第二章 商品、貨幣、資本

 

 

 第一節 商   品

 

   一 商品の二要因

 

 前章でみたように、資本主義的生産の歴史的特質は、たんに労働生産物ばかりでなく、それを生産するための生産手段も労働力も、すべてみな一様に商品形態をとっている点にある。

 したがって、商品形態は、資本主義的生産の要素的な細胞形態、およびその全内容を包摂し総括する普遍的な一般形態をなすとともに、そのことによって同時にまた、その特殊な歴史的形態――資本主義的生産を他の社会的生産から区別するその特殊な歴史的形態――ともなっている。

 それゆえ、資本主義的生産をその特殊歴史性において解明しようとするわれわれの出発点は、この商品形態でなければならない。

 いいかえれば、われわれの出発点にあっては、資本主義的生産それ自体が、そのもっとも要素的かつ一般的な、だが同時に特殊歴史的な存在形態において、「ひとつの巨大な商品集積」――商品世界としてあらわれているのである。

 ところで、こうした商品世界の解明のそのまた出発点は、商品をして商品たらしめるその特質――商品でないものから商品を区別するその質的規定性――の確認でなければならない。

 そしてそうした商品の質的規定性が、商品の価値にほかならない。したがって、価値とは、すべての商品をして一様に商品たらしめる諸商品相互の同質性でもある。いいかえれば、価値としては、商品は、商品世界の質的に同等な構成員である。

 これにたいし、商品の使用価値とは、商品をしてたがいに相異なった商品種類として区別する異質性であり、個々の商品体がそなえている使用上の有用性である。

 かくて、商品とは、さしあたり、こうした相対立する二要因、価値と使用価値との統一物として商品である。

 そしてこのばあい、価値が商品の積極的要因――商品を商品として定立する積極的な活動性――をなし、使用価値がその消極的要因――価値としての商品の同質性を制約する否定性――をなすことはいうまでもない。

 したがって、商品における価値と使用価値との右の統一の直接の結果は、特定の使用価値をもった個々の具体的な商品としての商品の定立であり、そうした個々の具体的な商品への商品世界の分裂である。

 そしてこうした個々の具体的な商品において、いまや価値は、個々の商品が他の商品にたいして展開する同質性の活動としてあらわれ、また使用価値は、それを制約する否定性としてあらわれることになる。

 それゆえ、いまやわれわれは、商品の価値を、使用価値との関係において、個々の商品が他の商品との交換を要求しそれをとおして他の商品との同質性を定立しようとするこうした活動性の形態として、すなわち、価値形態または交換価値として考察しなければならない。

 

   二 価値形態または交換価値

 

 個々の商品が他の商品との関係で示すもっとも簡単な価値形態は、一商品が他の一商品を交換に要求し、これをとおして、自己の価値を自己の商品体――使用価値――から区別してこの他の商品の使用価値にひとしいものとして表現する形態、すなわち、簡単な価値形態である。

 これを定式化すれば、

 リンネル20ヤール=1着の上衣

 ここでは、商品リンネルが自己の価値を、20ヤールのリンネルというその使用価値体から区別して、商品上衣の1着の上衣という使用価値体にひとしいものとして表現している。

 したがって、このばあい、商品リンネルは、他の商品との相対的関係において自己の価値を他の商品との同質性として積極的に定立しようとする活動性の形態、すなわち、相対的価値形態にたっている。

 これにたいし、商品上衣は、商品リンネルによって交換に要求され、それによってその使用価値体をリンネル価値の存在形態として定立される受動性の形態、すなわち、リンネル価値の等価形態にたっている。

 だが、このように商品上衣は商品リンネルにたいし受動性の形態にたっているとはいえ、かえってそのことによって、商品リンネルとの直接交換可能性の形態をあたえられている。商品リンネルから交換を要求されることによって、上衣1着というその使用価値体そのものが直接にリンネル価値の存在形態となっているからである。

 したがって、商品リンネルとの関係にかんするかぎり、商品上衣にあっては、価値と使用価値の矛盾は解決されている。商品リンネルとの関係においては、商品上衣の使用価値は、もはや、それと商品リンネルとの価値としての同質性を制約する矛盾としては存在しないからである。

 これに反し、商品リンネルは、なるほど商品上衣を交換に要求する価値としての積極的活動性の形態にはあるが、しかし、上衣にたいする直接交換可能の形態はもっていない。商品上衣もまた、リンネルを交換に要求してくれ、それによってリンネル体そのものを上衣価値の存在形態として定立してくれるかどうかは、商品リンネルの決定しうることではなく、もっぱら商品上衣の価値としての主体的活動性にぞくすることだからである。

 したがって、商品上衣にたいする商品リンネルのこの価値としての同質性の定立は、まだ現実の定立ではなく、観念的定立――商品上衣にたいする商品リンネルの主観的願望にすぎない。

 いいかえれば、商品リンネルは、これから価値として生成しなければならぬのであって、まだ価値ではない。価値としては、それはまだ観念的存在にすぎず、現実的には使用価値なのである。

 しかもこのばあい、リンネル20ヤールというその使用価値体は、商品リンネルのこの価値としての生成を制約する矛盾としてあらわれざるをえない。商品リンネルの価値としてのこの生成は、もっぱら、上衣商品がリンネル商品に交換をもとめそれによってリンネル商品の使用価値を上衣価値の存在形態として定立してくれることに依存しているが、しかし、商品上衣は、20ヤールのリンネルという商品リンネルのこの使用価値体を好いてくれるかもしれないし、好いてくれないかもしれないからである。

 かくして、価値形態とは、個々の商品における価値と使用価値の矛盾の具体的な定立であって、まだその解決ではない。

 しかも、簡単な価値形態にあっては、この矛盾の定立それ自体が、まだ一面的であり、局限的である。

 いまやわれわれは、個々の商品が、他の一商品との交換ではなく、他の多くの商品との交換を要求し、これをとおして、自己の価値をこの他の多くの商品の種々雑多な使用価値にひとしいものとして表現する形態、すなわち、拡大された価値形態へと視点を移さなければならない。

 これを定式化すれば、

 リンネル20ヤール=1着の上着

 リンネル5ヤール=2ポンドのコーヒー

 リンネル30ヤール=1トンの鉄

 リンネルXヤール=一定量のY商品

 ここでは、商品リンネルは、自己の価値を、たんに1着の上衣だけではなく、他のいくつかの商品の相異なる諸使用価値体、すなわち、1着の上衣、二ポンドのコーヒー、一トンの鉄等々にひとしいものとして、表現している。

 したがってここでは、商品リンネルの価値としての生成は、リンネルというその使用価値体を、たんに商品上衣ばかりでなく、商品コーヒーや商品鉄等々もまた好いてくれ、それをこれらの商品の価値の存在形態として定立してくれることに依存している。

 したがって、拡大された価値形態にあっては、個々の商品における価値と使用価値の矛盾もまた、拡大された矛盾として定立されている。

 だが、この矛盾の拡大とともに、その解決を準備するあらたな形態の可能性もまたここには定立されている。

 そしてこれは、次の理由による。

 ① ここでは、リンネル商品の価値は、他のいくつかの商品のいく種類かの使用価値にひとしいものとして表現されており、まさにそのことによって、同時にまた、それらの使用価値のどの特定のひとつにもひとしくないものとして表現されている。リンネル商品の価値は、1着の上衣でも、二ポンドのコーヒーでも、一トンの鉄でもありうるが、そのうちのどれか特定のひとつ、たとえば、1着の上衣そのものでも、二ポンドのコーヒーそのものでもないわけである。このことは、拡大された価値形態にあっては、一商品の価値がたんにその商品の使用価値から区別されるだけでなく、それの等価形態にたつ商品の使用価値からさえも区別されているということにほかならない。ここでは、すでに、上衣、コーヒー、鉄等々の使用価値は、リンネル価値のそれぞれの現象形態となっており、リンネル価値そのものは、これらの使用価値的現象形態からは区別された抽象的第三者、すなわち、それらの背後にあってそれらを自己の代表物とするところの抽象的な量となっているのである。そしてこのことは、いまや、リンネル価値は、こうした抽象的量として、どれか特定の一商品によって代表的に表現されうるということを意味している。だが、たんにこればかりではない。

 ② 商品世界を構成する個々の商品がこのように拡大された価値形態をとるということは、これら諸商品のたがいに交錯する無数の価値形態のいくつかの結節点において、多数の商品から共通に交換をもとめられ、それによってこれら多数の商品の共通の等価形態となるようないくつかの特殊な商品が出現しうるということを意味する。そしていうまでもなく、これらの商品にあっては、その使用価値が多数の他の商品の価値の存在形態となっているために、この多数の商品にたいする直接交換可能性の形態をあたえられており、したがってそのかぎりでは、価値と使用価値との矛盾は解決されている。

 それゆえ、拡大された価値形態にあっては、たんに、個々の商品の価値が特定の一商品の使用価値によって代表的に表現されうるという可能性が定立されているというばかりでなく、そうした特定の商品が、すでに即自的には、多数の諸商品の拡大された価値形態の交錯点において、現実にも生成しているのである。

 このような特定の一商品が、多数の商品によって共通の等価形態として定立されるとき、価値形態は一般的価値形態となる。

 これを定式化すれば、

 1ヤールのリンネル=2/5ポンドのコーヒー

 1着の上衣=10ポンドのコーヒー

 1トンの鉄=20ポンドのコーヒー

 一定量のA商品=X量のコーヒー

 ここでは、まず第一に、商品コーヒーの使用価値体が、商品リンネル、商品上衣、商品鉄等々の価値の共通の存在形態となっているが、それは、もはやこれらの商品の単独の活動ではなく、それらの商品の共同の社会的活動によって媒介されている。

 したがってここでは、たんにこれらの多数の商品の価値がコーヒー商品の使用価値にひとしいものとして統一的に表現されているばかりでなく、そのことをとおして同時に、これら諸商品の価値としての相互の同質性もまた表現されている。

 しかも、すでに拡大された価値形態でみたように、コーヒー商品の使用価値は、これら諸商品の価値そのものではなく、それの代表物にほかならない。いいかえれば、コーヒー商品の使用価値は、ここでは、これら諸商品の価値のそうした使用価値的代表物として、それらの価値の独立的存在となっているのである。

 したがって第二に、ここでは、商品コーヒーは、こうした諸商品の共同行為によって、すなわち、それの使用価値がこれら多数の商品の価値の共通の独立的存在とされることによって、それらの諸商品にたいする直接交換可能性の形態をあたえられている。しかも、このように商品コーヒーが多数の商品の共同行為によって直接交換可能性をあたえられているということは、相対的価値形態にたつ個々の商品にとっては、すでに社会的な前提になっている。

 いいかえれば、ここでは商品コーヒーは、これら多数の商品によってもはや使用価値として交換を要求されているのではなく、その直接交換可能性のゆえに、最初からして交換手段として、価値の独立体として、交換を要求されているのである。

 だが、このように商品コーヒーの使用価値体が価値の独立体となるのは、他の諸商品が商品コーヒーを排除し、それを排他的な等価商品として定立するからにほかならない。このことは、いくつかの商品がこもごもこうした等価商品の位置にたつことは、もはや一般的価値形態と両立しないということを意味する。

 かくて、一般的価値形態とは、商品世界のなかから特定の一商品を排除し、それを商品世界全体の共通の等価商品として定立しようとする過程とならざるをえない。

 そしてこのような過程をとおして、商品世界全体の等価商品が特定の一商品に集約され、それが最終的に金商品におちつくとき、金商品は貨幣へと生成し、一般的価値形態は、価格形態へと転化する。

 

   三 価   格

 

 価格形態を定式化すれば、

 1ヤールのリンネル=1/10オンスの金

 1着の上衣=1オンスの金

 1トンの鉄=5オンスの金

 1ポンドのコーヒー=1/5オンスの金

 一単位のA商品=Xオンスの金

 ここでは、商品金が商品世界全体の排他的な一般的等価商品となり、そのようなものとして貨幣となっている。

 したがってここでは、一定重量としての金の使用価値的定在が商品世界のすべての商品の価値の独立的定在となっており、個々の商品は、自己の価値を種々な金重量にひとしいものとして呈示することにより、自己の価値としての相互の同質性と大いさとを統一的に表現している。

 こうしていまや、個々の商品が自己に等置する金の重量名もしくはその変名は、商品世界の公認の価値名となり、そのようなものとして価格となっている。

 ところで、商品金がこうして貨幣商品へと生成するのは、主として次の事情にもとづいている。

 ① 金は質的に一様で、なんらの質的変化なしに任意の大きさに分割もできれば、合成することもでき、しかも使用価値の量――重量――に比して価値が大きく、耐久性に富む。この性質は、金を価値表現の素材に相応しいものとしている。

 ② 金は社会生活にとって直接には必要でなく、多分に奢侈品的性格をもっている。これは、金の自然的性質とならんで、貨幣素材に適合した社会的性質を金にあたえるものとなっている。

 だが、ここで注意すべきは、価値形態がこのように価格形態へ生成したとしても、それはまだ、商品の価値と使用価値の矛盾が解決されたことを意味するものではなく、むしろそれが解決されうるようなかたちで全面的に定立されたことを意味するということである。

 なるほど、この矛盾は、貨幣商品金にあっては解決されている。金重量というその使用価値定在それ自体が全商品世界の価値定在となっており、したがって使用価値は、もはや商品金の他の全商品にたいする価値的同質性を制約しないからである。だが、これは、他の全商品が等価形態――直接交換可能性の形態――にたつことを放棄し、それを金商品にゆだねているからにほかならない。したがって、金商品において価値と使用価値の矛盾が解決されているということは、他の全商品においてはそれが全面的に定立されているということを意味する。商品金が直接交換可能性の形態にあるとすれば、他の全商品は、非直接交換可能性の形態にあるわけである。

 それゆえ、価格形態における貨幣への商品の等置は、まだ観念的等置――商品の側の主観的行為にすぎない。いいかえれば、商品は、現実的には使用価値なのであり、これから貨幣へと生成しなければならぬものとして観念的に価値であるにすぎない。しかも、商品の貨幣へのこの生成――現実的価値へのこの生成――は、その使用価値体が貨幣によって好かれるものでなければならぬという事情によって、全面的に制約されている。そしてこれが、商品の側において全面的に定立されている価値と使用価値の矛盾にほかならない。

 いまやこのようにして、商品における価値と使用価値の矛盾は、貨幣と商品との対立関係へと外化し、それとともに商品世界は、君主商品と平民商品とに、すなわち、価値の独立的定在としての貨幣と、現実的には使用価値で観念的に価値であるにすぎぬ商品とに、分裂している。そして矛盾のこうした全面的な定立とともに、その解決の可能性もまた定立されている。商品金は、いまや貨幣として、商品世界にたいする全面的行動の可能性をあたえられているからである。

 

 

第二節 貨   幣

 

   一 価値尺度

 

 いまや、商品金は、貨幣として、いいかえれば、一定重量の金としてのその使用価値的定在そのものにおいて商品価値の独立的定在として、登場している。

 だが、商品金は、このように商品世界の全体によって貨幣という地位をあたえられたとしても、そのことによって自己の商品金としての本源的性格を否定されるものではない。それは、商品金としては、一定重量の金としてのその使用価値的定在に意義があるのではく、まず第一番に、それ自身も価値物であり、価値物としては、他の特定の使用価値との交換を要求し、それをとおして、他の商品との自己の価値としての同質性を証明しようとしてまちかまえているものである。

 だから、貨幣となった商品金の最初の行動は、この貨幣という地位を利用して、自己の欲する特定の使用価値の商品を交換に獲得し、それによって、自己を使用価値として実現すること、すなわち、購買である。

 そして、こうした貨幣商品金の購買手段としての出動によって、この特定の使用価値の商品は、その使用価値体から解放され、一定額の貨幣として、すなわち、一定量の価値の独立的定在として、実現されることになる。

 こうしていまや、貨幣商品金の価値としての活動を媒介にして、この一般商品もまた、観念的価値、観念的貨幣=価格から、現実の価値、貨幣となった。

 だが、商品から貨幣への、観念的価値から現実的価値へのこうした生成は、貨幣商品の側からの行動によってのみ実現されるところの、したがって一般商品の側からは自発的に実現しえないところの「命がけの飛躍」である。この飛躍に失敗すれば、一般商品は、たんにその価値をうしなうというばかりでなく、使用価値さえもうしなわざるをえない。またかりに成功するとしても、商品の価格がそのまま実現されるわけではない。この飛躍が困難であれば、商品は、価格を下げてでも、貨幣に媚を呈しなければならない。まさにこの意味で、価格は、貨幣にたいする商品の主観的願望にすぎず、まだ、貨幣によって公認された商品の価値なのではない。

 だが、ひとたびこの命がけの飛躍に成功するならば、そして観念的価値から現実的価値へと生成するならば、もはや商品の価値としての行動を制約するものはなにもなく、いまや商品は、貨幣として、すなわち、使用価値的制約から解放された実現された価値として、自己の欲する他の任意の使用価値の商品を自由に購買することができる。そしてこれによって、この他の商品もまた、一定額の貨幣として実現され、その使用価値体から解放されて、観念的価値から現実的価値へと生成することになる。

 かくして、貨幣は、このようにたえずくりかえし実現された商品価値として他の商品価値の実現を媒介することにより、諸商品の全面的な交換を媒介する。そしてそのことによって同時にまた、商品と貨幣との、そしてまたこれを媒介にして商品と商品との価値関係を確定し、それを社会的に公認する。これが、商品における価値と使用価値との矛盾を貨幣が現実的に解決するかたちにほかならない。

 そして貨幣は、購買手段および価格の実現者としてのまさにこうした活動をとおして、商品世界の全体にたいし価値尺度として機能する。

 したがって、価値尺度としての貨幣の機能の結果は、商品世界の個々の商品の価格の客観化であり、それの客観的な価格体系への総括であり、商品世界全体の価格関係の統一的な価格体系への形成である。

 それゆえ、いまやわれわれは、商品世界の全体を、こうした客観的な価格体系――統一的な価値関係――のもとに全面的に流通しつつある商品世界として、すなわち、商品流通世界として、考察しなければならない。

 

   二 流通手段

 

 貨幣によって媒介される商品流通は、物々交換とは本質的に異なっている。

 個々の商品についてみれば、流通は、商品Wの貨幣Gへの実現、すなわち販売W―Gと、この貨幣による他の商品W´の購入、すなわち購買G―W´との結合からなりたっている。したがってそれは、W―G―W´として定式化することができる。だが、これは、Gを媒介にして二商品WとW´とが交換されるということでは決してない。商品Wの所有者は、その販売によってえた貨幣Gをもって商品W´を購買するが、この商品W´の販売者は、それによってえた貨幣Gをもって、商品Wを購買するのではなく、かれの欲する第三の商品を購入するのである。

 つまり、商品の流通は、販売と購買のたがいに錯綜した社会的連鎖をなし、この連鎖を通じて商品は全社会的に多角的に交換されるのであって、これを図示すれば、次のようになろう。
 

 

 

 このばあい、→印は、貨幣の流れを示し、……→印は、商品の流れを示す。すなわち、商品はたえず貨幣と反対の方向に流れて使用価値として流通界から去っていくのに反し、貨幣は、くりかえし購買手段、商品価値の実現者として機能しつつ商品と反対の方向に通流し、諸商品の全面的な多角的交換とその社会的な使用価値転換――素材転換――を媒介する。

 貨幣は、商品流通のこうした社会的媒介者としてあらわれるとき、流通手段である。

 そして、この流通手段としての貨幣に適合した貨幣の機能的定在形態が、鋳貨にほかならない。すなわち、貨幣商品金は、一定重量の金細片に鋳造され、貨幣名を刻印され、一々評量される手数なしに売買をくりかえすのに適合した形態をあたえられる。

 だが、このように鋳貨となるとき、鋳貨の金実質は、ある程度まで名目化し、象徴化する。それは、磨損等々によって実質重量を減じても、その鋳貨としての名目重量によって、流通手段として通用する。貨幣は、その金重量によって商品価値の独立的定在となっているものであるが、しかし、流通手段としては、その価値の独立的定在は、商品価値の経過的な一時的定在にすぎないからである。

 ここからまた、少額通貨に適合した形態として、銅等々からなる補助通貨が発生してくる。さらにはまた、強制通用力をあたえられた紙幣によって、金鋳貨を代位することも、ある程度まで可能となる。先にもみたように、流通手段として機能するかぎりは、金鋳貨自体が、その実質重量によってではなく、名目重量によって通用するものとなっているからである。

 ところで、先にもみたように、価値尺度としての貨幣は、ただその金実質による商品価値の独立的定在という資格においてのみ、機能するものであった。したがって、このように流通手段において貨幣の金実質が名目化し観念化するということは、金実質による貨幣の価値尺度としての積極的な活動が、ここでは後景にしりぞき、消極化していることをものがたるものにほかならない。そしてこうした貨幣の価値尺度機能の消極化は、それはそれでまた、ここでは商品世界が、すでに貨幣によって全面的に尺度された、そしてそれによってその価値関係を客観的に確定された統一的な商品流通世界として、出現しているということの結果なのである。

 つまり、ここでは、商品世界が、客観的に確定された価格体系と一定の社会的な広がりと諸商品の平均的な流通速度とをもった全体的な商品流通世界として登場しているのであって、それが商品価値の独立的定在としての貨幣の積極的活動性を消極化し、後景においやっているわけである。

 したがってここでは、積極的活動性は、商品世界の側にあるのであって、もはや貨幣の側にあるのではない。いいかえれば、商品世界の方が自己の社会的な流通を貨幣の通流のうえに反映しているのであって、貨幣の通流の方が商品世界を商品流通世界として定立しているわけではない。

 こうした点を端的に示すものは、流通手段として社会的に流通する貨幣の総量が、貨幣の側からではなく、商品流通の側から定まってくるという事情であろう。

 すなわち、流通貨幣総量は、直接には、流通しつつある商品総量の価格総額と貨幣の流通速度という二つの要因によって、すなわち両者の商によって、決定されるわけであるが、しかし、この二つの要因それ自体を決定するのは、さきにわれわれがあげた商品流通世界自体の三つの契機、すなわち、①商品世界の価格体系、②その社会的な大きさ、③諸商品の平均的な流通速度、なのである。そしてこの三つの契機は、さきにもふれたように、価値尺度としての貨幣の機能――商品価値の独立的定在としての貨幣の積極的な活動――によって客観的に確定された商品世界の全体的な価値関係の内的契機にほかならぬのである。

 つまり、ここでは、商品世界が、その客観的な価値関係によって貨幣を流通必要量として社会的に規定し、この貨幣の社会的な量的定在のうちに、自己の価値関係を全体的に総括しているわけである。

 それゆえ、流通貨幣量としての貨幣の客観的な量的定在は、統一的な価値世界として定立された商品世界のその客観的な全体性の総括的な表現にほかならない。そして、まさにこの意味において、商品流通世界としての商品世界の定立は、商品における価値と使用価値の矛盾の解決の最初の定立であり、「経済学的範疇の展開のなかであらわれる最初の全体性」の定立なのである。

 だが、商品流通世界のこの全体性――客観的な価値世界としての統一性――は、まだ局限された表皮的な全体性にすぎない。それはまだ、たかだか、価値尺度としての貨幣の活動によって媒介され定立された商品世界の全体性にすぎぬからである。

 すでにみたように、価値尺度としての貨幣にあっては、貨幣は、まだそれ自身としては、たんに個々の特定の使用価値の商品にたいする購買手段として出動するにすぎず、その反復がたんに結果として、商品世界の全体にたいしその価値関係を客観化するものとして作用するというにすぎなかった。そこでは、商品世界の全体にたいし価値尺度として出動しその価値関係の客観的形成を媒介するという活動は、まだ貨幣それ自身において、いいかえれば、貨幣自身の目的意識的活動としては、定立されていなかったわけである。

 このことは、商品世界の側からいえば、まだ流通手段の量的定在のうちに自己の客観的全体性を総括しているにすぎぬような商品世界は、この全体性を維持し再形成するような機構を、まだ自己自身の内部に定立していない、ということにほかならない。

 だからこそ、この商品世界――たんに価値尺度としての貨幣の活動を通じて商品流通世界として定立されたにすぎぬ商品世界――は、外的な諸事情によって偶然的に変動する。そしてこの変動は、流通貨幣量の量的変動のうちに総括的に表現される。

 だが、貨幣は、たんなる価値尺度、流通手段としては、もはやこの量的変動に、あるいはむしろ、この量的変動のうちに総括的に表現されている商品流通世界の全体的変動に、対応することはできない。

 いまや、このようにして、商品流通世界として定立された商品世界をさらに全体的に媒介するあらたな形態の出現が要請されているのであって、そのさしあたりの形態が、富としての貨幣にほかならない。

 

   三 富としての貨幣

 

 すでにみたように、貨幣は、価値尺度としては、その金実質による商品価値の独立的定在という資格によって、商品世界の全体にたいし価値尺度として機能し、その価値関係を客観的に確定し形成した。だが、そこではまだ、あらゆる商品価値の独立的定在というこの貨幣の地位は、貨幣自身にとっては、独自の意義をもつものとしては定立されていず、貨幣自身は、たんにこの地位を、個々の特定の使用価値にたいする購買手段として出動するにあたって利用したにとどまった。

 他方、これにたいし、流通手段としては、貨幣は、その金実質による商品価値の独立的定在という資格を消極化され、商品世界の客観性のうちに埋没せしめられ、さらには鋳貨においてそれ自身の名目にまでひきさげられた。だがじつは、貨幣は、こうした流通手段として、したがって流通貨幣量として、はじめて現実的に自己の的定在のうちに商品世界の全体を総括するのであり、はじめて現実的にあらゆる商品価値の実現された形態、およびあらゆる商品の使用価値へと転化していく形態となるのであり、一言でいえば、商品世界のすべての商品の価値と使用価値の社会的総括となるのである。

 そしてこうした成果が貨幣自身において確認され独自の意義をもつものとして定立されるとき、貨幣は、たんに商品流通世界の内部にあって個々の商品に購買手段として対立するものから、この商品流通世界の全体にたいし、あらゆる商品の価値の独立体およびあらゆる商品の使用価値の総括体として対立するものへと転化し、まさにそのようなものとして、一般的富としての貨幣となる。個々の使用価値的富――特殊的富――にたいする欲望から区別された黄金欲ないし一般的致富欲の対象としての貨幣が、いうまでもなく、それにほかならない。

 こうした一般的致富欲の対象としては、貨幣は、もはや個々の特定の使用価値の商品にたいする購買手段として意義をもっているのではなく、商品世界のあらゆる使用価値の商品に転じうる一般的可能性としてのみ意義をもっているのであって、まさにその意味で、それは、個々の使用価値的富から抽象された一般的富をなすわけである。それは、商品流通から発生する商品経済に特有な富の形態にほかならない。

 そして貨幣がこのように一般的富として所有されることになると、もはやそれは、一定量の貨幣としてのその量的限界をゆるしえないものとなる。量的に限定された貨幣では、流通に投じてもたんに限られた使用価値の商品しか購買することができず、商品世界のあらゆる使用価値の商品を購買することはできないからであり、したがって、もはや一般的富とはいえないからである。

 だから、ひとたび貨幣が一般的富として所有の目標となると、それは同時に、貨幣をたえず流通の外にひきあげ無限に蓄積しようとする衝動とならざるをえない。

 こうして、一般的富としての貨幣の直接の形態は、蓄蔵貨幣となり、商品販売は、特定の使用価値の商品にたいする購買手段の獲得を目標とするものから、こうした貨幣蓄蔵のための手段へと転化する。

 ところで、商品の販売がこのようにして貨幣蓄蔵のための手段となると、そこからまたあらたな関係が展開してくる。商品の信用販売とそこから発生する支払手段としての貨幣が、それにほかならない。

 商品の信用販売とは、商品が現金にたいしてではなく、一定期日後の貨幣の支払約束にたいして販売される関係のことであるが、このばあい、商品の売却と同時に、その販売代金が売手から買手に貸付られ、それだけの貨幣額の債権債務関係が売手と買手とのあいだに形成されることになるのであって、当然に買手は、一定期日後には、この貨幣債務を現金をもって支払わなければならない。

 これが、支払手段としての貨幣にほかならないが、こうした関係が、蓄蔵貨幣とそのための商品販売の関係から必然的に発生するのは、次のような理由にもとづいている。

 ① 蓄蔵貨幣のための販売にあっては、貨幣の獲得そのものが自己目的となっているわけであるが、いいかえればこのことは、ただちに購買手段として使用する必要のないいわば余裕のある貨幣、剰余の貨幣――剰余の富の商品経済的形態――の獲得が目的になっているということにほかならず、したがってそれは、買手によって絶対的に支払われなければならないが、しかしただちに支払われる必要はなく、買手にたいする貨幣債権としても保有しうる貨幣となっている。

 ② 他方、商品の販売は、貨幣の無限の蓄蔵衝動のための手段になることにより、それ自身もまた無限に拡大されなければならないものとなっている。したがってここでは、売手がたんに消極的に商品の販売代金をただちに現金として回収しないで買手に貸付けておくことができるというばかりでなく、むしろ積極的にそれを手段にして商品販売の拡大を強行しなければならないものとなっている。

 かくして、商品の信用販売とは、蓄蔵貨幣のための商品販売の発展転化した形態にほかならない。そしてこの転化に対応して、一般的富としての貨幣の蓄蔵もまた、観念化し、買手にたいする貨幣債権というかたちでの一般的富としての貨幣の蓄積へと転化するのであって、一定期日ののちにそれを補足する過程こそ、債務者たる買手による商品流通世界からの貨幣――一般的富としての貨幣――のひきあげであり、債権者たる売手へのそれの支払である。いいかえれば、ここでは、貨幣蓄蔵者は、貨幣債権者となり、かれの債務者を強制して、流通から一般的富としての貨幣をひきあげさせ、それを自己に支払わせるのである。

 それゆえ、支払手段としての貨幣にあっては、一般的富としての貨幣を獲得するための商品販売は、貨幣蓄蔵者の主観的行為から、貨幣債務者にたいする社会的強制へと転化する。

 かくて、支払手段としての貨幣とは、一般的富としての貨幣の発展転化したその第二の形態にほかならない。

 それは、商品流通世界の外部における債務者から債権者への一般的富としての貨幣の移転なのであって、商品流通世界の内部における貨幣の流通ではない。

 だが、第三に、このようにして支払われた貨幣は、支払う側にとっては支払手段であるが、それを受けとった側にとっては、もはや支払手段ではない。それを受けとった債権者は、ふたたびまたそれを一般的富として保蔵することになるからである。

 したがってそれは、その直接の形態からみれば、ふたたびまた蓄蔵貨幣であるが、しかしそれは、支払手段を媒介にしてより高度な次元で蓄蔵貨幣の形態へと復帰したところの、したがって蓄蔵貨幣と支払手段とを統一するところの、一般的富としての貨幣のあらたな形態その第三の形態をなすのであって、最初の蓄蔵貨幣とは異なり、そのうちにはすでに次のような諸契機がふくまれている。

 ① この貨幣は、最初には商品の信用販売をとおして他人にたいする債権として蓄積され、ついで、この貨幣債権という観念的存在から現実の貨幣へと実現された富としての貨幣である。したがって、この貨幣にあっては、一般的富としての増加のためであれば、ふたたびまた自己の現実的存在を観念的存在に転化しうるという可能性が定立されている。いいかえれば、その直接的存在は、ふたたびまた蓄蔵貨幣であるが、すでにそれは、自己の現金形態に固執しないものとなっているわけである。

 ② この貨幣は、あいへだたる二つの時期にわたって商品流通世界に関与している。それが商品の信用販売を通じて買手にたいする債権として形成される時期と、買手があらたに商品の販売によって商品流通世界から貨幣をひきあげてそれをもってこの債権を支払う時期が、それである。したがって、この貨幣にとっては、この二つの時期の商品流通世界のあいだに価値関係の変動があれば、その利害に直接に影響せざるをえないものとなっている。いいかえれば、この貨幣は、商品流通世界の変動に、自覚的に相対するものとなっている。たしかに、最初の蓄蔵貨幣もまた、即自的にはすでに商品流通世界の価値関係の変動に相対するものとなっている。しかしそれは、まだそこにあっては、特別の意義をもつものとしては定立されていなかったのである。

 ところで、このばあい、商品流通世界の価値関係のこの変動とは、価値関係を異にする相異なった商品流通世界の時間的系列における並存にすぎない。変動以前の流通世界とそれ以後の流通世界とのあいだには、たんに金商品が共通の貨幣商品になっているという統一性が存在するにすぎず、両者のあいだにそれ以上の内的関連は、まだ定立されていないからである。したがって、それは、理論的規定のうえからいえば、たんに金商品を共通の貨幣商品とするだけで空間的に並存しているところの、価値関係を異にする相異なった商品流通世界と、おなじ性格のものである。

 それゆえ、この第三の形態における一般的富としての貨幣とは、さらにたちいって規定すれば、価値関係を異にする相異なったいくつかの商品流通世界に相対するものとして定立された一般的富としての貨幣にほかならない。まさにこのようなものとして、それは、世界貨幣である。

 かくて、世界貨幣にあっては、さきに流通手段において統一的全体としてあらわれた商品世界は、ふたたびまた分裂し、価値関係を異にする多数の相異なった商品流通世界としてあらわれている。したがって、ふたたびまたそれは、価値の独立的定在としての貨幣の積極的な活動によって、その価値関係の統一的全体性をこれから形成され媒介されなければならないものとして、定立されている。

 だが、貨幣は、たんなる一般的富としての貨幣としては、この媒介を積極的にはたしうるものではない。一般的富としての貨幣の商品流通世界にたいする関連は、そこから貨幣をひきあげて無限に蓄積しようとするところのいわば「否定的」な、消極的な関連にすぎず、まだ積極的にそこに出動する形態をもたぬからである。その流通界への出動は、まだ、一般的富を使用価値的富を解消するものとして、いわばやむをえずおこなわれるものにすぎない。

 だが、さきに確認したように、世界貨幣にあっては、たんに多数の商品流通世界に相対するという契機ばかりでなく、同時にまた、自己の現金形態に固執せずその貨幣定在を観念化しうるという契機もまた、定立されている。

 いいかえれば、それは、この多数の商品流通世界の価値関係の相違――価格体系の差異――を自己の価値増殖のために利用しうるならば、その貨幣定在をすてて一時的に商品の姿をとり、そこからまた最初の貨幣定在に復帰しうるような貨幣となっているのである。

 それゆえ、こうした世界貨幣としては、貨幣は、すでに潜在的に資本である。それは、商品流通世界に積極的に出動し、そこからまた自己の貨幣定在に復帰する運動としてあらわれるとき、現実に、資本となる。

 

 

第三節 資   本

 

   一 商人資本

 

 かくて、資本となった貨幣、資本としての貨幣の最初の形態は、貨幣を商品流通世界に投じて商品をひきあげ、その商品を他の商品流通世界に投じてより多くの貨幣として回収する運動、すなわち、商人資本、G―W―G´である。

 したがって、この商人資本G―W―G´において、出発点と復帰点にあらわれるのは、世界貨幣としての貨幣であり、商品Wは、この世界貨幣が一時的にとる過渡的形態である。したがってここでは、商品は、もはやその特定の使用価値のために購入されるのではなく、ふたたびまた流通世界に投ぜられてより多くの貨幣に実現されるために購入されるのであって、このようにして実現された、GをこえるG´の超過分⊿Gは、Gの増殖分として、商人利潤をなす。

 このようにして、いまや貨幣は、商人資本において、商品価値のたんなる独立的定在から、商品をその過渡的形態とするところの価値の運動体となり、またこの運動をとおしてたえずその大きさを拡大するところの自己増殖体となった。したがって、資本としての貨幣にあっては、さきに一般的富としての貨幣を流通世界との不断の敵対へと駆りたてた矛盾――その量的限界が一般的富というその質的規定性と両立しないという矛盾――は、すでに解決されている。自己増殖的価値として、それは、もはや特定の量的限界をもたず、たえず自己の量的限界をのりこえる運動だからである。

 そこで、こうした点をこんどは商品流通世界の側からみれば、いまや、商品世界――価値関係を異にするいくつかの流通界に分裂した商品世界――は、商人資本において、この価値関係を統一化し、それらをふたたびまた統一的な商品世界として再形成するところの活動的な媒介運動をもったということにほかならない。まさにこのようなものとして、商人資本の活動は、世界商業としてあらわれるのであって、それが商品流通世界にたいしてはたす役割は、種々な商品流通界のあいだの商品売買を仲介し、それによってそれらを結合しつつ、それらを統一的な価値関係をもった単一の商品世界へと形成することにあるわけである。そしてまたその点に、商人利潤の社会的根拠もあるわけであって、商人利潤とは、時間的および空間的に並存する相異なる商品流通界の価格体系の相違を個々の商品の価格差として利用することによってえられる利潤にほかならない。

 だが、他方では、こうした商人資本の活動に最初からして限界のあることは明らかである。それはまだ、相異なった商品流通界の並存を自己の外部に前提し、それらのあいだの商品売買の仲介をとおして、たんにそれらを外部から結合し統合しようとする外的な活動にすぎないからである。

 だから、商人資本のこうした活動にもかかわらず、商品流通世界は、商人資本にとって外的に、したがって偶然的に変動し、たえずあらたに価値関係の相違をつくりだし、たえずあらたにいくつかの商品流通界に分裂する。

 それゆえ、商人資本の活動は、こうした価値関係の相違を均等化し、それをとおして相異なった商品流通界を統合しようとする無限の過程となるだけであって、この統一を達成しうる根拠を自己自身のうちにもっていない。

 そしてこうした商人資本の活動の限界性は、商人資本の価値増殖のうえにも反映せざるをえない。

 たしかに一面では、商人資本は、さきにもみたように、すでに、価値の独立体としての貨幣をその出発点および復帰点とし、また商品をその過渡的形態とするところの価値の自立的な運動体、自己増殖体となっている。そしてこの点は、商人資本が、売買活動によってえられたその利潤を、たんに絶対的な大きさとしてではなく、一定期間における投下資本価値の増殖率として、すなわち、利潤率としてのみ問題とするところに、端的に示されている。こうした利潤率にあっては、商人資本は、それがどのような商品の売買活動に従事するかには関係なく、ただ資本価値としてのその大きさと前貸期間とに比例してのみ自己増殖する価値として定立されているのであり、そうした自己増殖的価値としての、したがって資本としての、商人資本相互の同質性が定立されているのである。

 だが他面では、商人資本は、この利潤率を商人資本相互のあいだで均等化することはできない。それは、種々な商品流通界を商品売買の仲介によって外部的に結合する流通資本にすぎず、さきにもみたように、これらの流通界の価値関係の統一を達成しえないからであり、したがってまた、みずからの利潤率を相互に均等化しうる社会的基礎を欠いているからである。

 そしてこのことは、商人資本がまだ自己増殖的価値としても、したがってまた資本としても、未完であることを示すものにほかならない。資本相互の利潤率の不均等性は、資本がまだ、資本価値としてのその大きさとその前貸期間とに比例して一様に増殖する自己増殖的価値としては、したがって資本としては、定立されていないことを、ものがたるものにほかならないからである。

 このようにして、いまや商人資本において、資本価値そのものとして客観的かつ一様に自己増殖するあらたな資本形態への要請が、定立されている。そしてそれを達成するさしあたりの資本形態が、貨幣資本と利子にほかならない。

 

   二 貨幣資本

 

 すでにわれわれは、蓄蔵貨幣において、商品販売が貨幣蓄蔵のための手段へと転化してくると、そこから商品の信用販売と支払手段としての貨幣が発展してくることをみた。

 この商品の信用販売と支払手段としての貨幣とは、商人資本が発生して、種々の流通界のあいだの商品売買を仲介し、それを価値増殖のための手段として利用するようになると、さらに発展し、あらたな意義と役割とをもってくる。いまやそれは、たんなる貨幣蓄蔵のための商品販売の手段から、さらに、この商人資本の価値増殖活動のための手段へと転化するからである。

 かくして、まず第一に、商品の信用販売は、したがってまたそれをとおしての買手への貨幣――販売代金――の貸付は、商人資本が自己の商品をできるだけ多量に、またできるだけ高く買手に押しつけ、そこから商人利潤をひきだすための手段へと、転化する。他方ではまた、これと反対に、商人資本は、商品をできるだけ安くできるだけ多量に買付けるために、その購入代金を売手に前渡ししたりもする。つまり、購入代金の前渡しというかたちで、商品の一定価格での将来の引渡しを条件にして、直接に貨幣を売手に貸付けたりもする。こうして、商人資本にあっては、たんに直接の商品売買活動に資本が投下されているばかりでなく、またそれを補足し拡大し効率をたかめるための種々なかたちの貨幣の貸付けにも、資本が投下されているわけである。

 たんにこればかりではない。

 第二に、商人資本によるこうした商品売買の仲介活動が発展してくると、それと並行して、商人資本相互間の機能分化も進み、取扱地域や取扱商品についての、また卸売業や小売業等々についての商人資本相互間の分業もまた発展し、これにともなって商人資本相互間の商品売買が増大してくることになるが、しかし、こうした商人資本家相互間の商品売買にあっては、商品の信用売買は、通常の単純な商品売買者やまたかれらと商人資本家のあいだの商品売買のばあいとは、異なった意味をもっている。かれらは、一方で商品を信用売りするとともに、他方では、商品を信用買いするからである。つまり、商人資本家相互のあいだでは、商品の信用売買は、それをとおしてかれらが相互に貨幣を貸借しあい、それによって投下資本の効率を高め、売買活動を強化し、商人利潤を増大させる手段へと転化するわけである。そしてこうした商人資本相互間の信用売買の関係から商業手形等々の信用貨幣や、その信用貨幣の流通や相殺を容易にするための社会的媒介機構――信用制度――が発展してくるのであって、これがある程度の発達段階に達すると、貨幣それ自体が、その一定期間にわたる使用権が売買されるものとして、かれらのあいだで商品化し、その代価として利子が支払われるようになる。

 ところでこのばあい、注意すべきは、こうした貨幣の商品化とその代価としての利子の関係は、貨幣そのものが資本となり、その増殖分が利子となるという関係ではないということである。貨幣の貸付は、一定期間の貨幣の使用権の販売にすぎず、利子は、その代価にすぎないからである。

 だが、商人資本相互のあいだでこのような貨幣の貸付と利子の関係が発展してくると、それは、商人資本の資本としての価値増殖率、すなわち利潤率の基準となる。利潤率が利子率に比較され、それが基準となって商人資本が種々な売買活動に投下されるわけである。そしてこのことは、商人資本がみずからのうちに利潤率を均等化しうる根拠をもたず、したがって資本投下の基準となる社会的利潤率を自己のうちにもたないということの反映にほかならない。つまり、商人資本は、みずからのうちに資本の価値増殖の社会的基準をもたないからこそ、商品貨幣の価格としての利子率の客観的一様性のうちに、自己の価値増殖の基準を外的にもとめるわけである。

 かくて、貨幣――利子という関係は、それ自体としては、たんに貨幣の商品化の関係にすぎないが、しかし、商人資本にたいしては、貨幣がそれ自身に利子をうむものとして、資本の価値増殖を純粋に代表するものとなり、貨幣資本―利子として意義をもつことになる。貨幣の貸付が、貨幣の資本としての投下に擬制され、利子が、その資本価値としての増殖分に擬制されるわけである。

 だが、以上にみたところからただちに明らかなように、商人資本の利潤率の不均等性にたいする利子率のこうした客観的一様性は、資本の価値増殖率としての客観的一様性ではなく、たんに商品としての貨幣の価格としての客観的一様性にすぎない。したがってそれは、貨幣市場における貨幣の商品としての需給関係に応じてたえず変動する。そして、商品貨幣の価格としての利子率のこうした性格は、それが商人資本によって資本の自己増殖を代表するものとみなされたからといって、すこしもかわるものではない。

 それゆえ、貨幣の価格としての利子率が、商人資本にたいして、資本の自己増殖を純粋に代表するものとしてあらわれなければならないという事実は、資本は、たんなる商人資本としては、資本価値そのものとして自己増殖するという関係を達成しえないということ、したがって資本として未完であるということの終局的な告白――しかも資本自身による告白――以外のなにものでもない。

 そしてこのことはまた、種々な流通界を外から仲介するたんなる売買活動にとどまるかぎり、もはや資本は、商品世界を統一的な価値関係をもった単一の商品世界としては定立しえないということの終局的な表明でもある。

 こうしてここには、いまや次のようなあらたな資本形態への要請が定立されている。すなわち、みずからの過程をとおして商品世界の全体を再生産し、それによって商品世界を統一的な価値関係をもった単一の商品世界として設定するとともに、みずからの資本としての内的な価値増殖をも達成する資本形態が、それであって、もはやそれは、産業資本、すなわち、あらゆる社会の普遍的実体をなす労働生産過程を自己自身の生産過程としてその内部に包摂する資本、以外にはありえない。

 

   三 産業資本

 

 産業資本は、それゆえ、さしあたり次のように定式化することができよう。

 G—W<……W´―G´  

 この定式において、G―Wとして購入される商品は、商人資本のばあいのようにそのまま販売される商品ではなく、生産過程で生産要素として消費される商品、すなわち、生産手段 Pm と労働力Aである。そしてこの両者の結合による生産過程――これは点線で示されている――によってあらたな商品W´が生産され、それがW´―G´としてより多くの貨幣に実現されるわけである。

 ところで、こうした産業資本において、まず第一に明らかなことは、ここでは資本が、生産の社会的主体をなす労働力を自己の内部にとりこみ、それによってあらゆる使用価値の商品をみずから生産しうるものとして相互に相対しているということ、したがってここでは、生産過程を基礎にする資本相互の内的な同質性が定立されており、これによって資本相互の関係は、個々の資本をその同質的な構成部分とする社会的全体としての資本の内的な分業関係に転化しているということである。

 したがって、第二に明らかなことは、ここでは商品流通世界の全体が、こうした社会的全体としての資本のそのまた社会的全体としての生産過程をとおして内部的に再生産されるものとなっており、まさにそのようなものとして、資本の流通過程――資本として生産された商品の社会的流通過程――へと転化しているということである。このことは、いいかえれば、ここでは商品流通世界の全体と社会的生産過程の全体とが、資本自身の相交替する二過程――資本の流通過程と資本の生産過程――として、全社全的に統一されているということにほかならない。そして商品流通世界は、こうした資本の流通過程として、はじめて、統一的な価値関係をもった単一の商品世界へと生成するのである。

 したがって、第三に明らかなことは、ここでは資本は、もはや商人資本のように商品流通世界の非全体性、非統一性を諸商品の価格差としてその価値増殖のために利用しえないということ、したがって資本の価値増殖は、商品流通世界と商品流通世界のあいだにあって両者を全面的に結合し媒介するものとなっている資本の生産過程において、生ずる以外にはありえなくなっているということである。くりかえしていえば、商品流通世界は、いまや資本の流通過程として、全体としてみれば資本価値の形式的な姿態変換過程――おなじ資本価値が商品から貨幣へそして貨幣からふたたび商品へと姿を換える過程――にすぎないものとなっているからである。

 ところで、われわれは、これまでの展開で次のことをみてきた。すなわち、価値尺度としての貨幣において、諸商品相互の価値関係が、貨幣の活動を通じて、全体としての商品流通世界の価値関係へと形成され、それが流通手段としての貨幣の量的定在のうちに客観的に総括されたこと、ついで、この商品流通世界が、価値関係を異にするいくつかの商品流通界へと分化し、これに貨幣が一般的富として相対立したこと、そして最後に、商人資本において、これらの相異なった商品流通界の価値関係が、それを諸商品の価格差として利用する商人資本の活動を通じて、相互に比較され、連関せしめられつつ、資本の価値増殖関係のうちに還元され総括されたこと、これである。そしていまやわれわれは、産業資本において、資本の価値増殖が生産過程の内部で生ずる以外にはありえないことをみているのであって、このことは、これまでにわれわれがみてきたいっさいの価値関係――諸商品相互の価値関係も、商品流通界相互の価値関係も、すべてみな一様に――が、いまや産業資本において、生産過程の内部的関係のうちに集約され、還元され、そのうちに総括されるにいたったということにほかならない。産業資本は、まさにこのようなものとして、その生産過程の内的関係をとおして資本の価値増殖を実現し、それによって同時に、全商品世界の価値関係を内的に決定し、再生産しなければならぬものとなっているのである。

 

   四 労働力商品と資本主義的生産の特殊歴史性

 

 だが、産業資本は、このように商品世界の全体を内部的に再生産しうるといっても、その根本前提をなす労働力商品それ自体を直接にみずからの生産過程を通じて生産しうるものではない。というのは、労働力はたんなる物ではなく、したがって労働力それ自身によってもそれを物として生産しうるものではないからである。

 労働力は、いうまでもなく、人間の身体のうちに存在する人間自身の能力である。しかもそれは、人間がそれによって自然にはたらきかけ、自然をわがものとし、それによって自己を再生産するところの能力である。つまりそれは、人間のあれやこれやの能力ではなく、労働する社会的主体としての人間のあらゆる能力の総括である。しかも人間は、労働する主体としてはじめて他の動物から区別されるとすれば、こうした能力の総括こそは、人間主体そのものにほかならない。

 だから、こうした労働力が商品として市場に登場するということは、労働する主体としての人間が、自己自身を、商品としての労働力と、そうした労働力商品の自由な私的所有者としての人間とに、二重化しているということにほかならない。そしてこのことは、労働する社会的主体としての人間が、労働のあらゆる現実的諸条件――生産手段――から分離されて、労働力以外には販売すべきなにものももたない自由な私的個人として登場しているということを意味するのであって、そのためには、直接生産者のいわゆる二重の意味の自由、すなわち、生産手段と、他人への人格的隷属との両方からの直接生産者の解放が、達成されていなければならない。

 そして、直接生産者のこうした二重の意味での自由を実現し、かれらを大量的に無産労働者の階級に転化し、それによって産業資本の前提条件を大規模に創出する歴史的過程こそ、いわゆる資本の原始的蓄積の過程、すなわち、商品経済の発達に強制されて中世的社会関係が強行的に解体されていく過程にほかならない。

 ところで、中世封建社会の特質は、いうまでもなく、次の点にある。すなわち、①主要生産手段をなす土地――と直接生産者である農民との自然発生的、共同体的結合、②土地とむすびついたこうした共同体農民の封建領主への隷属、である。したがって、資本の原始的蓄積過程の根本は、土地と農民との共同体的結合の解体、領主への農民の封建的隷属の解体にある。そしてこれを実現する主要過程が、土地にたいする農民共同体的保有関係および封建的領有関係の商品経済的な私有関係への転化にほかならない。それゆえ、資本の原始的蓄積のもっとも徹底的かつ古典的な形態は、農民の共同体的土地保有権の否定による封建的領有権の土地私有権への転化であり、それによる農民の土地からの追放――いわゆるかこいこみ運動――である。

 かくして、産業資本は、こうした歴史的過程――商人資本によってになわれる商品経済の発展による中世封建社会の強行的解体とそれによる無産労働者階級の大量的形成――によって、最初から世界史的に特徴づけられている。こうした無産労働者階級の歴史的成立によって、はじめて産業資本は、社会的生産の特殊歴史的な主体として登場しうるわけである。

 だが、このばあい、われわれが最後に確認しておかねばならぬ点は、このような歴史的過程をとおしてひとたび無産労働者階級が成立し、労働力が商品として市場にみいだされると、資本はそれを基礎にしてあらゆる使用価値の商品をみずから生産しうるものとなり、社会的生産の自立的な歴史的主体として登場するようになるといっても、そのことは、必ずしも現実に資本が社会の全生産部門を資本主義的生産として組織し編成することを意味しないということである。じっさい、歴史的には、資本主義的生産は、社会の全生産部門でひとしく成立するものではなく、たんに一部の産業部門において、すなわち主として特定の加工工業部門――イギリスの綿工業――において成立し、他の生産部門を外部的に自己に従属させたにすぎなかった。そしてこれは、のちにみるであろうように、労働力が人間主体であって物ではなく、したがってそれをあたかも物のように資本にとっての使用価値として生産過程で処理することは本来的に無理であるからにほかならない。

 そしてこのように資本主義的生産が現実には特定の産業部門を活動領域にする部分的な社会的生産にすぎぬとすれば、そのことはまた、資本主義的生産が自己の前提とする商品世界を現実的にはたんに部分的にのみ再生産しうるにすぎないということをも意味する。じっさい、資本主義的生産がその一般的前提とし固有の生活環境としている商品流通世界とは、世界市場と世界商業なのであって、そうした商品世界の全体を資本がみずからの生産過程によって直接に再生産しうるわけではない。

 とはいえ、資本主義的生産のこうした部分性は、それが労働力商品化を基礎にして社会的生産の自立的な歴史的主体として登場することを否定するものではない。根本的にはそれは、国内および国外に広汎に存在する半生業的、半商品経済的、半資本主義的な種々様々の生産にたいし、資本主義は、それらと商品交換関係をとおして接触し、そうした外的な商品流通世界にたいし、現実的にはあらゆる使用価値の商品を生産しないにしても、労働力を基礎にして生産しようとすれば生産しうるものとして、相対するという理由にもとづくが、たんにそれだけではない。世界市場を構成する種々な商品流通界の価値関係は、すでにみたように、それらのあいだの価格体系の相異を商品の価格差として利用する商人資本の活動を通じて、商人資本の価値増殖関係のうちに総括され集約されるのであり、その商人資本の価値増殖関係は、労働力商品を基礎にして、産業資本の内的な価値増殖関係のうちにさらに集約還元され内部化されるのであって、これを基礎にして産業資本は、のちにみるように、現実には部分的な社会的生産にすぎぬにもかかわらず、あたかも社会の全生産部門を自己の内部に包摂しそれによって自立的に過程するかのような運動形態を確立することができるのである。つまり、商品、貨幣、資本の諸形態の展開およびそれらの諸形態による労働力の商品としての定立は、じつは、現実の資本主義的生産が、その「生活環境」をなす世界市場関係を、自己の生産過程の内部的な価値増殖関係のうちに集約し還元するその諸形態の展開でもあるわけである。

 

 

■商品、貨幣、資本の展開と資本主義的生産

 

 <端緒の商品>

■A■まずふるくしてあたらしい問題からいこう。原理論の瑞緒の商品は、いったいどういう性格のものと解したらよいか。また、従来の論争では、どう解されていたのか。

■B■大別して二つの見解がある。「単純商品説」と、「資本家的商品」説だ。前者は、端緒の商品論の背後に独立商品生産者からなるいわゆる単純商品生産社会を想定しなければならぬという説であり、後者は、『資本論』の対象は資本主義社会だから、その出発点も資本家的商品でなければならぬという主張だ。

■C■論理的商品だという説もあるが、どうか。

■D■それはたしかにある。宇野さんの主張なんかも、強いていえば、そういうことになるが、単純商品説でも、たとえば、ヒルファディングのように論理的単純商品説というのがあるから、大別すればやはり二つといってよいだろう。

■C■いったい単純商品説は、どこからでてくるのか。

■B■根本的には、労働価値説の論証の仕方からでてくるといってよいだろう。『資本論』は、冒頭の商品論で、二商品の交換関係をとりあげ、そこから使用価値を捨象して、両者の商品価値としての共通性をただちに労働生産物、すなわち対象化された人間労働という点にもとめ、労働による価値規定を説いている。ここから、自分の労働生産物を相互に交換しあう社会という想定がでてきたのだ。

■E■そういう発想法をはじめてもちだしたのは、『資本論』ではなく、もともとスミス・リカードの古典経済学だ。『資本論』は、たんにそれを踏襲し、より厳密に仕上げただけではないのか。

■D■そういってよいだろう。公式マルクス主義のあいだにみられる労働価値説とむすびついたような単純商品説は、もともと古典経済学のものだ。それは、古典経済学の労働価値説と不可分の関係にある。労働価値説がでてくる以前には、経済学にそういう単純商品生産者社会の想定は存在しなかった。すくなくとも、それは、重金主義や重商主義の発想とは異質のものだ。

■A■たしかにそうだ。商品価値の源泉なり実体なりを問題にするばあい、経済学は、最初から問題をそういうかたちで真正面から提起していたのではなかった。むしろ経済学は、それを、商品価値一般の源泉としてではなく、剰余価値、商品経済的富の源泉はなにかというかたちで問題にしてきた。そしてそれを、商業活動なり、商業活動のための生産なりによってつくりだされる貨幣の剰余、金の剰余としてとらえたといってよいだろう。

 たとえば、ふつうには労働価値説の端緒を説いたものとして、ウィリアム・ペッティがあげられているが、しかしかれは、商品価値の源泉を直接に労働にもとめているわけでは決してない。かれにとっては、金のみが価値なのであって、労働によってつくりだされる使用価値的富の剰余が、おなじ労働を金生産に投じたばあいどれだけ金の剰余をもたらすかというかたちで、間接的に、労働が価値に連関させられているにすぎない。つまり、かれは、直接的にか、間接的にか、金の剰余をもたらすような労働のみが、価値の源泉であると考えていたにすぎない。

 剰余価値の源泉をはじめて生産過程にもとめ、したがって生産過程そのものを剰余価値の、したがってまた価値一般の生産過程として把握したのは、重農学派だ。かれらは、農業における穀物の剰余の形成過程を直接に剰余価値の形成過程としてとらえた。だが、ここからかれらは、逆に、土地によって助けられた労働、農業労働のみが、剰余価値、したがって価値を生産する生産的労働であるという観念におちいり、他の工業労働等々は、こうして農業でつくりだされた剰余価値や価値の姿をかえるにすぎないものとされた。

 そこにスミスが分業論をひっさげて登場してきて、土地によって支えられた農業労働の自然的生産力――剰余価値生産力――という重農学派の考え方を、分業による人間労働の社会的生産力という考え方におきかえ、たんに農業労働だけでなく、すべての労働が、つまり労働一般が、剰余価値を生産するとしたわけだ。そしてこのようにして、剰余価値の源泉が、剰余労働一般にもとめられると、それによってはじめて、商品価値一般の源泉が、労働一般だということになった。つまり、使用価値をつくりだすあらゆる労働が、同時に、価値および剰余価値をつくりだすことになった。

 そしてこうした産業資本家的観念が、さらに、原始時代にまで普遍化されて、原始人の鹿と海狸の交換が、労働によって価値を決定されるところの近代的な商品交換だとされたわけだ。これは、資本家的商品経済を、人類の永遠の自然的経済秩序だと観念するかれらの立場から必然的にでてくる発想法だといってよいだろう。

 理論的な表現をすれば、商品の商品としての特殊歴史的な同質性――価値としての同質性――が、労働生産物一般としての自然的同質性――対象化された労働としての同質性――と、直接的に同一視され、前者が後者のうちに溶解され、それによって、労働生産物の価値形態が、その自然的形態とされているわけである。

■F■そうすると、『資本論』は、そういう古典経済学の労働価値説の限界を批判しておきながら、まだそのシッポを残しているというわけか。

■G■そういってよいのではないか。単純商品生産者の社会といった観念は、すくなくとも『資本論』では、そういうシッポからでているのであって、エンゲルスや、のちのスターリンや、わが国の解説マルクス主義の諸君のように、それを積極的に主張しているわけではない。

■B■そのぐらい確認しておいて、こんどは宇野さんをとりあげてみよう。『資本論』の労働価値説のそういうシッポを意識的にきりすてたのは宇野さんだから。

 

 <宇野理論における商品、貨幣、資本の展開>

■H■では、宇野さんは、原理論の端緒の商品をどう設定しているのか。

■B■系列からいったら、資本家的商品説にぞくするといってよいが、しかし特殊だ。資本家的商品のその資本家的という限定詞を捨象した純粋の流通形態としての商品だからだ。つまり、宇野さんにとっては、資本家的という限定詞をはずすということは、資本家的商品からその資本家的生産過程をきりはなして捨てるという意味だ。そういう意味で論理的な商品だといってよいだろう。そしてまた、そういう論理的な流通形態としての商品だというかぎりでは、古代、中世の商品とも形態的には共通だとされている。

 だから、宇野さんは、『資本論』とはちがって、最初の商品論で、労働による商品価値の実体規定はあたえないで、商品、貨幣、資本の流通形態を展開したのちに、資本の生産過程論のなかで、したがって、商品がもはやたんなる流通形態としての商品ではなくなったのちに、労働による商品価値の実体規定を明らかにするという方法をとっている。

■H■冒頭の商品がそういう流通形態としての商品であるとすれば、それが、商品、貨幣、資本の展開を通じて必然的に資本家的生産を展開せざるをえない根拠は、どこにあるのか。

■B■宇野さんは、純粋の流通形態としての商品だからこそ、資本家的生産を必然的に展開しうるのだといっている。

■H■そういう論理は理解困難だ。資本家的商品からその生産過程を切って捨ててしまって、純粋の流通形態だけの商品としてしまえば、そこから資本家的生産を展開するためには、はじめに切り捨てた資本家的生産を外から流通形態につぎ足す以外にはないではないか。しかし、そうとすれば、もはやそれは、内的展開とはいえないだろう。

 いったい、純粋の流通形態としての商品から、労働力商品を内的に展開できるのか。

■B■宇野さんに好意的ないい方をすれば、資本家的商品から、あるいはむしろ資本家的生産から出発して、いわゆる下向の方法によって、それから資本家的生産過程を抽象し、資本形態を抽象し、貨幣形態を抽象し、純粋の流通形態としての商品に還元したのだから、そこからまた逆に、貨幣、資本、資本家的生産へと上向することができるというのだろう。

■H■しかし、そうはいっても、生産過程を捨象するというのと、資本、貨幣の形態を商品形態に還元するというのとでは、性質がまったくちがうはずではないか。後者は、宇野さんのいい方を借りれば、流通形態内部での抽象だが、前者は、資本家的商品からその生産過程をきりすてることだからだ。きりすてたものは、内的に展開しようがなく、外からつぎたす以外にないはずだ。

■C■その点は、宇野さんも認めている。労働力商品だけは、流通形態から内部的に展開するのではなく、その展開のどんづまりで、いわば外部的に導入するのだとしている。

 むしろ問題は、純粋の流通形態としての商品が資本家的生産を内的に展開しうるかどうかという点にあるのではなく、宇野さんに一歩ゆずって原理論の対象を純粋の資本主義社会として設定したばあい、はたして出発点としての商品が、宇野さんのいうような意味での流通形態としての商品になるかどうかという点にあるのではないか。

■A■そうだ。問題はまさにそこにあるといってよいだろう。端緒の商品が資本家的商品だとしても、宇野さんのいうようにたしかにその商品からは資本家的生産過程は抽象されている。

 だが、問題は、こうした資本家的生産過程の抽象を、宇野さんが、資本家的生産過程をきってすてることだとした点にある。宇野さんは、それをきってすてるものだから、端緒の商品が純粋の流通形態としての商品になるほかないのだが、しかし、資本家的商品からその生産過程を抽象するということは、単純にそれをきってすてることではないはずだ。

 というのは、宇野さん自身も強調しているように、資本家的生産は、商品をもって商品を生産するような生産だからだ。たんに生産物だけではなく、それを生産する生産過程自体が商品化されているのだ。つまり生産過程の出発点それ自体が、生産要素それ自体が、労働力をとってみても、生産手段をとってみても、あるいはまた土地のような自然的生産条件をとってみても、みな一様に商品化しており、したがって、資本家的生産過程、あるいはむしろ、その再生産過程のいっさいの要因が、直接的には、すべてみな一様に商品として存在するわけだ。

 このことは、いいかえれば、資本家的生産の全体が、直接的には、「巨大な商品集積」――商品世界として存在するということだ。

 だから宇野さんは、純粋の資本主義的生産を原理論の対象として設定したのであれば、首尾一貫のためには、端緒の商品を、生産過程をきりとられた流通形態として設定するのではなく、むしろこの資本家的生産そのものの直接的存在――その即自的存在――として設定しなければならぬはずであった。そしてそうした商品世界がその資本家的生産過程から抽象されて、さしあたり流通形態としてあらわれるということの意味を、生産過程をきりとられているという点からではなく、生産過程をふくんではいるものの、まだそれが開示されていないという点から説明せねばならなかったのだ。

 要するに、宇野さんのように原理論の対象を設定するならば、端緒の商品は、むしろ生産形態とされねばならぬはずであって、それがさしあたり流通形態としてあらわれるのは、その生産形態としての内容がまだ開示され定立されていないからだとされなければならない。商品、貨幣、資本の展開をとおして、たとえば、商品の使用価値の内容を、生産手段、生活資料、労働力等々として開示していけば、それが、流通形態の生産形態としての定立にほかならぬことは明白になろう。

■C■そういうばあいには、しかし、商品、貨幣、資本、資本家的生産という展開は、もはや、単純な上向的展開とはいえなくなるのではないか。端緒の商品のうちに即自的にはすでにふくまれているものをたんにとりだしてみせるだけだからだ。そのばあいは、上向的展開というよりも、端緒の商品に最初からしてふくまれている内容を、むしろ、下向的分析によって開示してみせるというように考えるべきではないか。

■A■実質的にはそうだ。だが、原理論の叙述のうえでは、一般的規定の内的分化による上向的展開としてあらわれる。資本家的生産のいっさいの要素がすべて商品形態をとっているということは、商品形態が資本家的生産そのものの直接的な即自的存在であるということを意味すると同時に、また、それが資本家的生産の全体を包摂し総括するその一般的な普遍的形態でもあるということを意味するからだ。

 つまり、出発点としての商品は、資本家的生産そのものの直接的、即自的存在であると同時にその一般的普遍的な存在でもある商品なのだ。だからこそ、下向的分析が同時に上向的展開をなし、上向的展開が同時に下向的分析をなすことになるのだ。

 そしてじつは、これが、有機的全体性をなす対象を理論的に再生産するばあいに、つまり、弁証法に、固有の方法だといってよいだろう。

 宇野さんのばあい、もとをただせば、『資本論』の方法と『経済学批判序説』の方法とを一緒にして、論理的展開は、単純に規定の上向的展開だけに従事すべきものと思いこんだ点に、問題があったのではないか。

■E■たしかに宇野さんには、そういう限界はあるとしても、しかし、端緒の商品を流通形態としての商品であるとすることによって、冒頭の商品論から労働価値説の論証をとりのぞき、『資本論』にまだ残っていた古典経済学のシッポをきりすてたという点は、大きく評価しなければならぬのではない、か。

■A■それはそうだ。ではその点に議論をうつそう。

 

 <商品、貨幣、資本の展開と労働価値説>

■A■二商品の等置関係から使用価値を捨象してただちに商品価値を労働に還元するという『資本論』の形式的な方法を宇野さんが排除したのは、たしかに宇野さんの大きな功績だ。

 またそれによってはじめて宇野さんは、商品世界の価値関係を、商品、貨幣、資本の諸形態の展開を通じて資本の価値増殖関係に集約したのち、労働力商品を媒介にして、その資本の価値増殖関係を資本家的生産過程の内部における必要労働と剰余労働の関係に還元し、それを通じて間接的に商品価値を労働に還元するというこれまでの通説とはまったく異なったあらたな方法を、提起することになったといってよいだろう。

 たしかにそれは、『資本論』の体系構成のうちに実質的にはふくまれていたものだが、それを明確にとりだして呈示したのは、もっぱら宇野さんの仕事にぞくするのであって、これまた、宇野さんの大きな功績だとみなければならない。

 そうした方法によってはじめてわれわれは、商品価値の労働による決定を、つまり価値法則を、資本主義的生産の特殊歴史的な経済法則として、その特殊歴史性において、また内的必然性において、根底から解明することができたといってよいだろう。

■E■それはすこし過大評価ではないか。宇野さんのばあい、端緒の商品が純粋の流通形態とされたため、労働力商品の導入のところで論理が切れている。それに対応して、商品、貨幣、資本の展開による商品価値の労働への還元も、かんじんの労働力商品の導入のところで、切れているとみなければならぬのではないか。

 商品、貨幣、資本の展開自身をとおして商品価値の労働への還元を明らかにするものとすれば、資本の生産過程論の冒頭で、その労働生産過程一般としての側面を説き、そこで必要労働と剰余労働の関係を明らかにしたとき、それ自体が価値および剰余価値の労働への終局的還元であるとみなければならない。ところが、宇野さんは、一応、資本の生産過程の一側面としてではなく、それから切りはなして、労働生産過程一般を説き、ついでそれが、資本主義社会では、価値形成増殖過程という姿をとるとしたうえで、価値および剰余価値の労働による決定を、しかも商品の等労働量交換と一体化させて説いている。

 これは、商品、貨幣、資本の展開による価値の労働への還元が、宇野さんのばあい、途中で切れたことの結果ではないのか。

 そしてまた、ここで展開が切れているとすれば、資本の生産過程論のなかで宇野さんが労働価値説を論証しているといっても、それは、商品、貨幣、資本の展開自身によって商品価値を労働に還元しているというのではなく、せいぜい、資本の生産過程の内部で労働価値説を説けば、その必然的根拠が明白になるというほどのことではないか。

■A■そこまでつっこんでいえば、宇野さんの労働価値説の論証にそういう限界があることは明らかだ。

 商品、貨幣、資本の展関を同時に商品価値の労働への還元の過程として明確に首尾一貫して展開するためには、当然に宇野さんは、端緒の商品を生産過程から切りはなされた流通形態とするのではなく、生産過程を内包したわれわれがさきに意味での商品世界、すなわち、資本家的生産そのものの直接的な即自的存在としての商品世界とせねばならぬはずであった。そうすれば、商品、貨幣、資本の展開は、同時に、そうした商品世界が自己の表皮的な直接的な価値関係をその生産過程の内的関連のうちに集約し還元していくその諸形態の展開にほかならぬことは、一目瞭然だったろう。

 たんにそれだけではない.

 そういう点が明白であれば、商品、貨幣、資本の諸形態は、たんに純粋の資本主義的生産の表皮的関連をその生産過程の内的関連に集約し還元するその諸形態をなすというだけではなく、現実の資本主義的生産をとりまいている世界市場的関連を、資本主義がその生産基軸をなす生産過程の内的関連に集約し還元するその諸形態をなすということもまた、一目瞭然だったであろう。

 いいかえれば、原理論の対象が、想定された純粋の資本主義ではなく、世界市場的過程として現存する現実の資本主義――世界資本主義としての資本主義――であるということが、明白となったはずである。

■C■商品、貨幣、資本の展開がそういう性格のものだとすれば、端緒の商品は、世界市場的過程からその資本家的生産基軸だけぬきだしてきたという意味での純粋の資本主義的生産の直接的存在というよりも、世界市場的関連をもふくめた全体としての資本主義的経済過程の直接的な即自的存在だとしなければならなくなるだろう。

■A■まさにそのとおりだ。端緒の商品世界は、資本主義的生産をも包摂した世界市場の全体、全体としての世界市場の直接的存在だとしなければならない。外国貿易や世界市場からきりはなされた資本主義的生産なるものは、現実には、存立しないからだ。それらのものを切って捨てるという抽象は、空虚な形式的抽象にすぎず、対象的科学としての経済学と両立しえないものといわなければならない。

 そしてまた、このように原理論の対象を現実の資本主義として設定するということは、われわれが前章のシンポジウムで論じたように、それを、その世界史的な生成、確立、発展転化において、全過程的に設定しなければならぬということをも意味する。

 だから、この点をふまえて、さらにいいなおせば、端緒の商品は、世界史的に生成し確立し発展転化するものとしての全過程的な資本主義の即自でありまた同時に一般であるような商品世界でなければならぬということだ。

 そこまで考えると、端緒の商品は、流通形態とも生産形態ともしてはならず、その両者をふくみうるものとしなければならぬということが、明らかになってくるであろう。

 結論的にいえば、商品、貨幣、資本の諸形態は、資本主義的生産の直接の表面的関連をその生産過程の内的関連に集約還元するときの諸形態でもあれば、この資本主義的生産をとりまいている世界市場的関連をその内的関連に集約還元するときの諸形態でもありうるし、また、世界市場が歴史的に生成しその内部に資本主義的生産基軸の形成を準備するときのその諸形態でもあるわけだ。史的地位(3)