なしには、この資本家社会全体が対外的に破産せざるをえないからである。つまりそれは、世界市場にたいするこの資本家社会の存立の防衛なのである。

 かくて、以上にみてきたところから、いまや次のことは明白であろう。

 ① 資本主義的生産は、その過剰蓄積とそれを激成してきた過剰信用とを直接に規制する機構をもたず、それをただ対外貿易の不均衡と対外債権債務関係の悪化として表現し、そこから生ずる金流出に外的に強制されることによって、はじめて、その内部における過剰蓄積とそれを促進してきた過剰信用とを阻止することができる。

 ② このことは、いいかえれば、発達した近代的信用制度を媒介する価値法則の貫徹は、それ自体、この近代的信用制度――中央銀行を中軸とする統一的な貨幣市場――そのものにたいする世界貨幣としての金の原始的な規制を媒介にして生ずるということにほかならない。

 

   三 恐   慌――貨幣市場恐慌、商業恐慌、産業恐慌――

 

 かくて、恐慌とは、以上のような過程をとおして生ずる好況期の資本蓄積の急激な停止にほかならないが、一般にはこれは、次のような経過をたどらざるをえない。

 ① まず発端をなすのは、金準備の流出によって強制された中央銀行信用の引締めと、これによって強制された一般銀行信用の収縮――手形割引業務の縮小ないし停止――であるが、これは、当然のことながら、商業手形にたいする信頼を一挙に動揺させ、手形の流通を総じて不可能にし、商業信用の全面的な崩壊をひきおこさざるをえない。

 というのは、すでにみたように、商業信用は、好況末期には、再生産の極度の緊張と不均衡や、信用を大規模に利用する商業資本の投機的活動とこれに誘発された産業資本の投機的生産等々のために、極度に緊張しており、銀行の手形割引業務の拡大に大きく依存するものとなっているからであり、またこの銀行の手形割引業務の拡大は、それはまたそれで、中央銀行の銀行券発行による手形再割引業務の拡大に大きく依存するものとなっているからである。

 こうして、商業手形は、たんにその割引にたいして禁止的高利が要求されるというばかりでなく、もはやどんな高利を支払っても総じて割引かれなくなるのであって、ここから現金への、しかも債務を支払うための現金への突然の渇望がうまれてくる。最好況期の過剰信用は、こうしていまや、突如として、貨幣の絶対的欠乏へと転化するわけであるが、たんにそればかりではない。

 こうした商業信用の崩壊は、商業手形の支払不能――いわゆる手形の不渡り――を一般化することによって、大量の割引手形をかかえこんでいる一般普通銀行をも根底から動揺させ、いくつかの銀行の破産をもふくむ信用制度全体の――全貨幣市場の――崩壊へと発展せざるをえないのであって、いうまでもなくそれが、信用恐慌ないし貨幣市場恐慌にほかならない。

 ② こうした信用恐慌は、当然にまた、それまで大規模に信用を利用して投機的活動をつづけてきた商業資本のいわゆる換金売り――支払手段としての貨幣を手に入れるための商品の投売り――を全面化させ、商品価格の全般的な崩落と商業資本の大量的な破産とをひきおこさざるをえない。信用恐慌の商業恐慌への発展が、それである。

 ③ そして最後に、こうした商業恐慌は、商品価格の崩落を通じて、産業資本の価値増殖を、したがってまたその再生産の継続を不可能にし、好況期の資本蓄積を全面的に停止させる。そしてこうした資本蓄積の停止は、好況初の蓄積過程を通じて生産過程に吸収されていた労働者人口を生産過程から大量に排除し、かれらを大量に失業させ、それによってかれらの労賃を急落させ、それを労働力の価値以下にひきさげることはいうまでもない。

 こうしていまや、中央銀行金準備の流出をきっかけにしてはじまった信用恐慌は、商業恐慌を媒介にして、全般的な産業恐慌へと発展するにいたったわけである。

 そしてこうした産業恐慌は、資本がいまや資本としては、すなわち価値の増殖体としては、意味を失なったということ、いいかえれば、資本価値が、生産過程に集積された資本価値としても、また流通過程に商品として堆積されている資本価値としても、大量的に破壊されたということを意味する。

 以上が恐慌による好況期の蓄積の――したがってまたその最後の段階をなす資本の過剰蓄積の――停止のおおよその過程にほかならないが、これを総括すれば、次のようになるであろう。

 ① 資本の過剰蓄積とそれがひきおこした価値関係からの価格関係の全社会的な遊離――労働力の価値からの労賃の、また生産価格からの市場価格の大規模な遊離――にたいし、資本主義的生産過程の内的な価値規制――価値法則――が、それに反撃し、みずからを強行的に貫徹し、その進行を阻止する過程こそ、恐慌にほかならない。

 ② このばあい、価値法則――資本主義的生産の内的法則としての価値法則――は、もっとも外面的な、もっとも物神的な、もっとも粗硬な形態、すなわち、地金としての金が自分自身のために近代的な全信用体系、商業体系、産業体系を犠牲として要求するという形態、をとる。資本の過剰蓄積を促進してきた近代的信用制度は、金によって強制されて、自己自身の崩壊をもって、また全商業組織の崩壊をその道づれにすることによって、はじめてこの過剰蓄積を阻止しうるわけである。

 ③ かくて、恐慌とは、さらにたちいって規定すれば、たんに既存資本価値と既存生産諸力の大量的な破壊の過程であるというばかりでなく、むしろそれをとおしての好況期の資本蓄積の全社会的基礎の破壊、すなわち、既存の生産力水準とそれにもとづく既存の資本主義的生産関係、それを基礎とする生産力の量的拡大の関係全体の強行的な解体の過程にほかならない。

 

 

第三節 不況期における資本の有機構成の高度化

 

   一 不況期における個別資本的競争戦と合理化の強行

 

 すでにみたように、有機構成の高度化をともなわない資本蓄積――既存の生産設備を基礎にする、したがって生産力の質的な高度化をともなわない生産の追加的な、量的な拡張――が、資本蓄積の一般的な形態となり、したがってふつうには、あらたな生産方法の採用による生産力の質的高度化や、それを反映する資本の有機構成の高度化をともなう資本の蓄積が阻止されているのは、産業資本の投下資本価値の大部分が固定資本として生産過程に集積されているという事情にもとづくものであった。

 ところで、以上にみてきたような恐慌の過程は、生産過程に固定的に集積されていたこの資本価値を大量的に破壊することにより、資本蓄積にたいする右の制限を、すなわち、あらたな生産方法の採用による生産力の節約高度化、それにもとづく有機構成の全面的な高度化による資本蓄積にたいする制限を、はじめて全面的にとりのぞく。

 しかも、たんにこればかりではない。

 恐慌による商品価格の大幅な低落と市場の収縮は、他方での労賃の低落や原料価格等々の低落にもかかわらず、総じて従来の生産方法による資本の価値増殖を不可能にするとともに、この恐慌の犠牲を互いに他に転嫁しようとする資本の競争戦を異常に激化せざるをえない。

 かくて、恐慌につづいて生ずるのは、商品価格の低落や、市場の収縮や、資本相互の激烈な競争戦によって強制されるところのいわゆる不況期の合理化の過程にほかならない。

 そしてこの不況期の合理化の過程を通じて、旧い産業設備はあらたな、より能力の高い生産設備に更新され、これを基礎にしてあらたな生産方法によるあらたな生産力水準が形成されるわけであって、恐慌による既存資本価値と既存生産力の破壊は、これによってはじめて完成されることはいうまでもない。

 ところでこのばあい、われわれの注意しなければならぬ点は、この不況期の合理化による生産力水準の高度化――既存固定資本の破棄と新固定資本の形成を根本とする生産力の質的高度化――にたいしては、信用は積極的に介入しえないということである。すでにみたように、もともと信用制度は、産業資本の流通資本部分の資本家社会的な共同化の関係にすぎず、したがって産業資本は、こうした流通資本の短期的な相互融通の関係を、大量の資本価値の生産過程への固定的投資を根本とする生産力の質的高度化のために大規模に利用することはできないからである。

 かくて、不況期の合理化とそれによるあらたな生産力水準の形成は、そしてそれにもとづく資本の有機構成の全般的な高度化は、個々の産業資本が、不況期の激烈な競争によって強制されて、多大の犠牲と苛酷な負担とを支払って遂行するところの個別資本的な蓄積の過程とならざるをえない。それは、この競争戦から脱落する資本にとってはもちろんのこと、それにたえて合理化をなしとげる資本にとっても、多大の犠牲と苛酷な負担をともなう命がけの過程なのである。

 こうして、有機構成の全般的な高度化による資本蓄積は、不況期の蓄積、恐慌によって強制されて資本がやむをえずおこなうところの消極的な蓄積としてあらわれる。

 

   二 有機構成高度化と資本主義的生産関係の全面的再編成

 

 ところで、こうした不況期の蓄積における生産力の質的高度化、それを反映する資本の有機構成の高度化の過程は、同時にまた、その生産力を基礎にするあらたな資本主義的価値増殖関係――資本主義的生産関係――の形成の過程でもある。

 すなわち、まず第一に、この生産力の質的高度化により、労働力の再生産に必要な生活資料の生産に要する労働時間――必要労働時間――はより小さくなり、剰余労働時間が増大する。したがって、労働力の価値は低下し、剰余価値率が相対的に増進する。

 次に第二に、このように生産力が質的に高度化し、それに応じて資本の技術的構成――生産手段と労働力の技術的組合せ――が変化し、そしてまたこれを反映して資本の価値構成――有機的構成――が高度化する――このうちには当然にまた資本の回転期間の変化も総括されている――ということは、一方では、これに応じて社会の各生産部門相互間の部門間編成が根本的に変化するということを意味するとともに、他方では、こうした剰余価値率の増進、有機構成の高度化、部門間編成の変化に応じたあたらしい平均利潤率と、各商品のあたらしい生産価格とが成立するということをも意味する。

 最後に第三に、こうした資本の有機構成の全社会的な高度化と、またこれに対応する資本主義的生産諸部門の全面的な再編成とは、社会の総資本によって充用される労働者数を相対的に減少させ、恐慌による再生産の急激な縮小によって街頭になげだされた大量の失業労働者人口を、相対的過剰人口として、したがって将来の資本蓄積の拡大にたいする産業予備軍として、固定化する。

 そしていうまでもなく、この三つの関係こそ、不況期における生産力の質的高度化を基礎にして形成されたあらたな資本の価値増殖条件、すなわち、資本主義的生産関係にほかならない。

 かくて、不況期の蓄積過程とは、よりたちいって規定すれば、恐慌による既存生産力と既存生産開係の破壊を出発点とするところの、あらたな生産力とそれにもとづくあらたな資本主義的生産関係の形成の過程にほかならない。

 

   三 好況期の蓄積への移行

 

 それゆえ、こうした不況期の蓄積過程は、同時にまた、あらたな好況期の蓄積の社会的基礎の形成過程でもある。

 くりかえして確認すれば、これをとおしてあらたな生産力水準が形成され、それを基礎にしてあらたな資本主義的生産関係が形成されるからであり、そしてまた、すでにみたように好況期の蓄積過程とは、これらの生産力水準と生産関係とを既成の前提としておこなわれる生産力の量的な拡大の過程以外のなにものでもないからである。

 いいかえれば、われわれがはじめにみた好況期の資本家社会的な蓄積過程とは、じつは、それに先行するところの不況期の蓄積過程をとおして形成された生産力水準と生産関係とを基礎にしておこなわれた蓄積にほかならなかったわけである。

 かくて、不況期の蓄積は、その一段落とともに、おのずから好況期の蓄積へと移行するのであって、そのさいこの移行が不況期における貨幣市場の極度の緩慢と利子率の低位――これは再生産の不活発と流通過程の弛緩の結果にほかならない――によって、促進される関係にあることはいうまでもない。

 

 

第四節 資本主義的生産の運動法則としての価値法則

 

   一 景気循環と価値法則

 

 以上でわれわれは、資本蓄積の二つの形態――有機構成不変のままおこなわれる蓄積と有機構成の高度化をともなう蓄積――が、好況期の蓄積および不況期の蓄積として、相交替してあらわれること、そして両者の交替を媒介するものこそ、資本の絶対的過剰とそれにもとづく恐慌にほかならぬことを、みた。

 いまやわれわれは、これを資本主義的生産の現実的運動過程――景気循環過程――として総括し、それが意味するところをたちいって確認しておかなければならない。

 そしてこのばあい、われわれのまず第一番に確認しておかねばならぬ点は、右の資本蓄積の二形態の交替過程を景気循環過程としてあらためて総括するならば、もはやそれは、好況――恐慌――不況という循環としては考察しえず、むしろ恐慌――不況――好況――恐慌という循環の反復過程として、つまり、恐慌を出発点および終結点とする循環の反復過程として考察しなければならぬということである。

 というのは、恐慌を出発点とする不況の過程こそは、すでにみたように、あらたな生産力とそれに対応するあらたな資本主義的生産関係が形成される過程だからであり、またこれにたいし、好況の過程は、このようにして形成された生産力と生産関係の限界内での生産の量的な拡大――生産力の量的増大――の過程にほかならず、そして恐慌とはこの量的拡大が右の生産関係の限界と衝突して強行的に終止符をうたれ、それとともにこれらの生産力と生産関係そのものが破壊される過程にほかならぬからである。

 そこで、右の点を確認しておいて、次に第二に確認すべき点にうつれば、それはこうした景気循環過程のうちに示される資本主義社会の特殊な人口法則である。

 すでにみたように、資本は、その生産過程を通じて社会のあらゆる生産物を商品として生産することはできるが、人間自身の主体的能力である労働力だけは直接に生産することはできない。資本が直接に生産しうるのは、生活資料にすぎず、それを資本は、労働者に労働力の価値としてひきわたすことによって間接的に労働力の再生産を確保しうるだけである。そしてもちろん、この労働力の再生産のうちには、労働者人口の自然的増殖もふくまれている。

 だが、労働者人口のこうした自然的増殖――資本の人間的搾取材料の自然的増殖――だけでは、無限の価値増殖衝動に駆りたてられて再生産の無限の拡大をめざす資本蓄積にとっては、もちろん充分でない。資本蓄積が労働者人口の自然的増殖だけに依存せねばならぬとすれば、資本主義的生産なるものは最初からして存立しえないのである。

 そしてこうした労働者人口の自然増殖の限界から資本蓄積を解放し、資本がみずから労働者人口を造出する方法こそ、資本の有機構成の高度化――総資本中に占める可変資本の比重の相対的低下――による相対的過剰人口の造出――現役労働者の一部を生産過程から排除して産業予備軍に編入すること――にほかならなかったわけであるが、しかし、すでにみたように、こうした資本自身による労働者人口の造出は、一般には産業資本の投下資本価値の一大部分が生産過程に固定的に集積されているという事情のために、阻止されているのであった。そしてまさにこの点が、資本の蓄積過程においてあらわれる労働力商品の矛盾の具体的な姿にほかならなかった。

 だが、いまやわれわれにとっては、資本がどのような過程をとおしてこの矛盾を解決しまた再生産するかは明白でなければならない。

 すなわち、まさにそうした過程こそ、さきにわれわれが確認した景気循環過程にほかならぬのであって、資本は、恐慌――不況の過程で相対的過剰人口を強行的に造出し、これを基礎にして好況期の積極的な蓄積を実現し、それが右の過程で造出した相対的過剰人口を吸収しつくして限界に達すると、ふたたびまた恐慌――不況の過程をくりかえして相対的過剰人口を強行的に造出するわけである。

 かくて、景気循環過程とは、こうした面からみれば、資本にたいする労働者人口の過剰と、労働者人口にたいする資本の過剰とが相交替する過程――資本蓄積の局面交替に応じて労働者人口が生産過程から排出されたり吸収されたりする過程――だということになる。つまり、それは、資本が自己に特有な人口法則を展開する過程でもあるわけである。

 したがって、この点に関連して、第三にわれわれが確認するべき点は、景気循環によるこうした相対的過剰人口の形成と吸収の運動をとおして、したがってまたそれにともなう労賃の下落と騰貴の運動をとおしてはじめて、労働力商品の価値規定――必要労働時間による労働力の価値の決定――は、みずからを現実的に貫徹するということである。

 すなわち、資本は、恐慌――不況の過程で造出した相対的過剰人口を基礎にすることによって、好況期の急速な再生産の拡大にもかかわらず、労賃を労働力の価値水準に維持しうるのであり、また、この過剰人口の涸渇から生ずる価値以上への労賃の急騰にたいしては、恐慌による再生産の停止とそれによる大量失業と労賃低落をもって反撃をくわえ、ついで不況期の合理化をとおして、この大量失業人口を合理化による過剰人口として固定化するとともに、労働力の価値水準それ自身を相対的に引下げるわけである。

 ところで、すでにみたように、労働力商品の価値がそれを再生産するのに必要な必要労働時間によって決定されるという関係こそは、資本主義的生産の内的法則としての価値法則の根本であった。というのは、これによってはじめて剰余価値もまた剰余労働によって、したがってまた商品価値もまた一般に労働によって決定されることになったからであり、またこうした価値関係が諸資本相互の競争関係をとおして個々の資本の利潤や商品価値を現実に規制する形態こそ、平均利潤と生産価格にほかならなかったからである。

 かくて、労働力商品の価値規定が景気循環過程をとおしてはじめてみずからを現実的に貫徹するということは、じつは、資本主義的生産の内的法則をなす価値法則が、景気循環過程をとおしてはじめてみずからを資本主義的生産の現実の運動法則として定立するということにほかならない。

 それゆえ、次にわれわれは、この点を第四として総括的に確認しておかなければならない。

 だが、そのためには、われわれは、資本蓄積過程を媒介する信用制度が、それによって同時に平均利潤と生産価格の形成をどのように媒介するかを、これまでのように景気循環の個々の局面においてではなく、その全局面から総括的にふりかえって反省してみなければならぬであろう。

 というのは、すでにみたように、そしてまた右にもふれたように、平均利潤と生産価格の形成こそは、価値法則が資本主義的生産の全体を現実に貫徹し規制する具体的形態だからであり、またそれらの現実の形成は、したがってまた価値法則の現実の貫徹は、産業資本の生産過程への固定のために生産諸部門間の資本の自由な移動が阻止されているという事情により、根本的に制限されていたからであり、そしてこの制限を克服し価値法則の貫徹を媒介する機構こそ、信用制度による流通資本の資本家社会的共同化の関係にほかならなかったからである。

 そしてこのばあい、そうした景気循環の全局面的反省からなによりも明白に浮かびあがってくる点は、信用制度が利潤率の均等化と価値法則の貫徹を根底から媒介する過程は、じつは、信用が積極的に促進する好況期の資本家社会的な蓄積の過程ではなく、信用が積極的には援助しえない不況期の蓄積――恐慌を出発点とする不況期の蓄積――の過程だという点であろう。

 というのは、まさに不況期の蓄積過程こそは、あらたな固定設備による既存固定設備の全社全的な代置と、それによる生産力の質的高度化と、またこれにもとづくあらたな労働力の価値水準の形成と、またこれを反映するあらたな剰余価値率、平均利潤率、相対的過剰人口と、そして最後にこれらの全開係に対応するあらたな生産部門編成とが、一言でいえば、資本主義的生産の根底からの全面的な再編成が、強行される過程にほかならぬからであり、そしてこうした根底的過程にたいし、好況期の資本家社会的な蓄積過程における利潤率均等化や部門間編成の信用による媒介は、この不況期の資本主義的生産の全面的な再編成を基礎にしておこなわれるその部分的二次的な補足修正の過程にすぎぬからである。

 つまり、根本的には、信用制度は、金の規制によるみずからの崩壊をもって恐慌を現実化し、それによって不況期の右のような再編成を資本主義的生産に強制することを通じて、平均利潤と生産価格の形成を、したがってまた価値法則の現実的貫徹を媒介するわけであり、またこれを、好況期の蓄積において、流通資本の資本家社会的な共同化の関係を通じて、補足するわけである。

 かくて、信用を媒介とする資本蓄積の現実的過程、恐慌を出発点および終結点とする景気循環の反復過程こそは、価値法則がみずからを資本主義的生産の現実的運動法則として貫徹しつつあるその過程にほかならない。

 そしてこのばあい、くりかえし確認しておけば、価値法則貫徹のもっとも暴力的かつ尖鋭な形態こそは、中央銀行からの金準備の流出によってひきおこされる貨幣市場恐慌――商業恐慌――産業恐慌という過程なのであって、ここでは、価値法則そのものが、現身の金というもっとも物神的な、もっとも疎外的な姿をとるということである。労働力を物として処理し、社会的生産過程を物による物の生産という形式で遂行し、したがって社会的生産の内的原則を外的な価値法則として実現するという資本主義的生産の物神性は、ここでは、社会的生産の外部にある物としての金のために全社全的生産が犠牲にされるという最高の、だが同時にもっとも原始的な姿であらわれるわけである。

 

   二 資本主義的生産における生産力と生産関係の矛盾

 

 だが、たんにこればかりではない。

 価値法則がこのようにして資本主義的生産の現実の運動法則として確立するということは、同時にまた、資本主義的生産そのものが、それ自身の内的矛盾によって運動する自立的な運動体として確立するということを意味する。

 そこで、この点を総括的に確認しておけば、それは、すでにみたところから明らかなように、景気循環過程の次のような過程にあることはいうまでもない。

 すなわち、①恐慌――不況の過程で、既存の固定設備にもとづく既存の生産力水準と既存の価値増殖関係が破壊され、あらたな固定設備の形成を基軸にしてあらたな生産力水準とあらたな価値増殖関係が形成される、②好況の過程で、右の生産力水準と価値増殖関係を基礎にして生産の量的な拡大がおこなわれる、③好況の最終局面で、この生産の量的拡大が右の価値増殖関係の限界と衝突し、恐慌となって爆発する、④ふたたびまた、恐慌――不況の過程で、右の生産力水準と価値増殖関係がともに破壊され、あらたな生産力水準と価値増殖関係によって代置される。

 そしてこのばあい、資本主義的生産の特定の生産力水準に対応して形成される特定の価値増殖関係――特定の剰余価値率、特定の一般的利潤率、特定の規模の相対的過剰人口――こそ、この特定の資本主義的生産力水準に対応する資本主義的生産関係の特定の内容、すなわち、特定の内容規定をもった資本主義的生産関係そのものにほかならない。

 したがって、ふりかえって規定すれば、恐慌とは、この特定の生産力水準を基礎にする生産力の量的な拡大が、おなじくこの特定の生産力水準に対応して形成された特定の資本主義的生産関係と矛盾衝突する現象以外のなにものでもなく、したがって、恐慌――不況の過程におけるこの特定の生産力水準とそれに対応する特定の資本主義的生産関係の破壊、およびより高度な特定の生産力水準とこれに対応するより高度な特定の資本主義的生産関係によるそれらの代置こそ、資本主義的生産がみずからの生産様式の限界内で右の矛盾を解決し、またそれをより高度な生産力水準と生産関係の基礎のうえで準備する仕方にほかならない。

 それゆえ、景気循環過程とは、資本主義的生産が価値法則によって規制されつつ、みずからの生産力と生産関係の内的矛盾によって自立的に運動するところの、その自立的な運動過程以外のなにものでもないわけである。

 

   三 自由主義段階における国際的景気循環の意義

 

 以上でわれわれは、景気循環過程こそ、価値法則がみずからを資本主義的生産の現実の運動法則として定立し、また資本主義的生産そのものがみずからを自立的運動体として確立するその具体的な様相にほかならぬことをみた。

 だが、現実の資本主義は、すでにみたように、歴史的発展のある段階に世界史的に生成し、確立し、変質転化する歴史的な形成体であり、まさにそのような世界史的形成体として世界資本主義をなしている。

 したがって、われわれが以上にみてきたような資本主義的生産の自立的運動過程としての景気循環過程も、現実的には、資本主義の全世界史的発展段階を通じて一般的に存在する普遍的過程では決してなく、ただその特定の発展段階にのみ、すなわち、産業革命をとおして世界資本主義がみずからの生産基軸を確立しそれを中心にして世界的に運動しつつある自由主義段階にのみ特殊的に存在する特殊な歴史的過程にすぎない。

 かくて、以上にわれわれが展開したような景気循環過程は、じつは、自由主義段階の世界資本主義の国際的景気循環過程の内的叙述以外のなにものでもなかったわけであって、最後にわれわれは、この点を全体として確認しておかなければならない。

 そこで、まず第一に、当時の国際的景気循環の中心機構から問題にすれば、それは、イギリス貨幣市場――イギリス世界商業――イギリス綿工業という連関関係であった。

 すなわち、ロンドン手形割引市場とイングランド銀行を中心とするイギリス貨幣市場は、なによりもまずイギリスの世界貿易――世界商業――にたいする貨幣市場であった。そしてこのイギリスの世界商業こそは、当時の資本主義の世界市場編成――イギリスを世界の中心的資本主義国とし、フランス、ドイツ、アメリカ等をその周辺的資本主義国とし、またその他の地域を農業地域とする世界市場編成――の貿易連関機構の主導的な担手であり、また、ロンドン貨幣市場を背景にしてこのイギリス世界商業を通じて振出され流通するポンド為替こそは、当時の世界貿易と世界商業信用の主要な貿易信用貨幣であった。そしてこうしたイギリス世界商業の基軸的産業をなすものこそ、イギリス綿工業にほかならなかったのであって、まさにそのことによって同時にまたそれは、当時の世界資本主義の生産基軸ともなっていたわけである。

 かくて、ロンドンを中心とする当時のイギリスの貨幣市場は、一方では、イギリス世界商業にたいする、そしてまたそれを通じて世界貿易の全体にたいする世界貨幣市場をなすとともに、そのことによって同時に他方では、このおなじイギリス世界商業の産業基軸をなすイギリス綿工業にたいする国内的貨幣市場ともなっていたのであって、イギリス貨幣市場――イングランド銀行を中心とするイギリスの信用体系――の特質は、それが貿易信用を通じてイギリス世界商業を金融するそのおなじ機構をもって、同時にイギリス国内産業をも金融しているというところにあった。

 そこで、第二に、当時の国際的景気循環の好況局面をみてみると、それを金融面から主導し、世界的に促進したのは、このイギリス貨幣市場の信用拡張であった。

 すなわち、①イギリス貨幣市場の信用拡張は、まず貿易信用の拡大をとおして綿製品を中心とするイギリス工業製品の輸出を拡大し、輸出面および信用面の両方から、綿工業を中心とするイギリス国内産業の拡大を促進する。②このイギリス産業――これは同時に世界市場の生産基軸をなす――の拡大は、イギリス国内の生産的および個人的消費の拡大を通じて、これまた信用を大規模に利用するイギリスの輸入――綿花をはじめとする工業原料や食料品その他の生活資料の輸入――を促進する。③したがって、イギリス貨幣市場の信用拡張は、たんにイギリス国内の産業的蓄積過程を促進するばかりではなく、これを基軸とするイギリス世界商業と、またそれを主導的担手とする世界貿易の全体を拡張する。④そしてこれを通じて、それはさらに、他の周辺的資本主義諸国や農業諸国の生産を、貿易面および信用面の両方から世界的に拡大する。⑤このばあい、特に信用面というのは、こうしたイギリスを中心とする世界商業信用および世界貿易の順調な拡大は、その他の資本主義諸国の国際収支情況や対外債権債務関係の改善や安定をもたらし、それらの諸国の中央銀行信用の拡張を促進し、その国内信用の全般的拡大を誘発するからである。

 こうして、イギリス貨幣市場の拡大とそれによって促進されたイギリス産業の拡大は、イギリス貨幣市場―イギリス世界商業―イギリス綿工業という連関をとおして、世界好況を誘発するわけであるが、この点を確認しておいて、次にわれわれは、第三として、この世界好況の最終局面に視点をうつせば、それは次の点にあった。

 すなわち、①こうしたイギリス貨幣市場の拡張を背景にする世界的な信用拡張は、イギリスをはじめとする資本主義諸国の過剰蓄積を促進し、労働力の需給関係の逼迫を通じて労賃騰貴をひきおこし、資本の価値増殖を圧迫するが、しかしこれは信用拡張による物価騰貴によってさしあたりは隠蔽されている。②しかしこれらの諸国の再生産の拡張と労賃騰貴は、原料、食料等の輸入急増となってはねかえり、そしてこれはまたこれで、おなじく信用を大規模に利用する商人資本の投機的活動を誘発して、これらの商品の投機的輸入とその価格の投機的引上げをひきおこす。③これは、これらの農産物の生産拡張が工業製品の生産拡張に国際的にたちおくれるという事情ともあいまって、それらの商品の価格を国際的に急騰させ、資本主義の世界市場編成の不均衡を激化せざるをえない。こうして、資本主義諸国内部における資本と賃労働の不均衡は、信用拡張とそれを利用する商人資本の投機的活動を通じて、世界市場編成の不均衡へと外化されるわけである。④この世界市場編成の不均衡は、しかし、世界貿易の担手をなすイギリス世界商業を媒介にして、イギリスの対世界貿易の不均衡に集約されざるをえない。そしてこれはまたこれで、イギリス世界商業とイギリス綿工業の連関を通じて、イギリスの国内的な資本、賃労働関係の不均衡を激化せざるをえない。⑤こうして好況期を通じて形成される資本主義の世界的な矛盾は、イギリスの世界的な貨幣市場――世界商業――綿工業という連関を媒介にして、結局は、イギリス資本主義の矛盾に集約され、そしてまたこの矛盾は、最終的には、イギリス貨幣市場の緊張に集約されざるをえない。世界市場編成の不均衡から生ずる国際商業信用やその国際決済関係の緊張は、それ自体としても、世界貿易の国際信用貨幣をなすポンド為替の決済関係を圧迫せざるをえないが、また、右のような世界市場編成の不均衡によって激成されるイギリス国内関係の不均衡も、結局は、イギリスの国際収支関係を悪化させ、ポンド為替の決済関係を圧迫せざるをえないからである。⑥そしてこうした関係の当然の帰結こそ、次のような過程、すなわち好況末期におけるポンド為替の低落とイングランド銀行からの突然の金流出、これに強制されたイングランド銀行信用の急激な収縮、これをきっかけにするイギリス貨幣市場恐慌、これによって誘発されるイギリス世界商業の商業恐慌、それのイギリス産業恐慌への発展にほかならない。⑦そしてこうしたイギリス恐慌は、次の二つの関係をとおして、ただちに世界恐慌――「世界市場恐慌」――へと発展せざるをえない。すなわち、その第一は、イギリスの貨幣市場恐慌はイギリスの対外債権の回収を通じて他の諸国からのイギリスへの急激な金流出をひきおこし、それら諸国の中央銀行信用の収縮を通じてそれらの諸国にもただちに貨幣市場恐慌をひきおこさざるをえないという関係であり、また、その第二は、イギリス世界商業の商業恐慌は、イギリスの世界的な商品投げ売りをとおして、世界市場価格を一挙に崩落せしめざるをえないという関係である。

 さて、そこで次に第三として、こうした世界恐慌につづく世界不況の意義を確認しておけば、それは、およそ次の点にあったとみてよいであろう。

 すなわち、①この世界不況は、世界市場での競争戦を激化させ、それを通じてイギリスをはじめとする資本主義諸国にその国内関係の再編成――不況期の合理化、それによるあらたな生産力水準とそれにもとづくあらたな資本主義的生産関係の形成、それらを基礎とする生産諸部門間の連関関係の再編成――を強制する。②これらの資本主義諸国の国内関係の再編成を基礎にして、さきの好況期の発展を通じてつくりだされた世界市場編成の不均衡を根底から再編成し、イギリスを中心とするあらたな世界市場編成を再形成する。③そしてこれによって、ふたたびまた、イギリス貨幣市場――イギリス世界商業――イギリス綿工業という連関を基軸にする世界的好況の過程を準備する。

 かくて、以上にみたところから、いまやわれわれにとって、次のことは明白であろう。

 すなわち、①世界恐慌――世界不況の過程で形成される資本主義諸国のあらたな国内編成およびこれを基礎にするあらたな世界市場編成こそ、じつは、世界的好況の基礎をなすところの資本主義の世界的な生産関係――あらたな世界的生産力水準にもとづくあらたな世界的生産関係――にほかならぬこと、したがって②世界恐慌とは、これを基礎にする好況期の世界的な生産拡張――資本主義の生産力の世界的な量的拡大――とこの世界市場編成――資本主義の世界的生産関係――との矛盾衝突にほかならぬこと、したがってまた③世界恐慌――世界不況の過程における資本主義のあらたな国内編成およびこれを基礎にする世界市場編成の成立は、資本主義が右の矛盾をみずから世界的に解決する方法にほかならぬこと、これである。

 そしてじつは、自由主義段階の世界資本主義が「成長期の資本主義」ないし「発展期の資本主義」をなす根本は、まさにこの点に、すなわち、イギリス貨幣市場――イギリス世界商業――イギリス綿工業という世界連関を基軸にして、その世界的な生産力と生産関係の矛盾を周期的に世界恐慌として爆発させ、それを世界不況の過程でみずから解決するという点にあったわけである。

 そしてここからふたたびふりかえって確認するならば、われわれがさきに展開した景気循環論は、こうした自由主義的段階の世界資本主義のその世界的運動過程の内的叙述以外のなにものでもないのである。

 

 

■原理論における恐慌と現実の恐慌

   ――価値法則の歴史性――

 

 <恐慌の一般理論は存在するか>

■A■まずすべての恐慌に通ずる一般理論は存在するか、という根本問題からいこう。

 この点、公式マルクス主義はどう考えているか。

■C■ヴァルガやメンデリソンのばあい、恐慌の前史をのぞけば、一九世紀から二〇世紀初頭まで、ほぼ一世紀以上の恐慌史をやっているわけだが、いつの恐慌をとってみても、説明の基本線は、きわめて単純で、ほとんど不変だといってよいだろう。過剰生産、信用によるその投機的促進、販売不能、恐慌という説明のくりかえしだ。

 そういう意味では、かれらには、恐慌の一般理論ないし一般法則論があるといってよいだろう。

■B■過剰生産というばあい、かれらはなににたいして生産が過剰になるとしているのか。

■C■市場にたいして生産能力が過剰になるという説だ。好況期に生産能力が拡張され、それを信用が加速するというところにその根拠がもとめられている。

 そのばあい、おもしろいことには、かれらは、マルクスやレーニンが過少消費説――生産の拡大にたいする消費の過少説――を否定しているものだから、むきになって過少消費説を攻撃している。

 かれらにとっては、市場にたいする生産の過剰説と、生産にたいする市場の過少説とは、別のことらしい。

■B■かれらは、生産にたいして市場を、生産とは別個の要因によって規定される独立の存在とみているのか。

 資本主義社会の総商品は、生産手段と消費資料からなりたっているが、このうち生産手段の販売は、直接に生産に、また消費資料の販売は労働力の販売をとおして間接的に生産に依存しており、市場の拡大が生産の拡大の結果にすぎぬことは、一目瞭然ではないか。こんなことは、再生産表式をみればすぐわかることだ。

■C■再生産表式がもちだされたら、かれらは部門間不均衡論による恐慌説に逃げる以外にないだろう。

■B■だが、そのばあいは、部分的恐慌しか説けず、それがせいぜい信用によって波及して全般的恐慌に発展すると主張できるだけだろう。しかし、それだと、恐慌の周期的規則性は、まったく説けない。

■C■それはそうだが、再生産表式を使って部門間不均衡から恐慌を説明する方法は、生産にたいする市場の側の制約から、つまり価値ないし剰余価値の実現論の立場から恐慌を説く恐慌論の最後の合理的な形態だといってよいだろう。

 そこから全般的恐慌の必然性が説けないとなると、もはやそれは、生産にたいする市場の制限からではなく、生産そのものの内部的な制限から説明するほかなくなってくる。

 そしてそれは、生産の内部における資本の価値増殖力の低下から生産が阻止され、それが結果的には市場の縮小となってあらわれるという恐慌論、つまり利潤率低下論による恐慌論にならざるをえない。

 恐慌の原因を生産にたいする市場の制限にもとめるか、生産にたいする価値増殖の制限にもとめるかというのは、リカードとシスモンディないしマルサスとの対立以来の経済学の古典的問題だ。

 リカードは、利潤率低下を、土地の制限性からくる生活資料の騰貴、そこからでてくる労賃騰貴から説いている。

■D■『資本論』は、そういう古典的問題に片をつけているといえるか。

■C■片をつけていないとみるべきだろう。両方を主張している。剰余価値の生産とその実現の条件との矛盾という説と、もうひとつは、第三巻第三篇の「利潤率の傾向的低落の法則」のなかで展開されている資本の絶対過剰論だ。

■D■そうすると、宇野さんの恐慌論の功績は、『資本論』から資本の絶対過剰論をとりだして展開し、それによって俗流マルクス主義の過剰生産論や過少消費論に最終的に片をつけた点にあるわけか。

■B■そういってよいだろう。

 その点に関連して、宇野さんの恐慌論の特徴を確認しておけば、まず第一点は、資本の絶対過剰のそのまた根源を労働力商品の矛盾、資本は労働力を物として直接に生産しえないという矛盾にもとめたことだ。

 第二点は、有機構成の高度化をともなわない蓄積を資本蓄積の一般的な積極的形態としたことだ。労働力商品の矛盾とこの点とがむすびついてはじめて、資本の絶対的過剰の必然性が明確になってくるわけだ。

 第三点は、資本の絶対過剰が恐慌へと転化するその媒介項を、信用論の展開を基礎にして利子率と利潤率の対抗関係にもとめたことだ。

 この三点によって、利潤率低下論にもとづく恐慌論の体系的骨格がほぼ完成したとみてよいだろう。

■F■そういう宇野さんの功績を否定するものではないが、われわれとしては、それはまだ恐慌論体系化への問題整理にすぎぬことを確認しておかねばならぬ。

 その第一点は、まえにわれわれが議論したように、信用論の体系が宇野さんではまだできていないという点だ。

 第二点は、これもすでに議論したことだが、有機構成不変の蓄積を資本蓄積の一般形態たらしめるその固定資本の制約が、じつは、直接的生産過程での労働力商品化の矛盾が姿を変えたかたちだという点がはっきりしていず、したがって資本蓄積過程にたいする労働力供給の制約が、そういう固定資本の矛盾のそのまた姿を変えたかたちだという点がはっきりしないで、労働力商品の矛盾がここでいきなりそれを資本は物として生産しえぬというかたちでもちだされているという点だ。

■A■そういう宇野さんの限界は、まえに議論したのでここではそのぐらいにしておいて、宇野さんの恐慌論をとりあげるばあい、もうひとつの功績として確認しておかねばならぬ点があるのではないか。

■D■それは、唯物史観にいう生産力と生産関係の矛盾を、原理論の内部で資本の運動に即して設定したという点か。

■A■そうだ。

 従来のマルクス経済学では、その点はきわめて曖昧で、エンゲルスによりかかって、せいぜい、生産の社会的な性格と所有関係の私的性格の矛盾という程度にしか理解されていなかった。

 それを宇野さんは、恐慌として爆発し、恐慌――不況の過程で解決され、好況の過程でふたたび再生産されるいわば運動する矛盾として設定したわけだ。

 あるいはむしろ宇野さんは、それによって、資本主義そのものを運動体として、つまりそれに固有の生産力と生産関係の矛盾によってそれ自身に運動する自立的な運動体として、設定したといってよいだろう。

 そしてそれは、価値法則をはじめて資本主義生産の運動法則として設定したことを意味する。

 これは宇野さんの原理論の最大の功績のひとつだ。

 そしてこのばあい、宇野さんにそういう設定を可能にした核心点が二つあるとみてよいだろう。

 そのひとつは、資本主義生産における生産力の発展を問題にするばあい、それをエンゲルスのように近代的工場制度における生産力の社会的発展一般――生産の社会的性格の発展一般――として抽象的にとらえないで、質および量の二側面からそれを明確に規定したという点だろう。生産過程における生産手段と労働力の技術的構成の高度化による生産力の質的発展と、既存の技術的構成を基礎とする生産力の量的拡大との区別が、それだ。

 つまり、資本蓄積の二形態の交替に即して、資本主義的生産力の発展の質的側面と量的側面とを区別したわけだ。

 もうひとつは、資本主義的生産関係を問題とするばあい、これまたエンゲルスのように曖昧に所有関係の私的性格一般としてとらえるのではなく、それを資本家と賃銀労働者の階級関係として、しかも、そういう階級関係一般としてではなく、右の資本蓄積過程における資本主義的生産力の一定の質的発展水準に対応する、したがってそこからでてくる一定の量的内容をもった資本家と労働者との階級関係として、とらえたという点だろう。

 つまり、それが、資本の一定の有機的構成のもとに形成された資本家と労働者の階級関係にほかならぬわけであって、それを資本の側から表現すれば、資本の一定の有機構成のもとに形成される剰余価値率、利潤率、および相対的過剰人口の規模、いいかえれば、労働者との関係における資本の社会的な価値増殖条件だといってよいであろう。そしてこれによって、好況期における資本蓄積の全体としての規模が決定されるわけだ。

 要するに、宇野さんのばあい、生産力と生産関係のそれぞれの内容が資本の蓄積過程に即して具体的に規定されているわけであって、それによってはじめて、景気循環過程こそ、資本主義的生産がそれ自身の生産力と生産関係の矛盾によって運動する自立的な運動過程だということが明らかになってきたといってよいだろう。

■D■そういう点を確認したうえで、もういちど最初のすべての恐慌に通ずる一般理論が存立するかという問題にかえると、どういうことになるか。

■F■それはもはや存立しえないとみなければならぬだろう。

 というのは、宇野さんのようなかたちで問題を設定すれば、それは、たんに恐慌というよりも、恐慌を一局面とするような資本主義的生産そのものの自立的な運動、しかもその生産力と生産関係の矛盾をみずから解決してはくりかえし再生産するような自立的運動が、資本主義的生産の確立以後の全歴史的発展を通じて、普遍的に存在するか、という問題にならざるをえないからだ。

 たちいっていえば、有機構成不変のままの蓄積と有機構成高度化による蓄積とが恐慌を転換点にして相互に交替しあうような資本蓄積の型が、資本主義的生産の全歴史的発展を通じて普遍的に存在するか、という問題にならざるをえないからだ。

■D■その点、宇野さん自身はどう考えているのか。

■F■宇野さんにとっては、問題はきわめて簡単だ。宇野さんの原理論は、想定された純粋の資本主義的生産の想定された景気循環を解明するものだからだ。

 だから、宇野さんの資本主義は、「あたかも永遠にくりかえすかのように」景気循環を反復することになる。

 つまり、原理論で想定された資本主義にとっては、恐慌ないし景気循環の一般理論は存在するが、現実の資本主義にとってはその世界史的発展段階の一局面、自由主義段階の資本主義においてしか、そういう景気循環の型――資本蓄積の型――は存在せず、したがって後者については、公式マルクス主義者が考える意味での恐慌の一般理論は存立しえないということだ。

■A■宇野さん自身にとっては、そういうことになるだろう。

 だが、原理論で展開される景気循環の型が、現実には、自由主義段階の、しかもその世界的景気循環過程としてしか存在しないとすれば、前者は、想定された純粋の資本主義社会の景気循環とされるのではなく、むしろ後者の、すなわち自由主義段階の国際的景気循環そのものの内的叙述とされねばならなかったわけだ。そしてこうした点は、次のことを考えてみただけでも明らかでなければならなかったろう。

 それは、つまり、①資本蓄積の二形態が恐慌を転換点にして規則正しく交替するための根本条件は、恐慌――不況の過程で固定設備を中心とする既存の生産力が破壊更新される点にあるということ、②したがってこの既存生産力の破壊更新が資本にとってたええなくなるか、または資本がそれを回避するようになると、恐慌――不況の過程で生産力と生産関係の矛盾は解決しえなくなり、原理論で設定された資本蓄積の型はもはや存立しえなくなるということ、③したがって、原理論の資本蓄積論ないし景気循環論は、資本主義的生産力の具体的歴史的発展段階、つまり自由主義段階の綿工業を中心にする生産力の発展段階を、根本前提にしているということだ。

 この点に関連して、いまひとつの点をあげれば、自由主義段階の国際的景気循環過程こそは、資本主義が国内的および国際的に不純な要因――非資本主義的要因――との相互作用の過程としてのみ存在しているにもかかわらず、それらの他の要因との相互作用を自分自身の内部関係に還元しつつ、それ自身の内的矛盾によって自立的に運動するということを、なによりも明白にしているという点だ。

 だから宇野さんは、この点からいっても、原理論を現実の資本主義の内的叙述として設定し、したがってまた当然に、原理論の景気循環論を自由主義段階の国際的景気循環過程の内的模写とせねばならなかったわけだ。

■A■ところが、宇野さんは、主観的には、現実の資本主義から不純な要因を捨てさって純粋の資本主義社会を想定し、それを解明するのが原理論だと思いこんでいるわけであって、そこからたんに恐慌論や景気循環論だけではなく、原理論そのものが、すべての資本主義的生産に、したがってまたそのすべての発展段階に多かれ少かれ一般的に通ずる一般理論、――あるときには近似的に接近されたりあるときにはねじまげられ逆転されたりしながら、しかしともかくも資本主義であるからには一般的に通ずる一般理論――となっているわけだ。

 つまり、宇野さんの原理論の恐慌論も、ヴァルガやメンデリソンが考えるような恐慌の一般理論ではないが、近似的に接近されたりねじまげられたりしながらも一般的に通ずるという相対的な意味で、一般理論となっているとみなければならぬ。

■F■たしかにそういう面もある。だが、そうでない面もある。

■E■要するに、矛盾しているわけだ。

 資本主義の普遍的一般論として原理論があって、それが時間的、場所的に制約されて、特殊的段階論になったり、個別的現状分析論になったりするという俗流的発想法へのつよい傾斜があるという点は、確認しておかねばならぬ。

 宇野さんは、じっさいには、自由主義段階のイギリスを中心にする景気循環を念頭において原理論の景気循環論を展開している。そのかぎりで事実上、宇野さんの原理論の景気循環論は、それの内的叙述となっているわけであり、したがってまた、すべての資本主養に通ずる恐慌の一般理論という俗流的発想法は排除されているとみてよいだろう。

 だが、その点が方法論的に明確にされていないところから、そういう俗流的発想法の余地を残しているとみなければならぬ。

■D■そういう宇野さんの限界からどういう問題がでてくるか。

■E■たとえば、資本主義の矛盾はいつも恐慌として発現し、ただその発現形態やそれにたいする資本の対応の仕方だけが歴史的に推移するという考え方だ。大内(力)さんあたりの恐慌の段階論という考え方が、その典型だ。

 

 <恐慌の段階論か矛盾の段階的推移論か>

■E■大内さんのばあい、自由主義段階から、かれのいういわゆる国家独占資本主義の現代にいたるまで、すべての恐慌の原因は、原理論的な意味での資本の過剰蓄積――労働力にたいする資本の過剰蓄積とそれによる労賃騰貴――にあるわけで、それが独占資本段階になると慢性不況として発現したり、国家独占資本主義段階になると国家の財政金融政策によってなしくずし的に処理されたりするわけだ。

 俗流マルクス経済学の過剰生産説が宇野原理論の労賃騰貴説におきかえられているにすぎないといってよいだろう。

 こういう発想法からでてくる大内さんのもうひとつの特徴は、恐慌なり景気循環なりの世界性がまったく念頭にないという点だ。

 俗流マルクス主義でも、たとえば、メンデリソンのばあいは、少なくとも恐慌なり景気循環なりの世界的連関性がある程度まで追求されている。恐慌がなぜ世界恐慌となるか――その点を根本的に反省するのは、もちろん、かれらの限界外にでる問題だが、ともかくも恐慌は事実上世界市場恐慌としてとりあつかわれており、各国恐慌は、この世界市場恐慌の有機的構成部分として考察されている。

 ところが、こういう点になると、大内さんはメンデリソン以下に後退しているわけで、たとえば、かれは、日本資本主義が明治末期に帝国主義段階に移行した証拠として、1907年の恐慌が日本で慢性不況の様相を呈した点をあげている。あたかも、日本資本主義が独自で1907年の恐慌をまねき、独自に慢性不況に突入したかのような幻想におちいっているわけだ。アメリカ恐慌に端を発する1907年の世界恐慌や、それが世界的にもつ意味を追及し、それとの関連で日本資本主義の不況も問題にするというような観点は、大内さんにはまったく欠けているといってよい。

 要するに、原理論の恐慌論が、すべての時期の恐慌に多かれ少かれ通ずる一般理論となったために、その同じ発想法から、個々の国々の恐慌にも多かれ少かれ通ずる一般理論となってしまい、そこから恐慌の世界的連関牲が問題にならなくなってしまったのだろう。

■B■では、いったい、段階論なり世界資本主義論としては、恐慌はどう解明したらよいのか。

■H■恐慌そのものの段階的推移論としてではなく、資本主義の矛盾――生産力と生産関係の矛盾――の段階的推移論の一環として解明しなければならぬということだろう。

■A■まさにそのとおりだ。

 大内さんにみられるような俗流マルクス経済学への後退は、たしかに宇野さんにその責任の一端があるといわねばならぬが、しかし、宇野さんの原理論の功績は、さっきも確認したように、恐慌を生産力と生産関係の内的矛盾による資本主義的生産自身の運動――資本蓄積の現実的過程としての景気循環過程――の一局面として解明しようとしたことだ。

 他方また、宇野さんの段階論の功績は、資本主義の世界史的な発展段階を、資本蓄積様式の段階的推移によって、したがってまた、それに具体的に表現される生産力と生産関係の矛盾の段階的推移によって、解明しようとした点にあるとみてよいだろう。

 しかも、このばあい、宇野さん自身が自覚しているかどうかは別として、こういう宇野さんの段階論の全体的な性格からみれば、資本主義がその生産力と生産関係の矛盾を恐慌として爆発させ、それを恐慌――不況の過程で解決し、ふたたびまたそれを好況の過程で再生産するような蓄積運動を展開するのは、自由主義段階の「産業資本的蓄積様式」の歴史的特質とされているとみなければならない。

 そしてこれにたいし、「基本的には労働力商品の矛盾、現実的には工業と農業の矛盾、総じて生産力と生産関係のますます拡大する矛盾」という宇野さん自身の言葉にも表現されているように、帝国主義段階の「金融資本的蓄積様式」の歴史的特質は、もはや資本主義がその生産力と生産関係の矛盾を恐慌として爆発させては恐慌――不況の過程で解決するといった蓄積運動を実現しえなくなった点にもとめられているとしなければならない。

 だからこそ、宇野さんの帝国主義段階論の最後は、こうした生産力と生産関係の矛盾が帝国主義的な経済的対立へと発展すること、つまり、帝国主義戦争の経済的必然性の設定をもって、おわっているわけだ。

 要するに、大内さんは、こういう宇野さんの原理論なり段階論なりの積極面を真正面からうけとめるならば、資本主義の矛盾が恐慌として発現し、したがって恐慌――不況として解決されるのは、自由主義段階の特質としておさえ、帝国主義段階には、矛盾はむしろ帝国主義的対立として発現し、それにたいし恐慌や景気変動等々は第二義的な役割しか演じなくなるものとしなければならなかったわけだ。

 じっさい、1870年代以降の帝国主義の段階は、具体的には三つの時期、――1873年恐慌から90年代前半にかけての「大不況期」、1870年代後半から1907年恐慌にかけての金融独占資本の成立期、1907年から第一次世界大戦にかけての世界市場の金融資本的な独占的分割戦の時期という三つの時期にわかれており、景気の様相や資本蓄積の性格や世界市場編成の内容もこの三つの時期ではまったく異なっていて、そういう三つの特殊な時期を次々に経過して最後には帝国主義世界戦争に突入せざるをえなかった点にこの段階の歴史的特徴があるわけであって、こうした歴史的発展にたいし、恐慌や不況はもはやその補足的媒介物としてしか意味をもっていないとみなければならない。

■D■そうすると、大内さんは、宇野さんの消極面ばかりをカリカチュア的に拡大したというわけか。

■H■そういわれても仕方がないだろう。

 独占資本の確立イコール慢性不況という大内さんの固定観念も、そういうところからでてくるのではないのか。

 恐慌からのいわゆる自動回復という問題も、恐慌として発現した矛盾を資本主義は恐慌――不況の過程における既存生産力の破壊と新生産力によるそれの更新を通じて、みずからの経済体制の内部で解決しうるという点にむすびつけて、したがって自由主義的段階の「産業資本的蓄積株式」に固有の特徴として、大内さんは論じなければならなかったわけだ。

 そしてこれにたいし、帝国主義段階の「金融資本的蓄積様式」としては、資本主義はその生産力と生産関係の矛盾を結局は帝国主義的対立として発現せざるをえず、したがって当然にすでにこの段階で資本主義はその矛盾の経済的解決機構――自動解決機構――を失なうとしなければならなかったのだ。

■G■周期的恐慌として発現する矛盾と、帝国主義戦争として発現する矛盾との発展段階的区別がわきまえられていないとすれば、宇野さんの段階論からなにを学んだのか疑問だね。

■F■公式マルクス主義なら、そういう点は、それなりに一貫している。かれらにとっては、資本主義の矛盾の発現はいつでも恐慌だが、恐慌によるゆきづまりを打開するというかたちで、戦争の必然性を説明するのだから。

■G■それでは帝国主義戦争――しかも世界戦争の特殊段階的な世界史的意味は明らかにならぬだろう。

■F■それはそうだ。

 ところで、話は少しそれるかもしれぬが、マルクスのばあいには、恐慌は、「近代的生産力」がブルジョア的生産関係の限界をこえて発達した証拠だと考えられていた。

 だから、かれにあっては、唯物史観にいう生産力と生産関係の矛盾――社会体制そのものの歴史的推移を規定する矛盾と、恐慌として発現するような生産力と生産関係の矛盾とは、直接に一致していた。あるいはむしろ、後者の全歴史過程への普遍化が唯物史観にいう生産力と生産関係の矛盾だとみてよいだろう。

 ところが、それにたいし、過期的恐慌として発現する生産力と生産関係の矛盾が、資本主義体制の歴史的行詰りを示すものではなく、その限界内での矛盾の運動を示す、したがってむしろ体制自身の歴史的存立の自立性を示すものだということになると、それと唯物史観にいう生産力と生産関係の矛盾との関係はいったいどういうことになるのか。

■D■その点と関連するが、宇野さんが原理論の恐慌論なり景気循環論なりによって唯物史観が科学的に根拠づけられるというとき、そういう点を宇野さんはどう考えているのか。

■E■宇野さんのばあいは、問題が限定されている。唯物史観の全命題がそれによって根拠づけられるというのではなく、そのうちの経済的下部構造の自己規定性――上部構造にたいする自立性――が根拠づけられるというのだろう。生産力と生産関係の矛盾による社会体制の推移論そのものがそれによって基礎づけられるというのではない。

■F■それでは、そこまでふくめて――生産力と生産関係の矛盾による体制の歴史的推移論までふくめて――、唯物史観の経済学的基礎を問うとすればどういうことになるのか。

■A■それは、資本主義の生産力と生産関係の矛盾の段階的推移論をもってこたえる以外にないだろう。

 つまり、自由主義段階としては資本主義は、生産力と生産関係の矛盾を恐慌として爆発させ恐慌――不況の過程でそれを経済的に解決する。そしてそのことによって、その歴史的限界というよりは、むしろ歴史的存立の自立性――経済過程の特殊歴史的自立性――を示す。これにたいし、帝国主義段階になると、資本主義は、そういう矛盾の経済的解決機構を失って、それを帝国主義的対立として発現せざるをえなくなる。そしてそのことによって、近代的生産力の発達が自己の生産関係の限界をこえたことを示すというのが、それだ。

 そしてまた、宇野さんの段階論の積極面は、さっきも論じたように、資本蓄積様式の世界史的推移論をとおして、そういう資本主義の生産力と生産関係の矛盾の世界史的推移を解明しようとした点にあるわけだ。

 だから、宇野さんの立場からいえば、唯物史観の命題は、少なくとも資本主義にかんするかぎりは段階論によって科学的に基礎づけられると答えればよかったわけだ。

■F■ではなぜ、宇野さんは段階論をもってそういうように真正面から答えなかったのか。

■E■そこまで突っこむと、こんどは宇野さんの段階論そのものの限界の問題になってくる。

 宇野さんの段階論は、たしかに一面では、資本蓄積様式の段階的推移論による資本主義の矛盾の推移論となっているが、しかし、宇野さん自身は必ずしもそう考えているわけではなく、むしろ、資本蓄積様式なり矛盾なりの段階的タイプ論ないし比較論として設定しているわけだ。つまり、資本蓄積様式なりあるいはそれに具体化されている生産力と生産関係の矛盾なりの段階から段階への推移の必然性の解明が、宇野さんの段階論から排除されている、――あるいは排除さるべきものと宇野さん自身は考えているわけだ。

 だから、宇野さんの帝国主義段階論は、そこで近代的生産力の発達がブルジョア的生産関係全体の限界をこえているという歴史的事実は指摘しえていても、そしてそれを帝国主義段階の歴史的特質として設定しえていても、そうならざるをえない歴史的必然性は解明しえていないとみなければならぬだろう。

 だから、資本主義に限定してみても、宇野さんの段階論のかたちでは、唯物史観の命題は、たんに部分的にしか経済学的には基礎づけることができないわけだ。

 そして宇野さんの段階論のこういう消極面は、まえに議論したように、他方で宇野さんの原理論が想定された純粋の資本主義の永遠にくりかえすかのような運動法則の解明となっていることに対応しているわけだ。

 それにたいし、段階論を、資本主義の矛盾の世界史的な段階的推移の必然性の解明として設定し、原理論をそのおなじ必然性の理論的叙述として設定すると、唯物史観の命題は、資本主義にかんするかぎりは、原理論によって論証され、段階論によって実証されるということになろう。

■A■それが、もっとも根元的な答え方だ。

 しかし、そこまでいくと、唯物史観は、資本主義にかんするかぎりは、科学へと止揚され、先行の歴史的発展や、社会主義社会への展望にかんしては、たんなる史観から科学的洞察へと止揚されるといってよいだろう。

 

 <価値法則の歴史性、法則性と必然性>

■B■ところで、話をもとへもどすようだが、生産力と生産関係の内的矛盾による資本主義的生産の自己運動が、自由主義段階の景気循環過程にのみみられるその固有の歴史的特質で、また価値法則が、そういう景気循環過程をとおしてのみ資本主義生産の現実の運動法則になるのだとしたら、価値法則は、資本主義生産の全歴史的発展段階を通ずるその一般的な経済法則ではなく、その特定の歴史的発展段階にのみ通ずる特殊な経済的法則だということになってしまうのではないか。

 そういう難点を考えるなら、やはり宇野さんのように、一応原理論としては純粋の資本主義社会を想定し、景気循環をあたかも永遠にくりかえすかのように設定して、そこで価値法則を資本主義に一般的に通ずる経済的運動法則として論証するほかないのではないか。

■G■価値法則の経済的運動法則としての貫徹が資本主義の特定の世界史的発展段階――自由主義段階――にのみ固有の特質としてあらわれるということは、特殊歴史的な資本主義的生産の運動法則としてのその特殊歴史性を示すものであって、資本主義の歴史過程のうちの自由主義段階にのみ特殊だという意味でのその特殊性を示すものではないだろう。

 というのは、資本主義的生産が特殊歴史的な社会生産だということは、それが歴史的に生成し確立しまた変質転化するということにほかならぬからであり、そしてまた当然にこのことは、その一般的運動法則としての価値法則も、そういうものとして歴史的に生成し確立し変質転化することを意味せざるをえないからだ。

■A■宇野さんの方法についていえば、宇野さんの原理論の景気循環論は、さっきも論じたように、じっさいには、自由主義段階の景気循環過程の内的叙述になっているわけで、想定された純粋の資本主義社会を解明しているわけではない。

 したがって、宇野さんの価値法則の論証も、じっさいには、自由主義段階でそれが運動法則として確立している局面だけを切りとってきて、その内的解明をやっているものとみなければならない。

 ところが、宇野さん自身は、そういう価値法則の部分的な解明を、それを資本主義に一般的に通ずる経済的運動法則として論証する方法であり、また、歴史的法則を論理的に全面的に解明する方法だと思いこんでいるわけだ。

■D■だが、価値法則が資本主義的生産の特殊歴史的な法則としてそれ自身も歴史的に生成し確立し変質転化するものだとすれば、それをその全体性において解明する方法は、それをその特殊歴史的な生成、確立、変質転化において全過程的に解明する以外にないではないか。

 なぜ宇野さんはそうしえなかったのか。

■A■価値法則をそういう生成、確立、変質転化において全過程的に解明するということは、それを弁証法的必然性において解明するということだ。

 ところが、宇野さんには、原理論は価値法則をその法則性において解明すべきであり、そして法則性は、永遠にくりかえすものとしてしか解明しえず、それが弁証法的解明だという固定観念があった。

 もともと、法則性という概念は、自然科学のものであって、たしかにそれは、時間的には反復性という概念と、また空間的には共通性という概念とむすびついている。

 そしてこういう反復性なり共通性なりが自然科学的な意味での一般性ないし普遍性だろう。

 宇野さんが価値法則をその法則性において解明するというばあい、こういう自然科学的な法則性の概念に依拠しているわけだ。

 だからこそ、それを純粋にとりだすためには、不純な要因を自然科学のばあいの実験室でのように捨て去って純粋の資本主義社会を想定し、あたかも永遠にくりかえすかのようにそれを解明しなければならぬわけだ。

 それにたいし、必然性という概念は法則性という概念よりももうひとつ高い次元の概念であって、反復性なり共通性なりの概念とはむすびつかない。

 というのは、ただ一回かぎりの、またひとつだけの過程であっても、それ自身の内的要因によってのみ過程するかぎりは、必然的だとみなければならぬからだ。

 また、それが法則性よりも次元が高い概念だというのは、法則それ自体の生成、確立、発展転化を問うとすれば、もはやこれは、必然性による解明以外にはないからだ。

 だが、そういう必然性による解明は、自然にたいしては科学的におこなえるものではない。自然を法則性においてではなく、必然性において解明しようとすれば、全宇宙をその全体性において対象とし、その生成、確立、発展転化を問わなければならなくなるからであり、そしてもちろんそれは時間的にも空間的にも限定された人間にとっては不可能な試みだからだ。

 だから、法則的解明は、じつは、全体を全体としてではなく、ただそれを部分的にのみ解明せざるをえない自然科学に固有の方法だとみなければならぬ。

 逆にいえば、真の意味での必然性による解明は、有機的主体――外界との相互作用をそれ自身の内的関係に内部化し、その内的関係によってそれ自身に過程するような有機的主体――の解明にのみ固有の方法なのだ。

 そしてそれが、じつは、弁証法的解明なのだ。

 だから、弁証法的解明は、有機的主体をその生成、確立、発展転化において解明するいわゆる生成の論理とならざるをえないのであって、運動の論理とは決してならないわけだ。

 そして、資本とは、そういう有機的主体――弁証法的主体――だとみてよいだろう。

 というのは、まえにも議論したように、資本は、他の社会関係との相互作用を商品経済関係をとおして、またそれによる労働力商品化の関係をとおして、自分自身の内部的要因――それ自身の生産力と生産関係の矛盾――へと内化し、その内的要因によって発展転化する形態をもっているからだ。

■B■もともと、自然科学と社会科学との方法論的相違を問題にし、弁証法は経済学においてはじめて科学になると主張したのは、宇野さんではないか。

■A■そうだ。そういう問題をわれわれに提起してくれたのは宇野さんだ。

 だが、そうだとしたら、宇野さんは、法則的解明の方法から弁証法的な必然性による解明の方法へと転換しなければならなかったわけだ。

 もともと法則的解明の方法は、資本主義を永遠の自然的生産形態とみなし、したがってまたその経済秩序を自然法則とみなした古典経済学の方法なのだ。それは、歴史的形成体――歴史的主体を解明する方法ではない。

 宇野さんは、段階論にかんしては、法則的解明の方法を捨てているわけだが、しかし、原理論を法則的解明としたことによって、必然性による解明まで捨ててしまい、段階の特質のタイプ的分類の方法になってしまっている。法則牲と必然性とを同一視するものだから、法則的解明が歴史過程にたいして不可能だとなると、必然性による解明も不可能だということにならざるをえないわけだ。

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