(2)マルクス派貨幣論の陥穽

マルクス派経済理論は、言うまでもなく資本論に基本的に依拠して展開されており、貨幣論もその範に洩れるところではない。

資本論は、商品からその相互の価値表現の高次化を通じてその極点に一般的等価形態と貨幣形態を説くものとなっている。いわゆる価値形態論の論理構成にほかならないが、その内実は、拡大された価値形態(第二形態)の転倒によって、拡大された価値形態における相対的価値形態の位置を占めていた商品が一転一般的等価形態の位置を占める、これにて一般的価値形態生成が説けたのだとするものであったが、しかし拡大された価値形態はすべての商品について生じる価値表現であることを踏まえると、すべての商品の拡大された価値形態に転倒が施されれば、すべての商品が一般的等価形態の位置を占めることが出来ることとなり、一般的等価形態が特定の商品に独占的に与えられることが論証できない構造となっていた。

交換過程論を接続させても、商品所有者も同じアポリアに逢着して、マルクスも苦し紛れに「考える前に行いあり」などというレトリックに逃げ込まざるを得なくなっている。

資本論が拡大された価値形態を転倒しうる根拠としていたのは、商品の価値実体=抽象的人間労働が価値表現の両極に立つ商品に体化されていることを冒頭から前提したためで、宇野弘蔵はこの前提を廃棄し、純粋の価値形態の展開として価値形態論を再構成した。

一般的等価形態は、拡大された価値形態をそれぞれの個別商品がもち、その交錯の中から、共通の等価形態=一般的等価形態が生成するとした。

しかし本当に拡大された価値形態の交錯の中から共通の等価形態が生成するのだろうか。ある任意一つの商品の拡大された価値形態に着目してみるならば、この商品自身は自らの価値を自分の現身で表現することは定義上ありえず、自らの拡大された価値形態の等価形態商品の列の中には位置を占めることはない。つまり、この任意の商品は自ら展開する拡大された価値形態の等価形態商品列の中には存在しないのだから、他の商品の同様に展開する拡大された価値形態の等価形態の列と照らし合わせたとき、他の等価形態の列の中には含まれて入るが、自身の等価形態の列に含まれておらず、すべての等価形態の列を横断的に見たとき、共通の価値表現=一般的等価形態とはなりえないことがわかる。この商品は任意であるから、すべての商品は一般的等価形態の位置を占めることが出来ない。

つまり一般的等価形態の位置を占める商品は存在しない、ということが帰結されるのである。

これを解決するには、最初から自らは価値を表現することのない特別の商品を無媒介に前提するほかないが、これは貨幣を前提に貨幣の生成を解く循環論証そのものとなるだろう。

 

文章にすると錯綜して分かりづらいが、図式的に表現してみると一目瞭然である。商品がn種類あるとして、その拡大された価値表現は以下のように表せる。太字で下線の付してある商品は空位を示している。それ自身は自分の等価形態の列に含まれていない。

相対的価値形態        等価形態の列

C1     → C1 C2、C3,   ・・・ Cn

C2     → C1 C2、C3    ・・・ Cn

 ・

Ct     → C1,C2、・・・Ct・・・・ Cn

 ・

Cn     → C1, C2,C3,   ・・・ Cn

 

このn個の拡大された価値形態のすべての等価形態の列に共通に含まれる商品は存在するか?

明らかにC1は含まれない、C2も同様、以下順次消し込まれてCnまでたどり着くと、すべての商品C1,C2、・・・ Cnがいずれも共通に含まれていないことが証明された。つまり一般的等価形態は存在しない。よって価値形態論は誤っている。(QED)

 

 以上のことは、例えばすべての選挙権保有者が立候補し、自らには投票しない大統領直接選挙になぞらえるだろう。この立候補者相互はまったく区別がつかず、全く同じ政策を提言しているとしようか。この選挙の結果で、一人の立候補者が得票を独占するようなことが偶然以外に生じるだろうか?それが生じるのは、ある立候補者が他のすべての候補者と区別され、素晴らしい誰もが納得するような政策提言の持ち主で、かつその人物自身は誰にも投票しない場合に限られる。つまりこれは最初の仮定に大いに矛盾する。大統領になるような人物がただ一人いるから、大統領になるのだという循環論を持ち込むほかこの選挙に決着をつけることは不可能だ。

 

(結論)

商品、貨幣、資本が順次前のものから生じるという体系構成に立つ資本論ならびにそれから派生したマルクス経済学は、最初から躓いている。よってマルクス経済学は体系的に無効であり、その貨幣論を資本主義の分析に適用することもまた誤りである。

(敗者復活戦)

では、百歩譲って商品の価値表現から一般的等価形態=貨幣形態がどういう訳だかわからないが、生じるとしよう。さて我々が現実に毎日目の当たりにしているありふれた商品を眺めてみよう。マルクス派の前提に従えば、この商品にも価値という属性が備わっているはずだ。であれば、当然商品は商品同士で価値表現の関係に入らなければならず、そこから「必然的に」特定の商品が一般的等価形態として選ばれる価値形態論の過程が進むはずで、そうなれば、我々は商品から貨幣が生じる事態にも立ち会うはずだが、そうはなっていないようだが、一体どうしてなのだろうか?何かこの過程を抑圧するまだ我々の見知らぬ過程「X」が介入しているのだろうか、今度はさらなる困難を呼び寄せることになってしまうのではないか。

この困難を回避しようとして、商品から貨幣が生じるという論理とは別建てに、商品売買の債権債務関係を代位表現する手形から銀行券さらには不換銀行券が「説きうる」などとする「新解法」も提起されているようだが、これらの人々の「純粋資本主義世界」なるものの内部では真正手形だけが流通しているようで、一方的に貨幣債務を創造する金融手形なるものの場所はないようだ。その伝で行けばもちろん政府紙幣も流通する余地はないことになる。さてアメリカ独立戦争や南北戦争時の政府紙幣は流通しなかったのだろうか。現実は大いに流通して、それだからこそインフレも引き起こしたのだが、こういう現実は「原理」とは別次元なのだという都合のよい逃げ口上で切抜けるのだろう。そうして、きっとまた次なる「新解法」が何十年かをかけてひねり出さるに違いないが、残念ながらそれに立ち会うことは到底かなわないだろう。

 

 

(最終的審判)

 では、貨幣は何から発生したのだろうか?この問い自体が間違っている。貨幣は商品と同時にそこにあったのである。そうして現代の貨幣は国家が計算単位を決定し、租税納付として受け入れることで成立している。見たままの通りである。Xは必ず何者かから生じている、その根源をたどると、世界全体は神の創造物である、というキリスト教的世界観の拉致内からマルクスは一歩も出ることはできなかった。