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降旗節雄・岩田  弘対談 現代資本主義と宇野経済学 (二)

IT革命と情報化社会

2.I T革命、それは何を革命するのか

 

●生産の革命か、流通の革命か

 

岩田 前号掲載分の最後のところで、降旗君は九〇年代のアメリカ株式市場の再膨張の背後にはIT革命による生産力の上昇、ニューエコノミーがあるとし、僕もアメリカ新興産業としてのハイテクデジタル産業の台頭があるとしたわけですが、この点について、まず僕の方から少しおしゃべりさせてもらいましょう。

第一は、この九〇年代に先行する七〇年代、八〇年代は大型汎用機、IBMのメーンフレームの全盛時代だったということです。それは、専用回線で多数の端末機を統合する中央集権的な情報システムであり、IBMは、半導体メモリーやCPUなどのあらゆるハード部品と基礎および応用ソフトを自社生産し顧客企業のシステム構築とメンテナンスをも一手に引き受ける総合的な垂直統合型の巨大企業でした。

これに対し七〇年代末に登場したパソコンは、表計算やワープロやデータベースを主要ソフトとする現場レベルのツールでした。メーンフレームの王者IBMも、遅ればせながらその市場性に着目し、自社生産を試みましたが成功せず、CPUを初めとするハード部品や基礎ソフトなどの製作を、当時名もないベンチャー企業であったマイクロソフトやインテルなどに外注しました。八〇年代初頭に登場したこのIBM PCの市場的な成功は、直ちに同じ部品やソフトを使用する多数の互換機メーカの登場を促し、市場の競争と拡大を通じて、これらの互換機メーカを主要供給者へと発展させるとともに、さらにこれが、台湾の互換機部品メーカや周辺機器メーカなどの台頭を促し、台湾をその一大供給基地へと発展させることになりました。アメリカとアジアのグローバルな水平分業関係を中軸とする新興産業としてのパソコン産業の登場です。

第二は、こうしたパソコン産業の登場はその内部構造の特徴にもとづくという点です。その内部構造は、次のような点で他の機械機器製品や電気電子機器製品とは質的に異なっています。① デジタルコードによる情報処理系である。デジタルコードとは、生物の遺伝子コードと同じく、文字言語であり、したがってパソコンは文字言語による情報処理系であり、情報伝送系となっている。② パソコンの内部構造はいくつかの独立機能ユニットの集合体となっており、各ユニットはそれ自身のコントロール機構をもっている。③ これらの各ユニットは相互にデジタル信号ケーブルによって、したがって文字言語の伝送回路によって接続されているだけで、機械機器のようなメカ的接合部分を持たない。④ これらの独立機能ユニット相互間の分業と協業は、水晶発信機のクロック周波数による時間的同期にもとづいている。⑤ これらのユニットのうち内部にメカ的駆動機構を持つものは、複数のモータによって分散並列駆動されており、それ自身のコントロール機構をもっている。

これらの内部構造の特徴は、同時にまた、その中央演算処理ユニットであるCPUの内部構造の特徴にもなっています。CPUは演算ブロックを中心にするいくつかの機能ブロックのネットワーク的な統合体ですが、そして僕はアマチュア・マニアにすぎませんが、最近の傾向は、動作クロックをギガヘルツレベルに引き上げるとともに、命令の基礎単位である一命令セットをいくつかのサブ命令セットに分割し同時並行的に処理する技法や、連続するいくつかの命令セットを予測技術を使って同時並行的に処理する技法にあるようです。つまり、CPUそれ自体が分散・並列処理の重層的なネットワークシステムとなっているわけです。

第三は、パソコンの生産方法はこうしたパソコンの内部構造の特徴によって規定されているという点です。すなわち、①各ユニット間の接続規格――いわゆるインターフェース規格――が統一されていれば、多数の専門メーカによる各ユニットのグローバルな水平分業、分散・並列生産が可能であり、またこうしたインターフェースの事実上のグローバルスタンダードがインテル、マイクロソフト規格となっている。② これによって完成品メーカの仕事は、各ユニットをそれぞれの専門メーカからグローバルに調達し、それらをケースにセットし、自社マークを貼付けて顧客に引き渡すことだけとなっている。③こうした生産方法は、専門メーカのグローバルな競争を通して、その高性能化、低廉化、市場規模の拡大の相互促進関係をつくりだしている。

こうしたパソコンの高機能化、高速化に一時代を画したのは、八〇年代末における三二ビットCPUの採用とこれによるメモリ空間の飛躍的拡大および時分割によるマルチタスク化ですが、これにもとづく新しいOSがマイクロソフトのウインドウズやその業務版ウインドウズNTでした。そしてこれによって多数のパソコンを信号ケーブルで接続するパソコンLAN、企業内ネットワークやクライアント・サーバ・システムが実用に耐えるものとなりました。これは、パソコンが現場ベースの個人ワークのツールから、多数の人間集団の分業と協業のためのツールへと発展したことを意味します。そしてさらにこれは、クライアント・サーバ・システムによって結合されたパソコンの重層的なネットワークが徐々にメーンフレームの支配領域を蚕食し始めたことを意味します。九〇年代初頭におけるIBMの大幅赤字への転落と大規模な人員整理はこれを象徴する事件でした。

九〇年代後半になると、これにさらにインターネットの登場が付け加わってきたわけですが、それが企業にとって重要性をもったは、この頃にはすでにサーバ・クライアントシステムによる企業内ネットワークがかなり普及しており、これらのネットワークをさらに広範にインターネットで結合することが次の戦略的ターゲットとなっていたからでしょう。いわゆるイントラネットの構築やB to Bの開始です。

インターネットによる取引については、一般には、B to C、企業と消費者間の取引が注目されていますが、本命は、企業相互間の取引でしょう。ボリューム的には後者は前者をはるかに上回るものとなっていますが、まだ本格的に起動しているとはいえません。それにもっとも適合したものは、さきほどのような特徴をもつパソコン産業や情報機器産業ですが、アメリカでもそれはまだ一般主力産業の外側にある新興産業だからです。B to Bが一般主力産業で本格的に起動するためには、分散・並列・ネットワーク型の生産システムへの再編を要するわけですが、ここではまだ端緒的に始まったばかりだからです。

 さて以上のような点を念頭において、九〇年代のアメリカ株式市場の再膨張を振り返りますと、明らかにそれは、ハイテクデジタル産業やインターネット関連産業に対する過大評価や幻想によって主導されていたということです。これを象徴するのが最近のB to Cバブルとその無残な崩壊です。しかしこれは、これらの新興産業がグローバルに台頭しつつあることを否定するものではなく、むしろ一般主力産業が投資資金の吸収能力を失い停滞していることの裏返しの表現だとしなければならぬでしょう。

少し長くおしゃべりしたようですが、だいたい以上のようなところが僕の理解するIT革命の実体ですが、降旗君はどう考えますか。

 

降旗 今はIT革命だと言われていますね。革命というからには、それまでの生産力とは違った質的水準における高度化を言わなくちゃいけない。それじゃないと革命という意味がない。ではそれは何か。

 おそらくそれは、流通過程の合理化だと言ってよい。つまり、産業革命以後、資本主義が発展してきたのは、生産過程の合理化による。機械が導入されてオートメ化されてきた。ところが、流通過程は殆ど合理化されていない。今、普通の商品は、原価はせいぜい三割くらいです。特に、飲食店などでは一割くらいで、普通の商品の七割くらいは流通経費です。

 つまりこれまでは流通過程の合理化という点では、多少の合理化はあったとしても、しかし、機械的大生産における合理化のような、ものすごい合理化は行われたことはなかった。それがインターネットによる、IT革命ではじまっている。その点が一番重要な意味を持っている。

 それと結びつきながら、例えば国内生産の労働コストが高すぎる部分は中国とか東南アジアに流れ出し、大体日本国内の二〇分の一から二五分の一の労働コストで製品を作って、それを日本へ逆輸入している。ユニクロ現象ですね。それも、いま言ったような合理化過程の一環として出てきている。そういう形で、流通と言っても、設計とか、部品の結合とかいうところまで含めた合理化ですから、それをやり出すと、資本主義は国内だけではなくて、グローバルに展開しながら、労働コストの安いところで生産しては需要を引っ張ってゆくという形になる。それがIT革命の実体だろうと思うんです。

 ということは、今や資本主義は生産力の上昇の最終過程に入ってきているということです。つまり、生産過程から流通過程の合理化へと進んだのですから。

 

岩田 なるほど流通革命の手段としてのIT革命ということですね。そしてIT革命による流通過程の合理化は資本主義的合理化の最終形態だという君の指摘は面白いですね。

 けれども僕の理解では、ITによる流通過程の合理化はそこまで行っていないと思います。そのためには、一般主力産業でも分散・並列・ネットワーク型の生産システムへの再編がもう少し進む必要があるからです。

 

降旗 その場合、流通というのは、情報とのつながりをとおして生産過程の革新をひき起こすということですね。

 

岩田 僕が強調したいのは、一般主力産業と、ボリューム的にはまだそれほど大きくないが急速に発展しつつあるハイテク新興産業との並存体制となっており、ITの利用の仕方は両者では質的に異なるという点です。

最近の経済ジャーナリズムを賑わしているテーマとしてアウトソーシングだとか、ファウンドリーだとか、EMSだとか、SCMだとかがありますね。委託生産、受託生産のチェーンを組織しそれをITによってリアルタイムで統一的に管理するというテーマです。しかしこれは、一般産業とハイテクデジタル産業とではその内容が違っています。

 例えば本年度の通商白書は、IT活用による国際展開のケースとして、デルコンピュータとファーストリテイリング(ユニクロ)を取り上げています。パソコン市場でコンパックを追い抜いてシェアトップとなったデルのビジネスモデルは、顧客ニーズに即応する受注生産モデルですが、これが可能となっているのは、パソコンの内部構造が独立機能ユニットの集合体となっているために、それらのユニットの機能や性能が顧客によって指定されれば、直ちにそれらを調達し、組立センターでアッセンブルして顧客に配送することができるからです。

これに対しユニクロモデルは、自社企画のカジュアル衣料を中国で大量に委託生産し多数の自社店舗で販売するというモデルですが、ITを利用して委託生産量と日々の販売高とを迅速に調整することがその生命となっています。製品やその生産過程に新しい革命はないとみてよいでしょう。

 

●世界の製造基地としての中国・アジアの台頭

 

岩田 最近の経済ジャーナリズムのもう一つのテーマは、世界の製造基地としての中国の台頭ですが、これもまた一般産業とハイテクデジタル産業とではその性格が違っています。

 

降旗 そういうふうにいま変わりつつあると思う。そして変わりつつある経済の実体は、第二次大戦以後作り上げた自動車社会化だろうと思うんです。

 これは東南アジアなどの、現地を見ればすぐわかるんですが、ほとんど日本の戦後の高度成長がものすごい勢いで押し上げてきいったときとそっくりの状態です。つまり、都市に人口が集中して、そこに自動車、電機、ハイテク産業が集積されて、新しい中産階級が作り出され、農村はものすごい勢いで崩壊しつつある。都市の公害なんて日本の比じゃない。普通の日はマスクなしで歩けないような状態です。

 そういう形で、高度化された生産力が、第二次大戦後、アメリカから出発して西ヨーロッパや日本を一巡し、さらに中国や東南アジアからインドへと展開しつつある。これが経済のグローバル化でしょう。

 

岩田 とうとう自動車が出てきましたね。一般主力産業の代表は自動車産業ですから、今度はここに視点を移しましょうか。

まず自動車マーケットの性格ですが、新車マーケットだけを考えるのではなく、中古車マーケットも考える必要があります。中古車はいろいろなグレードがありますが、少し古くなると大幅に安くなり、中産階級の耐久消費財というイメージよりも庶民の日常的なコモディティといったイメージですね。また道路を走っている車の大部分は業務車や業務目的の乗用車で、マイカーのほとんどは駐車場で寝ているわけです。したがってマイカーの中古車は、見栄えはともかくとして、走行機能がそれほど中古になっているわけではありません。中古車市場が発達すると、新車もまた中古車として販売することを前提にして購入されるようになり、自動車の実質的な購入価格はどんどん下がってきます。むしろ負担になるのは維持費でしょう。新古に関係なく燃料代や駐車場代や税金や保険代がかかりますからね。燃料代にごっそり環境税でも上乗せしてやれば実際に道路を走っている車は減りますし、車もスケールダウンし燃費効率もよくなりますよ。高価な耐久消費財というイメージは捨てる必要がありますね。アジアや中国でも、時が立てば、急速にコモディティ化が進むでしょう。そこに降旗君の指摘する公害問題の重大性があるんじゃないでしょうか。

 もう一つの問題は、これとはやや異なりますが、日本の自動車産業の強さはどこにあったのかという問題です。

日本の自動車産業の特徴は、系列ネットワークという特殊日本的な形態をとった分散・並列・ネットワーク型の生産システムにあるのではないかと僕は思います。古典的なフォード型生産システムは、自社工場で多数の部品を、時にはその材料までも、内製し、それらを組立ラインで連続的にアッセンブルする垂直統合型の集中大量生産システムですが、日本型はそれとは本質的に違っています。六〇年代には通産省の官僚たちは、フォード型の生産システムを自動車産業の世界基準だと考えていて、多数のメーカが乱立し過当競争に明け暮れる日本の自動車業界をいくつかの大グループに集約しようと必死になっていましたが、それは成功しませんでした。彼らの意図とは反対に、こうした系列ネットワーク型の分散生産システムが後に日本の自動車産業の国際競争力へと転じたのではないでしょうか。

 

降旗 それがトヨティズムでしょう。

 

岩田 トヨティズムというよりも、トヨティズムでパワーアップされた日本型生産システムとみるべきじゃないでしょうか。トヨティズムの前提になっている日本の自動車産業の、というよりもっと一般的にいって、日本の機械・機器産業、加工組立産業の構造上の特質は何かという問題です。それが、さっきお話した下請け系列生産システムという形態での分散・並列・ネットワークシステムで、トヨティズムはそれを前提にする効率化の工夫だとみるべきでしょう。

僕は日本の機械・機器産業における下請系列型生産システムの原型は、第二次大戦中の兵器生産ではないかと思います。僕は戦時中ちょうど中学の三年生で陸軍造兵廠に動員されていました。航空機の部品や航空機関砲や戦車砲や曳光弾などを造っていましたが、町工場のようなものまで下請に使っていました。技術将校の話によると、彼らの理想は、ドイツやアメリカのような部品の内製と流れ作業による一貫的な組立でしたが、急場しのぎの兵器生産ではそれができなかったのでしょう。材質がメチャクチャで加工精度が出ず、不良品の山済みでした。戦後になるとこうした戦時中の兵器産業は、民需用の機械工業に転換しましたが、アメリカ型の品質管理技術の導入や素材産業の近代化による材質の改善は大きかったと思います。これによって下請系列型の日本製造業は、ようやく世界に通用する製品を作れるようになった。そしてこれとともに、日本製造業は、系列ネットワーク・システムという特殊日本的な形態を通してではあるが、フォード型生産システム――部品内製を基本とする垂直統合型の巨大生産システム――を超える新しい生産システム、分散・並列・ネットワーク型の生産システムを、加工組立産業で世界で初めて確立するという栄誉を担うことになったのではないでしょうか。八〇年代に世界を震撼させた日本製造業の威力は、トヨティズムでパワーアップされたこうした分散・並列・ネットワーク型の生産システムにあると思います。そしてこれは、後に取り上げたいと思いますが、加工組立産業の技術的特性によるものです。

僕はこうした日本型分散生産システムは、ハイテクデジタル産業と親和性をもっており、日本は当然にそのトップバッターとなり、世界の製造基地になるんじゃないかと思ってたんですけど、僕の予想はおお外れでしたね。九〇年代には台湾や韓国の、さらには中国のハイテクユニット産業、デジタルユニット産業が彗星のように現れて、日本は総イカレになちゃった。いったいどうしたんでしょう。

 その最大の原因は、下請系列型ネットワークの閉鎖性と、その成功体験の上にあぐらをかいてきた企業官僚制でしょう。クロースドな「わが社のネットワーク」では、オープン型のグローバルなネットワークやそれによる「秒進分歩」の技術的発展を特徴とするハイテクデジタル産業にはとても対応できないわけです。僕は単なる労賃コストの問題じゃないと思います。

 

―― 日本の製造業は、九〇年代を通じて、だいぶダメージを受けたかもしれないですけれども、その原因は供給圧力では……。

 

岩田 国際競争の圧力、とりわけアジア産業の圧力でしょう。日本の製造業は、世界を相手にする世界市場産業ですが、それがさきほどのような理由で立ち遅れたんじゃないでしょうか。

  

降旗 ……。

 

岩田 この点は一般には日本の賃金コストとアジア・中国の賃金コストとの格差から説明されてきましたが、今年度の通商白書はだいぶ認識を変えたようですね。賃金格差による雁行モデルから水平的な相互競争モデルに転換しつつあるとしているわけですが、そして中国がそうした競争関係のなかで世界の製造基地として登場しつつあるとしているわけですが、しかし、アパレル産業や家電産業やバイク産業などの従来型産業と、専門ユニットメーカのグローバルな水平分業を特徴とするハイテクデジタル産業とを区別していないですね。

また中国における製造業の集積地域について特別のページを割いているのですが、従来型産業の集積とハイテクデジタル産業の集積との質的区別を明確にしていないですね。後者は、専門ユニットメーカやそのアッセンブルメーカのグローバルなネットワークの集積拠点であって、前者とは性格が違っているはずです。

この点に関連して、八〇年代後半以降の中国産業の発展のダイナミズムについて一言しますと、一般には、そして通商白書も、その動因を外国投資に求めているのですが、僕は日本の高度成長期と同じタイプのエンジン――国内市場を巡る過当競争エンジン――によって駆動されているのではないかと思います。中国では「諸侯経済」だとかワンセット主義だとか言って絶えず非難され悪口を言われているわけですが、無数の郷鎮企業をも巻き込んで、日本よりも遥かに膨大な数の企業によってダイナミックに展開されています。九〇年代後半は、家電戦争、バイク戦争の時代でしたが、これを通じてそれらの産業が世界最大規模となり九〇年代末から輸出シェアの拡張合戦に転じているわけです。その輸出圧力は、他のアジア諸国の輸出特化型産業とは比べ物にならぬでしょう。こうした過当競争は、中国の国内市場の潜在的規模からみて、ハイテクデジタル産業やさらには自動車産業にも波及することは必然です。二〇〇万台規模にようやく達した自動車産業でもすでに一〇〇社以上のメーカが乱立しているといわれています。「市場社会主義」を看板にする中央政府の官僚たちによってはもはやコントロール不能でしょう。外国投資は、こうした過当競争の主役ではなく、それに外側から燃料を供給する脇役にとどまっているとみるべきです。

また中国元は、こうした中国産業の輸出競争力からみれば、かっての円と同じく、明らかに過小評価となっています。中国の労賃コストの国際的な安さも元為替の過小評価によるところが大きいとみてよいでしょう。円の場合と同じく、元高への国際圧力は必然ではないでしょうか。

 

―― 九〇年代の日本経済の焦点は、製造業分野じゃなくて、やっぱり金融、流通、サービス部門であると見ていますけどね。

 

岩田 それは国内市場を念頭に置いているからじゃないですか。日本の金融、流通、サービス業は世界市場産業ではありません。そんなもので日本経済を引っ張れないでしょう。世界市場の中で日本の国民経済の生存を支えその発展を牽引してきた産業、もっとドライな言い方をすれば、日本に円高革命を巻き起こし、かってはドルの稼ぎ頭であった日本の繊維・雑貨産業や農業に壊滅的な打撃を与えてきた産業は何かという問題です。それが無敵の日本製造業だったわけです。そいつのエンジンがまだ元気か、肝心要の戦略的部分でガタが来ているんじゃないかという問題です。

八九年に東芝がノートパソコンを作ったでしょう。僕はあいつは世界市場を制覇するなと思ったんですよ。日本の精密電子機器産業のもっとも得意な製品だからです。ところが今日では目も当てられない惨状ですね。八〇年代のVTRと同じ運命をたどっています。

 

●インターネットと情報化社会、それはどこへ向うか

 

降旗 生産や流通のME化が進行したというのは八〇年代までの構造です。九〇年代からは、パソコンとインターネットの結合になるんですが、そのインターネットは、アメリカの――さっきの戦争との関係をもった――軍事情報システムです。つまりソビエトとの対立関係の中で、宇宙衛星が飛び出す。そうすると、スーパーコンピューターを中心としたピラミッド型の構造ですと、中心をやられると駄目になりますから、インターネットで網状にカバーしてしまうという形で進行していったわけです。軍事施設と大学の研究所などが結びつけられた上布小野ハイウェイ網です。

 ところが九〇年で、ソヴィエトが崩壊しますから、この設備は要らなくなる。それで民間に開放されたのがインターネットとパソコンの結びつきですよ。

 ですから、インターネットの利用は、アメリカの場合月々の料金が二五〇〇円くらいですむ。日本の場合には、インターネットと言うけれど電話回線を使いますから、電話料金をとられます。僕のところは小田急ケーブルが通っていますから、四五〇〇円くらいでつなぎっ放しなんですが、CATV網はまだそれほど普及していない。

 インターネットの利用が拡大しえないということは、これはパソコンの方にも反映してくるという形で、ITがものすごく遅れちゃってきています。政府は二〇〇五年に最先端のIT化国家となると言っていますが、それだって本当に実現できるかどうか非常に疑問視されています。学生を見ていても、携帯電話を持ってしゃべったり、メールのやりとりをして電話料金を二万、三万と払わせられていますがむちゃくちゃですよ。

 

岩田 ……。

 

降旗 儲かるのは、NTTドコモばっかりで、NTTはもう落目になってきている。やっぱり、日本のIT化は決定的に遅れてきています。さっきのフォーディズムでもそうだし、戦後のデトロイト・オートメーションでもそうですけど、やっぱり全部もとはと言えば、軍事技術です。まず国家が軍事技術を通して、科学技術のレベルをものすごく引き上げ、それを民間に転用するということを繰り返しやってきているわけでしょう。今度の場合でもそれによって日米の差が出てきている。

 その意味で僕は、軍事と民事とが結び付いて科学技術の水準を押上げてゆく点に注目すべきだ、というのです。

 

岩田 降旗君の言うように、インターネットの技術は軍事技術として開発されたものですが、しかしそれが急速に普及したのは、九〇年代後半以降です。そしてその前提となっていたのが、八〇年代末から九〇年代前半にかけての企業内LANの急速な発展、いわゆるサーバ・クライアント・システムによるパソコンネットワークの発展で、インターネットはこれらをオープン回線で多角的に結合するイントラネットとして戦略的意義をもってきたわけです。

けれどもこれはまだ初期段階にあるとみるべきです。新興ハイテク産業以外の一般主力産業では、企業の基幹業務に関する限りなおまだIBMのメーンフレームとそのための閉鎖的な専用回線が頑張っているからです。そしてこれは、一般主力産業ではまだ分散・並列・ネットワーク型の生産システムへの再編があまり進んでいないことを反映するものとみてよいでしょう。さきほど取り上げたインターネットバブルの崩壊、とりわけB toCバブルの崩壊は、この点に関連します。それは実体を超えた幻想の崩壊に過ぎませんが、いわゆる逆資産効果でハイテクデジタル産業もかなり収縮圧力を受けているようですね。

 

降旗 基本的にはそれも、情報を媒介とした流通関係の合理化に基づくと思います。企業と企業との関係も、基本的には情報で結びつくわけですから。そういう意味で、IT合理化は、最後の合理化段階だという感じはするんですね。しかしそれで追い上げられた生産力というのは、果たして社会的に健全に作動するのかどうなのかという点では非常に疑問があるんですが……。

 

岩田 くどいようですが、その問題は、結局、そういう流通関係の合理化という点でIT革命なり、デジタル革命を捉えるのか、それとも、製品の内部構造自体の変化やこれによる生産システムの変化という点で押さえるかという問題になるかと思います。流通過程の革命はこれらの変化の原因ではなく、結果だからです。

 

降旗 IT化によって企業の内部構造自体も変化してくるわけです。変化しているんだけど、そこから出てくる産物は、今までと違うでしょう。つまり、自動車や鉄鋼とは全く違います。それはあくまで情報です。そして、それを利用した金融なり証券のサービスです。ここの部分が極端に拡大している。

 もちろん、さっき言ったように、生産過程の合理化も、それこそグローバルに展開しますから、その合理化も進むと思うんです。だから、生産力は飛躍的に増大する。その意味で、非常に単純化して言えば、鉄道時代に対しての自動車時代、自動車時代に対する情報化時代という形で、確かに生産力は変わってくると思うんですが、しかしその社会というのはどうなるか……。

 

岩田 その生産力の変化を、量的変化と見るか、質的変化と見るか、さらに鋭くいえば革命的変化と見るか、という問題なんですがね。

自動車について言いますと、フォードの初期モデルでは部品が五千点と言われてたんですが、最近の自動車は数万点でしょう。

 

降旗 二万くらいですね。

 

岩田 そうした無数の部品の組み立て産業としての自動車産業の特徴ですが、これは鉄鋼、化学などの容器型装置産業や、繊維産業などとは技術的性格が違っています。

容器型装置産業は、内容積を拡大すればするほど表面積や直径は相対的に小さくなり、コンパクト高効率となります。したがっていわゆる上流部門は集中大量生産となり、下流は無数の品種の製品へと分流することになります。また繊維産業は、素材加工産業ですが、上流部門が比較的少品種の集中大量生産の大工業部門で、下流部門は一般に無数の中小企業へと分流することになります。

これに対し自動車のような加工組立産業は逆で、上流部門が無数の部品生産に分散しており、下流部門でそれらをかき集めて組立て合体するということになります。したがってその技術的特性からみれば、むしろ分散・並列生産のネットワーク的統合の方がはるかに合理的かつ効率的で、古典的なフォード型生産システムは、当時の機械工業の技術水準や特殊アメリカ的な労働者事情によって制約された特殊歴史的な生産方式だったとみるべきでしょう。こうした機械工業において分散・並列型生産の合理性、効率性を初めて証明してみせたところに、日本の自動車産業の歴史的意義があったのではないかと僕は思います。

 

降旗 その場合に生産力の質的な発展があるということを言ってたのです。

 

岩田 もう少し僕の話を続けさせて下さい。自動車のような機械・機器産業の場合には、しかし、その基本構造はメカです。したがって各種の部品やユニットのアッセンブルといっても、それらの接合は基本的にはメカ的接合となり、メカ的精度が要求されます。

これに対し、一般の電機・電子機器産業の場合には、なお多くのメカ的ユニットやメカ的駆動部分をもっていますが、多数のモータによる分散・並列駆動と各ユニットの電気的接合が中心となっています。したがってこの産業は、分散・並列・ネットワーク型の生産システムにさらに適合したものへと進化しているといえるでしょう。

そしてこれが、コンピュータのようなデジタル機器産業では、さらに質的に深化することになります。ここでは文字言語による情報処理系や情報伝送系やそれらによるコントロール系が中心となるからです。またその内部構造も、こうした処理系のユニットの信号回路によるネットワーク的な結合体となるからです。もちろんこれらの機器もメカ的な駆動部分や接合部分をもっていますが、もはやそれは本質的要素ではなく補助的的要素にすぎません。

こうした点は、後でまた取り上げたいと思いますが、生体システムへの端緒的な接近ではないかと思います。生体システムもまた、遺伝子言語や蛋白質言語による情報処理系であり、またそれによるコントロール系だからです。

 

降旗 だから自動車とはもちろん違います。

 

岩田 確かに自動車とは違いますが、ハイテクデジタル産業を先頭とする現代産業の基本傾向は、各産業の技術的特性によってかなり違いはありますが、分散・並列・ネットワーク型の生産システムへの暫時的な移行にあるのではないかと僕は思います。降旗君の強調する流通過程の合理化も、こうした動向を背景にしているんじゃないでしょうか。

ところで、さきほどからの降旗君と僕の議論はかなりすれ違っていたようですね。僕がIT革命による製品の内部構造の変化やそれによる生産構造の変化に力点を置いていたのに対し、降旗君はIT革命による流通過程の合理化に力点を置いていたのですが、実はそれによって、こうした流通過程の合理化が資本主義的合理化の最終形態であり、またIT革命によって情報それ自体がひとつの社会的産物となり、いわゆる情報化社会として資本主義社会に質的な変化をもたらすという点を強調しようとしていたわけですね。

僕も実は、情報系を中心にする分散・並列・ネットワークシステムが資本主義のつくりだす生産力の最終形態ではないかという観点から、それを強調していたわけです。

というわけで、僕の主張と降旗君の主張とは、結局同じ問題に帰着するのではないかと思うんですが、ここらあたりで視点を変えて降旗君の方の問題に議論を移しましょうか。
 

 

 

2.2  情報化社会、それは資本主義の究極形態か

 

●資本主義と共同体、国家、土地所有

 

降旗 それを大きな歴史的スケールで考えた場合に、最終的には、市場経済と共同体の問題が出てくる。

 マルクスは最初は、『経済学批判』の序文で書いているように、最初は商品・貨幣・資本から始まり、最終的には国家とか、国際貿易とか、世界市場がでてくると言うでしょう。だけど、草稿を書いているうちに国家以下の展開ができなくなってしまう。こうして『資本論』の中からは国家というカテゴリーはなくなる。

 これは当たり前のことなんで、歴史的にはまず近代国家ができてから資本主義ができてくるわけです。この国家は絶対主義国家です。絶対主義国家を譲り受けて、これをブルジョア革命で変革して近代国家にして使うというだけなんですね。資本主義は国家そのものを作りえないわけです。

 宇野さんの言うように、資本主義のシステムは、経済が自立的に動く。で、経済が自己完結的に動くと、この理論は原論になります。経済が、国家的な政策を要求するという形になると、これは段階論になる。だけど、それでも維持できなくなると国家が外部から経済に介入してくる――これが現代のシステムです。すると資本主義は、市場経済なんだけれど、実は国家を外枠として成立する。国家というのは共同体の変質したもので、その意味では資本主義は共同体を前提として成立する。

 もう一つは、『資本論』でも前提にしている、家族です。『資本論』の中に家族は出てこない。労働者は出てきます。その労働者は家族を持っているはずです。だから資本主義は外枠には国家を、内枠には家族は前提にしているわけです。

 つまり市場経済の一般化された支配形態である資本主義も、国家と家族という共同体を、外と中とに前提にして出来上がっている機構だったわけですね。

 そして現代は、その二つが溶けてきている。さっきの、生産力が資本主義的な生産力の水準を上回ってきているんじゃないかということの兆候は、一つはユニクロのようなグローバル化でしょう。国内の生産が不利だったら、例の、外国で作って入れればいい。それにセーフガードをかけたらものすごく攻撃されます。そうなればセーフガードも維持できなくなってくる。そして同時に中の方も、僕は情報化社会の結果だろうと思うんですけど、家族が解体してきています。

 つまり、家族が共同体的な生活をするという必要がなくなってくる。衣食住すべて外注できるわけですから。朝昼晩とマックを食っててもいい。同時に、情報だって外とつながっています。家族が一緒にいたところで、別に話合う必要がない。彼らは友達どうしで四六時中情報を交換しあう。こうして国家と家族が溶けてきているわけです。国家と家族が溶けてきたときに資本主義が維持できるかというと、僕はできなくなるのではないかと思う。

 

―― アナルコ・キャピタリズムはむしろ資本主義の万万歳の時代だといえませんか……。

 

降旗 逆に、そうかもしれない。つまり資本主義には、タブーの領域があったわけです。家族を前提にしてそこで労働力が再生産されて、これが売買されるところしか経済学は問題にしなかったわけです。宇野さんがよく言うように、消費の過程なんかは経済学に入らないというのは、家族の中の問題だからです。それから、外枠に国家があるけれども、このことも触れないわけでしょう。だから純粋資本主義になったわけです。国家の問題、財政の問題というのは、原理的に解けなかったわけです。

 資本主義はもともと、国家と家族を前提とした市場経済の支配形態ですね。その市場形態の支配形態がもはや、自動車社会化のとき、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフのときにもうすでに解体傾向が出てきていたと思う。しかしそれにしても、まだ国家はきちんとしていたので、家族は必死に維持されてきた。

 ところが情報化社会になるとそれらが飛び越えられてしまう。国家という境界も、家族という内部的な共同体も、どんどん解体してくる。しかし、人間社会はそれに耐えられるかということなんだ。

 つまり人間のあり方として、国家もない、家族もない、市場経済だけでつながって、グローバルに展開するというのは、SFの世界ではあり得るけれど、現実の人間の生活はそれで維持できるのか。

 

―― 国家がないというのは一つの可能性じゃないですか。

 

降旗 それはあり得ると思う。EUだってそういう試みではある。まあどこまで行くかわかりませんが。すでにもはや逆行現象も出てきてますしね。 

 

岩田 …………

 

降旗 だから、もう既にアイルランドなどから反対の動きが出てきている。それはともかく僕は、情報化がもたらす上部構造への影響力が、ものすごい破壊力と伝達力を持つようになった結果だと思う。

 今の学生達と接していてそういう感じがするんですけど、本当に活字を読まない奴が出てきている。彼らはテレビの画面と携帯電話だけで生活できる。外食だけで生活できる。

 この間、女子高生の話を聞いていると、「今日で一週間家に帰ってないんだ。二日か三日は親からも電話があったんだけど、もう諦めて電話がこないからゆっくり泊り歩いている」といっているのです。僕はもう、本当に家庭が内部的に崩壊してきているのは特殊現象じゃなくて、かなり普遍的なんじゃないかと思う。

 

岩田 それは大変ですね。

 

降旗 メル友殺人事件なんてのが出てくる。それは当然です。まったく共同体から切り離された個人と個人とがアナーキーに結び付くわけですから。彼らはいつ殺されたって不思議ではない。

 

岩田 しかしそれと同時にそういう共同体の解体に対して世界で様々な屈折したリアクションが起きていますね。今日いたるところでみられれる原理主義は、屈折した共同体回帰主義、共同体願望ともいえます。アメリカが目の敵にしているイスラム原理主義とユダヤ原理主義の闘争や、カソリック原理主義とプロテスタント原理主義の闘争や、ギリシャ正教原理主義や、さらに日本ではオウムの仏教原理主義のコミュニズムが出てきて市民社会に宣戦布告する(笑)。これらはみんな共同体の解体に対する幾重にも屈折したリアクションでしょうね。

 

降旗 要するに、社会が統合性を失って解体してくる。すると、必ず何らかの社会的統合を求める動きが出てきます。人間というのは全くアナーキーには生存できないものではないか。それは今のところ、岩田君が言うようなオウムという形で出てきたり、妙な共同体という形で出てきたり、あるいは民族主義という形で出てきたり、宗教的な形で出てきたりしているわけです。グローバル化と共にその動きは益々強くなる。

 

―― ある意味で、七〇年代くらいにアメリカも相当離婚率が高くなって、家族の解体を経験したが故に、八〇年代のレーガン時代でしょうか、逆に家族がある種の宗教的な理念みたいになってきて、大統領も家族をこれだけ大切にしているみたいなアピールをする。映画なんか観ても、やたらに家族主義で、家族がイデオロギー化している。

 

●情報化社会による共同体の解体、それは資本主義の究極形態か

 

降旗 生産力の上昇が、そういう形で資本主義社会を発展させながら、同時にその統合を完全に分断していってしまう。そしてあらゆる共同体が存在しえないような形で分散化された場合に、社会は存在できなくなってくるんじゃないか。

 

岩田 そういう根本問題がありますね。

 

降旗 資本主義の危機というのは、今まで、オーソドックスなマルクス主義者は、資本主義的な外皮があるがゆえに、生産力の発展が押さえられた、それが危機をうむと考えてきた。だから、これ以上生産力を発展させるためには資本主義的な外皮を剥ぎ取って社会主義化すると主張した。社会主義では矛盾なく生産力が発展すると思っていたわけです。本当はそうではないんじゃないか。

 むしろ今こそ資本主義の発展の究極段階に突入しつつあるような僕は気がする。そのとき、あらゆる統合が全部分散化していって、社会自身が存在しえないような危機状態になる。危機というのは実はそのことなんじゃないか。単に生産力が停滞するとか、不況が続くとかいう問題ではない。

 

―― それはそう感じてはいますけど、それは規模が文明史的な規模で……。

 

岩田 そうした共同体の解体と平行して、資本主義もまた、自分自身に対する実体的な統合力を喪失しつつある、あるいは表皮的な、バーチャルな統合へと転じつつあるという問題ですね。

 

降旗 それはヘッジファンドとかいう化け物がいっぱん出てくるわけですらかね。

 

―― 生産力が発展すれば生産関係が組み替えられるという、史的唯物論の公式みたいなのがありますが、それで言うと、ものすごい危機になっても人類ゴキブリは生き延びて、何らかの資本主義的な社会統合をまたやるといえませんか……。

 

岩田 そういう能力を資本主義が持っているかという問題になる。それをもはや持っていないという点で、降旗君は資本主義の発展が究極段階に突入しつつあるとしているわけですよ。

 

降旗 これまで資本主義は、解体過程にはいると新しい統合システムをつくり、また解体過程にはいると新しい統合システムを作り続いてきたんだと思うんです。僕はそれが最終段階にはいったと思う。これが解体すれば、それはまた次の資本主義の段階に移行するというかたちで、これまではやってきた。だけど、それができないんじゃないか。

 

岩田 資本主義の実体的な前提それ自体を破壊するとすれば、それはできないでしょうね。

 

降旗 それは一方では、人類史的な規模で、それこそグローバルな規模で、全面的に共同体の解体がはじまっているということです。同時に、それを統合すべき資本自身が、至るところで統合力を失ってきている。

 そうすると、司会者が言ったように、次の生産関係っていうのは、オートマティックに出てくるものじゃない。それが社会主義の問題だろう。つまり、それを人間が構想しなきゃいけないわけでしょう。新しい社会は意識的に作らなくてはいけない。そうすると、僕は今こそ社会主義が必要になる段階だろうと思う。

 

岩田 本来マルクス主義にとっては社会主義は、資本主義に代わるような新しい社会システムや新しい生産関係を設計するというものではなかった。宇野理論でも、資本主義の特殊歴史性、特異性を廃棄すれば人間普遍の原則が出てくるというのがその帰結でしょう。

 ではその普遍とは何か。それは共同体の一般原則でしかありえない。資本主義という一つの特殊に対して他の特殊を主張するわけじゃない。この意味で社会主義は、本来イデオロギーではなく、人類にとっての普遍の主張にすぎない、ということだと思いますがね。

 

降旗 だけど、抽象的にそう言っても、中身がないんだ。

 

岩田 中身がね。まず特殊性を廃棄するというだけでは……(笑)。

 

降旗 それはやっぱり、宇野理論の限界だろうと思う。つまり、社会主義をネガティブにしか言えない。労働力商品化の廃絶という形でしかね。

 

――そこらへんはマルクスも言ってないんじゃないですかね。宇野さんだけじゃなくて。

 

岩田 マルクスが共産主義の最高段階の原則としている「能力に応じて働いて、必要に応じて受け取る」というのは、共同体原則そのものですよ。生産力の発達レベルの如何にかかわらず、これまでのすべての共同体は多かれ少なかれそれを実現してきたわけです。インドの最下層の乞食カーストの共同体も含めてです。物質的条件や社会的条件が厳しければ厳しいほど共同体はそれなしには生存できませんからね。

ところで、降旗君は中身について何かポジティブに考えているんですか。

 

降旗 新しいコミュニティを作るということですね。

 

――今は共産主義運動がアソシエーション運動になってるんですよ。ただ、村的な共同体ではなくて、もうちょっと個人が自立した……。

 

岩田 ……。

 

―― 共同体というのは宇野さんの場合、非常に曖昧に使われていますね。

 

岩田 歴史的には農業共同体を考えているのですよ。しかしその内部構造についてはあまり立ち入っていない。けれども定住的な農業共同体の場合には、その維持再生産の根本前提は、土地・地力の維持再生産です。だらか農業社会の自然は、河川や湖沼や草地や森林など、いずれをとってみても農地の維持再生産のための人工的環境、人工的自然となっています。農業社会が幾十世代にもわたって営々と共同労働を投入してきた人工的自然です。そしてこうした土地の維持再生産のための組織が農業共同体の基本組織でしょう。家族はその基礎的構成単位です。

これに対しアメリカさんなんかの言う自然は、少しニュアンスが違っているようです。文字通りの自然が多いですね。原住民がまだ定住的な農耕段階に入っておらず、自然をほとんど加工していなかったからでしょう。こうした原住民の領地を移民国家が私的所有権が設定されていないという理由で国有化し、開拓農民に低価格で切り売りしたために、容易に開拓できる土地だけが農地となり、それ以外の土地は自然のままで国有地として残されているわけです。この点は狩猟採集民や遊牧民の領地であった西シベリアなどでも同じです。アイヌの領地を国有化した北海道などもそのミニ版じゃないですか。

資本主義はこうした農業共同体を原始的蓄積過程で解体することによって成立したわけです。

 

降旗 もちろん、その農村共同体を破壊して資本主義になるんですけれど、共同体を破壊すると言いながら、経済原論の中には必ず地主階級が残ってしまう。つまり、地主が土地を所有し、資本家はそれに対してレントを渡して土地を借りる。この土地の所有と貸借関係から排除された人間が労働者になるという形でないと資本主義はできないわけでしょう。

 

岩田 いや土地所有も、したがって地主も、国家と同じでね、資本主義が創ったわけじゃないんですよ。前資本主義的な領有権の私有権化、――ヨーロッパの場合には封建的領有権の私有権化で、したがって第一次的には封建的領有権者の地主貴族への転化です。

 

降旗 そうそう。それを受け継いで資本主義的なシステムができた。だけどそれはね、不可欠なんですよ。つまり、地主が一方に必ずいなきゃいけない。

 

岩田 ヨーロッパの地主は、実際はたんなるレントナーではなく、土地・地力の維持再生産の重要な権限を握っていたんですよ。ヨーロッパの封建領主制は、農民共同体の中枢機構を掌握しそれを彼らの共同体支配の道具にしていましたからね。例えば、資本主義的農業関係のモデルとされるイギリスの地主と小作農業者の関係は、賃貸契約書で土地の使用条件――土地・地力の維持再生産条件――を厳重に規定していますが、これはその名残でしょう。

ところで、いよいよ資本主義の本質にかかわる重要問題が出てきましたね。降旗君の主張を僕なりに要約させてもらえば、資本主義は共同体を解体しながら登場する、しかし全面的に解体するわけではなく、そのうちのいくつかの重要機能を残し、それを自分自身の存立基盤にする、ところが情報化社会の登場は、この存立基盤の解体を開始し、それによって資本主義の存立と人類自体の存立を脅かすことになる、ということだろうと思います。

そこでこの点に関連して、僕に共同体と国家と土地所有の関係について少しおしゃべりさせてもらいましょうか。

第一点は、資本主義がこの三者――共同体、国家、土地所有――を自分で創りだしたのではなく、先行の歴史社会から受け継いだものだとすれば、この三者の組織原理は、資本の組織原理とは別個であり異質だということです。

唯物史観は近代国家を資本主義的経済過程の上部構造としていますが、そしてこれは前者の特徴を説明する分かり易い、啓蒙的な説明となっていますが、この両者はそれぞれ別個の組織原理によって活動する二つのものの相互作用として把握する必要があります。

前に僕が帝国主義戦争に関して国家の対立と資本の対立とのあいだにはいくつかの媒介項が必要だといったのは、この理由からです。また現代資本主義の起点は、二つの世界戦争の戦時体制に求めなければならぬといったのも、同じ理由からです。戦争は、直接的には、資本の戦争ではなく、国家の戦争であり、国家は、その戦争目的の遂行のために、国家的・政治的体制の再編を強制され、またそのために戦時経済体制の組織を強制されるからです。ちなみにいえば、現代福祉国家の原点も、この戦時総動員体制にあるとしなければなりません。戦争は、その国家構成員の生命・財産の国家への提供を要求するからであり、またこれは国家が国家構成員の生命・財産に責任を持つという原則の宣言なしには不可能だからです。一種の国家的共同体原則の宣言といってもよいでしょう。そしてこれは戦後の政治的・国家的過程を強く制約し、国家の経済過程への介入を必然にすることになります。つまり、資本の側が国家の介入を要求するということではなく、国家がそれ自身の理由にもとづいて経済過程に介入するということです。

第二点は、共同体、国家、土地所有の組織原理がこのように資本のそれとは別個であるとすれば、それらの組織原理を、したがってこれら三者の組織原理の相互関係を独自に解明しなければならぬということです。そしてこれは、これら三者と武力との関係を解明しなければ不可能だということです。

宇野さんは僕らの学生時代のゼミで雑談的に商品経済は平和的関係、当事者の相互同意を原則とする関係、法的に言えば、市民法的、民法的関係だと話していました。このことは逆にいえば共同体、国家、土地所有関係はこれを越えた関係、武力を伴う関係だということです。

国家についてはこの点は明白でしょう。今日でも国家主権とは、実体的には、地球の一定の表面とその上に乗っている人間集団に対する武力に基づく排他的な支配関係、領有関係以外のなにものでもないからです。資本主義の私的所有関係といっても実際にはこうした国家の領有権の枠内での私的所有関係にすぎません。

降旗君はさきほど国家は共同体の変質物だといっていましてが、僕も同意見です。だがそれは、国家武力が共同体武力の変質物だということを意味します。共同体は孤立的に存在するものではなく、共同体相互の関係の中でのみ共同体です。この共同体の相互関係のなかのもっとも基礎的な関係は何か。ドライにいえば、それは、一定範囲の土地に対する各共同体の排他的な縄張り関係、共同体武力による排他的な占有関係、領有関係以外にはないでしょう。それなしには、定住的な農業共同体は存立しえないからです。農業共同体の組織は、土地地力の維持再生産を基礎とする組織ですが、同時にそれはまた、この土地を共同的に確保し防衛するための武力組織でもあったわけです。家族は、こうした農業共同体の基礎的構成単位ですが、男は共同体に対する戦士の義務と家族数に応じて共同体から土地の配分を受ける権利を持っていました。つまり、兵役の義務と土地配分を受ける権利、これが古代農業共同体の基本的な組織原理であり、またこれを反映して古代共同体は町型の集住制を原則としていました。いわゆるポリス型農民集落です。

古代国家には、種々な変種や亜種がありますが、その基本型はこうした武装農民共同体の連合体としての共同体国家であり、各共同体の首長、軍事指揮者が王で、そのまた首長が大王――諸王に対する王としての大王――だったのではないでしょうか。また共同体の諸首長が国家の官僚へと再編され大王が唯一の王となったのが、エジプトのファラオの帝国や中国の天子の帝国で、日本の天皇制律令国家は天子の帝国のミニコピー版だったんじゃないでしょうか。ローマ帝国は、ローマ市民権――ローマ共同体の構成員としての資格――の多数の共同体への普遍的適用による一種の共同体株式会社――各共同体を株主とする共同体株式会社――ともみることが出来ます。

いずれにせよ、これらの共同体国家の組織原則は、国家への兵役の義務と国家から土地配分を受ける権利です。そしてこれが形骸化したり、一部の特権的集団によって簒奪され私物化されたりするときが、古代共同体国家の崩壊でしょう。

これに対し、国王と領主の授封・軍役関係を国家の組織原理とする中世ゲルマン型、日本型封建国家は異質です。ここでは戦士集団と共同体農民とが分離し、前者が後者を土地とともに武力によって支配領有する関係が基本となっているからです。もはやそれは、武装農民の共同体国家ではなく、共同体と土地とを支配領有する戦士階級の共同設立国家となっています。そして資本の原始的蓄積過程とは、土地に対するこの封建的領有権の私有権化であり、それが賃金労働者階級の原始的形成過程となるわけです。

ここでついてまでに一言しますと、僕が飛行機の窓から観察した限りでは、こうした封建国家の出現は、世界的には、ヨーロッパのゲルマン、スラブ地域や日本にだけみられる特殊例外型であり、むしろ古代共同体国家の変質物の方が一般型ではないかと思います。ローマ帝国の本拠地であったラテン地域やエジプト・中近東や広大な中国の大平野では、農民集落は、古代共同体国家の基礎単位であった町型、ポリス型集落の面影を強く残しているからです。

さて、以上のような点を踏まえたうえで、土地所有の問題に焦点を移しますと、その源泉は集団武力による土地の排他的占有であって、商品経済的所有関係とは本質的に異なるということです。そこで問題は、資本主義はこの異質物をいったいどのように処理するか、ということになります。

 

●共同体の再生か、個人のアソシエーションか

 

降旗 抽象的思考を推し進めていくと、地主のいない資本主義も論理的にありうるんです。地主がいなくて、資本家と労働者だけで階級ができるということは考えられる。だけど現実にはそんなことあり得ない。

 それから、抽象的思考をさらに伸ばしていって――これはアソシエなんかの理念はそこになるから非常に危険だと思うんですがね――、資本も排除してしまって、独立生産者だけで結び付く社会も考えうる。これは人間が全く自由で自立していて、しかも相互にアソシエーションを組めるわけでしょう。そんな社会は現実にはあり得ないんですよ。人間社会というのはそういうふうには成立しない。なぜ成立しないかと言われてもいわく言い難いけれど、しないものなんです。

 

岩田 ないですよね、基本的には(笑)。

 

降旗 地主無き資本主義は駄目なんです。市場経済の支配の完成した資本主義社会では必ず三大階級になってくるという点がミソなんです。資本主義はどんなに純化したところで三大階級となり、必ず地主階級は存在する。それを理論的に設定しなくてはいけない。

 

―― 日本企業は土地を持っていたわけですね。だからイギリスの特殊性だと思いますよね、歴史的な……。

 

降旗 だから、社会主義の問題も最終的には、共同体の問題に収斂されていくと思う。あるべき社会主義の問題も、結局共同体における、自立とか主体とかいうのは何かという問題になるんです。つまり、われわれが自立とか主体とか言っているときは、共同体から開放されて近代的な自我が確立した場面を考えてしまう。それは無理がないんですがね。だけど、その自立した個人がアソシエという形で結び付いて、果たして本当に新しい社会ができるかというと、僕は疑問なんです。本来、共同体を離れた主体というのは人間にはあり得ないんじゃないかなと思う。

 

岩田 自立した個人のアソシエという主張は、歴史や現実をみていないですね。歴史的には資本主義と共同体は、当初から激烈な喧嘩をやってたんですよね。宗教戦争から市民革命にいたる三百年の闘争をやっている。それは消滅したわけではなく、今日でも周辺部分ではやっているんですよね。

 そういう共同体と資本主義とのバッティングの中から、いわゆる共同体コミュニズムが出てくる。溯れば、フランス大革命のときのサンキュロット・コミューンの闘争もそうです。第一インターナショナルの時代にマルクスと喧嘩をしていたアナキスト派のコミュニストもそうです。彼らは資本主義的大工業と中央集権国家を解体し、農民的・職人的コミュニティの相互扶助的な連帯に代えることを主張していたわけです。またロシアのナロードニキもそうです。毛沢東のコミュニズムもそういう色彩が半分くらい入っているわけです。

アソシエ派の人たちは、そういうコミュニズムをどう批判的に総括するかという重要な歴史的問題に気がついていないか、まったくの音痴ですね。近代市民主義の変種ですか。

 

降旗 だから、歴史的にはいつもそういう問題は出てくるんですね。もともと共同体社会があって、その間からでてきた市場経済が発展して資本主義になって、そこからさらに社会主義を展望するという場合に、旧来の共同体を新しい共同体に編成替えできないのです。ナロードニキの問題もそうです。マルクスはもってまわった言い方でその社会主義化の可能性を主張しているが、それはできない。途上国の社会主義化は大体どこでも失敗するでしょう。成立したとしても最終的には、必ずカリスマ的な、金何某王朝になる。

 

岩田 中国の歴史は古代からそうなんですね。共同体国家としての中国国家、その変質や簒奪に対する農民反乱、その反乱の指導者が次の天子になるという歴史、いわゆる易世革命の歴史が繰り返されていますよ。(笑)。

このことは逆にいえば、より高次な共同体の建設を担う主体が登場すれば、そういう悪循環から伝統的な共同体コミュニズムを解放し、新しい役割を担うものとして再生させ得るということです。降旗君と少し違うかもしれませんが、これが僕の考えなんですがね。後進資本主義諸国のオーソドックス・マルクス主義がいわゆる二段階革命論――ブルジョア革命とプロレタリア革命の二段階戦略――に陥るのは、プロレタリア社会主義と農民コミュニズムとの同盟という問題を提起できなったせいですよ。

ここでまた少し視点を換えて、僕がさきほど持ち出した問題、土地所有の源泉は武力による土地の排他的占有で、それを資本はどう処理するかという問題をもう一度取り上げさせてもらいましょう。

降旗君は、さきに『経済学批判』の序文の篇別構成プランを引き合いに出していましたが、その原型は、グツンドリッセの貨幣の章の最後にあるプランで、商品・貨幣・資本の一般的抽象的諸規定の考察から出発してブルジョア社会の内的編成論を開示し、それを国家に総括した後、外国貿易、世界市場へと上向するというプランです。そしてこの場合のブルジョア社会の内的編成論は、資本、土地所有、賃労働の相互関係論として計画されていました。つまり、資本は土地所有の定立を媒介にして労働力の商品化を確立するというわけです。これが、マルクスにとっては、資本主義が土地所有を必要とする根本理由でした。また地代は、こうした労働力商品化への協力に対して資本が土地所有に支払う代金でした。マルクスの絶対地代論がそれです。

だが資本主義は、これとは異質な地代関係、資本自身の原理による地代関係を創り出します。超過利潤の地代への転化としての地代であり、リカードの差額地代論です。これは、超過利潤の源泉となる立地条件や暖簾や特許権等々が、商品化し、商品としての代価を要求するという関係とまったく同じ関係、同質的な関係で、資本自身の原理による地代と土地所有の創出とみてよいでしょう。『資本論』は、絶対地代までも、利潤論から演繹しようとして理論的に無理をしているのですが、これは失敗ですね。

この問題は、経済原論では、地代を利潤の対立物として説くか、それとも利潤の付属物として説くか、という問題になります。僕は後者ですが、宇野さんや降旗君は前者でしょう。前者の場合には、こうした地代関係によって資本の原理が修正されるものとして利子生み資本を説き、いわゆる三大階級論と地代、利子、労賃の三位一体的な所得論で原理論を総括せざるを得ないでしょう。『資本論』自身は、当初のブルジョア社会の内的編成論を、資本自身の内的編成論として展開し、国家による総括をそこから排除する方向へと進んでいるわけですが、なお初期の構想をいたるところで残しており、とりわけ地代論では両者のあいだを揺れ動いています。僕の考えは、資本主義の外側にある土地所有関係を超過利潤の所有関係へと擬制し、これを媒介にしてさらに資本主義的所有関係へと擬制するというのが、資本に固有の処理の仕方だろうということです。つまり、土地所有に関しては擬制的に処理するだけで、実体的には処理しないということであり、したがって資本の論理もここでは擬制的に貫徹するに過ぎぬということです。

こうした点は、国家についてもいえます。アメリカの建国やフランス革命で登場する近代市民国家の設立物語は、市民社会の論理から、したがって市民法の原理、民法の原理から国家設立を演繹するという点にあります。憲法制定議会を招集し、そこで国家の基本組織――立法権、司法権、行政権(執行権)の分業関係――を憲法として制定する、というのがそれですが、株式会社の設立と同じ論理だといってよいでしょう。株式会社の設立総会に当るものが憲法制定議会で、この設立総会で議決される定款に当るものが憲法で、定款で定められる株主総会、監査役会、取締役会の権限分担関係に当るものが、いわゆる三権の分業関係です。このことは、実際には資本とは別個の論理によって存立する国家が、市民社会の株式会社に擬制されるということです。

要するに、土地所有と国家は、資本主義とは異質な存在であり、資本主義はこれを自分の存立の前提とはするが、それを自分の原理によって再編成するわけではなく、たんに自分に適合した形態を擬制するに過ぎぬということです。

もう一つの点は、降旗君の強調する家族共同体の問題です。農業社会では、土地をも含む農業的再生産全体の基礎単位が農業共同体であり、その内部における生産の基礎単位が家族共同体でした。これに対し、資本主義社会では生産過程は資本の生産過程となっており、家族共同体は生産過程の外側に放り出された消費過程の共同体、資本によって労働力の維持再生産の場として限定され、裸にされたみすぼらしい共同体となっています。

この意味では、君の言うように、家族共同体は、資本主義社会の内側に残された最後の共同体、あるいはむしろ共同体の断片でしょう。それが情報化社会によってさらに解体されるとなれば、確かにこれは由々しい人類史的問題ですね。

 

降旗 その意味で言うと、IT社会というのがどうも資本主義の最終段階のような気がするけれど。じゃあそれを突破した社会主義とか、新しい社会関係は何かというと、岩田君が言ったように、共同体以外の何ものでもないと言ったらそれはそうに違いないんだけど、その中身は具体的にイメージされない。共同体でありながら、しかも自立していて、単なる個的自立ではないという関係が具体的イメージとして出てこない。