4.17MMTオンライン学習会 事後報告

                    2021.4.27 矢沢国光

 

 2021年月21日(日)、武蔵大学の主催にて、現代貨幣理論(Modern Monetary Theory、MMT)をめぐるオンライン・シンポジウムが開催されました。

4月17日の学習会では、このシンポに参加した青山(世界資本主義フォーラム運営委員)の報告にもとずいて、MMTについて学習しました。[司会(矢沢国光)14時-16時30分]

 

 [1]青山報告

●青山報告

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●報告者・青山の補足

 本日のフォーラムで提起された疑問点について、思いつく範囲でかつ記憶のフレッシュなうちにお応えしておきたいと思います。
 前もって申し上げたいのは、別に以下の私の見方は、とくにMMTの著作だとかを参照してのものではなく、合理的な経済主体を前提にした思考実験によるものであることです。

 表題に関してですが、MMTの想定では、財政ファイナンスにそのままつながってしまうのではないのか、と北原さんから提起されたと思いますが、まずはその点について。

 本日の資金循環図式で説明しているのは、あくまで赤字国債の売却は政府と民間銀行の取引(プライマリーディーラを加えても本質的な変更はない)であって、中央銀行はただ民間銀行準備と政府国庫との間の入出金(口座振替)を担当しているだけであること、すなわちこの限りでの国債の入札自体に利潤機会を見出す主体ではありえないことを確認しておきます。

 とすると、国債の中央銀行の直接引き受けに中央銀行自身はいかなるインセンティブを見出すのか。国債がプライマリーディーラーの参加する入札市場で消化されるなら、中央銀行がそこに出張っていく積極的な理由はないでしょう。国債の中央銀行引き受けが生じるのは、政府がプライマリー市場で国債の買い手を見出すのが困難な時であって、政府の所望利率では消化できず、逆に極端な高利でないと(国債価格は低下)買い手
を見出せない、このことがまずは生じていると考えざるを得ない。しかし中央銀行が民間銀行と同じく利潤動機で行動しているとするならば、民間銀行が引いてしまう条件で応札するとは考えられない。突き詰めて言えば、利潤動機はわきに置いておいて、政府の財政資金を供給するというまさに政府の銀行としての行動に基づくものとみるほかはないのではないか。

 MMTは中央銀行について、そこまで強い仮定は置いているのではなく、単なる口座振替業務という黒子役以上の役割を持たせていないのではないか。財政ファイナンスに直ちに接続するような仮定は置いていないように見えます。財政ファイナンスまで行き着かなくても赤字国債が循環的に自己ファイナンスしていく構造を示すところにMMTの眼目があるのではないでしょうか。もちろん現実の中央銀行は、日銀が典型的なように、実質財政ファイナンスに踏み込んでいる、政府の銀行としてふるまっているのは見た通りです。
 それは中央銀行が「今や」利潤追求する民間経済主体ではなくなっていることの表現と思われます。かつてのイングランド銀行の株主はロスチャイルドなど最大手銀行で構成されていましたが、その時代でも「最後の貸し手」として、単に利潤動機だけで動かされる民間銀行とは一線を画す位置にあったのではないか。中央銀行の独立性なる観念は、かつてはともかく、今やいずこに。具体的に上げれば、現代においては均衡財政を金科玉条にしているブンデスバンク一行のみになってしまっている。それが可能なのは、ドイツは自国生産性に
対して割安なユーロに乗って、有効需要創出策に頼らず、輸出ドライブで(近隣窮乏化策)で国内GDPの成長をこれまで実現してきたからではないか、と考えております。

 [2]参加者(13名)による自由討論(主たる発言を、以下に記します)

●北原徹

 MMTの本を2冊読んだ。ケルトン『財政赤字の神話』と望月慎『MMTがよくわかる本』。ケルトンの本で印象深かったのは、MMTが当てはまるのは「通貨主権国」で、それには次の3条件がある。(1)不換通貨の発行、(2)固定相場ではない、(3)財政赤字が自国通貨建て債務で賄える。「主権通貨国」という概念は、「主権通貨国」であるかないかの2分法ではなく、強・中・弱という連続的な広がりを持つ(スペクトラムになっている)もので、完全な「主権通貨国」の例として、米英日加豪の5カ国を挙げている。

 私も武蔵大シンポに参加したが、シンポの参加者がケルトンの言う「通貨主権国」のスペクトラムという概念を全く理解していないと言う印象を受けた。途上国のことを持ち出してMMTを批判していたが、これはMMTに対する理解不足。

 私は、MMTにシンパシィを覚えたが、その理由は、これまで財政赤字の増加、国債の累積、財政ファイナンスに危惧を抱いていたが、これまでの日本の状況を見ると、このまま続けても、無限には無理だが、当面は大丈夫だと思うようになったからである。

 もう一つ。MMTは裁量的財政政策を支持していない。MMTの財政政策は、公共事業等の裁量的支出ではなく、ビルトイン・スタビライザーの一種であるジョブ・ギャランティ・プログラムという完全雇用政策であり、最低賃金の政府雇用で失業者を雇用し、民間のより高い賃金の雇用が増えればそちらに回ってもらう、という政策。

 

●小栗誠治

(1)MMTの「統合政府論」と中央銀行の役割

 MMTでは、国家として中央銀行を含めた「統合政府」を想定しており、中央銀行は国家の1機関に過ぎず、単なる「政府の銀行」としてしか認識されていない。このため、中央銀行の最も重要な役割である「銀行の銀行」に対する認識が相対的に乏しく、中央銀行が“in the market”でバンキング業務を行っているとの認識が不十分である。統合政府論に依拠して貨幣論を議論することは適切であろうか。

 

(2)政府紙幣と中央銀行券の本質的相違

 (1)とも関連するが、MMTでは、政府の発行する政府紙幣も中央銀行の発行する銀行券も区別されずに両者とも国家貨幣として取り扱われているため、両者の本質的な相違が見落とされている。

 政府政府紙幣は、同じ通貨であっても、信用(債権・債務)関係の有無、発行が外生的か内生的か、行政行為かビジネス行為かといった点において、中央銀行券とは全く質が異なる。

 政府紙幣の発行は、信用関係の中で生成、消滅する信用通貨の基本原則を破るものであり、歴史を大きく元に戻すものといえよう。

 

(3)「信用貨幣に基づく内生的貨幣供給論」の明確化が必要

 MMTの抱える貨幣論の問題点を克服し、「信用貨幣に基づく内生的貨幣供給論」を明確な形で成立させる1つの方法は、MMTにおける貨幣供給の在り方を見直すことである。その鍵となるのは中央銀行の位置付けとその業務形態にあると思われるが、詳細はここでは省略する。

 

●小林穣治

(1)MMTと財政拡大論の二つ、同じものとは思えない。

 ラーナー等は、かつてMMTは政府紙幣論であり、タックス・ドリブン・マネーとも言っていた。要は、政府紙幣による支払いが、租税によって政府に回収されるので、政府紙幣が貨幣として流通する、というのである。政府の信用力(徴税力)によって保証されたものが貨幣として適切というのである。現在の先進国中央銀行による、国債の引受ないし購入による財政ファイナンス方式(いわゆるケインズ方式)を、MMT理論で説明することが適切か、疑問が残る。なお、これは、中央銀行の定義や独立性ともからみ、多くの論点を残す。

(2)政策論として、コロナ下での救済支出等、財政支出拡大は不可避であり、それを否定することはできない。それは、いくら支出が必要であり、どのようにファイナンスするかを議論するべき問題である。MMTにしたがってインフレが起きるまで支出を拡大できる、といった一般論にすりかえるべきでない。

 なお、議論の印象では、中央銀行は「政府の銀行」であり、「銀行の銀行」は過去の話、ないし誤った認識である、という主張が秘められているのかもしれない。歴史認識を含めて検証する余地はあるが、これは貨幣論総体の検討の問題となる。

 (3)国債債発行による財政拡大、低金利だから可能である。金利が将来上がらないとは言えないし、低利借り換えが続く保証はない。長期金利まで政府がコントロールすることが適切かを含めて、議論の余地がある。ゼロ金利で無期限に借りられるとしたら、モラルハザード不可避だが、それほど起きていないようでもある。実際には、低格付け債等の増大で、モラルハザードが起きているのかもしれない。アメリカでは去年の春や今年も、金利上昇の動きで、市場の混乱が報道されている。株価水準もかつては時価総額がGDPの100%前後であったのが、200%になっている。コロナ後でも低金利が持続する、とは言い切れないであろう。

(4)報告資料等からは、MMTの「実施」は国際収支不安のない先進国の一部に限られている。為替リスクや国債資本移動の問題がある。この意味で、貨幣論として、MMTをどこまで一般化できるかに疑問がある。

 

●司会(矢沢)

「政府紙幣と中央銀行券の区別が不要」と言うことについてはどうか?

 

●青山雫

現在は、政府紙幣と中央銀行券の区別は、つかない。中央銀行は、原理的には、商業信用を基盤とする中央銀行だが、「商品-貨幣-資本」という貨幣論を、私は採らない。今日、商品が貨幣を生み出してはいない。

マルクス経済学の貨幣論は、生産過程での労働の交換を媒介するものが貨幣で、その頂点に立つのが中央銀行であるとする。これは、現実の銀行のオペレーションではない。だから、マルクス経済学の貨幣論は採らない。

 

●小林襄治

 MMTは、財政ファイナンスをすべきだ(しても問題ない)と主張している。

 

●北原徹

MMTは「表券貨幣説」つまり、納税には政府紙幣が必要であることから(タックス・ドリブン)、政府紙幣が市場取引で幅広く使われるようになる、ということ。その政府紙幣をベースに、中央銀行や銀行システムが乗っていると考える。

 

●青山雫

MMTは、「資金循環」としては、成立しているが、財政ファイナンスを直接主張しているわけではない。

 

●北原徹

中央銀行と政府が一体化した「統合政府」という考え方。

 

●青山雫

中央銀行が直接政府から国債を買うわけではない。民間銀行が政府から[政府の口座にマネーを振り込んで]国債を買い、その国債を[民間銀行の口座にマネーを振り込んで]中央銀行が民間銀行から買う。だから、信用創造が2倍行われる。

 

●小林襄治

 2倍になるか?

 

●北原徹

[2倍になるという]数量の問題と言うより、2階建てになっている、ということ。第1段階で、租税支払手段であることで貨幣となる国家紙幣[MMTはこれを通貨と呼ぶ]を国家が発行して、支出する。その上で第2段階で、発行された国家紙幣をベースに銀行預金が経済の中で貨幣として機能する。これがMMTの考える「租税貨幣論」だ。

 

●青山雫

「租税貨幣論」については、私はよく理解していないが、租税だけではなく、財政による有効需要の創出が、大きいのではないか。

 

●五味久壽

(1)「岩田弘も原理的MMT」という青山氏の議論は、経験した時期が違う岩田さんには妥当しない。岩田さんは、中央銀行が締め上げるべきだという考えが強かったし、福祉国家論にも賛成していなかった。MMTは、ゼロ金利が継続されている現在の歴史的局面の中で、その政策目標を根拠づけるべく現実の一面を強調ないしデフォルメしてとらえて主張しているものと思う。岩田さんも晩年現実はいつもそれまで予測されなかった方向に変わるものだと言っていた。

(2)北原氏が「最近MMTにシンパシーを感ずるようになった」と言われたが、コロナ下ではそれ以前とは大きく社会のムードが変わったと思う。

(3)中国のデジタル人民元が「一帯一路」とワクチン外交とともに登場するかもしれない。それが大きな変化を生む可能性もある。

 

●岩田昌征

質問

(1)MMTは、政府通貨での納税を義務とする経済社会を想定している。すべての経済主体・生産者が納税を拒否する「国家なき経済社会」活動が出現したら、どうなるか?

(租税を徴収する)国家は昔からあったわけではなく、17-18世紀に出現した。

(2)「租税は物価の調整手段」、「債券は金利の調整手段」とはどういう意味か?

 

[3]青山の補足文書

(1)新型コロナ支援策

簡単に言おう、これはキャッシュフロー危機対策なのである。売り上げが減って、収入が減って、今月の家賃が支払えない、食費もままならない、従業員の給料が出せない、仕入れが出来ない、教育費に回す余地がない、云々云々。よって一刻の猶予もない。だから国民ではない、日本に住居している人口すべてに一人頭10万円が支給されたのは当然の措置であった、またその一部しか支出に回らなかったのも、全くの想定内である。全額13兆円支出して、人口の例えば5%の人々の生活破滅を回避したのである、それはこの支援策の巧まざる狙いだった。事業持続化資金もしかり。いちいち細かく精査して、本当に必要な世帯、経営に対してだけ支給すべきだというのは机上の空論である。そのために1年もかけていたら、その間に食い詰める人、自殺する人、夜逃げするしかない経営者が続出するのだ。

今また、第三次の緊急事態宣言発出。いよいよにっちもさっちも行かなくなった飲食経営者、小企業、困窮世帯の奔流で世はなすすべもなく押し流されることだろう。もう外形標準で支援金をばらまくしか策は残されていない。一人頭いくら、売り上げや従業員数単位でいくら、機械的にやるしか時間は残されていない。ひとまとめ50兆円を「薔薇マーク」である。そのうち0.1%が不正受給するものが出てもやむを得ない。5,00億円は必要コストである。これをやるかやらないか、それこそ現実政治の決断というものだろう。

 ケインズはいみじくも言った。一般均衡なるものは一体どれだけの時間を経過することで成立するのか、70年?我々の人生に残された時間はそこまで長くはいない。

 

(2)マルクス派貨幣論の陥穽 (こちら

(3)銀行の銀行としての中央銀行

 もちろん、手形再割引や準備預金への当座貸し越しなどを通じて銀行の銀行としての中央銀行の機能は国庫の出納業務とならんで、中枢をなすが、民間の内部での収支は当たり前だが、ゼロサムゲームに従って、対政府に対する収支には関係しない。MMTはその限りにおいて、中央銀行の、銀行の銀行としての機能を捨象して論じているのである。捨象しないと、MMTの主張に何らかの変更が生じるのだろうか。

(4)金兌換発生の機序

 金本位制において中央銀行の手形再割引を介しての中央銀行券の発券と還流が続く限り、本源的貨幣=金の現身が流通界に現れることがないが、ではインフレによって金兌換が要請されるだろうか。もともと恐慌時の対外的金流出をいかに原理論内部に翻訳して説くかという、恐慌論の重要テーマだったのだが、これについては、例えば自由主義段階のイギリス資本主義内部でもイングランド銀行からスコットランド銀行への流出がみられたことをもって、遠隔地銀行の想定を置く試みも示されている(*)。また、銀行恐慌の最悪期にも金兌換が強烈に生じたことも歴史的事実として知られている。(**)

 

(*)伊藤誠 信用と恐慌 東京大学出版会

(**)侘美光彦 世界大恐慌 お茶の水書房

 

 ここでは、金の自由市場と法定兌換レートとの間の裁定取引が生じるのではないかという点だけ触れておきたい。

 すなわち、収束的でないインフレ傾向が生じ、金の自由市場でも法定レートを超えて金相場が上昇しているような場合、中央銀行に中央銀行券を持ちこみ、法定レートで金兌換し、それを自由相場で売却することで、裁定利益を獲得できる。逆の場合は、自由市場で金を購入し、中央銀行で法定レートで中央銀行券に引き換えてもらうことで、この場合にも裁定利益を獲得することが出来よう。ということで、中央銀行にとって自由市場への介入が重要操作となってくる。

(5)統合政府について

 MMTの基本命題が例の循環図式にあるとすると、中央銀行の政府との協調的役割は、民間銀行準備からの、売却国債相当額の国庫への振り替え、政府小切手の国庫からの取り立て、民間納税口座からの税金の引き落としと、国庫への振り替え、国債入札に際しての入札が遅滞なく進められる水準の誘導金利の操作、に限定されている。この範囲で政府との協調が崩れる事態とはいったい何が起きたのだろうか?国家体制の転覆を目指す暴力的独裁政権の出現だろうか?そういう特異な事態を想定していないのは、小惑星が地球に衝突することを想定していないのとさして変わらぬ処置ではないだろうか。政府小切手の引き受け拒否??国庫には相当額がすでに赤字国債発行によって存在している!

 もちろん、会計上の一般原則によって、政府と中央銀行を統合された貨幣収支体として扱うのは、常に成り立っていることは言うまでもない。

(6)中央銀行券と政府紙幣

 中央銀行券が何らかの金属準備に基づいてのみ発行が許される、通貨学派的規制の下にある場合、そうした準備に捕らわれることなく、政府の意思に基づいてのみ発行されるのが政府紙幣で、これも戦費調達などの緊急時に発行される。もちろん流通性を高めるために、中央銀行券と同じく租税納付や民間銀行による預金受け入れもされるのが通例だろう。アメリカ独立戦争や南北戦争などで大いに発行流通したのだが、第一次世界大戦時は、金本位制そのものが一時的に停止され、中央銀行券発行に制約をなくしてしまった。もちろん戦略物資の物価統制と、米英仏三国間での為替固定協定などとセットで実施された。

 中央銀行券発行に金属準備の裏付けを要しなくなった現代において、政府紙幣をあえて発行する意義は薄れては来たが、赤字国債であると少なくとも利払いと満期償還が生じるのに対し、政府紙幣はそれがない点、政府にとってはメリットだろう。満期のない永久国債という中間的なやり口も実際取られた例もあるようだ。MMTが政府紙幣について言及するところが乏しいのは、例の循環図のとおり赤字国債発行で中央銀行通貨での準備が永遠に補填されていく構図を強調したかったためで、政府紙幣との区別がわからないわけではない。

(7)公開市場操作と財政ファイナンス

中央銀行の主体的な金融操作として公開市場操作を上げることが出来るが、この場合市場への、中央銀行自己勘定に保持された国債の売却や、自己勘定での民間国債の買い上げが行われ、その相当額だけ、民間銀行準備の増加や減少が生じる。例の循環図式を参照していただきたい。そうしてこの公開市場操作の目的は、それを通じての、外生的貨幣論的立場からすれば信用乗数分だけの市中銀行による融資の拡大ないしは引締め、金利の低下ないしは上昇を目指している。内生論的立場からすれば、準備の積み上げによって、与信拡大による現金支払い要求などに対するバッファの厚みが増大することで、与信活動がより積極化される、その逆はまた逆。信用乗数なるものも、個別の与信行動に着目してみれば、受信需要がなければ無に帰するわけで、これは法規制上の信用創造の限界を画しているに過ぎない。外生論者はややこの点機械的な発想に陥っているのだろう。中央銀行の役割をどこに求めるかにもよるが、現代の主要中央銀行の最高「格律」である貨幣価値の安定維持にのっとった行動といえよう。つまり与信の拡大や収縮を通じて物価水準が変動すれば、それを一定範囲内に抑えようと行動するであろう。その観点からすれば、日銀による民間国債の膨大な購入も、財政ファイナンスとは異なり、あくまで市中銀行の準備の積み上げ(これまでの結果は実質ブダ積み)とそれによる信用乗数分(最高限度)の金融緩和を狙ったものであると見てよい。

これに先行する赤字国債の市中消化時点で、赤字財政支出を起点とする新規通貨創造は生じており、中央銀行の公開市場操作はさらにそれに対する増減を加えたものとみなせるだろう。

 財政ファイナンスは、公開市場操作とは全く意図するところが異なる。この場合は中央銀行の最高格律である通貨価値の安定は二の次で、とにかく政府の主導によって、戦費調達など緊急を要する場合の、赤字財政支出の財源を単刀直入に中央銀行の貨幣創造に依拠しようというもの。この時、赤字国債額相当の貨幣額が国庫に振り込まれ、その支出に従って発行される政府小切手が民間銀行に持ち込まれると、それに基づいてまず民間銀行は直ちに、民間請負企業の口座にその額を記帳するとともに、政府小切手を中央銀行に持ち込み、国庫からの取り立てを依頼する。それに従って中央銀行は国庫から民間銀行準備に振替をするので、民間請負業者の口座預金金額と民間銀行準備とが同じ額だけ増額する。これが国債の民間引き受けと異なる貨幣創造上の差異となる。要は貨幣創造額が、中央銀行と民間銀行とで二重に行われる結果、倍になるわけである。

 財政ファイナンスが一般的には禁じられているのは、現代中央銀行の最高格律から見ればそれに背馳する恐れが極めて高いからだろう。ただ中央銀行が民間プライマリーディーラーと並んで国債入札に参加することが許されている国とそうでない国とがあるようだ、アメリカ、日本は許されていない。

 

[4]参加者のアンケートから

●高原浩之

MMTはイマイチよく分からないのですが、自分なりの結論はあります。

・経済学的な問題

MMTと財政ファイナンス、中央銀行券と政府紙幣、これらの違いや貨幣論などはよく分かりません。しかし、管理通貨制度はブルジョア国家が商品・市場経済と資本主義を護持していることで成立しており、そこに労働価値説は貫徹していると思います。

MMTは、経済学的には、「通貨発行の主権を持つ政府は……遊休資源を使いつくしてインフレーションが高進する時点まで赤字財政を拡大できる」(「報告」)と確認すれば、それでいい。ステファニー・ケルトン『財政赤字の神話』は「架空の財政的制約ではなく実物資源の制約(インフレ)」、「技術的ノウハウと実物資源(労働力・工場設備・原材料)さえあれば必要な資金は常に用意される」と言っている。それ以上は政治の問題でしょう。

・人民にとってのMMT

 MMTは、人民が利用することができる。例えば、グリーン・ニューディール。国債を発行し財政支出を拡大して、真っ当な賃金と社会保険が完備した雇用で、水力・風力・太陽光・地熱の発電を国家事業で推進する。しかし、そうすると、非正規雇用で成り立っている、あるいは原発に頼る、そういう現在の資本主義と衝突する。事態を決するのは、インフレかどうかではなく、人民と総資本=国家の政治的力関係になる。

MMTは、追加的な財政支出の拡大とか遊休資源(労働力と生産手段)とかを強調するが、人民は、追加分だけではなく財政支出全体、遊休ではなく現に稼働している資源、これのあり方を、格差・貧困問題や環境問題を解決する方向で変えていくよう闘争しなくてはならない。稼働資源とは、稼働している労働力と生産手段、つまり現在する資本主義の生産関係であり、そのあり方を変えるとは、人民による資本主義の民主主義的統制である(社会主義革命ではないがそれを引き寄せる)。追加とか遊休に限れば闘争回避となる。

人民にとって、MMTは、利用もできるが、限界もある、と言えるでしょう。

 

[5]司会者(矢沢国光)の感想

 アメリカでMMT(新貨幣理論)がはやっており、財政赤字世界一の日本がその代表的な実践国だ、というので、2019年11月、岡本英男先生に講師を依頼して、「MMTと福祉国家」というテーマのフォーラムを開催した。

https://2a740400-c582-422a-b08e-931f276ca7b8.filesusr.com/ugd/eaeae1_4f2ad727e1d54e5f9c797cdf8413d3d7.pdf

 武蔵大学主催のMMTについてのシンポが3月20日、オンラインで開催され、当世界資本主義フォーラム顧問の伊藤誠先生もパネリストとして参加された。

 シンポの使用言語は英語だけ、ということで、英語の達者な青山さんに参加してもらって、MMTシンポのようすや論点を伝えてもらうことにした。

 武蔵大シンポに参加した北原さんの発言も、たいへん参考になった。

 

 MMTは、その流行の源をたどれば、2008金融危機後の緊縮財政政策に反対し、大胆な通貨膨張による救済政策の理論的裏付けとして提案された。

経済政策としては、バーナンキの「ヘリコプター・マネー」や黒田日銀の「異次元金融緩和」も同列である。1930年代のケインズの財政支出による雇用創出策にさかのぼる見方もある。

MMTは、こうしたさまざまな「ばらまき政策」の中にあって、独特の財政政策と貨幣理論を持っている。それが何かを浮き彫りにすることが、この日のフォーラムの課題でなければならなかった(と事後的に思った)。その課題は、半ば達成されたが、半ば残った。とくに、1990年以降のアメリカ資本主義の「金融化」によって、金融と実体経済の関係が乖離していることが、「MMT現象」にどう反映しているか、経済の現状分析をふまえてのMMT批判が今後の課題としてあるように思う。

 以下、気になった点。

 

▲中央銀行券と政府紙幣

 フォーラム参加者の討論の中で小栗さんが指摘しているように、MMTは、中央銀行券と政府紙幣を混同している。両者の区別は、重要だ。

青山氏は「中央銀行券が何らかの金属準備に基づいてのみ発行が許される、…そうした準備に捕らわれることなく、政府の意思に基づいてのみ発行されるのが政府紙幣で、…」という。

中央銀行券と政府紙幣の違いは、金属準備のあるなしだろうか?

中央銀行とは何か?商業信用、つまり資本家相互間の信用の授受(経済取引にともなう債権債務関係)が資本家と銀行間の信用の授受(債権債務関係)に代位・拡張されることによって形成される一国の信用システム(ピラミッド構造)において、その頂点に位置しているのが中央銀行である。

したがって、中央銀行券の「信用」の基盤は、国民経済の健全性にある。

これに対して、政府紙幣は、その基礎に、中央銀行(の最終的な債権債務決済に集約される国民経済活動)を欠く。

明治新政府の発行した政府紙幣は、日本銀行券の発行時に、回収された。

近代資本主義国家においては、国民通貨は、政府紙幣ではなく、中央銀行券である。

MMT現象の特徴の一つは、中央銀行券の増発が、必ずしも国民経済の好調さ・健全さを基盤としていないために、中央銀行券と政府紙幣の区別が曖昧になっていることだ。

その理由は、国によって異なる。

アメリカが、累増する財政赤字・貿易赤字にもかかわらず、ドルの増刷によって消費を伸ばし、好況を維持しているのはなぜか?中国・日本・新興諸国がアメリカの国債を購入してくれるからだ。アメリカ・ドルの価値は、アメリカ国民経済に支えられているのではなく、アメリカ国債を購入してくれる外国経済に支えられている。

日本が、赤字財政を支えるために黒田日銀が国債大量買い取りしてもインフレにならないのは、1990年以来続く長期不況[「バランス・シート不況」(リチャード・クー)]の中で、供給力に対する需要不足が続いているからだ。

 

▲貨幣論

 青山氏は、マルクスの「商品、貨幣、資本」という貨幣の導出論を全面否定して、「マルクス派の前提に従えば、…商品から貨幣が生じる事態にも立ち会うはずだが、そうはなっていない」と言うが、そうか?

金と銀が貨幣となっただけでなく、古代にあっては、絹や馬も貨幣となった。国民通貨が壊滅したときには、タバコが貨幣になったりする。ドルの金交換が廃止された今日でも、ドルの価値が低下すれば、直ちにドルから金への移転が起きて、金価格は上昇する。1970年代アメリカが高インフレのとき、ボルカー連銀議長は、毎日金価格の推移とにらめっこしてインフレを制圧した。ドルは、金本位制が廃止されても、金から切り離されてはいないのだ。

貨幣の「起源」を歴史上のあれこれの貨幣現象(たとえば通貨抜きの債券・債務関係の流通)に求めても、資本主義の貨幣の意味はつかめない。世界資本主義の基軸としてのイギリス金本位制における貨幣の意味をつかむことによって、その後の貨幣の「変容」も理解できるのではないか。

 

▲通貨増発の限界

 MMTは「インフレになるまで通貨増発できる」と言うが、通貨増発の限界は、物価の高騰(インフレ)だけではない。国債価格の低落・金利上昇による国債増発の限界のほうが現実的な限界であり、アメリカではすでにその兆候が現れている。