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降旗節雄・岩田  弘対談 現代資本主義と宇野経済学 (三)

20世紀をどう総括するか

3.1 生体システムへの接近とポスト資本主義

 

●IT革命、それは生体システムへの接近を意味するか

 

岩田 降旗君は、情報革命、情報化社会のネガティブな側面を強調しているわけですが、それがすべてだとすると、資本主義の終末というだけでなく、人間社会の終末となってしまいます。

僕が強調したいのはその中にポジティブな側面、次の自覚的な共同体を準備するような側面がないかという問題です。結論から先にいわせてもらえば、言語的な情報系をコントロール系とする分散・並列・ネットワーク型の組織は、実は生体システムの特徴であって、九〇年代に始まった情報革命は、生体システムへの接近を準備しつつあるのではないかという問題です。僕がさきほどハイテクデジタル機器の内部構造の特徴やそれによって規定される生産システムの特徴についてくどくどとおしゃべりしたのは、実はこの点に関連していたわけです。

唯物史観を例にとれば、その古典的なの命題の一つは、資本主義はそれ自身の発展を通して次の社会の物質的条件を準備するということでした。マルクスの場合には、この物質的条件とは綿工業における機械制大工業と鉄道でした。ヒルファディングやレーニンの場合には、容器型装置産業の重工業だったとみてよいでしょう。宇野さんの帝国主義論も基本的にはこれに従っています。また一九三〇年代の工業化時代のロシアのマルクス主義者にとっては、それはドイツ型の重工業とフォード型の機械工業でした。

これらの物質的条件に共通する特徴は、いずれも集中大量生産型のメカシステムであり、化学反応システムだという点です。したがってこうした物質的条件を基礎にして社会主義を構想するとすれば、当然に中央集権的な計画経済となります。だからこそ、フランスのコンミューン派のアナキスト共産主義者たちは、第一インターナショナルでマルクス派と執拗に争っていたわけです。また二〇世紀の教訓は、こうした中央集権的な社会主義が「党と国家」の官僚による国家資本主義に転化するということでした。

これに対し、情報革命は、こうしたメカ的、化学的生産力とは異質な生産力を資本主義が初めて次の社会のために準備しつつある、ということでないかと思います。

 

――アメリカですと、遺伝子の問題、人間をいかに商品にするかという研究が、もう八〇年代の中ごろから相当進み始めているといいますが……。

 

●言語的情報系としての生体システム

 

岩田 遺伝子情報の解析やその応用技術は最近のことですが、個々の生物学的知見やその応用なら、人類は採集狩猟時代からやっていたわけですよ。農業社会の中心技術は栽培植物や飼育動物をつくりだす生物学的技術であり、それらの栽培や飼育のための手段として力学的技術や土木技術や天文学的・気象学的技術を応用するということでした。インカの栽培とうもろこしの品種の創出や土木技術などは相当高度ですね。しかしここでの問題は、工業製品の内部構造やその生産システムを生体システム化しうるかどうかという問題です。まだほんの端緒にすぎませんが、前者が後者にどこまで接近しているかという問題です。その点をはっきりさせるために、生体システムの特徴を振り返ってみましょう。僕は生物学についてはまったくの素人で間違っているかもしれませんが、高等動物を例にとれば、その生体システムは、だいたい次のような四つの系の複合体からなる自己組織系、自己進化系となっているんじゃないでしょうか。

第一は、化学反応系ですが、その特徴は細胞や細胞内小器官で行われる徹底した分散・並列型で、エネルギー効率が極めて高いことです。鉄鋼業や化学工業などの素材産業は、高温・高圧の巨大容器と大量のエネルギーを必要としますが、蛋白質酵素を触媒とする生化学反応はそんなものを必要としない高度な化学反応系です。

第二は、力学系ですが、その特徴は、骨格や内臓などに取り付いた無数の筋肉による分散・並列駆動であり、また個々の筋肉それ自体も、無数の筋繊維による徹底した分散・並列駆動となっている点です。

第三は、物質・エネルギーの輸送系ですが、その主役である血液回路は、さきほどのような化学反応系や力学系に対して物質・エネルギーを供給する重層的なネットワークシステムとなっています。

第四は、これら三つの系をコントロールする言語的情報系ですが、これは二つのタイプの言語を使い分けているのではないかと思います。一つは、遺伝子言語系で、四つの文字から成り立ち、その文字の集合体が単語で、単語の集合体が文で、分の集合体が文章となっているアルファベットタイプの言語系です。もう一つは、蛋白質分子の立体構造それ自体が文字であると同時に単語となっており、その受け渡し機構が文としての意味をもっている中国語タイプの蛋白質言語系です。各種のホルモン分子や神経細胞の末端で授受される情報伝達分子などが後者ではないかと思います。

外界の情報や生体内部の情報は、生体の各種センサーを通じて、これらの文字言語に翻訳され、文字言語として解析され、その結果が文字言語として蓄積され、そこから生体をコントロールする文字言語としいて出力されるのでしょう。こうした言語系によるコントロールシステムの特徴は、単一のセンターによる中央集権的なコントロールではなく、分散・並列コントロールの重層的なネットワークとなっている点です。またそうしたネットワークの結節点が集積している箇所が脳なんでしょう。そしてまたこれが、生体内各器官をそれ自身のコントロール機構をもつ独立機能ユニットとして活動することを可能にしているのでしょう。

僕の素人考えでは、だいたいこんなところが生体システムの特徴ではないかと思いますが、それと比較すると今日のコンピュータやデジタル機器の特徴がよくわかります。生体システムとの類似性は、情報の言語的処理系であり、それによるコントロール系であるという点ですが、しかしはるかに低レベルですね。生体言語は、生物が三五億年かけて作り上げた巨大な自己プログラム系、自己進化系としての言語系ですが、コンピュータ言語はそうした性格をまったくもっていません。それにしても現代産業において言語的コントロール系が登場したことの意味は大きいですね。これによって初めて製品の内部構造は、独立機能ユニットのネットワーク的統合体となるからであり、またそれによって生産システムも、各ユニットの分散・並列生産のネットワークとして組織することが出来るからです。各産業の技術的性格によってこれにはいろいろな度合いがありますが、現代技術の基本動向はこうした方向にあるんじゃないでしょうか。

 

降旗 それは人類の知的発展史から言っても、まず近代科学は力学、物理学から始まって、化学の領域に入っていって、さらに生物学に入っていく。生物学の中心構造が今、遺伝子問題になっている。

 

●IT革命は自覚的共同体を準備しうるか

 

岩田 そうですね。その遺伝子問題も、人間の遺伝子の文字列を全部読み取り、単語に仕分けするところまで進んでいるようですね。しかし単語の集合体からなる文と、さらにその文の重層的な複合体からなる文章を読み取るという作業は、まだほんの端緒でしょう。生物が三五億年かけて書き上げた文章ですから、『資本論』やヘーゲル論理学の比ではありませんよ。また生物進化論も、遺伝子の文字列や単語構造の進化論になってきましたね。蛋白質言語の方はもっと大変でしょう。中国語と同じで種類も多く、生物は絶えず造語しますから。いずれにせよ、遺伝子解析の発展によって、生物の本質が自己進化する言語的情報系であり、またそれによるコントロール系であり、それらによって自己進化する物質の秩序系だという点がはっきりしてきたわけです。

農業社会は、生物とその生存環境を人間労働の対象とし、それを人工的に再生産するコミュニティのネットワークでした。これに対し資本主義は力学的・化学的技術を中心とする集中大量生産の産業社会を作り出し、その最後に情報革命へと到達しました。生物の本質が言語的情報系であり、それによるコントロール系であるとすれば、問題は、この情報革命を通じて、産業社会を分散・並列・ネットワークシステムへと再編しうるかどうかにあります。それが産業社会をもう一度生物化する方法ではないでしょうか。比喩的にいえば、産業社会の農業社会化ですが、これが、社会を再び、農業社会のような、自立的なコミュニティのネットワークへと再編するための物質的条件ではないかと僕は思います。

 

降旗 人類の発生史における共同体の構造の変化・発展がそうでしょう。あれはみんな、小さな共同体が結合しながら組織化されてゆく。

 

岩田 共同体のネットワークですね。しかもネットワークのネットワークです。エジプトのファラオの帝国や中国の天子の帝国は、特殊な地理的条件や歴史的条件による例外でしょう。こうした共同体のネットワークを、新たな自覚的ネットワークとして、しかもグローバルなネットワーク、共同体のインターネットとして再構築できるか、という問題です。

 

降旗 結局そこに戻っていく。だから、そういう共同体構造が解体されたとしても、解体された果てにはまたふたたび共同体構造にならざるを得ない。もちろん前と同じ構造じゃないが。

 

岩田 より質の高いね。それが自覚的共同体になり得るかというのが根本問題ですね。この点に関しても情報革命の意味は大きいですよ。それは多数の人間頭脳をリアルタイムで結合し、分業と協業を組織するツールとなりますから。

 

降旗 人類は自覚的共同体をおそらく作りうるだろうと主張するのがマルクス主義だといっていいだろう(笑)。

 

岩田 マルクスの場合には人間の知性に対する一九世紀的な啓蒙主義的信頼であり、希望だったんでしょう。ヘーゲルと同じで。

 

降旗 だけど、そういう共同体が、ほんとうに作れるかどうか、今のところわからない。

 

岩田 それほど人間に知性があるかという……(笑)。

個々人の知性は時間的、空間的に限定されおり、しかも日常生活や日常仕事のルーチンに埋没していますが、それをリアルタイムでグローバルに結合しパワーアップするツールとしての情報革命の意味は大きいですよ。降旗君が心配するように、確かにそれは、若者が日常的な家族共同体の外側に離脱するツールともなりますが。それは成長過程の回り道で大目に見てやる必要がありますよ。僕らの若い頃を考えれば。

この点に関して、メーンフレームを中心とする中央集権的な情報システムと、インターネットやイントラネットで結合されたパソコンやモバイルからなる情報システムとの本質的な違いを確認しておきますと、前者は人間集団に対するシステムの支配ですが、後者は人間集団の分業と協業のツールです。だからこそ後者は、分散・並列・ネットワーク型の生産システムや社会システムのツールともなりうるんじゃないでしょうか。

 

3.2  20世紀をどう総括するか

 

●労働過程の共同性と職場・工場委員会型労働者組織

 

――今までですと、社会主義あるいは共産主義というのがありましたよね。その前に戦争というのがずっとありましたよね。産業資本主義段階だと普仏戦争があってパリコミューン、次の段階では第一次世界大戦があって第二次世界大戦と。また想定されるべき大きな社会変革の前に、プロ独という問題がありましたよね。実際の革命がロシアでおきて、社会主義建設というのが国家の大きなモチーフとして動きましたよね。

 

岩田 その場合プロ独、あるいはもっと一般的に言って、革命を担う大衆的な労働者組織はどういう性格のものかという根本問題があります。一九一七年のロシア革命では「兵士・労働者ソヴエト」が登場し、翌一八年のドイツ革命では「兵士・労働者レーテ」が登場しました。一九八〇年にポーランドで登場した「連帯」も、これに類する組織でしょう。こうした闘争組織は、名称も種々様々で、掲げるスローガンや要求も種々雑多ですすが、大衆闘争が起きるたびに繰り返し出現しています。これらの組織は、社会主義政党によって組織されたものでもなく、また労働組合でもありません。

結論から先にいわせてもらえば、それは、生産過程、あるいはむしろ労働過程における労働者コミュニティが闘争のコミュニティに転じたものとみてよいでしょう。

したがってそれは、労働者大衆の工場、職場への座り込み闘争、より鋭く言えば工場占拠闘争となります。こうした工場占拠型の、特殊な場合には兵営占拠型の闘争コミュニティの連合がロシアの「兵士・労働者ソヴェト」やドイツの「兵士・労働者レーテ」やポーランドの「連帯」だったんじゃないでしょうか。

こうした工場占拠闘争は、その掲げる要求やスローガンがどんなにささやかで控えめなものであっても、事実行為としては、生産過程が資本の生産過程であることの真正面からの否定となり、国家にとっては私有財産的法秩序に対する挑戦だということになります。したがってそれは、闘争主体がそれをどのようなものとして認識していようと、客観的には、あるいは体制にとっては、革命の開始を意味するものとなります。

 

降旗 闘争過程における集団化の問題なんですね。そうなると、人間は絶えず闘争を繰り返さなきゃいけない。で、かなり広い領域で結合されてきたら、次は国際的な対外戦争になる。実際に近代国家は戦争に次ぐ戦争を通してきたわけです。そしてその度に生産力を上昇させてきた。

 ところが、冷戦過程が続いて、共同体の結合はゆるみだし、経済のグローバリゼイションとともに、この共同体の溶解はますます進む。資本の再生産過程が共同体の枠組みをこえて拡大するからです。そこで新たな共同体的結合が求められるが、大体失敗する。

 

岩田 限界はもっと深い内部的なところにありますが、それは後回しにして、そうした闘争組織の根拠は何かという問題をもう少し突っ込んでみましょう。

『資本論』は、資本の生産過程論で、まずそれを労働生産過程一般として、次いで資本の価値形成増殖過程として、二重に考察しています。なぜでしょう。

資本主義の根本特徴は、人間労働力を市場で商品として買取ることを通じて、人間による労働生産過程を資本自身の生産過程――商品による商品の生産過程――として組織している点にありますが、しかしこれによって資本は、労働生産過程の本質――人間集団の目的意識的な、したがって主体的な活動による物質的生産過程であるという本質――を否定しうるものではなく、それに対して資本にとっての価値形成増殖過程であるという役割を押付けているにすぎません。それはちょうど封建領主制が、共同体農民が農業生産の主体であることを否定するのではなく、それに領主のための貢納生産という役割を押付けているのと同じです。両者の違いは、封建領主制の場合には武力的強制がその保障となっているのに対し、資本の場合には商品経済的強制がその保障となっているという点です。『資本論』が資本の生産過程を二重に考察しているのは、こうした理由によるわけです。

この間系をより具体的に言えば、近代産業では、生産過程の基礎単位は工場となっており、労働過程の基礎単位は工場内の各職場となっているわけですが、資本――企業――は雇用した労働者を二つの人間集団に分類し、その一方を労働する人間集団として各職場に配置するとともに、他方を彼らの労働を管理監督する他の人間集団として彼らの上に配置します。

後者の役割は、工場内の労働生産過程が資本の価値増殖過程として効率的に機能するようそれを管理監督することですが、これもまた実際には二重の性格をもつことになります。効率的に機能するということは、出来るだけ少ない労働量、したがって出来るだけ少ない労賃コストで労働対象物を製品へと加工し変形することですが、そのためにはまず第一番に労働者が合目的的な労働主体として労働対象に関係するように技術的にも人間的にも配慮しなければならぬからです。

こうした二重性はいわゆる労務管理論にも反映されています。労働者の主体的な労働意欲を高める工夫と、労働を出来るだけ単純な労働に細分し労働者を歯車やネジのようにベルトコンベアーによって自動的に働かせる工夫です。フォード・テーラーシステムが後者ですが、実際にはこの二つの工夫のあいだの動揺と矛盾になっています。

こうした二重性の背後にあるのは、人間労働それ自体の本質的な二重性です。人間労働は一面では人間身体の物理化学的・生物学的な特定の物質的運動であり、機械や装置や動物などの他の物質的運動によって代替できるものですが、他面ではそうした特定の物質的運動を超えた、人間に固有の普遍的な目的意識的活動となっています。

先ほどお話した労働過程における、したがってその集合体からなる工場における、労働者のコミュニティとは、実はこうした人間労働――目的意識的な活動としての人間労働――の集団的な共同性以外のなにものでもありません。そしてこうした労働生産過程の日常的な共同性が闘争のための共同性に転じたもの、――それが職場・工場委員会型の労働者組織、ソヴェト・レーテ型・連帯型の労働者組織ではないでしょうか。したがってそれは、闘争が終了すると、あるいは闘争の展望がなくなると、ふたたびまた職場・工場の日常的な共同性へと帰って行きます。

一般には、労働者の大衆組織は労働組合だと理解されています。だが労働組合は労働者の賃金利害、労働力商品の販売者としての労働者の利害に即した労働者組織であって、それをめぐる企業との圧力団体的な交渉や闘争を本来の領域としています。その組織原則や組織形態は職場・工場委員会型の労働者組織とは本質的に違っています。

この点に関連して、日本の戦後危機の時代の「産業別労働組合」運動について一言しますと、当時の指導者たちは、それを戦闘的な労働組合運動だと観念していたわけですが、実際にはそれは戦後の大衆闘争の中から生まれた職場・工場委員会型の闘争組織とそれらの共闘であったとみるべきでしょう。だからこそそれは、敗北とともに、企業内の日常的な共同性へと、そしてこれを代弁する特殊日本的な企業労働組合へと収斂していったわけです。

六〇年代末から七〇年代初頭にかけて日本の学園を震撼させた「全共闘」運動も、このタイプに属する組織だたみてよいでしょう。クラス、サークル、ゼミなどの日常的な共同性、コミュニティが闘争組織に転じたものだからです。それは自治会運動や「戦闘的全学連運動」とは異質なものでした。

また逆に、九七年危機以後の韓国の労働者闘争にみられるように、通常の労働組合が、財閥系企業の倒産やリストラを契機にして職場・工場委員会型の工場占拠闘争に転ずることもあります。財閥系企業の労働組合は韓国では特別の地位にある特権的な労働組合ですが、それが職場・工場委員会型の大衆闘争組織へと変質転化することになったわけです。

こうした点からみれば、前号掲載分のところで取り上げた日本企業の「会社社会主義」も、企業にとっては両刃の刃でしょう。それは、職場・工場の労働者コミュニティ――労働過程の目的意識的共同性――を企業コミュニティへと組織し動員している点にありますが、企業がそのコントロールを失い、現場労働者の企業への「ロイヤリティ」を危険に陥れるような事態が発生すれば、韓国と同じように、職場・工場委員会型の闘争組織に転ずる可能性があるからです。

こうした点は、西ヨーロッパ諸国の「共同決定法」や「労働者参加法」などについても、同じでしょう。制度的には労働者側委員の選出は職場・工場単位とせざるを得ませんが、そして実際にはこれは、企業側と労働組合側との代表委員の分捕り合戦、囲い込み合戦となっているのですが、激化する競争戦のなかで企業が再編・リストラや合併・統合などに追い込まれ、企業と労働組合がそれに対するコントロールを失うと、同じような事態が発生する可能性があるとみてよいでしょう。

 

――でも社会運動はね、僕はずっと起こると思うんですよ。だっていろんな抑圧とか、いろんな矛盾がありますから。だけど、いわゆるマルクス主義の社会主義運動は……。

 

●職場・工場委員会型労働者組織とマルクス主義の革命党

 

岩田 いよいよ出てきましたね。こうした職場・工場委員会型の大衆闘争とマルクス主義の革命党との関係が。

まずはっきりしていることは、こうした大衆闘争は、マルクス主義の社会主義運動といったものによって外側から組織出来るものではないという点です。それは職場・工場の労働者コミュニティから生まれる闘争であって、そのコミュニティのメンバーでなければ組織したりイニシアティブを取ることができないからです。したがって一般にはそれは自然発生的とならざるをえないでしょう。

もう一つの点は、こうした大衆闘争の根本限界です。先ほどもいいましたように、それは、事実行為としては、資本主義の根底的な否定となり、国家秩序に対する真正面からの挑戦とならざるをえないのですが、闘争の主体となっている大衆自身は、それを彼らの要望や願望を実現するための手段と考えており、したがって資本や国家権力の譲歩があれば、あるいは闘争の展望がなくなれば、闘争は取りやめにして、日常のコミュニティに帰るからです。

もう一度ロシア革命を例にとれば、一七年三月に決起した「兵士・労働者ソヴェト」は、彼らの決起を戦争の終結と自分たちの経済状態の改善と西ヨーロッパ諸国並みの議会制民主主義の実現のための手段だと考えていました。だからこそ彼らは、「臨時政府」にそれを期待しその実施を迫る応援団の地位にとどまったわけです。そしてロシア社会民主党の左派も右派も実際にはこうした流れの中に埋没していました。したがって仮に臨時政府が直ちに対ドイツ講和と憲法制定議会の召集に着手していたら、この「兵士・労働者ソヴェト」革命はおそらく終息に向ったでしょう。そしてそれが、翌一八年一一月のドイツの「兵士・労働者レーテ」革命で実際に起きたことでした。

こうした点を考えると、レーニンの有名な「四月テーゼ」の役割は大きいですね。その趣旨は、ロシアには臨時政府と「兵士・労働者ソヴェト」という二つの権力が存在する、臨時政府はソヴェトの期待を裏切ろうとしている、ソヴェトは全権力を掌握し、社会主義に向かって前進せよ、ということでしたが、おそらくソヴェト大衆にとっては彼らの意識からあまりにもかけ離れていて理解不能で聞き流しだったんじゃないかと思います。しかし彼の指導する社会民主党左派、ボルシェヴィキにとっては鋭い問題提起であり、党自身の革命と再編のためのテーゼとなったのでしょう。

ロシア革命にみられるこうした関係が、大衆闘争とマルクス主義の革命党との実際の関係ではないでしょうか。

 

●「パリ・コミューン」と「兵士・労働者ソヴェト」、それはどう違うか

 

――社会主義なり共産主義というイメージがあって、そこで実際は政治過程が入ってきて、権力奪取で行くんだという、マルクスも最後はそうなりましたよね。パリ・コミューンで。第二インターをどう評価するかという問題はあるんですが、第三インターになればまた権力奪取ということになったんですが、そのスタイルも、ロシア革命の崩壊以後は見えなくなってきた。旧左翼はまだ議会というのがありますから運動できるんですけど、新左翼は何をやっていいのか。かっては戦争に対する対抗勢力として意義があったんですけど、どうも戦争の性格も、バッとやってすぐ引くという風に変わってきた。

 

岩田 革命闘争についていえば、権力を奪取するという問題ではなく、闘争する大衆自身に自らを権力として確認させ、権力として行動させるという問題じゃないでしょうか。そしてそれをマルクス主義者がどのように手助けするかという問題じゃないかと思います。

政権奪取というイメージは、むしろ議会主義の左翼にとってこそ、相応しいものでしょう。選挙で多数を取り、近縁の諸政党と連合して政府を組織するというのが彼らの運動の目的ですから。しかし、大衆闘争と大衆革命は、これとは本質的に異なる直接行動の世界です。既成の国家権力を奪取するという問題ではなく、自ら革命権力として行動するということではないでしょうか。それは、代議制民主主義の政治闘争とは組織原理や行動原理が本質的に違っています。一つの組織が両方の役割を演ずることは不可能でしょう。

議会主義の左翼諸党派の皆さんには大いに頑張ってもらって政府危機や政治危機を作り出してもらうことではないでしょうか。それが彼らに出来る最大限だからです。しかし、マルクス主義の革命的左翼は、議会主義左翼の真似をして社会主義やマルクス主義の看板で人集めするような無力な運動をすべきではなく、それよりも職場・工場のコミュニティや地域のコミュニティの中に入り、大衆とともに、しかし大衆よりも一歩先を見て運動すべきではないかと思います。

パリ・コミューンの話がでましたので、それとソヴェト・レーテ型、職場・工場委員会型の大衆組織との違いを確認しておきましょう。後者は職場・工場の労働者コミュニティ、より抽象的に言えば、資本の生産過程における労働過程の共同性が闘争組織に転じたものですが、これに対し前者は、まだ生産過程と生活過程が混在していた古いタイプの地域コミュニティが闘争組織に転じたものとみてよいでしょう。それは、パリのセクション、下町のコミュニティの伝統的な共同闘争組織で、フランス大革命のときのサンキュロット・コミューンの闘争以来、革命のたびにいつも登場して大活躍してきました。またそれは、第一インターナショナルでマルクス派と争ったフランスのアナキスト共産主義者の拠り所ともなっていました。一八七一年のパリ・コンミューンの決起はその最後の輝きでした。それは、ベルサイユの国民政府――ナポレオン三世の逃亡後直ちに国民議会の総選挙で成立したフランスの正規政府――に対してパリの権利を主張し防衛するという旗印のもとに結集したいわば自治体権力でした。だからこそ、それは、フランスの他の諸都市に対して同様の決起を呼びかけただけで、大革命のときの、国民議会を背景にするサンキュロット・コミューンのように、ベルサイユに向って進撃しなかったわけです。マルクスのパリコミューン論は、その組織基盤とその性格を明らかにしこれらの点を追及していないという点で、批判的に再検討する必要があります。

こうしたタイプのコミュニティの闘争でまだ僕らの記憶に新しい大事件は、一九八〇年のイラン革命の勃発でしょう。それは、パーレビ国王の石油キャピタリズムによる近代化路線に対して爆発したイスラム・コミュニティの一斉蜂起でした。その結果として成立したのは、国民選挙に基づく正規の大統領、国民政府とイスラム革命委員会との二重権力体制ですが、それは今日までも続き、いくつかの衝撃的な事件を生み出す母体となっています。オーソドックス・マルクス主義は、かってのマルクスの場合と同様、こうしたコミュニティ革命のダイナミズムを理解できないようですね。

ここでまた視点を換えて、日本の地域コミュニティの運動をとりあげてみましょう。

いまでもいろんな運動がやられてますね。ゴミ処理問題だとか、教育問題だとか、福祉問題だとか、生協運動だとか、環境運動だとか。

これらの運動は、かってのパリコミューンのときのパリの下町のコミュニティやイスラムコミュニティとは違い、生産過程の外側に押し出された市民生活領域の運動となっています。家族共同体も、この領域の中に入っています。日本では、農村や古いタイプの商店街や下町の町工場地帯を除けば、すでに大部分の生産過程は企業の内部領域――資本の生産過程――となっているからです。しかし、その外側に取り残された市民生活の領域ではあっても、人間生活は何らかのコミュニティなしにはやってゆけないというのが、これらの運動の基盤ではないでしょうか。

 

●地域コミュニティ運動は何を目指すか

 

降旗 そういう形でのコミュニティも、戦争の側圧を受けながらだと、これはできます。だけど、第一次大戦、第二次大戦が終わって、次に第三次世界大戦が起こるかというとそれはありえない。起こるのは、局地戦争でしょう。だいたい経済のグローバル化とともに、矛盾が局地にしわ寄せされて、宗教問題・民族問題という形をとる局地戦争が起こりやすくなる。局地戦争に対応するようなコミュニティというのは古い共同体の復活であって、新しい共同体はなかなか出にくいでしょう。

 そうするといま岩田君が言ったように、協同組合になる。柄谷行人なんかもそうでしょう。しかし協同組合というのは、結局一種のニッチなんです。隙間です。つまり大企業が支配する隙間に発生する小回りのきく共同体です。でも隙間で拡大していっても、それが次の体制となるということはあり得ない。こういう共同体はだから絶えず出てくるんだけど、あまり永続しないで崩壊していくという形になります。

 

岩田 降旗君の言うように、確かそれはにニッチ、隙間ですが、少なくともその組織者にとっては、隙間に根拠地を作り、そのチェーンを作っていけば大企業や中央政府に対する反撃の拠点、その根拠地作りになるんじゃないかという思いがあるのでしょう。

 

―― 大江健三郎の小説によく出てきますね。

 

降旗 それは絶えず出てくる。出てくるとは思うけれど、それが今のグローバル化し、IT化し、すさまじい生産力を上げていく資本主義に代わりうるものになるかというと、僕は無理だと思う。

 

岩田 もちろん大企業の生産過程を押さえなければ、資本主義に代わるものにはなりえませんが、柄谷さんたちの思いは、その外側の市民社会の内部にそのための闘争拠点、根拠地を作れないかという問題でしょう。それにこれらの地域運動は、いわゆるカンパニア型の派手な運動ではなく、地域の日常的な共同性に依拠した運動です。

しかし、こうした運動も、生協のように、その内部に売買行為や経営活動を抱え込むと、自分自身の内部に矛盾をもつことになります。市場経済の激しい競争の中では、生協といえども、その経営管理組織がきちっと確立されないと経営体としては維持できないからです。またそうすると生協の管理機関が資本主義的管理機関として機能せざるをえないという問題が発生するからです。

 

――生協はもう、資本主義の実践になっちゃってますよ、最近は。

 

岩田 それに関連する問題として、生協の法人化の問題がありますね。法人の場合には、組合員や組合員出資者ではなく、法人が生協の売買行為やそれに伴う債権債務関係の主体、生協の施設や手持ち商品の所有権の主体、要するに商品経済的な所有権の主体となり、生協の機関は、こうした商品経済的経営体としての法人の機関となるからです。つまり、生協の設置目的、組合員の生活協同組合としての生協と、商品経済的経営体としての生協とが、互いにバッティングする二重物とならざるをえません。

こうした矛盾は、経営者が逃亡し労働組合などが資本主義的企業の経営権を握った場合にはさらに鋭い問題となるでしょう。同じ労働者集団が労働者としての役割と資本主義的経営者としての役割とを、二重に演じなければならぬからです。

 

降旗 農協だって、賀川豊彦の時は違っていた。しかし今は農協なんか、自民党の下部組織でしょう。

 

岩田 そういうことですね。しかし農村の場合には、かなり崩れていますが、なおまだ生産過程と消費過程とが家族共同体のなかで結びついており、それを基盤にする伝統的な村コミュニティが残っています。自民党は、農協さんと村コミュニティの利害を代弁するというコマーシャルで両方を丸抱えにして彼らの投票基盤にしているのでしょう。だがそれも解体が進んで、だんだん無力化していますね。

さきの生協の矛盾に話を戻しますと、生協運動の組織者に問われているのは、そうした矛盾を矛盾として確認し、それを運動のダイナミズムに転化することではないでしょうか。ドライにいえば、生協は、矛盾に満ちた運動体としてしか存立し得ないということです。

この点に関連して一言すれば、こうした矛盾は、いわゆる「市場社会主義」が存立可能かという問題にも通ずる大きな問題です。市場の原理と社会主義の原理は異質であり、絶えずバッティングせざるをえないからです。

一般には、資本主義的所有権の主体は、私的個人、法的に言えば「自然人」だと理解されていますが、資本主義的所有関係の実体は、商品の売買権であり、それに伴う商品の使用権です。したがってその真の主体は、商品によって商品を生産する資本主義的企業、法的に言えば、商品経済的経営体としての「法人」です。『資本論』は、この問題を、価値の自己増殖的運動体としての資本と資本家との関係として論じています。資本が主人公であり、それに目や口がついた代弁者が資本家にすぎぬというのが、それです。このことは、資本主義的な私的所有権の主体、いわゆる「エンティティ」は法人としての企業であり、それを代弁するものが誰であろうと、例えば、アメリカのようにサラリーマン経営者であろうと、日本のように従業員の親分衆であろうと、社会主義者や労働組合の活動家であろうと、公務員や官僚であろうと、客観的には資本家として機能する、ということを意味します。このことは、生産手段の国有化等々によっては生産経営体の資本主義的性格を廃棄することはできない、ということを意味します。だからこそ、「市場社会主義」は、社会主義の理念と、現実の資本主義的経済関係との鋭い矛盾とならざるを得ないわけです。中国共産党に問われているのは、この矛盾を社会主義に向けてのダイナミックな運動へと転ずることですが、それを彼らは、「中国の特色ある社会主義」として強弁しています。すでに実質的には資本主義の党――共産主義を看板にする資本主義党――へと変質していると見なければならぬでしょう。日本のジャーナリズムや業界、官界、政界の間抜けさは、中国と現実主義的な商売に乗り出しながら、いまだにその看板を真に受けている点にあります。

 

 

●現代資本主義は政策的改良の対象となりうるか

 

―― 柄谷批判も出たところで、そろそろ金子先生に対する批判でも伺いますか(笑)。

 

降旗 金子君は、基本的には現代の資本主義の構造を前提にして、それはものすごい矛盾を持っていて、至るところでほころびをつくりだすと考える。でも彼はそこにセイフティネットを張れるということを繰り返し言っているだけのような気がする。このシステム自身を変革するとは言わずに、地方の分権化だとか、個人年金の改正とか、そういう提案を繰り返しているだけだ。要するに現代資本主義のほころびに対してセイフティネットを張ることが必要なんだ繰り返して言っているに過ぎないような気がする。

 

―― 基本的には、彼はポスト全共闘世代という世代性もあって、やはり大きな物語に対する夢というのがないわけです。これは僕らも共感せざるを得ないわけでして、九〇年代後半からのいまの局面においては、保守派のリベラル左派的なところまで含めた戦線で、森政権までのどうにもならない状況に対して風穴をあけたいというのがあったと思うんですね。今もあると思うんですが。

 金子さんは『情況』掲載のこの講演でも言っているように、いたるところに顔を出して喋るわけです。『世界』、『諸君』、『唯物論研究』、そして『情況』にも出るという形でやっているわけで、はじめから彼は社会主義、共産主義のスタンスを取っていないことははっきりしている。

 

岩田 どういう立場からやっているのでしょうか。評論家としての立場からですか、客観的な分析者としての立場からですか。

 

―― 基本的には混合経済であって……。

 

岩田 いろいろな提案を出している。誰に対して出しているのでしょうか。ターゲットとする特定の集団なり組織があるとすれば、それらをどのような方法でどのような方向に誘導していくかという政治戦略なり組織戦術なしには現実的な提案とはなりえないはずですが。

 

降旗 いやむしろ、彼はそれでいいと思ってるんでしょう。

 

岩田 ……。

 

降旗 でも彼としては、現代の体制に対する有効な戦術的展開はそれ以外にないんだと言っているのです。

 

岩田 なるほどね。

 

降旗 現代では新しく、壮大な体系を出しても無意味なんだ。無意味なことをするよりは意味のあることをやった方がいいだろうというのが彼の論理です。

 

岩田 それで意味があるんでしょうか。ご苦労様ですね。

 

降旗 僕は、全共闘運動を経た世代はそういうふうになるのはある意味では当然だという感じがする。ただ非常に気になるのは、そうは言いながらも彼は経済学者です。そうすると、宇野さんの言葉を借りればさ、資本主義に対する原理的な認識とか、あるいは、資本主義の歴史的な発展に対する段階論的把握とかいうものを持たずにプラクティカルな提言だけをやるわけにはいかないと思う。そのことを彼に問い詰めていくと、彼はそれは自分には関心がないと言うでしょう。そんなことはやりたい奴が勝手にやっていろ。そんなことをやっても現実に意味がないんじゃないか。意味のあるのは、自分のように、みみっちいとしても具体的な戦術なり、弥縫策なりを、現実の場で提案していくことだ。そういうふうに考えてるんじゃないですか

 

―― そうですね。彼自身、宇野理論を大学院生時代に徹底的にやっていた人ですから……。

 

降旗 要するに金子君の問題は、段階論の否定にあると思う。原理論については殆ど考えていないでしょう。

 

―― 岩波から『市場』という薄い本を出して、ある種の原論的な見解を披瀝はしていると思うんです。あれを読んで、あんまり面白いとは思わなかったですけど、彼なりには自己決着はついてるんだという意識はあるんだと思うんですね。

 

岩田 中途半端な立場からものを言うよりも、むしろ、真正面から資本主義の立場に徹して、今日の資本主義に何が問われているかを鋭くドライに描き出すほうがよいと思いますよ。資本主義自身にそれが抱えている問題を語らせることです。マルクスの場合には、それが経済学批判としての彼の体系、『資本論』でした。

 

―― 国家の政策の比重が大きいところで考えている。セイフティ・ネットというのはそこから出てくる考えでしょう……。

 

降旗 それは、大状況的に言えば、社会主義圏の崩壊ということが前提になってくる。つまり、大情況の物語を作って実践したところで、社会主義革命というのは結局皆失敗したじゃないか。

 だとすると、弥縫策と言われようが、ちまちました戦術と言われようが、改良主義を積み重ねていくことにしか意味はないと考えているのでしょう。

 

岩田 僕は社会主義運動や、社会主義を看板にする党や国家に対してもさっきいったようなドライな批判が必要だと思います。失敗したというのは、本当はどういう社会主義だったのか、その内実はなんだったのかというクリティークですよ。それなしには社会主義の再生はありえないからです。殊に新左翼の場合には、トロッキーや第四インター系の文献をかなり読んでいましたから、それほどソ連や中国を信用していなかったはずです。彼らにとっては、七〇年安保闘争や全共闘の挫折のほうが大きいんじゃないでしょうか。共産主義の党を自称していましたが、実際には、急進民主主義の突撃隊でしたから。

 

降旗 いや根本的な、それはやはりオーソドックスなマルクス主義者でも、あるいは新左翼でも、やっぱり基本的にはソヴィエトや中華人民共和国は社会主義社会だと見ていたんじゃないですか。そこのところが、彼らにとっては問題になってくる。もちろん今になって、それはどういう社会主義だったかと言われば、代々木だって否定すると僕は思うよ。あれは本当の社会主義ではなかったとか言い出す。だけどその時は新左翼だってそうは言っていなかった筈です。

 

岩田 いろいろな限定詞をつけていましたが、宇野さんもそうだったですね。騙されたのかな(笑)。

 

降旗 宇野さんの世代は、ロシア革命でインパクトを受けて、マルクス主義に関心を持った世代ですから、それは当然ですよ。

 

―― ちょうど二十歳のときにロシア革命が起きているわけですからね。

 

降旗 そう。あの世代はみんなそうです。だから、深刻なリアクションが出てくるのは当然だという感じがする。

 

岩田 社会主義に対する幻想の崩壊が根底にあるわけですかね。ドイツ人なんかもっと酷いですよ。社会主義や共産主義を看板にする党派に騙されたのは、日本人はせいぜい戦後危機の時の一回ですが、ドイツ人は三回ですからね。一八年十一月の「労働者・兵士レーテ革命」の時には軍部と結託した社会民主党のノスケに騙され、二三年危機の時にはコミンテルンにおもちゃにされ、挙句の果てにヒットラーの「民族社会主義ドイツ労働者革命」に騙されて戦争に駆り出されたのですから。ソ連・東欧社会主義も含めてそれが二〇世紀の特徴かもしれません。議会政治闘争の圧力団体運動のコマーシャルとしてならともかく、二〇世紀の社会主義運動の根底的な批判と総括なしには、体制の廃棄を目指す社会主義運動は復活しないでしょう。しかしそれにはかなり時間がかかります。おそらく一世代はかかるでしょう。

 

―― 柄谷氏は柄谷氏なりに、生協運動みたいなことアレンジで、人文学的に修飾して引きつけようとしているんですけど……。

 

岩田 柄谷さんの場合には、市民生活の領域、消費者運動の領域から大企業の支配に対抗するんだという思い込みがあるんでしょう。

 

降旗 地域通貨とかも同じようなものでしょう。

 

―― それはそれでやればいいし、金子さんのように現実的な対案も出す。竹中平蔵大臣に対案を出せばいいんじゃないかと……。

 

岩田 竹中平蔵大臣も大変でしょう。

 

降旗 それは、こちらの大きな物語の信者から言わせてもらえば、解体しつつどうしようもなくなっている資本主義に対して、急速な解体を押しとどめる方法を提案しているだけのことという感じなんです。

 

―― そうかもしれないですけれど、システムによって大衆は食べて生活しなきゃいけないわけですから、代案がないところで、システムが危機だと言って喜んでいるわけにはいかない。

 

岩田 強大な抵抗勢力がある代案を誰が出すのですか。代案を直接国民大衆に突きつけて二者択一を迫る国民投票や国民投票的な総選挙で決着をつけるという政治手法は、ドゴール、サッチャーの得意とする政治手法でしたが、それがジャパンの首相にやれますかね。やったら面白いんですが……。僕はジャパンの資本主義をからかっているんですよ。

 

―― 金子さんは資本主義を……?

 

降旗 いや、逆でしょう。彼らは最終的には、資本主義以外に、現在の、あるいはさらに高まりつつある生産力を合理的に処理する方法はないんじゃないかと思っているのでしょう。ただし、それはいくつかの弱点、あるいは綻びをもっている。そこを補修していけばいいと考えているということになります。彼らの考え方を突き詰めていけば。

 

―― そうですね。そこは個人差はいろいろあると思いますが、それしかない、あるいはそれでいいんだ、あるいは、いま代案がないんだから時間つなぎでそういう面にも対応するんだとか……。

 

降旗 そこまで出てくるのは単なる個人的な信念とか趣味の問題というんじゃなくて、僕はやっぱり歴史観の問題だろうと思うんです。

 

―― いや、それもあるんですが、僕ら三〇代、金子さんの四〇代くらいの感覚で言うと、もう若い人に通じないわけです。大きな物語一般ということではなくて、中身がないのに社会主義と言っても。

 

岩田 社会主義の理念や念仏で人集めをするというのは、セクトの運動じゃないですかね。そんなもので大衆闘争が起きたことは一度もありませんよ。また今日の若者が大きな物語に無関心だといわれますが、本当にそうなんですか。少し人間の頭脳を低く見すぎているんじゃないでしょうか。

テレビだってときどきビッグバン宇宙論や、銀河系や太陽系の生成物語や地球の生成物語や環境問題などやっていますよ。マルクスの時代からみれば、人類の知見は飛躍的に拡大し、日常的な常識になっているんじゃないでしょうか。

環境問題は大きいですね。それは誰がみても、イデオロギーに関係なく、地球と人類との関係や人類の生存を問う問題となっていますから。宇宙の始まりからとは言いませんが、それは少なくとも猿から出発して今日にいたる人類史の総括を要求する問題ではないかと思います。

ヘーゲルの哲学体系は、絶対精神を主語とする体系となっていますが、実際には、古代オリエントから出発して一九世紀初頭の彼の時代にいたる人類史の総括でした。また一九世紀中葉の産業資本主義の時代を踏まえて、それを批判的に再構成したものがマルクスの唯物史観でした。二〇世紀後半の現代資本主義が提起した今日の環境問題は、それをはるかに上回るスケールでの人類史の総括を要求しています。

こうした人類史的総括に対し、資本主義の世界史的総括や、その組織原理の原理論的総括は、その基礎的作業となるでしょう。それは、今日の到達点から人類史を大きく振り返り、現代社会の人類史的地位を確認する基礎的作業にほかならぬからです。

ヘーゲル的に言えば、こうした総括は、人類の自己認識ですが、そういうスケールの大きな人類の自己認識、人類としてのアイデンティティの確認に今日の若い人たちが無関心だとは僕は思えないのです。むしろ問題は、彼らの知的好奇心を刺激する僕らの方法にあるんじゃないでしょうか。

 

降旗 要するに、これまでの社会主義の理念ないしイデオロギーがだいぶ薄汚れて、見捨てられてきている。マルクス・レーニン主義も科学的社会主義も使い古されて誰も信じなくなっている。それは確かにそうだと思います。現代の社会主義はそういうのじゃだめなわけでしょう。

 

岩田 社会主義の理念やイデオロギーの影響力が少し過大評価されているのではないでしょうか。それが人々の心にある程度浸透していてそれが裏切られたというのではなく、旧ソ連や中国が社会主義を自称していて、一般には、それが社会主義だと理解されていたわけです。だから、その実態が明らかになるとともに、そのコマーシャルも薄汚れてきたということでしょう。したがって、問われているのは、ソ連や中国の具体的、歴史的な意味解析や総括であって、マルクス・レーニン主義の教科書やエンゲルスの「空想から科学へ」などは取り上げる価値もないのではないかと思います。

 

――社会主義圏というか、スターリン主義というか、これもかなりひどいことをやってたんじゃないかという印象があるんですが……。

 

降旗 いやだけど、そこにも僕は問題があると思う。バイカル湖の汚染や中国の公害問題に示されるように、環境問題、公害問題は既成社会主義圏でも噴出している。これはさっきから言っているように、自動車社会以後の世界的現象です。産業革命以後、石炭を使うことにより局地的な部分的な汚染は発生しましたが、やはり、石油を大量にくみ上げて、自動車で廃棄ガスを撒き散らして、CO2汚染とか、オゾン層の破壊とかが出てきたのは基本的に第二次大戦以後です。

 いま岩田君は旧社会主義圏ではコミュニティーを保存すると言ったけれど、それはまだ耐久消費財量産型以前の社会がずっと続いていたわけですから。中国なんか、いまものすごい勢いで汚染されています。これはプライベートな企業じゃなくて、国家経営の企業体が多いともっとひどくなってしまう。環境破壊という点では社会主義体制も同じだと思いますよ。

 大体八千年くらいの歴史ですよ、われわれの歴史というのは。農耕が定着したのはその後です。七、八千年以前から通貨はあったんだというけれど、農村共同体が出てきて、そこに市場経済が少しづつ走り出す。それ以前のことはどうでもいい。農村共同体が定着して、農耕文化が発達するというのは、八千年以前、資本主義化してきて今の状態になったというのはそのうちの高々三百年か四百年です。

 その歴史を考えてみたらいい。人類が意識的に、農業を中心として、再生産を共同体的に行うようになって定着し、徐々に国家を作りだして発展してきて、現在にいたる。その八千年の中で、高々三百年か四百年の中で市場経済が、癌細胞のように膨れ上がって、全面的に支配するようになった。それがいまや地球的な環境問題を起こすまでに至っているわけでしょう。それをどうするかという問題です。それに対して、今のシステムを前提にして弥縫策を提出するだけというのは、僕はやっぱり、非常に問題があるという気がします。じゃあお前は何をやっているかと言われたら困りますけれどね。殆ど何もやってませんから(笑)。

 

―― だから、何をしても意味がないということで、でも何かこう、脅されるような議論をされても、若い人はもういいよという感じで聞く耳を持たなくて、活字も読まなくなっちゃう。活字くらい読んで、デモくらい行くという社会的雰囲気をまず作らないと、その先もないんじゃないですかという感じですよね。そこまで来ているというのが、学生と接していて……。

 

降旗 確かにものすごい勢いでそういう社会的意識も分解されつつありますね。それが今のIT社会の一つの特徴だと思います。

 

――戦争と恐慌がなくなったというか、なかなか発現しないというのがおかしい現象なんじゃないかと思うんですけれども……。

 

降旗 それは確かにそうでしょう。

 

―― さっき第二インターと言ってましたけど、確かに一八七一年の普仏戦争から、一九一四年の第一次大戦まで、ヨーロッパで大きな戦争はないんですよね。だからまさに第二インターというものが、修正主義とかになった。この先また、恐慌も戦争もずっとないのかというと、それはわからないとしか言えない。

 

降旗 大戦争がなくなったということが一つですよ。新左翼セクトは帝国主義戦争反対と言うけど、帝国主義戦争はないだろう。だって帝国主義戦争というのは帝国主義国どおしの闘いです。そうすると日米戦争か、ヨーロッパとアメリカの戦争か、日本とアメリカの戦争ということになりますけど、それはないだろう。まあ、旧社会主義圏との小競り合いはあるかもしれませんが、これは帝国主義戦争じゃない。そうすると帝国主義戦争は起こりえないことになる。

 それから、今は不況だと言いながらも、しかし、学生と話していると、フリーターをやえれば十五六万円は稼げる。そうすれば、コンビニやユニクロで安い商品を買って、マックで食っていれば、生活はしていけるという状態でしょう。

 

岩田 なるほどね……。新左翼セクトが帝国主義戦争反対というのは、急進民主主義の戦闘集団だという彼らの存在証明でしょう、それを絶えず叫んでいないと組織が崩壊するわけです。それはまた、彼らが資本主義の廃棄を目指す社会主義者の集団ではないことの存在証明ともなっています。

 

降旗 今は経済はグローバル化していますから、衣料も食糧も途上国から安い商品が入ってくる。そうすると、不況で職を失い追い詰められたと言っても、昭和初期のような追い詰められ方ではない。

 ということになると、非常に生活でも社会意識でも切実性を欠きますね。しかも、僕は何人も知ってるんだけれど、フリーター的な仕事をやって、半年くらいで少しお金を蓄積して、後の半年くらいはインドに行ってくるということも、できないことはないわけです。そうすると、本当の意味で社会的に追い詰められるということはなかなかない。しかも意識としては、家族とか、濃密な共同体というのはどんどん解体していって、それこそ友人も異性も瞬時にメールでつながる。社会がこういう構造になってくると、人間は定着せず浮遊しながら生きていけるでしょう。非常に変な社会ですね。こういう社会は今まではなかったと思う。

 そこで新左翼でも旧左翼でも、オーソドックスなアジをやったところで人は集まらない。それは当然だと思います。

 ただしかし、非常に奇妙な回路を通して資本主義の矛盾は発言している。それが非常にわかりにくいということです。

 

――アメリカ社会というのは意外と、先生が言われたような面を持っていますよね。生活費がものすごい安いんですよね。ある程度の収入で生きていける。

 

降旗 そう言われていますね。だから今でも三パーセント台の失業率でしょう。だけど非常に流動化した労働者は多くなって、実質賃金は下がって、賃金格差は開いてきているんです。といってホームレスがあふれるような形にはなかなかならない。安く生活できますから。

 

―― ただ、何のために生きているのかという感じにはなってくるんだと思いますよね。すぐ首を切られるようなギスギスした雇用関係で、消費生活も切り詰めた安い生活ですよね。いろいろな不満が鬱積していて、変な爆発の仕方をしてくるんだと思いますね。

 

降旗 電車の中でわけのわからない喧嘩が発生するとか、小学生が意味もなく殺されるとか、そういうことですね。アメリカでもそうですけど、治安が悪くなってくる。だけどそれは体制批判にはなかなか行きにくい構造をもっている。

 

―― マルクスが『資本論』で力説しているように、資本主義が自然なるものだと思っている限りは批判できないわけですよね。社会主義に移れるんだよという意識があるから批判できるわけで、社会主義に移行したらもっと酷くなるという実例を知ってしまったわけだから、じゃあやっぱり資本主義は、自然なるものかどうかは知らないけど我慢するしかないんだという意識は、そうとう今は強いと思いますね。

 

――マルクスのやったことは、資本主義の批判をしたこと。これはいつの時代でも必要なわけですよね。政治的にプロ独と言うかどうかは別にして、資本主義批判というのは一貫してやっていかなきゃいけないわけですよね。そこはずっと継続していかないと話にならないのでは……。

 

降旗 ただマルクスの場合は、資本主義批判も、非常に輪郭がくっきりしていたわけです。三大階級であり、周期的恐慌であり、貧富の格差の拡大であると、非常に対象ははっきりしていた。そうすると代案が出しやすいわけです。労働力の商品化を廃絶すれば矛盾がなくなるという、『空想から科学へ』の論理です。だけど今はそんな単純な構図が信じられる時代じゃない。対象としての資本主義もものすごく複雑になってきていますし。問題も入り組んできている。それに対する対抗の図柄も非常に描きづらくなっている。だけどそれはやらなきゃいかんでしょうね。

 

●21世紀に何を残すか

 

――今までのとちょっと違うんですけど、二一世紀にマルクス主義の何が残るのかという問題です。資本主義があるかぎり資本主義批判は絶対に残りますよね。これは残さなきゃいけないし、発展させなきゃいけない。情況の先月号で、フォイエルバッハテーゼの精神が残るかどうなのかという特集をやったんですけど、あとは価値形態論が残るのかどうなのか、これをもう一回やりたいと思います。二〇世紀にはマルクス主義の歴史的な意味がずっとあったのは間違いないわけですが、二一世紀になると、マルクス主義自身も、再検討してリニューアルしないといけないんじゃないのかなと感じているんですけれども……。

 

降旗 そうだと思います。マルクス主義の二一世紀版をきちんと作らないとだめです。僕はそういう意味では、『空想から科学へ』を中心とするエンゲルスのものはほとんど駄目だという感じがしますよ。というのは、彼の扱っているのは、一九世紀のイギリス帝国が、綿工業で世界を支配している構造の中で出てきた資本主義の基本矛盾であり、それを対象にして社会主義の陰画を描いているわけです。マルクスの『資本論』は全く違います。同じように一九世紀イギリスの資本主義の発展過程を素材としたといっても、彼はエンゲルスのように資本主義の歴史的発展過程を追跡しようとしたわけではない。そうではなくて、資本主義構造の論理を体系的にたどろうとしたのです。この点、岩井克人というひとの『貨幣論』などひどいものです。現代の資本主義こそ純粋資本主義に近いなどと言っていますが、資本主義が自由主義政策をとらない限り、純化傾向などありえないことさえわかっていない。

 もちろん、エンゲルスの『空想から科学へ』の科学的社会主義を下じきにしたマルクス・レーニン主義の歴史観ももはや使えない。『資本論』を正確に理解しないという点では、岩井氏もマルクス・レーニン主義者も全く同じです。

 

岩田 マルクス・レーニン主義というのは、レーニン死後の分派闘争でスターリンが持ち出した旗印、いわば党派闘争のセクト的なコマーシャルだったのでしょう。マルクス主義という言い方自身も、第二インターナショナル時代の社会民主党の労働運動のコマーシャルでした。それと、マルクス自身のマルクス主義とは、あるいは宇野さんを引き合いに出せば、宇野さん自身の社会主義とは、異質じゃないでしょうか。普遍は残りますが、党派的なもの、セクト的なもの、イデオロギー的なものは残らないでしょう。また残すべきものでもありません。

 

――マルクスも、マルクス主義と言われちゃ困るみたいな台詞がありますよね。

 

降旗 非常に大まかに言うと僕は、資本主義の原理的な批判というのは、きちんとできていると思うんです。宇野原論による訂正を念頭におけばそれはかなり高度な水準だと思います。だから僕はそれは今後も維持されると思う。

 ただね、今までのマルクス主義の理論体系の中で問題なのは、共同体とか、国家論に大きな欠落があるということです。レーニンの『国家と革命』などは、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』で論理を構築していますが、僕はあれは駄目だと思います。国家論を再構築しないといけない。

 それは共同体論とつながる。『家族・私有財産・国家の起源』なんて非常にいい加減なものだと僕は思います。資本主義で一夫一婦制が出現するが、これは本当ではない。社会主義になってあらゆる社会的規制から解放されると、本当の一夫一婦制ができるという。しかし社会主義社会で本当の一夫一婦制が出るかどうかは、何の保証もない。家族は本当に一夫一婦制がいいのか。僕はあれはかなり不便なものじゃないかと思いますけど(笑)。

 『経済学批判要綱』でアジア的・古典古代的・ゲルマン的共同体を扱っていますが、ほんの僅かでしょ。あれを素材にして大塚久雄さんが捏ね上げた『共同体の基礎理論』なんてかなりいい加減なものです。

 

岩田 マルクスが共同体の問題にぶつかっているのは、森林盗伐法なんですね。土地に対する農民の自然的な正義――共同体的な権利――と同じ土地に対する私有財産の正義とがバッティングしているという問題です。これを彼は、当時の彼の立場、ヘーゲル法哲学の立場からは、それをいかに急進的に解釈しても解くことが出来なかったわけです。彼は、この問題にグルンドリッセの先行形態論でも、『資本論』の原蓄論でもまだ充分に決着をつけていませんね。

 

降旗 初期にやって、次に、グルントリッセでやっているのは、労働力商品の問題が出てきて労働力商品は、結局、共同体が解体して出てくる。そうすると共同体とは何かというのでちょっとやってるだけなんです。

 それと、官僚制の問題なんて全然手をつけていないでしょう。ウェーバーの方がやろうとしています。そんなに成果は上がってないかもしれませんけど。

 だから、マルクス主義の中で残るものと、われわれがどうしても補強しなければいけないところとを整理しないといけない。

 

岩田 グルンドリッセでは、土地をめぐる共同体と共同体武力との関係、共同体武力と国家武力との関係が追求されていないんですよね。だから簡単にヘーゲルのシナリオにはまり、古代オリエント国家――発達した共同体国家の一種――を「総体的奴隷制」と規定したりするわけです。アジア的・古典古代的・ゲルマン的というのは、もともとヘーゲルのシナリオ――ゲルマン的なものに市民社会の種を見つけようというヘーゲルのシナリオ――です。ゲルマン共同体の理解ではマルクスはかなりこれに引っかかっています。晩年になるまでその痕跡が強く残っていますね。

ところで『国家と革命』について一言させてもらいますと、これはロシア革命の最中に急遽執筆されたもので、ちょうど同じ時期に執筆された「迫りくる破局、これとどう戦うか」における国家独占資本主義論とセットになっています。つまり、「兵士・労働者ソヴェト」の権力を確立し、資本主義の戦時統制経済のコントロール機構を頂戴して社会主義に向って前進せよ、という当面の実践的プログラムの理論的権威付けとなっているわけです。先に取り上げた「四月テーゼ」と比較しますと、そのものズバリではなくて、余計な理論的おしゃべりや理屈がついているという点で、教養あるロシアマルクス主義の実践家としての彼の面目躍如というところですね。僕は、そうした教養的なおしゃべりのために、返って直面する事態のドライな分析とその特徴のシャープな解析がボケてしまっていると思いますよ。

 

降旗 『国家と革命』はエンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』の抜書きみたいなものです。

 

岩田 僕はせっかく『国家と革命』で革命政権の歴史的モデルとして七一年のパリコミューンを持ち出すのなら、それと彼の眼前にある「兵士・労働者ソヴェト」との質的相違や情況の相違を明確にするのが、革命家としての彼に問われている第一番の仕事だったと思います。両者の同一性を確認するのは、区別を明確にするための予備作業にすぎません。区別を追及し確定するという肝心要の革命家としての作業を彼はやっていないですね。

この点に関してもう少しおしゃべりさせてもらいますと、こうした作業をやっていないことが一七年一一月の革命政権樹立の際に重大問題を引き起す結果となっているんじゃないかと僕は思います。当時ペトログラードに駐在していたアメリカのジャーナリストのジョン・リードの現認レポートで「世界を震撼させた一〇日間」とかいう本があるでしょう。革命政府の穏健さを誉め称えてそれを弁護しているわけですが、これが問題ですね。

レーニンを首班とする革命政府の第一声は、農民による地主貴族の土地没収の事後承認と、銀行の国有化による生産と分配の労働者・人民統制です。『資本論』のどこかに銀行システムは社会の一般簿記だという意味のことが書いてあるんですが、それを真に受けて、銀行を国有化しそれを革命政府の司令塔にすれば、生産と分配の労働者・人民統制が可能だと考えたのでしょう。だがハイパーインフレーションとなり貨幣システムと銀行システムが崩壊しつつある当時のロシアの現状では、こんな政策は絵に書いた餅でまったく無力です。問われていたのは、「兵士・労働者ソヴェト」による工業原料・燃料・食料などの重要物資やそれらの輸送網や工場の直接掌握でした。

これは根本的には、レーニンがソヴェト型大衆組織の真の性格を明確にしていなかったことによるものでしょう。ロシアで成立した二重権力状態とは、臨時政府と「ペトログラード兵士・労働者ソヴェト代表者会議」との二重権力状態ではなく、兵営や戦線における将校と兵士ソヴェトとの二重支配状態であり、また工場・職場における企業の管理機関と労働者ソヴェトとの二重支配状態でした。まさにこの点でそれは、パリの下町コミュニティを基盤とするパリコンミューンとは本質的に違っていました。したがってロシアで二重権力状態に革命的に終止符を打つということは、たんに臨時政府を打倒し革命政府を樹立するということではなく、兵営や戦線では兵士ソヴェトの全一的な支配権を確立し、工場・職場では労働者ソヴェトの全一的な支配を確立し、彼ら自身を革命権力として自覚させ現実に行動させることでした。そしてこれは、「兵士・労働者ソヴェト」による工業原料・燃料・食料などの重要物資やそれらの輸送網や工場の直接掌握と接収以外にはありませんでした。こうした革命権力としての大衆行動なしには、「兵士・労働者ソヴェト」は大衆自身にとっての存在意義を失い、形骸化し、やがて消滅することは必然でした。

もう一つの重大問題は、革命政府の政治基盤を拡大するために臨時政府派の人々に入閣工作をはじめたことです。これは革命政府が「憲法制定議会」の選挙による正規政府の成立までの過渡的な臨時政府であるという立場をとることを意味します。こうした革命政府の日和見政策のために政権樹立とともにロシア国民経済の崩壊はさらに加速し、翌年の四月に選挙で選出された「憲法制定議会」を革命政府が武力解散したことがをきっかけとなって全国的な内乱が始まったわけですが、このときにはすでに「兵士・労働者ソヴェト」の実体は消滅しており、名前だけとなっていました。

こうした日和見政策のために、「兵士・労働者ソヴェト」は、その政権樹立とともに存在意義を失い実質的には崩壊を開始したわけですが、この崩壊は「マルクス・レーニン主義党」の重大な責任問題だと僕は思いますよ。ロシア革命のダイナミズムを殺したのは実際には彼らですから。ドライな言い方をすれば「兵士・労働者ソヴェト」革命の裏切りといわねばならぬでしょう。この点ではトロッキーも責任を免れません。ツァー国家の将校や官僚を管理者や指揮官として任命する後の戦時共産主義政策――工場の全面的な国有化政策や物資の国家的徴発政策やこれにさらに加速されたハイパーインフレーション等々――は、その当然の帰結でしょう。

その一世紀余り前に世界を震撼させたフランス大革命――内乱と革命戦争を闘いぬいたフランス革命政府と革命軍――とは大違いです。それと比較すると実に惨めでみすぼらしい革命となってしまったわけです。僕はロシア革命を評価する場合いつもフランス大革命を物指しにしているのですが、こうしたロシア革命が後にスターリン派によって神話化されたマルクス・レーニン主義党の「大社会主義革命」の実態だったんじゃないでしょうか。実際には「党と国家」の官僚による国家資本主義への転落です。教養あるロシアマルクス主義の歴史的悲劇でしょうか。

レーニンの本は、有名な著作だけを抜き出して読むよりも、特定の時期を集中的に、パンフレットのようなものも一つ残さず、総ざらいに読んだほうが面白いですよ。時々刻々と変化する情勢に対して、教養あるロシアマルクス主義の革命家としての彼がどのように対応してゆくか、その苦悩と動揺が滲み出ているからです。彼のマルクス主義的教養と現実とがいたるところでバッティングしています(笑)。

 

降旗 至るところで相反することを言い出すわけです。状況によって何とでも言える。日共なんかそれをよくやるでしょう。都合のいいところをレーニンから抜いてきて自己の政策を権威づける。

 

岩田 レーニンの『帝国主義論』ノート、読んだことある? あれは百四十冊ぐらいの文献を大急ぎで読んでいるんですけど、マルクスがスミス、リカードの古典経済学を勉強したのとは質が違いますね。

 

降旗 『帝国主義論』を書くのに一年もかかっていないでしょう。マルクスとレーニンでは才能が全然違うんです。マルクスは鈍い。十年とか三十年とかかけて成果を積み上げてゆく。レーニンはものすごい早分かりの秀才です。

 

岩田 秀才学生のレポートの下書きみたいなものですか。第一次大戦前夜にレーニンが熱中していたのは、例のロシアブルジョア革命の二つのコース論、ロシア農業近代化のプロシャ型コースか、アメリカ型コースかという問題です。第一次大戦の勃発は実際には彼にとってショックだったわけです。だから一四〇冊も本をかき集めてにわか勉強したのでしょう。なかには日本人の留学生のペーパーもありますよ。第二のショックは、一七年の早春、ロシアで「兵士・労働者ソヴェト革命」が勃発したことでしょう。これは、彼の党派、ロシア社会民主党ボルシェヴィキ派にとってもショックだったはずですが、急進デモクラットとしての対応がその大部分でしたね。教養ある秀才マルクス主義の革命家としての彼の対応は、これらのショックから始まると僕はみているのですが。

 

降旗 レーニンはものすごい秀才です。日本でいえば東大法学部出身のエリート官僚、例えばいいだももみたいな人でしょう(笑)。これに対してマルクスは非常に鈍い。

 

岩田 マルクスの場合には、本を読んで頭にインプットしたやつを、自分で馬鹿正直にコツコツと解体・再編成して自分自身のシナリオにしてしまっている。ヘーゲルも同じですね。他人の書いた本は彼自身の世界認識のための材料や道具にすぎぬわけです。

 

降旗 もちろんエンゲルスは大変な秀才で、非常にまとめ方がうまい。うまいけれども、何か薄っぺらいという感じが否めない。

 

―― 『ドイツ・イデオロギー』はだいたいエンゲルスが書いたというけど、本当にそうなのかなというのが不思議なんですよね。後期の『家族・国家・私有財産』の文体と、『反デューリング』の『自然哲学』でも、全然違うんですよね。これは口述筆記かもしれないなと(笑)。

 

降旗 だから一般にマルクス主義という場合に、どの文献に依拠するかによってすごい違いがある。

 

岩田 マルクスの『資本論』の最初の草稿、「グルンドリッセ」で面白いのは、書き出しの出発点が、ダリモンの金廃貨論に対する批判になっていることです。ダリモンの金廃貨論は、恐慌のときにフランスからロンドンへ金が流出する、それがフランスに恐慌の災厄をもたらすというわけです。金廃貨論はかなり古くから恐慌のたびごとに出てくる。なにもケインズが発明したわけではないんですよね。

世界市場恐慌のたびごとに出現して絶対君主として猛威を振るう世界貨幣としての金、この金の廃貨を主張するダリモンに対して、マルクスはその必然性を論証するという課題をみずからに課し、商品、貨幣、資本の展開を通して資本の生産過程論を開示するという『資本論』体系の基礎的方法を、このグルンドリッセで作り上げたとみてよいでしょう。

こうした点は、『資本論』体系が何を眼前にして構築されたかを示すという点で実に面白いですね。ポンドやドルの金決済停止の意味解析にも通ずる問題ですよ。

 

降旗 岩井克人の『貨幣論』なんか、いくら読んでも、何で資本主義になると金本位制になったのかわからない。しかし、歴史的には資本主義が成立するとみんな金本位制になるでしょう。そして一九三〇年に崩壊しますね。そうすると、金本位制の成立にも、その崩壊にも何か必然性があったはずでしょう。そのなぜかというのがまったくわからない。彼は、はじめたらそんなもの要らない。貨幣は流通の間に出てくればいいというだけのことですらか。だから非常に不思議ですね、貨幣の本質がわからない貨幣論、価値形態論の本質がわかっていない貨幣論が流通して、それに対する根本的批判をあまり見うけない。

 

岩田 さて最後に一言させていただきますと、さきほどの二一世紀にマルクス主義の何が残るのかという問題ですが、若いときにマルクス主義を学び、二〇世紀のいくつかの世界史的ドラマを目の当りにみてきた僕らの世代に問われているのは、二一世紀のために二〇世紀の総括を残すということではないでしょうか。それなしには、またそれを通しての人類史の総括なしには、社会主義の再生はありえませんからね。

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