第三章 資本主義的生産と価値法則

 

第一節 労働・生産過程

 

   一 労働過程

 

 前章の最後でわれわれは、直接生産者が生産手段から分離され、かれらの労働力が商品として市場に投げだされるようになると、それを前提にして資本は、あらゆる社会の普遍的実体をなす労働生産過程を資本の内部にとりこみ、それを資本自身の生産過程へと転化しうることをみた。

 またわれわれは、これによって資本があらゆる使用価値の商品をみずから生産しうるものとして相互に相対するようになり、そこから資本相互の関係は、社会的全体としての資本の内的分業関係へと転化することをみた。

 さらにまたわれわれは、これによって資本が商品流通世界の全体をみずからの生産過程によって再生産しうることになり、商品流通世界の全体と労働生産過程の全体とが、社会的全体としての資本の運動において、統一されることをみた。

 いまやわれわれは、以上のことを前提にして、資本の生産過程の内部の関係をたちいって研究しなければならない。

 資本の生産過程は、すでにみたように、資本家によって商品として購入された労働力と生産手段とが、資本家にとっての使用価値として消費される過程であり、それによってあらたな生産物が商品として、しかも資本家にとっての商品として生産される過程である。

 そして、この資本の生産過程では、さきに流通市場で労働力商品の自由な販売者としてあらわれた労働者は、いまや、自己の労働力をすでに資本家に売りわたしてしまったところの、したがって資本家の命令と統制のもとに資本家の商品を生産しなければならぬところの労働者としてあらわれる。かれは、「あたかも自分自身の皮を売りわたしてしまって、いまや鞣皮にされること以外にはなにも期待できない者のように、おずおずしぶしぶしながら」、生産過程のなかにはいっていく。

 とはいえ、労働生産過程は、このように資本の生産過程になったとしても、そのことによって労働生産過程としてのその一般的性質をかえるものではない。この過程の内部における労働力と生産手段とのあいだの関係は、たしかに資本家の眼からみれば、かれの買いいれた商品相互の関係にすぎないが、しかし、生産手段にたいする労働力の関係は、労働対象と労働手段にたいする、労働主体としての人間の一般的関係でしかありえないからである。そしてまた資本は、労働生産過程をこうした一般的関係として、したがってまた、それに固有の一般的原則にしたがう関係として、包摂することなしには、それを資本の生産過程として包摂することはできないからである。

 しかも、労働対象と労働手段にたいする労働主体のこうした一般的関係は、歴史的には、資本の生産過程においてはじめて、その普遍的、一般的な姿でたちあらわれるのである。資本主義以前の時代には、こうした生産手段と労働力の一般的関係は、共同体的、慣習的、宗教的、自然的、等々の他の諸関係に埋没していたからであり、また資本は、労働力と生産手段とをともに商品化することによってこの関係を破壊し、はじめてこの両者を自己の生産過程で労働力と生産手段一般として純粋に結合するからである。

 それゆえ、われわれはまず、資本の生産過程を労働生産過程一般として考察しなければならない。

 労働生産過程は、労働対象としての生産手段にたいする労働主体としての人間の関係としては、まず、労働過程一般である。

 したがって、労働過程では、人間は、過程の活動的主体としてたちあらわれ、あらかじめ目的として自己の観念のなかにえがいていた計画にしたがって、労働手段を媒体にしつつ労働対象を変形し、それを通じてさらに自己の労働力を消費する。労働とは、対象を変形するこうした人間の目的意識的な活動にほかならない。しかも、人間は、こうした労働過程において、たんに個人としてばかりでなく集団として、すなわち、その協業や分業にもとづく協業において、目的意識的に活動するのである。

 労働過程の結果は、それゆえ、こうした目的意識的活動によって変形され特定の有用な形態――使用価値――をあたえられた労働対象、すなわち、労働生産物である。労働過程をとおして人間は、労働対象と労働手段を主体的に消費しつつ、自己の主体的活動を労働生産物へと客体化したわけである。したがって、労働生産物においては、労働過程の全内容は、この労働生産物の特定の有用な形態のうちに客体化されている。

 それゆえ、いまやわれわれは、この客体的な生産物の立場からふりかえって、労働過程を客観的な生産過程として考察しなければならない。

 

   二 生産過程

 

 生産物は、生産過程のなかで特定の有用なかたちで支出された一定量の人間労働の凝固物として、生産物である。

 したがって、生産物をつくりだした生産的労働が、質および量の二側面をもつことは明らかである。

 生産的労働の第一の側面、すなわち、質的側面は、具体的有用労働と呼ばれる。それによって、生産物に特定の有用な使用価値の姿があたえられるからである。

 生産的労働の第二の側面、すなわち、量的側面は、抽象的人間労働と呼ばれる。前者が種々な生産物をたがいに使用価値を異にする個々の生産物として質的に区別する側面であるとすれば、後者は、相異なった使用価値の生産物を一様に労働生産物たらしめる抽象的な量的側面だからである。

 生産物は、こうした抽象的人間労働の凝固物としては、しかし、その直接の生産過程で支出された労働だけの凝固物ではない。この生産過程に投入された生産手段がそれ自身労働生産物からなりたっているとすれば、そのうちにふくまれていた過去の人間労働もまた、生産物のうちに凝固された労働の一部とみなされなければならないからである。つまり、生産物のうちに対象化されている抽象的人間労働は、生産手段にふくまれていた過去の労働と、この生産過程で支出されたあらたな労働との合計からなっているのである。

 このように、生産手段にふくまれていた過去の労働は、その生産手段が生産過程のなかで生産的に消費されるにしたがって新生産物のうちに移転され合体されるわけであるが、それをおこなうのは、生産的労働の抽象的人間労働としての側面ではなく、具体的有用労働としての側面である。生産過程のなかで生産手段を生産的に消費するのは、それを労働対象および労働手段として使用する合目的的活動としての具体的有用労働だからであって、これにたいし、その抽象的人間労働としての側面は、この生産手段から移転されてきた過去の労働に、みずからをあらたな一定量の労働として付けくわえるのである。

 ところで、こうした生産物が、それ自身、他の生産物の生産過程のなかに生産手段としてはいりこむとすれば、この第二の生産過程の生産的労働が、それにたいしておなじことをくりかえすことはいうまでもない。

 そしてこのことは、社会的にみれば、次のことを意味する。

 生産過程は、たがいに他の生産過程を、自分のための手段をつくりだす生産過程として、前提しあっており、したがって生産的労働もまた、たがいに他の生産的労働を、自分のための生産手段をつくりだす生産的労働として、具体的有用労働および抽象的人間労働の二側面から、前提しあっている、ということこれである。

 だが、たんにこればかりではない。

 生産過程のいまひとつの前提は、労働力である。そして労働力は、直接の労働生産物ではないが、一定量の労働生産物を人間が日々生活資料として消費する結果として、つくりだされるものである。したがって、生産過程は、他の生産過程を、生産手段をつくりだす生産手段としてたがいに前提しあっているばかりではなく、同時にまた、労働力を通じて、生活資料をつくりだす生産過程としてもたがいに前提しあっているのである。

 このことは、次のことを意味する。

 生産過程は、生産手段生産部門および生活資料生産部門として有機的に編成された社会的統体をかたちづくっており、個々の生産過程は、その内的構成部分としてのみ存在するということ、したがってまた、生産的労働は、生産手段および生活資料の生産に投下され、質および量の二側面から有機的に編成された社会的総労働としてのみ存在しており、個々の生産的労働は、その可除部分としてのみ意義をもっているということ、これである。

 

   三 経済原則

 

 以上にみたところを社会的に総括すれば、次のようになるであろう。

 ① 社会の総生産物のなかに対象化されている総労働量は、生産手段のうちにあらかじめふくまれていてそこから生産物に移転された労働部分と、生産過程のなかで直接に付けくわえられたあらたな労働部分との二大部分からなりたっている。

 ② このうち、第一の部分、すなわち、生産手段から移転された労働部分は、生産がくりかえし行なわれるためには、次の生産過程のための生産手段として留保されなければならない部分である。したがって、社会の総生産物のうちこの労働部分に相当する生産物は、生産手段の姿をとっていなければならない。

 ③ したがって、社会が年々生活資料として消費しうる生産物部分は、年々の生産過程で年々の労働によってあらたに付けくわえられた労働部分に相当する生産物部分だけである。したがってこの部分は、社会が直接に消費しうる生産物の姿、すなわち、生活資料の姿をとることができる。

 とはいえ、この生産物部分のすべてが、年々の生産過程に投入される社会の総労働力を維持し再生産するのに必要とされるわけではない。この生産物部分は、それ自身さらに、労働力の再生産に必要な部分――必要生産物部分――と、それを超える剰余生産物部分とにわかれるのであって、社会の直接の生産者の生命の維持に必要な生活資料の姿をとっていなければならないのは、この必要生産物部分だけである。

 これは、人間労働の次のような性格にもとづいている。

 人間は、一日のあいだに、自分の労働力の維持に必要な生活資料をつくりだすために労働しなければならぬ労働時間――必要労働時間――以上に、さらに剰余の労働をもなしうるということ、したがって、一労働日は、労働力の再生産に必要な必要労働時間と、それをこえる剰余労働時間とからなりたつということ、これである。

 それゆえ、こうした点をつけくわえて、さらに総括すれば、次のようになるであろう。

 ① 社会の総生産過程は、生産手段の生産部門と生活資料の生産部門との二大部門からなりたつ。

 ② この二大部門の関係は、生産手段と労働力の再生産の必要によって決定される。

 ③ したがって、社会の総生産手段と総労働力とは、この関係に応じて、生産手段生産部門と生活資料生産部門とに配分されなければならない。

 ところで、ここでわれわれが強く確認しておかなければならぬ点は、以上にわれわれがみた諸関係は、労働生産過程の労働生産過程一般としての性格からでてくるその内的諸条件であって、それが資本の生産過程という特有の歴史的形態をとっているということからでてくる諸関係ではないという点である。

 まさにそのような意味で、それは、あらゆる社会の存続の普遍的な絶対的原則――経済原則――をなすものといってよいであろう。

 

 

第二節 価値形成・増殖過程

 

   一 価値形成過程

 

 前節でわれわれは、資本の生産過程といえどもまず第一番には労働・生産過程一般にほかならぬことを明らかにした。そしてそれが労働生産過程一般としてもっている内的諸条件――内的原則――を追求し、確認した。

 だがもちろん、資本の生産過程は、たんに労働生産過程一般ではない。それは、資本にとっては、同時に価値増殖過程でなければならない。すでにみたように、生産過程と流通過程との全社全的な統一体となり、商品世界の全体を自己の内的運動の一契機へと転化した資本にとっては、その価値増殖は、その生産過程の内部で生ずる以外にはありえないからである。

 だが、同時に他面では、資本の生産過程の内的関連――資本としての生産手段とおなじく資本としての労働力の関係――が、このように労働生産過程一般の内的関係――生産手段と労働力の再生産に必要な生活資料との再生産の関係、およびその根本としての必要労働と剰余労働の関係――に集約され還元されたということは、資本の価値増殖関係が、こうした労働生産過程一般の内的関係に集約還元され、それを自己の根拠とするにいたったということにほかならない。

 それゆえ、いまやわれわれは、この点をたちいって解明しなければならない。

 ところで、このばあい、まず最初から明らかなことは、ここでは資本の価値増殖関係は、資本が生産過程に投入した商品価値とそこからでてきた商品価値とのあいだの全社会的な比較関係のうちに集約されており、そしてこの比較関係は、資本にとっては、さらに、生産過程に投入された生産手段および労働力と交換に資本が労働者にひきわたした生活資料と、生産過程からでてきた生産物とのあいだの全社会的な比較関係に還元されている、ということであろう。

 しかるに、すでにみたように、生産物と生産物とのあいだの同質性――あらゆる生産物をして一様に生産物たらしめるその普遍的な質的規定性――は、それが一定量の人間労働の対象化物であり凝固物であるという点にある。

 したがって、資本の価値増殖関係が右のように生産過程に直接間接に投入された労働生産物――生産手段および生活資料――とそこからでてきた労働生産物とのあいだの比較関係に還元されているということは、それが両者のうちに対象化され凝固されている人間労働量相互のあいだの量的比較関係に還元されているということ以外のなにものでもない。

 このことは、しかし、さらにいいかえれば、いまや生産過程を媒介にする資本の価値増殖関係において、商品の商品としての相互の同質性――その価値としての特有な同質性――が、人間労働の産物としての労働生産物相互の普遍的な同質性――その抽象的人間労働の凝固物としての同質性――に還元され、それを自己の根拠とし実体とするにいたっている、ということにほかならない。

 そしていうまでもなくこのことは、次のことを意味する。

 ① 生産過程における生産的労働の二重性は、いまや資本にとって、商品生産労働の二重性としてあらわれる。

 すなわち、生産手段を労働対象および労働手段として合目的的に消費しそれによって生産手段にふくまれていた過去の労働を生産物に移転するとともにこの生産物に特定の使用価値の姿をあたえる具体的有用労働は、生産手段の価値を商品生産物に移転するとともにそれに特定の使用価値の姿をあたえる労働――商品生産労働の具体的有用労働としての側面――としてあらわれ、また、生産手段から生産物に移転された過去の労働にそれ自身一定量のあらたな労働をつけくわえる抽象的人間労働は、生産手段からあらたな商品生産物に移転された価値部分にそれ自身もまた一定量の価値をつけくわえる労働――商品生産労働の抽象的人間労働としての側面――としてあらわれる。

 ② したがって、いまや、生産過程そのものもまた、資本が商品として購入した労働力を自己にとっての使用価値として消費しつつ、それを通じて生産手段の価値を商品生産物に移転するとともにそれにあらたな価値を形成し付けくわえる過程、一言でいえば、資本の価値形成過程として、あらわれることになる。

 ③ 同時にまたそれによって、商品の売買過程――流通過程――は、商品価値の形式的な姿態変換過程――生産過程で形成されその大いさを労働によって決定された商品価値が、商品の姿から貨幣の姿へそこからさらに生産手段と労働力の姿へと、その姿態を変換する過程――として、あらわれることになる。

 かくして、いまや資本の生産過程は、それが労働生産過程一般であるというまさにそのことによって、同時にまた、資本の価値形成過程なのである。

 

   二 価値増殖過程

 

 商品生産物の価値は、いまやこのようにして、資本の生産過程のなかでその生産のために支出された人間労働の量によって、その大きさを内在的に決定される。

 だが、労働力商品の価値については、事情はこれと本質的に異なっている。労働力は、労働生産物ではなく、したがって労働力商品と一般商品とのあいだには、対象化された労働時間という同質性は最初からして存在しないからである。

 まずこの点を労働者の側からみれば、労働力は、かれが人間一般として一定量の生活資料――必要生活資料――を日々消費する結果として形成されるかれの主体的能力であって、かれはこれを商品として生産するために生活資料を消費するわけではない。労働力を商品としてかれが資本家に販売するのは、かれにとってはやむをえない社会的事情――自己の労働力をかれ自身の主体的活動として実現するための客観的条件からかれが分離され切離されているという事情――からにすぎない。かれはこうした事情に強制されて労働力の商品化を強制されるのであって、かれの人間としての生活過程そのものが、資本の生産過程のように、労働力商品の生産の過程、したがってまたその価値の形成の過程をなすものでは決してない。したがって、労働者にとっては、労働力の商品としての価値は、それがかれの生命の維持に必要な生活資料にたいする交換手段として役立つという点にあるにすぎない。かれにとっては、労働力商品の価値とは、それと交換にえられる必要生活資料、もしくはその代表物としての貨幣そのものなのである。

 他方、資本家の側からみても、労働力は、その使用価値としての消費によってあらたな価値がつくりだされる源泉ではあっても、生産手段のように、対象化された労働としてそれ自身に価値をもち、その価値を商品生産物に移転されるものではない。資本家にとっても、労働力の商品としての価値は、かれが価値として生産した一定量の生活資料をそれと交換に労働者にひきわたさなければならないという点にあるにすぎない。かれにとっては、労働力商品の価値とは、それと交換にかれが労働者にひきわたさねばならぬ必要生活資料の価値なのであり、この生活資料を生産するのにかれが生産過程に投下しなければならぬ労働量なのである。

 このことは、次のことを意味する。

 労働力商品は、労働者にとっても、資本家にとっても、他の商品生産物のように、内在的な価値をもつものではないが、しかし、生活資料を価値として生産するそのおなじ資本の行為が、必要労働時間――労働力の再生産に必要な生活資料の生産に要する労働時間――に、労働力商品の価値という形態をあたえる、ということ、これである。

 しかるに、このように必要労働時間が資本にとって労働力の価値としてあらわれることになると、それによって同時に、それをこえる剰余労働時間は、資本にとっては剰余価値としてあらわれることになる。

 かくしていまや、資本の生産過程は、価値形成過程であると同時に、価値増殖過程だということになる。

 そしてここからさらに次の規定がうまれてくる。

 ① 労働力に投下される資本は、可変資本としてあらわれる。労働力に投下された資本価値は、じっさいには労働者にひきわたされ生活資料としてかれらに消費されるが、それと交換にえられた労働力――これは先にみたようにもはや価値ではない――によってより大きな資本価値が生産過程でつくりだされるからである。そしてこのようにしてつくりだされた剰余価値と可変資本の比率は、剰余価値率と呼ばれる。剰余価値率は、必要労働と剰余労働の比率を、したがって労働者にたいする資本家の搾取率をあらわすことはいうまでもない。

 ② これにたいし、生産手段に投下される資本は、不変資本としてあらわれる。生産手段に投下された資本は、生産過程で大きさをかえないでそのまま商品生産物のうちに移転されるからである。

 ③ 可変資本と不変資本との比率は、資本の有機構成と呼ばれる。生産手段と労働力との一定の技術的関係――これは生産力の一定の発達段階に対応する――を、資本の価値構成として表現したものだからである。したがって、この有機構成は、生産力の発達水準を表現するとともに、同時に総資本中にしめる価値増殖可能な資本の比重をも表現する。

 

   三 価値法則

 

 さて、資本の生産過程について以上にみてきたところを総括すれば、次のようになるであろう。

 ① 資本の生産過程の結果は商品資本W′である。この商品資本W′は、価値構成からみれば、生産手段から移転された資本価値部分と、労働力によってあらたに形成された資本価値部分とからなる。そして後者は、それ自身さらに、労働力に投下された資本価値を填補する部分とそれをこえる剰余価値部分とからなる。

 ② このうち、生産手段から移転された価値部分は、不変資本を填補する価値部分であって、流通をとおして次の生産過程のための生産手段に転化されなければならない。また、労働力に投下された資本価値――可変資本――を填補する価値部分は、おなじく流通過程をとおして次の生産過程のための労働力に転化されなければならない。これにたいし、剰余価値部分は、資本の自由に処分しうる剰余の価値部分をなす。したがってこの部分は、流通をとおして、資本家のための生活資料にも、また、生産のための追加的資本――追加的な生産手段と労働力――にも、転化されることができる。

 ③ したがって、商品資本W′は、使用価値構成からみれば、社会的には右の価値構成に対応して、次の生産過程のための生産手段、労働者のための生活資料、および資本家のための生活資料からなりたっていなければならない。いいかえれば、社会の総商品資本W′がそうした使用価値構成をもつように、生産手段生産部門と生活資料生産部門とに均衡的に資本が配分され投下されていなければならない。

 これが、資本の価値増殖過程の内的諸条件にほかならない。先にわれわれは、第一節の最後で、資本の生産過程が労働生産過程一般としてみたされなければならぬ内的諸条件――経済原則――をみたのであるが、右の価値増殖過程の内的諸条件は、この労働生産過程一般の内的諸条件――経済原則――が資本の生産過程においてとる特殊歴史的な形態以外のなにものでもない。それは、こうした特殊歴史的形態をとおして資本の運動を規制し統制するものとなっているのである。そしてまた、資本は、あらゆる使用価値の商品を生産しうる労働力を自己の生産過程の内部にとりこむことにより、こうした条件をみずから実現しうるものとなっているのである。

 だが、このばあいわれわれの注意しなければならぬ点は、資本はこのように価値増殖過程の内的諸条件をみずから実現しそれによって価値および剰余価値を内的に決定しうるといっても、労働力商品の価値だけは単純にそうではないという点である。労働力商品は、資本の生産過程の直接の産物ではなく、したがって、資本がみずからの生産過程で内的に決定しうるものはたんに生活資料の価値にすぎず、この生活資料が労働力の再生産にどれだけ必要であるかは、資本の外部で決定され資本に外的に前提される社会的条件だからであり、またそのかぎりで、労働力商品の価値決定関係は、資本にとって外的必然としてあらわれざるをえないからである、だが、労働力商品の価値決定関係こそは、資本の価値増殖関係の基軸をなすものである。したがって、このようにそれが資本にとって外的必然としてあらわれることになると、これを基軸とする資本の価値増殖過程の内的諸条件もまた、資本にたいして外的必然として、いいかえれば、資本の運動を外的に規制する社会的自然法則としてあらわれることにならざるをえない。

 かくて、以上にわれわれがみたような資本の価値増殖過程の内的条件は、そうした社会的自然法則として、価値法則という姿をとるのである。

 

 

第三節 資本主義的生産の内的矛盾

 

   一 資本主義的生産の内的矛盾(一)

 

 以上のような資本の生産過程――資本の価値形成増殖過程――のうちには、しかし、ひとつの根本的な矛盾がふくまれている。

 たしかに、労働力が生産手段から分離され、それが商品として市場に投げだされることになると、資本はそれを自己にとっての使用価値として購入し、労働力と生産手段の結合による生産過程を自己の価値増殖過程として実現しうることになるが、しかし、それはまだ形式的な可能性にすぎない。資本が労働力商品を自己にとっての使用価値として購入しうるということと、それを生産過程で現実的に自己にとっての使用価値として消費しうるということとは、まったく別の事柄にぞくするからである。

 他の一般商品のばあいには、この二つの事柄は、もちろん一致している。石炭を購入した資本家は、それを使用価値として自由に処分することができる。それは、無意志、無抵抗の客体だからである。だが、労働力は石炭ではない。すでにみたように、労働力は、生産過程の内部にはいるやいなや、生産手段を労働対象および労働手段として使用する目的意識的な活動的主体としてのみ、労働生産主体一般としてのみ、存在するからである。

 したがって、資本家は、市場で購入した労働力を自己にとっての使用価値として、いいかえれば、資本の価値増殖材料として、消費しようとすれば、こうした労働生産主体としての労働者にたいして、かれ自身の主体的意志を強制し、それに労働者を服従させなければならない。多数の労働者を軍隊式に編成し、種々な工程に配置し、かれらがなまけないように監督し、過程の進行を統制しなければならない。

 要するに、労働生産過程は、もはや、自由な商品所有者相互の交換の過程ではない。労働生産過程が資本の価値形成増殖過程であるという関係は、一言でいえば、その特殊歴史的な資本主義的形態は、過程そのものの内部では、こうした労働生産主体としての労働者にたいする資本家の人的な支配と統制の関係以外のところには存在しないのである。

 それゆえ、こうした点からみれば、資本の価値増殖過程は、まず第一番に、労働者を強制して、かれの必要労働日をこえて、剰余労働を実現せしめるひとつの強制的過程としてあらわれる。

 資本の生産過程は、こうした価値増殖過程としては、絶対的剰余価値の生産の過程である。

 資本はまず、必要労働日をこえて労働日を内包的にも――つまり労働強度の点からも――外延的にも――つまり労働時間の点からも――できるだけ延長し、そこから剰余価値をひきだそうとする強制力としてあらわれるわけであって、それが資本のもっとも根本的かつ基礎的な剰余価値生産の方法にほかならない。そしてこうした剰余価値生産の方法は、現実的には、標準労働日をめぐる労働者と資本家とのあいだの闘争としてあらわれる。労働日を現実に決定するものは、それを外延的にも内包的にもできるだけ延長しようとする、労働者にたいする資本の強制と、それにたいする労働者の集団的抵抗とのあいだの力関係、すなわち階級闘争以外には、なにも存在しないからである。

 だが、資本は、労働生産主体にたいするこうした人的強制力だけによっては、資本としての価値増殖を実現しうるものではない。

 というのは、①資本は、そうした人的強制力として多数の労働者に対抗し、かれらの人間主体としての抵抗を克服するためには、資本自身が軍隊式の支配と強制の組織を展開せざるをえないからであり、また、②そうした人格的な支配組織は、商品経済的関係を形態的基礎とする抽象的な価値の非人格的な増殖体としての資本にとっては、本来不可能だからである。

 これが、労働力商品の特殊性から生ずる資本の生産過程の根本的な矛盾にほかならないが、こうした矛盾は、次のような関係を要請する。

 すなわち、労働者の主体性を排除し、かれらを生産過程の内部で、石炭や綿花とおなじような無意志無抵抗な搾取材料として使用することのできる関係が、それである。

 じっさいには、こうした関係なしには、資本主義的生産は存立しえないのであって、それを実現するものが、いうまでもなく、次の関係、すなわち、労働者の手の作業を機械の作業におきかえ、労働者を客観的な機械体系の付属物に転化するという関係ほかならない。資本は、こうした機械体系の採用によって、いいかえれば、機械制大工業として、はじめて労働力を物化し、他の物的生産手段とおなじように、生産過程の内部でそれを資本にとっての使用価値として自由に使用しうる体制を確立するわけである。産業革命の歴史的意義はここにある。資本主義的生産は、たんなる工場制手工業としては確立しえないのであって、その理由がそれによっては労働者の主体性を排除しえず、したがってかれらを資本にとっての使用価値として自由に使用しえない、という点にあることはいうまでもない。

 とはいえ、このばあい注意すべき点は、こうした機械の採用によっても、資本は労働者の主体性を完全に排除し、かれらを石炭や綿花とおなじような物としてしまうわけではもちろんないということである。

 ところで、資本がこうした生産体系の機械化を実現するのは、相対的剰余価値の生産をとおしてである。そしてこのばあい、相対的剰余価値の生産とは、さきの絶対的剰余価値の生産が必要労働日以上に労働日を延長しそれによって剰余価値の増大をはかることにあったのにたいし、生産力の増大によって生活資料の価値を引下げ、それを通じてさらに必要労働日と労働力の価値そのものを縮小させ、それによって剰余価値の増大をはかる方法にほかならない。

 さて、このような相対的剰余価値の生産を通じて機械体系が確立し、生産過程の内部における労働力の物化の関係が成立すると、こんどはそれを基礎にして、さらにあらたな関係が展開する。

 すなわち、労働力商品の価値の労働賃銀への転化がそれである。

 労働賃銀ないし労賃という表現は、不合理な表現である。資本家が労働市場で購入するのは、労働力であって、労働そのものではないからである。だが、ひとたび生産過程の内部で労働力の物化機構ができあがると、資本家にとっては、労働力の購入も、労働の購入も、おなじこととしてあらわれることになる。資本家は、労働力を購入して生産過程に投入しさえすれば、そこから自動的に労働をひきだせることになるからである。こうして、労働力の価値は、労働の価値として、労賃形態へと転化するわけであるが、しかし、このばあいには、労働者にたいする資本の搾取関係は、いんぺいされる。そこでは、賃銀が、自己の価値以上により多くの価値をつくりだす労働力の代価としては示されないで、必要労働日と剰余労働日とを合した全労働日の代価として表現されているからである。

 ところで、このように、労働力の価値が労働賃銀という形態をうけることになると、それを基礎にしてさらにあらたな関係が展開する。

 すなわち、価値増殖過程において労働力と生産手段が演じる役割の質的区別は、後景にしりぞき、資本の生産過程は、過程――生産過程と流通過程の統一からなる資本の全過程――の主体たる地位から、むしろ、資本価値の循環運動――資本価値が貨幣資本や生産資本や商品資本の姿を順次に経過しつつ自己増殖する運動――の一局面たる地位へと転化する。資本の全過程は、いまや資本の流通過程としてあらわれ、資本の生産過程は、その一経過段階としてあらわれることになるわけである。

 資本の運動は、こうした資本価値の流通運動としては、まず、貨幣資本の循環、すなわち、貨幣資本から出発して貨幣資本へと回流する循環G―W<……W´―G´である。

 この貨幣資本の循環では、たえず貨幣資本として投下されより多くの貨幣資本として回流するところの価値の自己増殖的運動体としての資本が、もっとも純粋かつ特徴的に示されている。

 そしてこのばあい、この一循環に要する期間が資本の一回転期間をなし、さらにこの一回転期間は、資本価値がW……W´を経過するに要する期間、すなわち生産期間と、G―WおよびW´―G´を経過するに要する期間、すなわち流通期間とから、なりたっている。

 だが、資本の循環運動は、こうした貨幣資本の回転運動によって全面的に表現し尽くされるものではない。

 さきにみたように、資本は、労働力を現実に資本にとっての使用価値たらしめるためには、みずからを客観的な機械体系として確立し、労働者をその付属物に転化しなければならない。しかし、そのためには、資本は、その一大価値部分を、機械装置、建物等々のかたちで、長期にわたって生産過程の内部に固定せざるをえないのである。

 このようにして特定の生産過程に資本価値の一大部分を固定された資本の運動は、生産資本の循環、W<……W´―G´・G―W<に表現される。

 この生産資本の循環では、出発点および復帰点にあらわれるのは、生産資本ないし生産過程であり、したがってここでは、資本の運動は、特定の生産過程の反復、すなわち再生産として示されており、また流通過程は、こうした資本の再生産運動を媒介する一局面として示されている。

 さきに貨幣資本の循環において、資本は、生産過程をたんに自己の価値増殖の手段とする、そしてあらゆる特定の生産過程への緊縛から解放された自由な貨幣資本の自己増殖的運動体として、あらわれたとすれば、いまや生産資本の循環において資本は、特定の生産過程に長期的に固定され、特定の商品の生産を反復し、ただそのための手段としてのみ一時的に自由な貨幣資本の姿をとりうるにすぎないところの再生産の運動として、あらわれるわけである。そしてこのことは、次のことを意味する。

 すなわち、われわれがさきにみた資本主義的生産の根本矛盾、資本と賃労働とのあいだの矛盾――非人格的な自己増殖的価値としての資本が、生産過程の内部では、労働生産過程の活動的主体としての労働者にたいし、人格的強制力として相対立し、かれらに労働を強制し統制しなければならぬという矛盾――は、客観的な機械体系による労働力の物化機構の確立を媒介にして、いまや姿をかえ、資本自身の循環運動の矛盾――貨幣資本としての資本の流動的回転と、それを制約する特定の生産過程への長期的固定とのあいだの矛盾――へと転化している、ということこれである。

 そしてこうした矛盾を集約的に表現するものこそ、生産資本の循環における固定資本と流動資本との区別にほかならない。すなわち、労働力、原料、補助原料、燃料等々に投ぜられた資本価値は、流動資本として、一再生産ごとに、全部的に回転するのにたいし、機械装置、建物等々に投ぜられた資本価値は、固定資本として長期的に生産過程の内部に固定化され、ただその磨損に応じてのみ、いくつかの再生産にわたって部分的に回転するにすぎない。

 ところで、このように資本価値の一大部分が生産過程に固定されることになると、資本価値が生産過程を経過して流通過程に滞留するばあいにも、追加的資本をもって生産過程を継続することが必要となってくる。生産過程に固定されている資本を遊休させておくわけにはいかないからである。かくて、結局、総投下資本は、三部分に分割され、一部が貨幣資本の形態にあるとき、他の部分は生産資本の形態で、また第三の部分は商品資本の形態で存在し、それらがたえず並行的に回転して、順次にその位置を交替することになる。

 こうして、いまや、W´―G´として回流した貨幣資本は、G―W<への準備として、生産準備金という姿をとり、またこの生産準備金は、その役割に応じて、①資本価値の一部が販売過程W´―G´にあるとき生産を継続するための準備金、②価格変動準備金、③固定資本の償却準備金、④蓄積準備金、等々の種々な形態にわかたれる。

 そしてこのばあい、こうした生産準備金の形態にある貨幣資本と、販売過程にあって商品在庫を形成している商品資本とは、生産過程にあって価値増殖を遂げつつある資本、すなわち生産資本にたいし、一括して、流通資本と呼ばれる。両者はともに流通過程にあるからである。

 

   二 資本主義的生産の内的矛盾(二)

 

 以上でわれわれは、資本の生産過程の内的矛盾――資本と賃労働の矛盾――が、相対的剰余価値の生産方法の確立を媒介にして、資本の流通過程の矛盾――貨幣資本的流動性と生産資本的固定性の矛盾――へと転化したことをみた。いまやわれわれは、これを基礎にして、この資本主義的生産の内的矛盾が、資本主義的再生産過程――資本の蓄積過程――全体の矛盾へと転化することを明らかにしなければならない。

 そのためには、しかしわれわれは、まず資本の再生産過程を全体として表現する資本の循環形式を確認しておかなければならない。すなわち、商品資本の循環、W´―G´・G—W<……W´がそれである。

 この循環の出発点は、資本主義的生産過程の結果である商品資本W´であり、それが商品流通W´―G―Wをへて、生産過程の出発点をなす生産資本W<に転化し、それがさらに生産過程をへて、その結果たる商品資本W´に回流する。

 したがって、この循環にあっては、資本の運動は、もはや生産過程を主とするものとしてでもなく、また流通過程を主とするものとしてでもなく、むしろ両過程を相交替する二契機として統一する全体的運動として、全面的に表明されている。

 したがってまた、この循環形式においては、資本の全社全的な再生産、社会的総資本の再生産が、圧縮的に表現されている。

 社会的総商品資本W´は、その価値構成の上からみれば、不変資本C、可変資本V、剰余価値mからなりたっている。またその使用価値構成の上からみれば、生産手段と生活資料とからなりたっている。したがって、社会的総商品資本の流通W´―G´・G—Wは、この商品資本中の不変資本部分Cの生産手段への、また可変資本部分の労働力への、さらに剰余価値部分の資本家の個人的消費資料――単純再生産が行われるとして――への、転化をそれぞれ媒介しなければならない。したがってまた、貨幣資本は、ここでは、こうした総商品資本の流通を社会的に媒介する流通手段としてあらわれる。

 これをマルクスにしたがって、表式的に示せば、次のようになろう。

 ①生産手段生産部門(第一部門)

  商品資本W 6000 = 4000C + 1000V + 1000m

 ②消費資料生産部門(第二部門)

  商品資本W 3000 = 2000C + 500V + 500m

 第一部門の商品資本6000のうち4000Cは、第一部門内部の資本家相互間の交換をとおして、生産手段へと転化する。第二部門の商品資本3000のうち500Vと500mとは、第二部門内部の資本家と労働者および資本家相互間の交換をとおして、それぞれ労働力と資本家の消費資料へと転化する。

 これにたいし、第一部門の商品資本中の残りの1000Vと1000m、および第二部門の商品資本中の残りの2000Cは、両部門間の資本家相互間、および資本家と労働者間の交換をとおして、それぞれ、労働力と資本家の生活資料――第一部門の1000Cと1000Vのばあい――、および生産手段――第二部門の2000Cのばあい――に転化する。

 したがって、この両部門間、すなわち、生産手段生産部門と生活資料生産部門とのあいだには、前者の可変資本部分と剰余価値部分の合計が後者の不変資本部分に等しいという比率に集約的に示されるような均衡が存在しなければならない。あるいはむしろ、そういう均衡が成立するように、両部門の関係が社会的に編成されていなければならない。

 以上は、商品資本の循環を、社会的総資本の再生産という観点から、しかも再生産の拡張をともなわない単純再生産のばあいにかぎって、表式的に示したものにほかならないが、こうした表式――再生産表式――は、資本が、生産手段と生活資料の再生産をとおして、みずからの前提――資本と賃労働の階級関係――をたえず再生産していることを総括的に表示している。資本は、みずからの生産過程を通じて、生産手段と生活資料を商品資本として再生産することにより、資本家と労働者を、資本家および労働者としてたえず再生産するわけである。

 だが、資本の再生産過程は、こうした単純再生産の過程にとどまりうるものではない。資本家は、剰余価値をすべて個人的に消費するわけではなく、そのできるだけ多くの部分を生産過程の拡張のために、したがって価値増殖過程の拡大のために、いいかえれば、より多くの剰余価値の生産のために、追加的資本として投下する。資本家は、そうした資本の無限の価値増殖衝動の人格化としてのみ資本家だからである。

 かくて、資本の再生産過程は、同時に、剰余価値の資本への転化による拡張再生産の累積的過程、すなわち、資本の蓄積過程となる。そして、われわれがさきにみた資本主義的生産の内的矛盾――直接的には資本の生産過程の矛盾としてあらわれ、ついで資本の流通過程の矛盾としてあらわれた資本主義的生産の内的矛盾――は、いまや、こうした資本の蓄積過程の矛盾として、あらたな形態をとることになる。

 資本蓄積の前提は、剰余価値が追加的な生産手段と追加的な労働力とに転化されるということである。

 だが、資本がみずからの生産過程を通じて直接につくりだしうるものは、生産手段と生活資料にすぎない。労働力は、この生活資料の労働者による個人的消費の結果としてつくりだされるものであって、生産手段のように、資本がその生産過程によって直接に生産しうるものではない。したがって、資本蓄積は、労働者人口の自然的増殖をその一般的基礎とせざるをえない。しかるに、資本の蓄積過程は、労働者人口の自然的増殖よりもはるかに急速に進行する社会的過程である。

 したがって、一般には、資本蓄積は、こうした労働者人口の自然的増殖の限界をこえて追加的労働者人口を造出する機構なしには、不可能である。そしてこうした資本自身による追加的労働者人口の造出の機構こそは、資本の有機構成の高度化による相対的過剰人口の造出にほかならない。

 すなわち、資本は、従来の機械体系をより作用力の高い、より大規模な機械体系におきかえることによって、不変資本にたいする可変資本の比重を引きさげ、現存労働者人口を資本に比して相対的に過剰にするという機構が、それである。

 資本は、こうした機構によって、まわり道をとおして、資本蓄積のための追加的労働者人口を造出するわけであるが、しかし、ここには、ひとつの根本的な制限があらわれざるをえない。

 われわれがさきにみた矛盾、すなわち、資本価値の一大部分が生産過程に固定されており資本の貨幣的流動性を制限しているという矛盾――そしてくりかえしていえばこの矛盾は労働力を物化しなければならないという資本の生産過程の内的矛盾の転化形態にほかならない――が、それであって、いまやこの矛盾は、こうした有機構成の高度化による相対的過剰人口の造出を阻止し制限する矛盾としてあらわれることになる。

 というのは、あらたな機械体系の採用による有機構成の高度化は、生産過程に固定資本として集積されているこの資本価値を犠牲にせざるをえないが、それは、既存資本価値の維持増殖という資本の性格のために、阻止されざるをえないからである。

 このようにしていまや、資本主義的生産の内的矛盾は、資本蓄積過程の矛盾、すなわち、資本蓄積の前提をなす追加的労働人口の造出の制限という矛盾へと、姿をかえたわけであるが、この矛盾を資本がいかに解決しまたいかに再生産するかについては、われわれは、第五章「資本蓄積と恐慌」においてたちいって考察するであろう。

 ここではわれわれは、資本主義的生産の内的矛盾は、資本の生産過程、資本の流通過程、資本の再生産過程の展関をとおして、総括的には、こうした資本の蓄積過程の矛盾として表現されるという点を、くりかえし確認しておけばたりるであろう。

 

   三 資本主義的階級関係の歴史的特質

 

 いまやわれわれは、以上にみたところを、資本主義的階級関係の歴史的特質という観点から総括しておかなければならない。

 まず最初から明らかなことは、社会が直接生産者と非生産者の二大階級にわかれ、両階級のあいだの支配服従関係をとおして、直接的生産者の剰余労働が非生産者の階級によって取得されるという関係は、近代的労働者階級と資本家階級とのあいだの階級関係の歴史的特質ではありえないということであろう。それは、資本主義的階級関係にも中世的、古代的階級関係にも共通するその一般的関係だからである。

 資本主義的階級関係の歴史的特質――それを中世的、古代的階級関係から歴史的に区別する特質――は、むしろ、右の一般的関係が次のような特殊歴史的な形態をとっている点にある。

 すなわち、①生産手段と直接生産者の旧来の結合関係――自然発生的、共同体的結合関係――が商品経済をとおして分離され、直接生産者の労働力が商品化され、このようにして商品化された労働力とおなじく商品化された生産手段とが、資本によって結合されるということ、したがって、②あらゆる社会の普遍的実体をなす労働生産過程が資本の生産過程という姿をとり、したがってまた労働生産物が資本の生産物――商品資本――という姿をとるということ、それゆえに、③直接生産者である労働者階級は、たえずあらたに労働力を商品として資本家に売りわたすことによってのみ、自己の労働生産物中の必要労働部分を資本家から買いもどしうるにすぎないということ、これである。要するに、生産手段と労働力の結合や、したがってまた直接生産者による必要労働部分の取得と支配階級による剰余労働部分の取得が、これら両階級のあいだの商品交換の関係によって媒介され、包摂されているということである。

 ところで、いうまでもなく、商品交換関係そのものは、交換当事者を自由平等な私的個人――商品の私的所有者――として前提し相互に関連せしめるところの関係である。したがって、この関係の内部にあっては、労働者も資本家も、人格的には自由平等な抽象的個人として相対するにすぎず、そのかぎりで、そこではいっさいの階級的区別や身分的差別は消えさっている。だから、こうした商品売買世界――通常の市民社会――からみれば、資本家と労働者の関係は、もはや階級支配と階級搾取の関係としてはあらわれないで、たんに自由平等な独立個人の合意にもとづく商品売買の結果としてあらわれるにすぎない。

 だが、このことは、資本家と労働者の関係が剰余労働の搾取をめぐる階級的な支配服従関係ではないということを決して意味しない。むしろ反対である。こうした商品交換関係によって媒介されることによって、階級支配と階級搾取の関係は、歴史上はじめて、そのもっとも純粋な、もっとも発達した、最後の究極の形態へと到達するのである。

 じっさい、古代的、中世的な関係にあっては、階級支配と階級搾取の関係は、生産手段と労働力との自然発生的、共同体的結合関係と不可分にむすびついており、純粋にそのようなものとしてはあらわれなかった。だが、これに反し、資本主義的階級関係にあっては、生産手段と労働力とのこうした自然発生的、共同体的結合関係は、両者の商品化によって完全に解体されており、また両者は、資本家によって商品として購入されることにより、資本の生産過程の内部で、純粋に生産手段および労働力一般として結合される。だから、商品売買関係によって包摂されそれによって階級関係を隠蔽されている資本の生産過程においてこそ、かえって、歴史上はじめて、①直接生産者は、生産手段を労働対象および労働手段として使用する純粋の労働生産主体としてあらわれるのであり、したがって、②階級関係は、こうした労働生産主体そのものにたいする非生産者の支配と強制の関係およびそれによる剰余労働の搾取の関係として純粋にあらわれるのである。

 そしてこのように資本主義的階級関係において歴史上はじめて階級支配と階級搾取の関係が純粋にあらわれるということは、同時にまた、それが歴史上最後の究極の階級関係をもなすということを意味している。

 というのは、こうした資本主義的階級関係において歴史上はじめて、支配階級にたいする直接生産者の闘争は、階級支配と階級搾取にたいする労働生産主体一般の――すなわち生産手段との自然発生的、共同体的むすびつきから解放された純粋の労働生産主体の――闘争、したがってかれらの普遍的、人間的な闘争となるからであり、したがって、かれらの闘争が勝利するとすれば、その結果として生ずるものは、労働生産主体そのものの社会の主体としての一般的定立――普遍的、人間的定立――でしかありえないからである。これに反し、古代的、中世的階級関係にあっては、階級支配と階級搾取にたいする直接生産者の闘争は、かれらと生産手段との自然発生的、共同体的、局地的結合関係によって、したがってまた、それの観念的反映物にほかならぬ種々な慣習的、宗教的、道徳的、地方的偏見によって、混濁されていたのであり、したがってかれらの闘争は、たかだか、ひとつの支配階級を他の支配階級にとりかえることに役立ったにすぎなかったのである。

 さて、以上のような資本主義的階級関係の歴史的特質と関連して、次にわれわれが確認しておかなければならぬ点は、資本主義社会において歴史上はじめて、社会の経済過程――いわゆる下部構造――と政治的、イデオロギー的過程――いわゆる上部構造――とが明確に分離するという点であろう。

 古代的、中世的社会にあっては、経済的な階級搾取の関係は階級支配の暴力組織――政治的、国家的組織――と直接に結合しており、またこれら両者は、生産手段と労働力との自然発生的、共同体的結合関係とわかちがたくむすびついていた。

 しかるに、これに反し、資本主義社会にあっては、階級関係が商品売買関係をとおして形成されるために、資本主義的生産がひとたび機械制大工業として確立されると、資本は、ただ商品売買秩序さえ維持されれば、みずからの経済力だけによって階級搾取を実現しうることとなる。そしてここから、階級支配の暴力的維持組織――階級支配のための組織された暴力――は、資本主義社会では、一般に、階級搾取の経済的組織から分離独立し、その外側にでて、商品売買秩序の一般的な維持執行機関という特殊な歴史的形態をとることになるのであって、それが、いうまでもなく、近代ブルジョア国家にほかならない。

 したがって、近代ブルジョア国家は、次の点を、その本質的な特徴としている。

 ① 社会の全成員を、自由平等な商品売買者として前提にする普遍的な法秩序――私有財産的法秩序。

 ② この私有財産的法秩序を維持執行する機関としての中央集権的官僚制執行権力、すなわち、全国的に組織された官僚、警察、軍隊。

 国家の本質は、いうまでもなく、「階級支配のための組織された暴力」という点にあるわけであるが、それが社会――支配階級と被支配階級の両者からなる社会――から分離し外的なものとして社会のうえにたつ、公的権力という姿をとるのは、ただこうしたブルジョア国家――普遍的法秩序の維持執行機関としての官僚制執行権力――においてだけである。

 この点に関連していわゆる立法権力なるものについて一言しておけば、それはブルジョア国家にとって本質的な構成要素ではないということである。

 というのは、私有財産的法秩序が商品経済の展開に応じてひとたび普遍的な法体系として確立するならば、そしてその根本は封建的領有関係とそれに対応する農民的土地保有関係の私有財産関係への転化の確立にあるのだが、立法行為として残るところは、この私有財産的法体系のたかだか施行細則の確定か補足規定の追加にすぎないからである。だからこそ、立法権力は、執行権力とは異なり、一般選挙制による代議制をもゆるしうるものとなっているわけである。

 要するに、近代的法治国家としてはじめて、したがって中央集権的官僚制執行権力としてはじめて、国家は、個々の階級搾取の現場から解放された全国的な政治権力――国民的に組織された階級支配の暴力組織――となるのであって、まさにそれゆえにこそ、形式的には階級性をもたないブルジョア国家は、もっとも発展した階級国家をなすとともに同時にまたその最後の究極の形態をもなすものとなっているのである。

 

■労働力商品の矛盾と資本主義的階級関係の特質

 

 <労働力商品化の矛盾と資本主義的生産>

■A■資本の生産過程論に即していわゆる「労働力商品の矛盾」の問題をとりあげよう。宇野さんは、いったい、それをどう主張しているのか。

■B■労働力はたんなる物ではない。もともと商品にはなりえないものだ。それを資本主義は、商品として前提せざるをえない。それが商品として市場にみいだされなければ、資本主義的生産はなりたたない。しかるに、労働力はたんなる物ではないのだから、いかに資本が生産過程を包摂したからといって、労働力自身を自分の生産過程で、他の商品とおなじように、物として生産するわけにはいかない。資本は、その根本前提をなす労働力商品を、直接にみずから商品として生産しえない、というのが、宇野さんがくりかえし強調する労働力商品の矛盾だ。宇野さんのいわば経済哲学だといってよいだろう。

■C■宇野さんは、それを原理論の体系のどこで設定しているのか。

■B■根本的には、資本蓄積論だ。そしてそれを具体的に展開するのが宇野さんの恐慌論だ。これは、宇野さんの原論の第三篇の第三章の利子論で展開されている。

■C■宇野さんの原論の第二篇「生産論」は、「資本の生産過程」、「資本の流通過程」、「資本の再生産過程」の三章からなりたっている。そして宇野さんの蓄積論は、この三章のなかの最後の「資本の再生産過程」のなかにはいっている。とすると、宇野さんは、労働力商品の矛盾をこの生産論の最後の章ではじめて設定しているわけか。

 いったい宇野さんは、「資本の生産過程」や「資本の流通過程」では、労働力商品の矛盾をどう設定しているのか。ここでは、労働力商品の矛盾は、労働力商品の供給の問題、つまり資本が直接にそれを商品として生産しえないというかたちでは、設定しえないはずではないか。それは、資本の蓄積過程が問題となるとき、はじめて資本にとっての障害として全面的にたちあらわれてくる問題だからだ。

■D■そういう点になると宇野さんは、必ずしもはっきりしていない。労働力商品の矛盾を、経済学の根本問題として強調するなら、たしかに宇野さんは、それを資本蓄積論においてではなく、その基礎をなす「資本の生産過程」論においてまず第一番に設定すべきであったはずだ。

 そしてここで労働力商品の矛盾を問題にするなら、それは、労働力を資本が物として自由に生産しえないというよりも、むしろ物として自由に使用しえないという点に、あらわれてくるはずだ。この点を宇野さんは、軽くみすぎているのではないか。だから、物として生産しえないという点だけが大きく浮かびあがってくるのではないか。

■A■たしかにそういってよいだろう。

 労働力商品の矛盾を宇野さんのように資本がそれを自由に生産しえないという点で設定すると、具体的にはそれは、資本蓄積論で、労働力商品の供給が資本蓄積の進行を制限するというかたちで設定せざるをえないだろう。

 だが、このばあいには、労働力商品の矛盾は、資本が有機構成の高度化を実現し、相対的過剰人口の造出を強行するならば、みずから解決することのできる矛盾として設定されているのだ。

 これを逆にいえば、ここでの労働力商品の矛盾は、もはや資本にたいする直接の制限として設定されているのではなく、資本がたえず有機構成の高度化を実現しえず、またたえず相対的過剰人口の形成を強行しえないという資本自身の矛盾の結果的現象として設定されているということだ。

 そうとすれば、宇野さんは、労働力商品の矛盾を、資本蓄積論のまえに、どこかで資本自身の矛盾として設定しておかなければならなかったはずだ。そしてそれは、宇野さんの体系では、そのまえにある「資本の流通過程」で、そう設定する以外になかったはずだ。

 そして、この「資本の流通過程」で労働力商品の矛盾を資本自身の矛盾として設定するためには、さらにその前に、「資本の生産過程」で、それを資本にたいする直接的矛盾として、つまり資本の直接的生産過程の内部における矛盾として、設定しておかねばならなかったろう。

■E■その点『資本論』ではどうなっているのか。

■H■『資本論』は、むしろ宇野さんとは逆だ。労働力商品は物としては生産しえないという点は、宇野さんほど明確に強調されていないが、しかし反対に、直接的生産過程の内部でそれを資本が物として自由に使用しえないという点は、はるかに強く強調されている。資本の生産過程論の基礎にすえられているといってよいだろう。

■E■それはどういうことか。

■H■『資本論』では、資本の直接的生産過程論は、第一巻第三篇「絶対的剰余価値の生産」、第四篇「相対的剰余価値の生産」、第五篇「絶対的および相対的剰余価値の生産」、第六篇「労賃」の四篇からなりたっているが、この全展開の基礎に絶対的剰余価値生産の矛盾がすえられているということだ。

 ところが、宇野さんのばあいは、絶対的剰余価値の生産は、相対的剰余価値の生産と一緒にして、たんに「資本家的生産方法の発展」としてとりあつかわれているにすぎない。労働力商品の矛盾を強調するなら、宇野さんは、まずそれを絶対的剰余価値生産の矛盾としてとらえなければならなかったのだ。労働日の長さや強度をめぐる資本家と労働者の闘争を宇野さんは軽視しているのではないのか。

 労働日をめぐる資本家と労働者の闘争は、労働力が人間の主体的な能力であって、綿花や石炭のような無意志無抵抗の物ではないということ、したがって資本家は、それを商品として買いいれたからといって、綿花や石炭のように使用できるものではないということを、具体的にばくろするものだ。

 労働力商品の矛盾を資本の直接的生産過程に即して設定するとすれば、この点以外にないはずだ。

■E■その点に関連する問題だが、いったい労働日の決定に経済法則はあるのか。

■A■それはないといってよいだろう。資本家の側からいえば、できるだけ良く、できるだけ強くという原則しかない。資本は剰余労働にたいする無限の衝動だからだ。労働者の側からいえば、自分のための労働ではなく、資本家の品物をつくるための労働だから、できるだけ短かくできるだけ軽くという原則、つまり資本家側の原則に抵抗するという原則しかないだろう。ここには経済法則も経済原則もなく、あるのは、資本家と労働者の力関係だけだ。

 ここでは、資本家と労働者は、もはや商品の売買者としてではなく、たがいに相手に自分の意志を強制しようとする二つの主体としてあらわれるわけだ。

■E■つまり、両階級のあいだの階級闘争以外に労働日の決定原理はないというわけか。

■A■そうだ。経済学の原理論に階級闘争論が登場するとすれば、それはここだけだといってよいだろう。しかも、この労働日の大きさが決まらなければ、剰余労働の大きさも決まらないし、したがって資本の価値増殖も決まらない。必要労働によって労働力の価値が決定され、剰余労働によって剰余価値が決定されるというのが価値法則の根本だが、その根本のところでじつは経済法則が欠けていて、資本家と労働者の階級闘争が登場しなければならぬわけだ。

 これは、資本家的生産の本質的な矛盾だといってよいだろう。

 というのは、資本は非人格的な価値の増殖体であって、剰余労働にたいして直接的に階級的強制をふるう封建領主ではありえないからだ。資本家が生産過程の内部で直接に労働者にたいして階級的強制力を発揮しなければならぬとすれば、資本家的生産は、むしろ、存立しえないとさえいってよいだろう。

 いいかえれば、資本家的生産が資本家的生産として確立するためには、物ではない労働力を、あたかも綿花や石炭のように物として自由に使用しうる機構が生産過程の内部に成立しなければならない。労働力が商品として市場にみいだされるというだけでは、資本家的生産は絶対に確立しないのだ。

■B■そういうかたちで、宇野さんは労働力商品の矛盾を、直接的生産過程の内部で設定すべきだったというわけか。

■A■そうだ。そうしていたら宇野さんにとっては、相対的剰余価値の生産の意味も明白だったろう。それは、「資本家的生産方法の発展」として意味をもつのではなく、むしろ、機械体系の導入による機械の付属物への労働力の転化――労働力の物化機構の成立――として、またそれによる資本家的生産の確立として意味をもっているとしなければならない。

 だからこそ、資本家にとって、労働力の購入は、労働の購入と同義になり、労働力の価値は、たんなる労働の価格としてあらわれ、労賃形態へと転化するわけだ。労働力を購入しさえすれば、資本家は、機械体系をとおして自動的にそれを労働として実現しうるようになるからだ。宇野さんの労賃論ではこの点が明確にされていないといわなければならない。

 要するに宇野さんは、せっかく労働力商品の矛盾を強調していながら、かんじんの資本の生産過程論で、それを明確に設定していないのだ。

■B■そうとすれば、そういう宇野さんの不明確さは、資本の流通過程論では、どのようにあらわれているのか。

■H■固定資本と流動資本の矛盾、つまり、資本の貨幣資本的流動性と生産資本的固定性の矛盾が、全展開の基軸にすえられていないということだろう。

 労働力を物として自由に使用しえないという矛盾を資本が機械制大工業の導入によって解決するとすれば、その矛盾は、こんどは、資本が投下資本価値の圧倒的大部分を機械体系として生産過程に固定しなければならぬという矛盾に転化せざるをえない。つまり、自己増殖的価値としての資本の自由な運動が、生産過程への使用価値的固定によって制約されるという矛盾だ。

■B■労働力商品の矛盾は、資本の流通過程では、資本の流動性と固定性の矛盾として定立されるというわけか。

■H■そういうかたちで、はじめて、労働力商品の矛盾は、資本自身の矛盾として設定されるのだ。

 ところが、宇野さんは、資本の流通過程の矛盾を主として、価値増殖過程が流通期間――商品の販売期間――によって制限されるという点でとらえている。

 それはたしかに資本にとっての制限であるが、それをここで中心にすえると、たとえば、ヒルファディングのように、その制限を資本が克服する機構として、資本の流通過程論から、いきなり信用論を展関しなければならなくなるだろう。

■B■では、宇野さんの資本蓄積論はどうか。宇野さんが有機構成の高度化をともなわない資本蓄積を、資本蓄積の基本的な、また積極的な型として確定したのは、大きな功績ではないか。

■H■それはそうだが、しかしなぜそうならざるをえないかという根拠については必ずしも明快ではない。資本の流通過程論のところで固定資本の制約が明確にされていなかったからだ。

 資本価値の圧倒的部分が生産過程に固定されているとすれば、資本が既存の固定資本をできるだけ利用する蓄積しかできないこと、それを犠牲にするような合理化は、既存資本価値の維持増殖という資本の本質からして無理だということは、もっと一目瞭然ではなかったのか。

 資本の蓄積過程では、労働力商品の矛盾は、資本蓄積が労働力商品の供給の限界によって制限されるという点にあるよりも、むしろ、資本がたえず有機構成の高度化による相対的過剰人口の形成を行なえないという点にあるのでなければならない。労働力供給に限界が生ずるのは、その結果にすぎないからだ。

 そして労働力商品の矛盾が資本蓄積過程でこういうかたちで発現するということは、そのまえに、資本の流通過程で、すでに労働力商品の矛盾が、資本の貨幣資本的流動性にたいする生産資本的固定性の制約というかたちをとっているからにほかならない。

 宇野さんは、せっかく労働力商品の矛盾を強調しておきながら、その具体的な発現形態の段階的展開が欠けているのではないのか。

■C■だから、宇野経済哲学となるのだろう。

■H■そうなると信者しか理解できない。

■A■ここらあたりで視点をかえよう。以上の問題は、資本の生産過程論の冒頭で労働生産過程論をどう設定するか、という問題とも関連するので、こんどはその点から論じてみたらどうか。

 

 <労働生産過程、価値法則、社会主義の科学的基礎>

■G■宇野さんが『資本論』の「労働過程」を「労働・生産過程」とした意味はどこにあるのか。

■F■『資本論』は、冒頭の商品論で、価値の実体を労働に還元した。そのために労働の二重性――具体的有用労働と抽象的人間労働――が直接商品の二側面、使用価値と価値とにむすびつくことになった。だから、資本の生産過程論でも、「労働過程」は、具体的有用労働の面に、「価値増殖過程」は、抽象的人間労働に直接にむすびついている。

 これにたいし、宇野さんは、労働の二重性を、人間労働一般の二側面としてとらえ、その資本主義的形態が、商品の使用価値および価値を形成する労働にほかならぬとしたわけだ。

 だから、商品の資本主義的生産過程から分離して、まず労働生産過程一般をとりあげ、そこで労働の二重性、必要労働と剰余労働の関係を一般的に解明し、それが資本主義社会においてとる特殊歴史的形態を、価値形成増殖過程として解明するという方法をとったのだろう。

 つまり、「資本論」では、資本の生産過程の一面、その使用価値を生産する一面として「労働過程」が解明されているのにたいし、宇野さんのばあいには、一応資本の生産過程とは別個に、あらゆる社会に共通な「労働生産過程」一般として解明されているわけだ。

■G■労働生産過程一般を説くといっても、資本の生産過程の一面としてそれを説くこともできるし、また文字通りそれからきりはなして、あらゆる社会に共通する普遍的実体としてそれを説くこともできる。宇野さんは、そのどちらなのか。

■F■その点になるとはっきりしていない。宇野さんの原論の編別構成からいったら、明らかに資本の生産過程の解明のなかにはいっており、その一面としての労働・生産過程だとみなければならぬ。だが、宇野さん自身は、そうは考えていないようだ。たんに資本の生産過程を基礎にして労働生産過程一般が認識できる、あるいは把握できるといっているにすぎない。

■C■われわれとしてはどう考えたらよいか。

■D■『資本論』と宇野さんの中間をとればよいのではないか。

 つまり、労働の二重牲、必要労働と剰余労働の関係は、宇野さんのように、労働生産過程一般にぞくする内的関係として説き、しかし、その労働生産過程一般は、資本の生産過程の一面として説けばよいということだ。

■A■だいたいそういってよいだろう。

 だが、われわれは、宇野さんの功績――『資本論』の「労働過程」論を「労働・生産過程」論とし、そこで労働の二重性、必要労働と剰余労働の関係を「経済原則」として一般的に解明した宇野さんの功績――は、大きく評価しておかなければならぬ。

 宇野さんの限界は、それを資本の生産過程論の冒頭におくことが何を意味しているか、自分自身ではわかっていないところにあるのではないか。

 『資本論』では、冒頭の商品論でいきなり価値が労働に還元されている。それにたいし、宇野さんのように、商品、貨幣、資本の形態的展開をとおして商品の価値関係を資本の価値増殖関係に集約し、その資本の価値増殖関係の解明の冒頭に労働・生産過程一般の内的関係論をおくということは、じつは、この資本の価値増殖関係を労働生産過程一般の内的関係に還元するということにほかならぬのだ。そしてそれが、商品、貨幣、資本の形態的展開をとおして価値を労働に還元するということ、つまり労働価値説を論証するということなのだ。

 だが、そのためには、この労働生産過程一般が、資本の価値増殖関係の内部にはいっている労働生産過程一般とされていなければならぬ。

 ところが、宇野さんは、その点をあいまいにすることによって、自分の体系構成が事実上なしとげている成果――商品、貨幣、資本の形態的展開による価値の労働への還元――をあいまいにしている。

 だからこそ、宇野さんは、次の価値形成増殖過程のところで、ふたたびまた労働価値説を諸商品の等価交換の関係と一体化したようなかたちで説かざるをえなくなるわけだ。資本家と労働者とのあいだの交換関係が労働力の再生産に必要な必要労働によって決定されることになると、資本家と資本家とのあいだの商品交換も、商品を生産するに要する労働時間によって決定されるようになるというのが、それだ。

 だからまた、平均利潤と生産価格の説明のところで、価値法則が、資本家と資本家とのあいだの交換では部分的に修正されるかのような説明におちいるわけだ。

 だが、われわれが本文で展開したように、商品、貨幣、資本の形態的展開をとおして、また労働力商品の導入を媒介にして、商品の価値関係を、産業資本の価値増殖関係に集約するということは、それを、社会的全体としての資本主義的生産過程のいわゆる投入価値と産出価値との全体的な比較関係に集約するということなのであり、また、その投入価値と産出価値の全社会的比較関係を、労働生産過程一般の内的関係、つまり必要労働と剰余労働の関係に還元するということなのだ。

 この点が明確であったら、宇野さんは、あらためて価値形成増殖過程で労働価値説の論証をくりかえす必要はなく、たんに労働生産過程論の成果を、つまり商品、貨幣、資本の形態的展開をとおして価値関係を労働生産過程一般の内的関係に還元したということを、確認すれば足りたであろう。

■A■だがたんにこればかりではない。この問題には、もうひとつの重要な側面がある。

 労働生産過程は、たしかに宇野さんのいうように、あらゆる社会の共通の基礎であり実体だといってよいが、しかしそれは、資本の生産過程のなかにとりこまれることによって、歴史上はじめて、純粋の労働生産過程一般になるとみなければならない。

 というのは、資本主義社会以前の社会では、土地が基本的な生産手段となっているために、生産手段と労働力の結合関係が、土地を基礎にする自然発生的な共同体関係のうちに埋没しており、したがってまた階級関係も、それに混濁されて、純粋の階級関係――直接生産者にたいする非生産者の支配と搾取の関係――としてあらわれないとみなければならぬからだ。

 ところが、資本主義は、この生産手段と労働力との自然発生的、共同体的結合関係を分解させ、労働力の商品化をとおして、資本の生産過程のなかでそれを再結合する。そしてこれによって、資本の生産過程のなかでではあるが、したがって資本の価値増殖の手段としてではあるが、労働力と生産手段は、歴史上はじめて、労働力と生産手段一般として純粋に結合され、またそれによって労働生産過程は、純粋の労働生産過程一般となるのだ。

 だから、この点からいっても宇野さんは、労働生産過程を労働生産過程一般として解明するためには、それを資本の生産過程の内部にある労働生産過程として解明しなければならなかったはずだろう。

■A■だが、この問題には、さらにいまひとつの重要な側面がある。

 労働生産過程がこのように資本の生産過程ではじめて純粋の労働生産過程一般になるということは、いいかえれば、そのにない手をなす直接生産者がここではじめて労働生産過程一般の純粋のにない手、その社会的主体として登場するということにほかならぬ。

 そしてこのことは、さらにいいかえれば、資本主義的階級関係において歴史上はじめて階級関係は、こうした労働生産過程の主体にたいする純粋の支配と搾取の関係としてあらわれるということにほかならぬ。

 資本は、ひとたび生産過程のなかで、労働力を自分の購入した商品として自由に使用しようとすると、こういう労働生産過程一般の社会的主体にたいして、自己の意志を強制しなければならぬわけだ。また、労働者のそれにたいする抵抗も、労働生産過程の社会的主体一般の非生産者の支配と搾取にたいする抵抗という性格をもたざるをえないといってよいだろう。

 「標準労働日」をめぐる資本家と労働者の闘争は、こうした点を端的に示している。

 そしてこれが、資本の生産過程における労働力商品の矛盾――労働力はたんなる物ではなく、したがって物として資本家が自由に使用しうるものではないという矛盾――の本質的な意味なのだ。

■D■そうすると、労働力商品の矛盾を宇野さんが直接的生産過程の内部で明確に設定しえなかったのも、ここで宇野さんが労働生産過程一般を資本の生産過程の内部にあるものとして明確に解明していないことと対応関係にあるというわけか。

■A■そうだ。両者は決して無関係ではない。

■F■その点に関連するが、原理論で社会主義が科学的に基礎づけられるとすれば、その究極的根拠はどこにあるのか。

■D■それは、労働力商品の矛盾だろう。

■F■労働力商品の矛盾一般か。

■A■いや、直接的生産過程の内部における労働力商品の矛盾だ。

 ここでは矛盾は、労働生産過程の社会的主体としての労働者と、それを自己の意志にしたがわせ、かれらを強制して労働させ剰余労働を搾取しようとする資本家との闘争として表現されているからだ。資本家は、労働力を自分にとっての使用価値――物――として使用しようとするのにたいし、労働者は、労働生産過程の社会的主体一般として、したがってそのかぎりで、普遍的、人間的主体一般として、それに抵抗しているからだ。ここでは、労働者が資本家の支配を廃棄するならば、かれらが、労働生産過程の主体一般として、社会の主人公にならざるをえないことは、一目瞭然だ。そして社会主義社会とは、それ以外のなにものでもない。

■E■生産過程における労働者の資本家にたいする闘争は、それ自体、すでに即自的には社会主義闘争だというわけか。

■A■そういっていいだろう。そこに労働者階級の資本家にたいする階級闘争の世界史的性格があるといってよいのではないか。

 宇野さん流にいえば、資本主義社会では、あらゆる社会の基礎をなす労働生産過程の一般的条件――「経済原則」――が、価値法則という姿をとっている。その価値法則という歴史的形態を廃棄して、経済原則を人間が意識的計画的にみたしつつ、それによって自己の社会生活を再生産する、それが社会主義にほかならぬわけだ。そしてその歴史的条件は、資本の生産過程の内部でではあるが、人間がはじめて生産の社会的主体一般として登場し、そういうものとして資本主義的階級関係に抵抗する、まさにその点にあるわけだろう。

■B■それから話がすこしそれるかもしれないが、一般には社会主義社会とは、各人が能力に応じて働き労働に応じて受けとる社会であり、共産主義社会とは、各人が労働に応じて働き欲望に応じて受けとる社会だと理解されているようだが……。

■D■それは、マルクスの『ゴータ綱領批判』の読み方に問題がある。そのばあい社会主義社会と称されているのは、この『批判』にいう「共産主義社会の第一段階」――「資本主義社会からうまれでた」ばかりでまだ旧社会の「経済的、道徳的、精神的」母斑を広く残している共産主義社会――のことだ。そこでマルクスは、労働に応ずる分配をこの「第一段階」の原則として積極的に主張しているわけではなく、むしろ「避けることのできない」「欠陥」として、また「ブルジョア的権利」の残存物として、消極的に承認しているにすぎぬのだ。

 それを積極的にいわば原則として主張したのは、マルクスではなく、マルクスが批判の槍玉にあげているラッサール主義者、あるいはドイツではラッサール主義に代表される俗流社会主義なのだ。「労働の全収益」の「平等な権利」による「公正な分配」というのが、それだ。

 それにたいするマルクスの主張の力点は、そんなものは、真の平等でも真の公正でもない、各人は社会にたいする労働の提供能力を異にし、また生産物にたいする必要の程度を異にするから、真の平等、真の公正は、むしろ、各人が能力に応じて労働を社会に提供し、社会が各人の必要に応じて生産物を分配することでなければならぬ、そしてそれがプロレタリア運動の真の目標をなす共産主義社会だ、そして俗流社会主義者が美化する労働に応ずる分配なるものは、せいぜい、その過渡段階――「共産主義社会の第一段階」で「避けることのできない」「欠陥」として承認しうるにすぎぬ、という点にあったわけだ。

■B■では、マルクスが「避けることのできない」「欠陥」として消極的に承認したものが、いつのまにかふたたびまた、社会主義社会の原則として、ラッサール主義的に主張されるようになったわけか。

■D■そうだ。スターリン時代のロシアになってからだろう。それは、例の一国社会主義論と関連がある。また、1936年のスターリン憲法にも規定されている。それによって一方では、ノルマ体制を弁護するとともに、他方では、ロシア国民に夢をあたえる必要があったのではないか。いずれにしても、政策的考慮がはたらいているとみてよいだろう。

■B■そのばあい、真の共産主義社会の分配原則だが、「各人の必要に応じて」なのか、「各人の欲望に応じて」なのか。

■D■ドイツ語ではBedürfnissenで、日本語としては、どちらにも訳せる。

■B■しかし、訳し方によってかなり意味がちがってくるだろう。いったいマルクスはどちらの意味で使っていたのか。

■D■その点、マルクス自身必ずしも明確でない。

 だが、全体の論理の筋をわれわれがとおそうとするなら、「必要に応じて」と訳さねばならぬ。「第一段階」の「労働に応ずる」分配は、各人の労働提供能力や、また家族の大小による生活必要度の相違がある以上、実質上の不平等だと主張されているからだ。そういう不平等や不公平まで完全に廃棄するのが「共産主義のより高い段階」であるとしたら、「各人の必要に応じて」というように考えるべきだろう。

■A■そうだ。当然に「各人の必要に応じて」と考えるべきだろう。それを「欲望に応じてうけとる」と解するものだから、「共産主義社会」の実現が、はるか未来の社会の約束事のようなものになってしまい、資本主義が歴史的にそれを準備していることが、不明確になるのだ。

 「各人が能力に応じて」働くというのは、経済学的に厳密に規定すれば、各人がそれぞれ自己の労働力――これには当然に個人差がある――を社会に提供するということであり、「各人の必要に応じて」分配するというのは、社会が共有する生産手段とこのようにして各人によって提供された労働力とを結合することによってえられた労働生産物を、社会が各成員の「必要に応じて」分配するということだ。

 それは、なにも未来社会の特殊な至福の原則ではなくて、どんな共同体でも共同体なら多かれ少かれもっているごくふつうな、ありふれた一般原則だといってよいだろう。

 真の社会主義、あるいは『ゴータ綱領批判』でのマルクスの用語法にしたがえば、真の共産主義とは宇野さんのいう経済原則を社会が意識的、計画的に実施しつつ、それをとおしてこうした共同体の一般原則を実現する社会にほかならない。

 そしてそれを資本主義社会は歴史的に準備するわけだ。

■B■そうとすれば、「共産主義社会の第一段階」はどう解したらよいのか。

■A■「労働に応ずる」「公正な分配」を、いっている。それが「ブルジョア的権利」だという意味は、各人が社会にたいし「労働に応ずる」分配を「ブルジョア的権利」として、つまり、私的個人としての各人の「平等な権利」として、要求するということにほかならぬ。そしてそのことは、各人がまだ社会にたいし共同体の成員としてではなく、私的個人として労働力を提供している関係を残していることの結果だとみなければならぬ。私的個人として労働力を社会にたいして提供するからこそ、それにたいする対価を社会にたいし私的個人として要求することになるわけだ。

 いいかえれば、生産手段はすでに社会の共有物になっていても、その生産手段と各人の労働力の結合関係に、したがってまたその結果として社会の生産物の各人への分配関係に、「ブルジョア的権利」関係――私的権利関係――を残しているわけだ。

 そして、共同体とその各成員とのあいだにこうした私的権利関係が残存するとすれば、まだこの「共産主義社会の第一段階」は、真の共同体となっていず、たんにブルジョア的な私的社会からのそれへの過渡段階にあるにすぎぬと考えねばならぬだろう。

 それは、いわばまだ、私的経済関係と共同体的経済関係との混合体制にすぎぬわけだ。

■A■それにもうひとつこの「第一段階の共産主義社会」――俗流社会主義者の理想化する社会主義社会――について、考えておかねばならぬことがある。

 これは、マルクスが見過している問題だが、労働力を再生産するに要する必要労働部分は、分配の形式がどのようなものであれ、「必要に応じて」分配するのが、社会の絶対原則――宇野さんのいう経済原則の根本――だということだ。資本主義社会においてさえも、労働力の価値を決定するのは、この必要労働なのであって、労働者が生産過程で現実に資本家にひきわたしする労働量に比例してなのではない。

 したがって、「第一段階の共産主義社会」が、労働生産物の各人への分配において、労働提供にたいする比例を考慮しうるのは、実際には、剰余労働部分、しかもそれから「生産拡張のための追加元本」を控除したのちの剰余労働部分にすぎぬとみなければならない。

 しかも、この「第一段階」には次の事情がある。

 生産手段を社会の共有にうつし、生産と分配を全社会的に組織化するためには、各人の労働力提供を社会にたいする義務として強制せざるをえない、つまり社会の全成員にたいする「一般労働義務制」を実施せざるをえない。しかしそれは、社会がその全成員にたいし、かれらが労働能力のあるといなとにかかわらず、かれらの必要生活資料の保証を、つまり必要生活資料に関しては各人の「必要に応ずる」分配を、社会自身の第一義的義務として宣言するのでなければ、不可能だということである。

 要するに、この「第一段階の共産主義社会」といえども、それが生産手段の共有を実現するかぎりは、「一般労働義務制」と「必要生活資料の保証」というかたちで、社会的生活の基本的部分に関しては、「能力に応ずる」各人の労働力の供出と「必要に応ずる」各人への生産物の分配という共同体原則を、つまり共産主義原則を、社会自身の直接の責任において、実施せざるをえないわけだ。

 いいかえれば、マルクスが共産主義社会発展の二つの段階にそれぞれ別々にわりあてている二つの原則は、むしろ第一段階では、混在していて、たがいに矛盾しあうということだ。そしてそれが、第一段階を過渡期として特徴づけるそれに固有の矛盾だといってよいだろう。

■B■そうすると「共産主義社会のより高い段階」の特徴は、共同体原則一本になるということか。

■D■社会への各人の「能力に応ずる」労働力の提供と社会の各人への「必要に応ずる」生産物の分配が、「強制的義務」から「慣習」――各人の社会的自然――にまで高まる必要があろう。

 また「必要」の内容が、必要生活資料から豊かな文化的内容にまで高まる必要があろう。

 そしてそのための条件が、マルクスの強調している分業への各人の奴隷的従属の消滅だとか、精神労働と肉体労働の対立の消滅だとか、個人の全面的発展だとか、社会的富の源泉の増大だとか、いう条件だろう。

■A■共同体原則が各人の「慣習」にまで高まれば、さっきわれわれが論じたBedürfnissenを「必要」と訳するか「欲望」と訳するかという問題は、じつは、結局おなじことだといってよいだろう。レーニンの強調するように、社会的に不可能なことを社会にたいして各人が「欲望」しなくなることを、じつは、この共同体原則の「慣習」化は意味するはずだからだ。

 

 <資本主義的階級関係の特質、政治的上部構造と経済的下部構造の分離>

■A■最後に資本主義的階級関係の歴史的特質を総括的に確認しておこう。

 それは、一言でいえば、どういう点にあるか。

■B■階級関係が商品経済的形態をとっているということだ。ひらたくいえば、生産過程における階級関係が、資本家と労働者とのあいだの自由平等な商品売買関係をとおして形成され、また再形成されるということだ。

 宇野さん流にいえば、階級搾取が直接の支配服従関係によってではなく、経済法則をとおしていわば自動的、機構的に実現されるという点にあるといってもよいだろう。

■D■さきの論点とも関連するが、宇野さんのばあい、自動的、機構的になりすぎているのではないか。

 たしかに資本、賃労働関係は自由平等な売買関係をとおして形成されるが、生産過程そのものの内部では、労働者は生産の集団的主体として存在するのであり、資本家はかれらの抵抗に打勝ってかれらに労働を強制しなければならない。ここでは、資本家と労働者の関係は、自由平等な人格をもつ私的個人の契約関係ではなく、主体と主体とのあいだの支配服従の強制関係ではないか。

 そしてこの支配服従関係は、機械体系の導入によって労働者が機械の付属物に転化されるからといって、決してなくなるものではない。機械によっても労働者は完全に物化しうるものではなく、労働者の主体性は最後まで残るとみなければならぬからだ。

 かりに完全に物化するとすれば、労務管理論等々のいわゆる経営学が流行するはずがないだろう。また社会主義運動の階級的基礎も消失すると考えねばならなくなるだろう。

■B■宇野さんもそういう点は承認している。そのうえで階級搾取が経済法則化するといっているのだ。

 それを文字どおり商品経済的に機構化しうるかのように主張しているのは、むしろ、宇野さんの亜流だ。たとえば、大内(力)さんや日高(普)さんあたりではないのか。

■D■宇野さんにも責任がある。労働力商品化の矛盾を、主として物として自由に資本が生産しえないという点で強調していて、その根本を、直接的生産過程の内部で資本が物として自由に使用しえないという点で明確に設定していないからだ。

■A■体制全体としては階級搾取を商品経済的に物化し機構化し経済法則化しうる、そしてまたその点に資本主義的搾取関係の歴史的特質がある、だがそれには、その基軸をなす生産過程の内部で労働力を完全に物化しえないという点で、根本的な限界と制約がある、と考えたらよいのではないか。

 ある程度まで労働力を物化し、階級搾取を機構化しうるとしなければ、そもそも資本主義的生産そのものが歴史的に存立しえないことになろう。

 また、完全に労働力を物化し、階級搾取を完全に法則化しうるとすれば、資本主義的生産は永遠に存続しうるとしなければならなくなるだろう。

 つまり、階級搾取を機構化し法則化しうるという面と、それに根本的な制約があるという面との二重性こそが、資本主義的生産そのものの歴史的矛盾なのだ。それは、労働力商品の矛盾の別のいい方にすぎない。

■A■そこで、階級関係そのものを商品経済的に物化し機構化し経済法則化しうるという点が、それ以前の階級関係にたいする資本主義的階級関係の歴史的特質だとして、そこからさらに資本主義社会にどういう特徴が生まれてくるかをもうすこしたちいって確認しておこうではないか。

■E■社会全体を問題にすれば、政治的上部構造と経済的下部構造の分離というのが、大きな特徴だ。経済的搾取過程とその政治的維持組織の分離といってもよいだろう。古典的ないい方をすれば、市民社会と政治国家の分離だ。

■C■レーニンは『国家と革命』の第一章「階級社会と国家」で、エンゲルスの次のような文章を引用している。

 「国家はけっして外から社会におしつけられた権力ではない。またそれは、ヘーゲルの主張するような、「人倫的理念が現実化したもの」「理性が形象化し、現実化したもの」でもない。それは、むしろ一定の発展段階における社会の産物である。それは、この社会が自分自身との解決できない矛盾にまきこまれ、自分でははらいのける力のない、和解できない対立物に分裂したことを告白するものである。ところで、これらの対立物が、すなわち相争う経済的利害をもつ諸階級が無益な闘争のうちに自分自身と社会とをほろぼさないためには、外見的には社会のうえにたってこの衝突を緩和し、それを『秩序』のわく内にたもつべき権力が必要になった。そして社会からうまれながら社会の上にたち、社会にたいしてますます外的なものになっていくこの権力が、国家である」レーニンは、ここから、国家は「階級対立の非和解性の産物」であり、また「階級支配の機関」であるという結論をひきだし、「国家は諸階級を和解させる機関である」というふうにマルクス主義を修正する小ブルジョア・イデオロギーを嘲笑しているわけだが、その点どうか。

■E■「階級対立の非和解性」から必然的にでてくるのは「階級支配の機関」、「一階級が他の階級を抑圧するための組織された暴力」だ。

 だが、そのことと、この「階級支配の機関」が「社会」から分離して「社会のうえにたつ」国家という形態をとるということとは、別の問題ではないか。

 また、レーニンによるエンゲルス解釈にも問題がある。エンゲルスの文章そのものからは、国家の発生原因は「階級対立の非和解性」にもとめることができても、国家の役割は、むしろ諸階級の「衝突を緩和し、それを秩序のわく内にたもつ」ことにもとめなければならない。

■C■それは具体的にいうと、どういうことか。

■E■まず第一に、社会は、支配階級と被支配階級の両方をふくむものとしての社会だ。そういう社会から「階級支配の機関」が「国家」として分離するのは、すべての階級対立に共通の現象ではなく、特定の階級対立に特有な歴史的現象とみなければならぬ。

 たとえば、古代社会や中世祉会では、支配階級は直接に武装しており、かれらの経済的搾取が同時にかれらの武装組織を通じておこなわれるのであって、階級支配の暴力的維持機関が経済的搾取過程、つまり社会から分離しえようがないのだ。

 逆にいえば、経済的搾取が商品経済的関係をとおして機構的、法則的に実現される資本主義社会で、歴史上はじめて、階級支配の暴力的維持機関が「政治的国家」として「市民社会」から分離するのだと考えなければならぬ。

 さっきの文章でエンゲルスは、そしてエンゲルスにひっぱられてレーニンも、こうした資本主義国家に特有な歴史的現象に幻惑されて、それをすべての階級対立やその階級支配の機関に共通する現象であるかのように思いこんでいるのではないか。

 ここで明らかにエンゲルスは、国家の発生原因を階級対立から説明しているにしても、国家の役割そのものは、この階級対立を「緩和しそれを秩序のわく内に維持する」ことにもとめているのだ。レーニンがエンゲルスをひきあいにだして批判しようとする小ブルジョア・イデオローグと、その点ではおなじなのだ。

 だが、階級支配の暴力機関が、あたかも社会のうえにたち階級対立を「緩和しそれを秩序のわく内に維持する」機関であるかのようにあらわれるのは、資本主義国家に特有な現象にほかならぬのであって、ここでエンゲルスは、その現象にひっかかってそれを国家の本質的役割と思いこみ、しかもそれを階級支配の抑圧機構一般にまで拡張解釈しているといわねばならぬ。

■C■では、なぜ、ブルジョア国家には、そういう特殊な現象――社会のうえにたって社会の内部の階級対立を調整し緩和する公的機関だという特殊な現象が生ずるのか。

■F■それは、さっきわれわれが確認した資本主義的階級関係の歴史的特質からでてくるといってよいだろう。

 つまり、生産過程における階級関係が商品売買関係をとおして形成されるということ、またこの商品経済的関係をとおして搾取関係そのものが物化され、機構化され、法則化されるということが、その根拠だ。そこから、資本主義は、この商品売買秩序さえ維持されれば、階級搾取を自動的に実現しうることになるからだ。

 こうして、資本主義は、商品売買秩序の維持保証の機構として経済過程の外部に階級支配の政治的維持機関を、つまり、政治的国家を要求するわけだが、しかし、この商品売買関係そのものは、そこでは資本家も労働者も自由平等な私的個人として相互に相対し、自己の商品を交換しあう関係だ。

 だから、資本主義国家は、社会の全成員――資本家も労働者も――を一様に自由平等な私的個人、つまり市民としてとりあつかい、かれらに普遍的に商品売買秩序――私有財産的秩序――を維持保証する法治国としてあらわれる。

 だからこそ、エンゲルスがひっかかったような現象を呈するわけだ。

■C■封建支配でもある意味では法治体制ではないか。階級支配を制度的に表現したものが法体制だろう。たしかマルクスだったと思うが、支配階級の階級意志を普遍的に表現したものが法だといっている。

■F■だが、そのばあいには法といっても、各身分にたいする特殊規定にしかなりえないだろう。しかも、封建社会では、ひとつの身分だけとってみても、それがさらにいくつかの階層的身分にわかれているので、無限の特殊規定にならざるをえないのだ。

 だが、ヘーゲル流にいえば、法の法たるゆえんは、社会の全成員にたいするその普遍性にあるのであって、無限に多様な特殊規定の集合体では、法体制とはいえないだろう。法治体制という形態は、社会の全成員を私的個人――私的所有者――として普遍的にとりあつかうブルジョア的階級秩序にとってのみ、可能な形態だ。

 だから、ブルジョア国家では、法は、憲法制定議会の代議員が代弁するか、あるいは神意にもとづく王が代弁するかは別として、「普遍的意志」の発現とされるわけだ。

■G■そこからさらにどういう特徴がブルジョア国家に生ずるか。

■E■階級支配の維持機関がそうした私有財産的法秩序の維持執行機関という形態をとることだろう。つまり、それが、官僚制執行権力であって、官僚、警察、軍隊からなるブルジョア国家権力の実体だ。

■G■それにたいして、議会はどういう地位にあるのか。一般には、それが国民を代表する立法権力で、国家の最高の権力だとされているではないか。

■E■そんなものは、ブルジョア国家権力の形式的な補助機関にすぎない。

 ブルジョア的法秩序の根本はきわめて単純で、それが私有財産的法秩序としてなんらかの歴史的過程をへてひとたび全社会的に確認されてしまえば、のこる立法行為は、せいぜいその施行細則の決定や補足にすぎぬからだ。

 だから、法の維持執行こそ、ブルジョア国家の主要な国家的任務となるわけで、官僚制執行権力こそ、ブルジョア国家権力そのものだと考えなければならない。

 これにたいし、ブルジョア議会は、ブルジョアジーが、かれらの官僚制執行権力が税金をむだづかいしないよぅに統制する監視所であり、またかれらの分派間の利害を政治的に調整して執行権力に反映させる政治取引所であるにすぎぬといってよいだろう。

■B■そうすると、ある国家権力がブルジョア権力であるかどうかは、それが私有財産的法秩序の維持執行権力として機能しているかどうかによるというわけか。

■E■そうだ。官僚制執行権力――軍隊、警察、官僚――が、だれの手によってになわれているか、また議会が存在するかどうかは、非本質的な、第二義的な問題だ。

 むしろ一般には、官僚制執行権力――国家権力――は、商工業ブルジョアジーよりももっと古い、身分的秩序を代表するような階層によってになわれた方が、ブルジヨアジーにとっては好都合であり、また事実ヨーロッパ諸国では、伝統的にそうだったといってよいだろう。

 官僚制執行権力の下層部分、ことに警察の下層勤務員、軍隊の一般兵士は、人民大衆自身から徴募したり雇用したりせざるをえないからであり、かれらを統制するためには、厳重な身分的、閉鎖的、特権的職階制をその内部に維持せざるをえないからだ。

■G■経済的下部構造と政治的上部構造の分離は、さらに具体的には、経済的支配階級と政治的支配層の特殊な分業体制にあらわれるわけか。

■E■そういってよいだろう。

 従来の国家論、政治権力の性格論の混乱は、そういう点が必ずしも明確でなかったことによるものだ。

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